魔術が神の奇跡だと信じられている世界ですべて論理的に説明してしまった少年の末路   作:TOKUMEI

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第二話

 翌朝。

 俺は寝不足だった。

 

「……ショウ。あんた、ひどい顔してるわよ」

 

 朝食の席で、姉さんがパンを齧りながら言った。

 

「そう?」

「目の下、真っ黒」

「ちょっと考え事してた」

「夜中まで?」

「うん」

「馬鹿ね」

「それは村中から言われてる」

「自覚あるのね」

 

 姉さんが呆れたように息を吐く。

 俺は欠伸を噛み殺しながら、スープを口に運んだ。

 

 眠い。

 ものすごく眠い。

 

 けれど、

 

 頭の中だけは、昨夜からずっと冴えきっていた。

 

 水面が揺れた。

 ほんのわずかに。

 気のせいだと言われれば、それまでの変化。

 

 それでも。

 

 俺は、あれを気のせいで片付けることができなかった。

 

 条件を揃えて、

 何度も繰り返して、

 違いを一つずつ潰していけばいい。

 

 そうすれば、

 昨夜起きたことが偶然なのか、

 それとも、

 

 ――本当に、俺が魔術を使ったのか、

 

 確かめられる。

 

「ショウ」

「ん?」

「パン、スープに落ちてるわよ」

「…………」

 

 見ると、手に持っていたはずのパンがスープの中でふやけていた。

 

「考え事しながら飯食うのやめなさい」

「うん」

「返事だけは素直なのよねえ」

 

 母さんが苦笑する。

 俺はスープを吸ったパンを口へ運びながら考える。

 

 まず必要なのは、

 温度を測る方法だ。

 

 

 

 

「ネマばあさん」

「なんだい」

「これ、借りてもいい?」

 

 朝食を終えると、俺は村の雑貨屋へ来ていた。

 指差した先にあるのは、細長い透明な筒。

 中には赤く色を付けた液体が入っている。

 

「ああ? 温度計かい?」

「うん」

「また妙なことを始めるつもりじゃないだろうね」

「始めないよ」

「その間が怪しいねえ」

「…………」

 

 どうして俺の周りの人間は、俺が黙って考えるだけで疑ってくるんだろう。

 理不尽だと思う。

 

「まあいいさ。割ったら弁償だからね」

「ありがとう」

 

 この温度計は、酒造りや薬作りに使うものらしい。

 

 仕組みは単純だ。

 温めると中の液体が膨らむ。

 冷やすと縮む。

 その位置を目盛りで読む。

 

 便利な道具なのだが、この村で持っているのはネマばあさんだけだった。

 

「でも、あんた。何の温度を測るんだい?」

「水」

「水?」

「うん」

「井戸水なら冷たいよ」

「知ってる」

「じゃあ測る意味あるのかい?」

「ある」

「変な子だねえ」

 

 よく言われる。

 俺は温度計を借りると、店を出ようとした。

 

 そのとき。

 

「そういやショウ」

「ん?」

「昨日、ダグの魔術をずいぶん熱心に見てたね」

 

 足が止まった。

 

「そう?」

「そうさ。あたしより真剣な顔してたよ」

「初めて見る魔術だったから」

「ふうん」

 

 ネマばあさんが細い目をさらに細めた。

 

「魔術なんてものはね。あんまり深く考えるもんじゃないよ」

「…………」

「主から頂いたものは、ありがたく使えばいい。それで十分さ」

「どうして?」

「どうしてって……」

 

 ばあさんが困った顔をする。

 

「そういうものだからさ」

 

 やっぱり。

 その言葉で終わる。

 

 みんな、そうだ。

 

 そういうものだから。

 神様がそう決めたから。

 昔からそう言われているから。

 

 でも、

 俺にはどうしても、

 それが答えだとは思えなかった。

 

 

 

 

 その日の昼。

 俺は家の裏にある物置へ籠もっていた。

 

 机の上には、同じ形のコップが三つ。

 全部に同じ井戸水を、同じ量だけ入れてある。

 

 まず一つ目。

 何もしない。

 

