ロードス戦記のロードス島を舞台にした二次創作小説 作:シットライヌ
豊かな緑と穏やかな風に包まれた、ロードス島唯一の王制国家——カノン王国。周辺諸国が新生帝国やスルタン制、あるいは海を渡った者たちによる幕府へと劇的な変貌を遂げる中、古き良き騎士と森の伝統を色濃く残すこの地は、弦九郎たち一行にとって久々に息をつける安息の地となるはずだった。
しかし、彼らの悪目立ちする出立ちが、厄介事を遠ざけてくれるはずもない。王都の豪奢な商館の奥室で、大柄な商人風の男が必死の形相で両手をついて懇願していた。
「どうか、奪われた至宝『チャ・ザの聖杯』を取り戻していただきたい! あれは、自身の血を数滴ささげれば極上の葡萄酒に、自身の身の極々一部をささげればパンを生み出してくれる、まさに奇跡の祭器なのです。盗賊どもの手に渡ったままであれば、我れのメンツは丸つぶれです!」
「真贋はともかく、盗品奪還の依頼は引き受けよう。それに、その『チャ・ザの聖杯』とやらが一体どのようなからくりなのか、いささか興味がある」
弦九郎の言葉に、精霊使いのフィリアも風の精霊を手のひらで遊ばせながら静かに頷いた。
緑豊かなカノン王国の王都。その華やかな表通りから一歩路地へ踏み入ると、陽の光すら届かない薄暗く淀んだスラム街が広がっていた。
「どうやら、ひどい有様だな」
漆黒の大鎧を軋ませながら、弦九郎が兜の奥で低く唸る。
彼らが得た情報は確かだったようだった。犯人は、奇しくもこのスラム街の出身で、今は王都でも名を知られる凄腕の冒険者。彼は故郷の貧困を見かねて、無尽蔵にパンと葡萄酒を生み出すという聖杯を盗み出し、貧しい人々に無償の恵みを与えようとしたのだ。
だが、弦九郎たちがスラムの中心で目にしたのは、善意がもたらした平穏ではなく、血で血を洗う地獄絵図だった。
「よこせ! それは俺の家族のものだ!」
「ふざけるな、独り占めしようって魂胆だろうが!」
やせ細ったスラムの住人たちが、泥に塗れながら一つの金色の杯を奪い合い、石や棒で互いを狂ったように殴りつけている。その狂乱の輪の中心で、上質な革鎧を着た一人の男——聖杯を盗み出した張本人の冒険者が、絶望に満ちた瞳でへたり込んでいた。
「やめろ……もうやめてくれ……! なぜ奪い合う! みんなで分かち合うはずだったじゃないか!」
男の悲痛な叫びも、飢えと欲望に呑まれた群衆の耳には届かない。
「チッ、どいつもこいつも正気じゃねえ!」
バルゴが斧の峰を振るって群衆を強引に引き剥がし、ハーフエルフのリュートが槍の石突で暴漢たちの足を払い、男の周囲に立ち塞がる。フィリアが風の精霊を喚び出して突風を巻き上げ、暴徒たちが目を閉じた一瞬の隙に、弦九郎が男の襟首を掴んで路地裏の廃屋へと引きずり込んだ。
「なぜだ……俺はただ、飢えに苦しむ故郷の連中を救いたかっただけなのに……」
廃屋の床に崩れ落ちた男は、死守した『聖杯』を抱きしめて慟哭した。無償の恵みは人々を救うどころか、果てしない強欲を引き出し、醜い独占欲による殺し合いを生み出してしまったのだ。
その姿を見下ろしながら、神官のリアナが静かに歩み寄る。
「……チャ・ザの神が、なぜ教義に反するような『無償の恵み』を与える祭器を創られたのか。あなたは、その聖杯の本当の『からくり』をご存じなかったのですね」
「本当のからくり、だと……?」
「この聖杯が生み出すパンと葡萄酒は、決して無限に湧き出し続けるわけではありません」
リアナは静かな声で、チャ・ザの教えに隠された真実を語り始めた。
「与えられた恵みを全て貪り食うのではなく、他者を想い、少しだけ残してこの祭器へと『戻す』。そうすれば、中身は再び元の量へと再生し、満たされるのです。富を独占せず、隣人と幸福を分かち合うこと……それこそが、皆が豊かに生きられる道。等価交換を掲げる商業の神がこの聖杯に込めた、真の『取引』の形なのです」
男は息を呑み、血と泥に塗れた己の手を震わせた。
もしスラムの住人たちが互いを思いやり、少しずつ分け合って聖杯に戻していれば、争いなど起きず全員の腹が満たされたはずだった。だが、彼らは「我先に」と全てを独り占めにしようとし、結果として神の恵みを自らの手で血みどろの奪い合いに変えてしまったのだ。
「対価なき恵みなど存在しない。神が求めた対価とは、金貨ではなく『分かち合う心』だったというわけだ」
漆黒の兜の奥で、弦九郎が静かに言い放つ。
「貧しさから抜け出そうとあがく気持ちは責められん。だが、他者を蹴落とすまでに心まで貧しくなってしまえば、どんな奇跡を与えられようと人は救われんのだ」
その言葉に、男はポロポロと涙をこぼし、やがて力強く頷いた。
「俺の……俺の思い上がりでした。奇跡の道具さえあれば故郷を救えるなどと……人間の浅ましさを、俺自身が誰より分かっていなかった」
男は泥を払い、金色の聖杯を丁寧に布で包み込むと、弦九郎たちに向かって深く頭を下げた。
「これは、俺自身の手で返還します。どんな罰でも受ける覚悟です。どうか、見届け人として同行願えないでしょうか」
「ああ、構わんさ。それがお前さんの決めた『落とし前』ならな」
バルゴが鼻を鳴らし、リュートが軽く肩をすくめる。フィリアも安堵の笑みを浮かべた。
数日後、カノン王国の王都は相変わらず穏やかな木漏れ日に包まれていた。男は裁きを真っ直ぐに受け入れ、自らの力で地道にスラムを支え直すことを誓ったという。一行は、奪還の依頼達成による報酬を懐に収め、賑わう街路を歩いていた。
「さて、次はどこへ向かうとするか。大将」
リュートの問いに、弦九郎は静かに空を見上げる。祝福されざる聖杯が暴いた人間の業を胸に刻み、彼らの果てしない珍道中はなおも続く。
涙と泥に塗れた男が顔を上げる。リアナは静かに頷き、金色の杯を指差した。
この物語はソードワールド短編集の羽根頭冒険譚シリーズをモチーフにしています。
神官戦士が六人、ふたりのラビリンス、ロマールの罠、ただ一度の奇跡、祝福されざる聖杯に、の5話です。原作がこれ以上無いので完結させようと思っていますが、もし続きを希望される方がいれば、オリジナルストーリーもしくはシナリオ集「百のシナリオ」をモチーフにしたストーリーで今後も続けようかとも考えています。続きを希望される方はお手数ですがコメントください。
それでは一旦終了とさせて頂きます。読んでいただいて、ありがとうございました。