雲ひとつない快晴。やけにアドレナリンではっきりしている視界。鳥は今日は素晴らしさを歌うように、遠くで鳴いている。
なんて素晴らしい日だ。よって俳句を一句詠みます。
給料日 ああ給料日 給料日。
——作、ギメイラ。
「給料だ! 大金だ! 見ろイルーガ!」
「よかったですね」
にっこりと生暖かい目で見られながら、俺は大金(俺の中で)を大切に財布にしまった。おかげでようやくイルーガとの約束を果たすときが来た。ついでに今日くらいはご馳走食べても、誰にも怒られないよな!
そういや、今残金はどんなもんだっけな。そこで、財布を覗き込んで、重大なことに気付いた。
げっ、この財布、他人のやつなんだった。盗品を使い続けるのは、流石に倫理観が欠けすぎている。せっかく犯罪から手洗ったんだから、財布も買い換えるか。もし、持ち主が見つかれば、返そう。
「では約束通り、布団を買いに行きましょう」
「ご馳走は?」
「とりあえず、布団を買いましょう。そろそろ冷える時期になりますし、風邪をひいたら大変です!」
「……ご馳走」
「———…………後で、考えましょう」
ご馳走の亡霊と成り果てた俺に、イルーガは次第に申し訳なさそうな顔になっていった。
「僕が言い出したことですし、僕も布団代、出しましょうか?」
「いやいや! 俺が俺の金で買うし! 大丈夫だし!」
しかし、ご馳走の亡霊も他人の金を使わせたいわけではない。俺は断固として拒否をした。
残念ながら、とりあえず布団を買う流れとなった。適当な店に入ってみる。店員に品質やら諸々説明をされ、触れてみませんかと言われた。布団の材質を恐る恐る確かめた。
「イルーガ、俺は気づいたことがある」
俺は真剣な顔で布団に触れながら、イルーガの目をまっすぐ見た。剣妙な俺の様子に、イルーガはごくりと喉を鳴らした。
「天国はここにあったんだな」
「え?」
「ああ、俺は今まで地獄で寝てたんだ。くっ、天国を知った今、もう昔のようには戻れない」
「大げさですね」
なんだこのふわふわな質感は。カビ臭くないし、触り心地もガサガサしてない。俺が頭に手を当てれば、イルーガは眉を下げて笑った。
「ち、ちなみに、おいくらですか?」
「ああ……実は普段はこのお値段なんですが」
店員は、値札を見せた。
俺はウサギのように飛び上がって、勢いよく布団から手を離した。
貧乏人を殺しにかかってるな、この布団! 俺が何日過ごせると思ってるんだ。
「安心してください。この価格ではなかなか売れず、値下げすることにしたんです。それが、このくらいのお値段ですね」
「あー、そっかぁ。惜しいなぁ」
確かにここまで下げてくれれば、俺でも買える値段だ。だが、俺は腕を組んで悩ましい顔をした。
「あと少しだけ下がれば、足りるんだけど。これじゃあちょっと……ほんのちょっと、モラが足らないなぁ」
必殺、値切り!
当然、イルーガは足りていることを知っているので、呆れた目でコチラをみている。だが、これには俺のご馳走がかかっているのだ。食欲のためなら、俺はプライドだって捨ててやる。
「仕方ないですね。では、この値段でどうでしょう?」
「うーん、いいんだけど、他の店も見てから決めてもいいかもなぁ。もっと安くていい店があるかもしれないし?」
「そうですか……。今から買えば、さらにここまで下がるんですが——」
「ああ、凄い! ここまで下げてくれるなら、じゃあ、買います!」
モラをピッタリ支払った。いつのまにか半額になった布団を、俺は満面の笑みで抱きしめる。この布団に包まれて生活したいくらいだ。
「へへ……。ありがとな、イルーガ。買ってよかった」
「いえ、君がそう思えたなら、僕も嬉しいです」
「そうなの?」
「はい。君はどこか、生きることを捨てていたように思うんです」
え? 俺? イルーガじゃなくて?