 二つ目。

 昨日と同じように、詠唱だけする。

 

 三つ目。

 沸騰する水を頭の中で思い浮かべながら、詠唱する。

 

 それぞれの温度を測る。

 

「……よし」

 

 帳面を開いた。

 

 一回目。

 

 何もしない水。

 十二。

 

 詠唱だけ。

 十二。

 

 想像して詠唱。

 十三。

 

「…………」

 

 差は、一。

 まだ誤差かもしれない。

 

 二回目。

 

 十二。

 十二。

 十三。

 

 三回目。

 

 十二。

 十二。

 十四。

 

「……上がった」

 

 四回目。

 

 十二。

 十二。

 十四。

 

 五回目。

 

 十三。

 十三。

 十五。

 

「…………」

 

 俺は帳面を見つめた。

 偶然じゃない。

 想像しながら詠唱した水だけ。

 明らかに温度が上がっている。

 

 つまり、

 俺は、

 紋章を持っていない俺が。

 

「……魔術を使ってる」

 

 口にした瞬間。

 背筋に寒気が走った。

 

 嬉しい。

 怖い。

 信じられない。

 

 でも、何より。

 

「どうしてだ……?」

 

 疑問が勝った。

 

 動いた。

 なら、次だ。

 

 なぜ動いた?

 紋章が必要ないなら、紋章は何のためにある?

 

 詠唱だけでは動かない。

 想像を加えると動いた。

 

 ということは。

 

 言葉は何をしている?

 想像は何をしている?

 

 そして。

 

 魔術が発動するときに動く、目に見えない()()

 あれは何だ?

 

「…………」

 

 考える。

 考える。

 考える。

 

 分からない。

 

 なら。

 

 実験するしかない。

 

 

 

 

 それから三日間。

 

 俺は畑仕事の手伝いを最低限で切り上げ、

 母さんに怒られ、

 姉さんに呆れられ、

 

 それでも空いた時間のほとんどを実験に使った。

 

 最初に調べたのは、詠唱。

 

『集え、熱よ。水面に宿り、湧き立て』

 

 この言葉のどこまでが必要なのか。

 

 まず。

 

「集え、熱よ」

 

 水。

 変化なし。

 

「熱よ。水面に宿れ」

 

 変化なし。

 

「集え。水面に宿り、湧き立て」

 

 変化なし。

 

「集え、熱よ。水面に宿り、湧き立て」

 

 温度上昇。

 

「…………」

 

 全部必要?

 

 いや。

 そう決めるには早い。

 

 今度は言葉を変える。

 

「熱よ、集まれ。水を温めろ」

 

 変化なし。

 

「熱を集める。水に移す。沸かす」

 

 ――一度だけ、水面が揺れた。

 

「…………!」

 

 俺は慌てて温度計を差し込む。

 一度。

 上がっている。

 

「言葉そのものじゃない……?」

 

 まったく同じ言葉でなくても動く。

 

 でも。

 適当に言い換えれば動かない。

 

 何が違う?

 

 俺は帳面を睨む。

 

 元の詠唱。

 

 集え、熱よ。

 水面に宿り。

 湧き立て。

 

 俺の言い換え。

 

 熱を集める。

 水に移す。

 沸かす。

 

「…………順番?」

 

 熱を用意する。

 水に移す。

 温度を上げる。

 やっていることは同じだ。

 

 なら。

 言葉ではなく、()()なのか?

 

 試す。

 

「水を沸かす。熱を集める」

 

 変化なし。

 

「水に熱を移す。熱を集める」

 

 変化なし。

 

「熱を集める。水に移す。温度を上げる」

 

 ――水面が震えた。

 

「やっぱりだ」

 

 順番がある。

 現象が起きる順番に言葉を並べないと動かない。

 

 鍋に水を入れる前に、

 

『火にかける。鍋を置く』

 

 と言っているようなものだ。

 

 手順を逆にしたら料理にならない。

 魔術も同じ。

 

「じゃあ……」

 

 次。

 

 想像。

 水が沸くところを想像する。

 

 成功。

 