俺は理解できなくて、キョトンとして何度も瞬きを繰り返した。
「生きることにしか、ほとんど執着していないように思うんです。本来人間が生きるなら必要なものだって、何も持っていなくて、欲しがらない。まるで、いつ死んでもいいかのように」
「それはイルーガが言われるべきことだろ?」
言われてみれば、図星な気もした。食欲はあるが、暖かな布団も、まともな食器も、防寒具も、俺はここにきてから欲しいと思わなくなっていた。
でも、そんな俺より、自己犠牲で真っ先に亡くなるのは、きっと——。
俺は爪が白くなるまで強く、握りしめた。歯がぎり、と音を立てる。
「俺、まだそんな一緒にいるわけじゃないけどさ、イルーガが死んだらやだ。俺を庇おうとか、思わないで欲しい。人が死ぬとこなんて、見たくないんだ、俺」
「……ギメイラ」
「俺、そんな頼りないか? 薄情に見えてたか? イルーガを置いて逃げるとか、無理なのに」
今さら、前に起きたことを掘り起こしてどうするんだ、とは思う。ずっと、ほんとは思ってた。でも、言えなかったんだ。言わない方がいいよなって、思ってた。生き方って自由だしさ。なのに、今になって勝手に口が動くんだ。
「生きろよ、イルーガ。お前が、生きようと思うべきだ」
イルーガは、目を見張っていた。目が合う。赤の入った、青い瞳。
イルーガは何も言わずに、驚いた顔で、静かに俺を見ていた。周りの音が聞こえなくなるような錯覚が起こる。偽りの静寂が耳を支配した。
そんな不思議な雰囲気だったのに、ぐぅ、と俺のお腹の音が鳴った。一気に外の景色が視界へと戻った。
「お腹すいたな。俺、クルムカケ食べてみたい」
イルーガは、また一度だけ瞬きをした。
「そうですね、昼食からはかなり時間が経っていますから」
「俺、甘いもんとかここで食べたことないや」
「クルムカケ、十本くらい食べてもいいかな」
「全部食べれるなら、それでもいいんですが……」
「チャレンジするわ」
クルムカケ。まるでクレープのような形をしたクッキーだ。その中央にはたっぷりホイップクリームが絞ってある。日本に居る時は、甘いものはそこまで好んではいなかった。
だが、甘いものを三ヶ月以上食べられなくなるほど追い詰められてから、ようやく気づいたのだ。俺は、甘いものを欲している。女子高生の気持ちが、今は理解できる。
イルーガに止められながら、俺はクルムカケを販売している店に入り、ドヤ顔で「クルムカケ十個」と注文した。なぜかイルーガは一つも注文せず、飲み物だけを頼んだ。
「クルムカケ十本……本当にこれで合ってるかい?」
そうして運ばれてきたクルムカケ。十個、一人分には見えないほど、たくさん積まれている。
店主っぽい人は、俺たちの顔を交互に見て、眉を顰めた。
「彼、大食いだねぇ」
「いえ、全部俺が食べるんです! お給料初めてもらったので!」
「さてはあんた馬鹿だね」
ひどいことに、そう言われてしまった。馬鹿じゃないし。俺頭いいし。しかし、イルーガも俺のことを信じていないらしかった。
「そんな食べれるんですか?」
「余裕だよ!」
いつも通りに手を合わせてから、ひとつ口に運ぶ。
「うんまー!」
思わず頰を抑えた。やっぱ時代はスイーツだったんだ!
サクサクとした甘い生地に、甘さが少し控えめなクリームがよく合う。これだ、これが俺の欲していた味だ。
……しかし、問題があった。
五つほど食べ終えたところで、俺は思った。
胃もたれやべー、と。むしろ、よく五本も食べたと自分を褒めてやりたい。
六本目に手をつけなくなった俺を見て、イルーガは頭に手を当てて息を吐き出した。
「そうなると、薄々思ってました。僕も、いただいてもいいですか? そのぶんのお金は支払います」
「いや、俺の奢りだ。残りは全部食べてもいいよ」
「流石に全部はいりません」
ピシャリと断られてしまった。
そうして、六本目を渋々手に取りかけたところで、横から視線を感じた。
気配で誰かすぐに分かった俺は、無言でクルムカケを横に突きつけた。
「まーた馬鹿な真似してるな。メイラ」
「馬鹿じゃなくて俺はチャレンジャーなんだ、ヤフォダ。食べるの手伝ってくれ。俺の奢りだから」
「分かった分かった」
ヤフォダはクルムカケを受け取って席に座り、ようやくイルーガを見た。ふぅん、と全身を眺める。
「ライトキーパーの同僚か?」
「そうだ。イルーガって言う。俺の護衛をしてくれてて、すごく良い奴なんだ」
「相変わらず、メイラはチョロいな」
「チョロくないし! 俺、人を見る目があるし!」
八つ当たりにクルムカケを齧った。ガリ、と豪快な音を立ててひとかけら削れる。
「あたいはヤフォダ。メイラの知り合いだ」
「知り合い……」
密かにしょげた。知り合いって……。
「お二人は、いつ出会ったんですか?」
「三ヶ月前だったか? メイラがスリでヘマしてボコられてるところを偶然見かけて、見てないフリをしたんだけど……。あたいに助けろって付き纏ってきたんだ。殺される、助けてくれって、喚いて離れなくて——。そこからだな」
「そう、だったんですね」
気の毒そうに言葉を濁して、イルーガはこちらを見てきた。
……なんか、嫌だなぁと思った。俺が簡単にスリするような泥棒だって知られるのが、ライトキーパーになった今は、なんか嫌だ。でも、その時期もなかったことにはしたくない。現実から逃げたいわけではない。
なんだろう、でも、知られたくない。知られたく、ないんだ。
その後は、クルムカケを三人で食べて、結局解散することになった。その話が出るまで、俺は終始、上の空だった。
そして、みんなが先に帰り、支払いの時となり、財布を取り出したその時、俺はようやく思い出した。
「財布、買い替えるつもりだったのに!」
そうじゃないか! 俺は盗品の財布を買い替えて、元の持ち主に返そうかなー、とか思ってたんだった。
「ギメイラ、クルムカケ十個なんて食べれたのかい?」
「いえ、残念ながら手伝ってもらって、ようやく完食でした。でも、すごく美味しかったです。また来ますね!」
「……あんた、変わったね」
店の人にモラを渡すと、そう言われた。俺は、首を傾げる。
あれ、俺この人に名前なんて教えたっけ。どっかで会ってたか?
顔を見てみても、全く覚えはない。普通の、中年女性だ。女性は、俺に近寄ってくる。柔らかな笑みを浮かべていた。
「その財布、誰のものか、分かっているかい」
「……それは」
わからない。俺が最初に盗んだ時に、手に入れてしまった財布だ。男性だった、ひ弱そうな雰囲気があった、顔も覚えている。だが、名前も、出身も、何もかもを知らない。
「こっちに来な」
女性は、俺の手首を掴んで厨房へと連れ込んだ。有無を言わせぬ態度に、俺は大人しく着いて行った。
なんだ、なんで? 何がしたい、わからない。
ドアが閉まる。二人きりにされた、その次の瞬間、俺は息ができなくなった。
「がっ……」
空気を求めて無理矢理息を吸おうとした。空気は口に含まれる。それなのに気道を通っていかない。何かに阻まれている。なんだ、何に……。
女性の、限界まで見開かれ、涙を流す、そんな目がようやく見えた。
あ、俺、今首絞められてんだ。
「財布を見て気づいたさ! あれは夫の財布だ! あんたのせいだ! あんたに金を盗まれたから、夫は、夫は私たちを巻き込まないために、病気の薬を買わなかった!」
どうにかして、逃げないと、死んでしまう。あ、そうだ、ポケットにナイフがある。
苦しみもがくふりをしながら、俺はポケットのナイフに触れた。冷たい感触が指先を冷えさせる。
ここではよくある。恨みを買っていきなり襲われることは。最近離れてたから、油断してた。
「あんたのせいで、夫は、死んだんだっ!」
……手が止まった。
力が抜ける。
死んだ? 誰が。俺が財布を盗んだひとが、死んだ? 誰のせいだ? 俺? 俺のせい? 聞いてなかった。なんでだ、なんで死んだ。教えてくれ、もう一回、もう一回言ってくれ。きっと冤罪だ。間違いだ。
ひゅ、と喉が空気を求めて変な音を立てた。
だんだんと酸欠で視界がぼやけてくる。
死ぬのか、俺。
すぐに分かった。死にたくない——死にたくないな。
でも、なんでだろ。大して、生きたいとも思わないな。
まるで俺が気力を無くしたのを皮切りに、俺の視界は完全に黒に染まった。
そして、それから一拍すら置かず、今度は赤色の液体があちらこちらに広がった。
「……」
その中央には、ナイフを逆手に構えたヒルチャールが、静かに死体を見下ろしている。ヒルチャールは冷たい目で無表情に、その生暖かい死体を踏んだ。