 炎を想像する。

 失敗。

 

 氷を想像する。

 失敗。

 

 湯気だけを想像する。

 失敗。

 

「起こしたい結果と、手順が一致してないと駄目……?」

 

 なら。

 

『熱を集める。水に移す。温度を上げる』

 

 と唱えながら、

 水が少しだけ温まる様子を想像する。

 

 ――成功。

 

 今度は、

 もっと熱く、

 沸騰するところまで。

 

 同じ言葉。

 同じ手順。

 ただし、想像だけ強くする。

 

「…………っ」

 

 コップの底から、

 小さな泡が一つ、

 

 ぽこっ

 

 浮かんだ。

 

「お……」

 

 もう一つ。

 

 ぽこ。

 ぽこっ。

 

「おお……!」

 

 次の瞬間。

 水面から、白い湯気が立った。

 

「できた……!」

 

 立ち上がろうとして、

 膝を机にぶつけた。

 

「痛っ!」

 

 コップが揺れる。

 慌てて押さえる。

 

「危な……」

 

 心臓がばくばく鳴っている。

 

 でも。

 できた。

 

 完全に、

 水が、

 沸いた。

 

 紋章なしで。

 

「…………」

 

 俺は右手を見る。

 

 何もない。

 何度見てもない。

 金色の紋章なんて、一欠片も浮かんでいない。

 

 なのに。

 目の前の水は湯気を立てている。

 

「じゃあ、紋章は……?」

 

 何のためにある?

 

 考える。

 

 紋章持ちは、

 もっと簡単に魔術を使う。

 

 ネマばあさんは、水を沸かすたびに今の俺みたいに汗だくになったりしない。

 

 詠唱も自然。

 想像に集中しているようにも見えない。

 

 つまり。

 紋章は魔術を使()()()()()()()()ものじゃない。

 もともと人間には魔術を使うための何かが備わっている。

 

 紋章は、

 それを、

 

「……簡単にする?」

 

 補助。

 近道。

 

 あるいは。

 

 決められた手順を自動でやってくれる仕掛け。

 

 そこまで考えて、

 俺は息を止めた。

 

 もしそうなら、

 今まで神の奇跡だと思われてきた紋章は、

 神に選ばれた証なんかじゃなく、

 

「ただの……道具?」

 

 ぞくり。

 

 全身に震えが走った。

 

 これは。

 

 まずい。

 ものすごくまずい。

 

 でも。

 

「…………面白い」

 

 口元が勝手に緩んだ。

 駄目だ。

 止まらない。

 

 

 

 

 さらに二日後。

 俺はもう一つ、大きなことに気づいた。

 

 魔術には、

 詠唱より重要なものがある。

 

 俺は物置の床に座り、

 掌を木片へ向ける。

 

「熱を集める」

 

 頭の中で想像する。

 

 周囲に散らばる熱。

 それが一点へ集まる。

 木片の表面へ。

 

「集めた熱を、一点に留める」

 

 空気が。

 

 ゆらり。

 

 歪んだ。

 

「…………」

 

 木片から、

 細い煙が上がる。

 

 そして。

 

 ちりっ。

 

 小さな火がついた。

 

「…………できた」

 

 炎を作るために、

 別に炎を作る必要はない。

 

 物を十分に熱くすれば、勝手に燃える。

 

 ダグの詠唱は、

 

『集え、熱よ。渦を成し、光と成りて、我が手に灯れ』

 

 だった。

 

 熱を集める。

 渦を作る。

 光らせる。

 掌に留める。

 

 あれは、炎そのものを生み出していたわけじゃない。

 炎が生まれる条件を、

 魔術で作っていただけなんじゃないか?

 

「……なら」

 

 詠唱はもっと短くできる。

 

 必要なのは、

 

 何を、

 どう動かし、

 どこへ、

 どれだけ集めるか。

 

 それを頭の中で正確に組み立てること。

 

 言葉は、

 その想像を間違えないための目印だ。

 

 たぶん。

 

「じゃあ……」

 

 俺は木片の火を消した。

 

 今度は、

 逆。

 

 熱を集めるのではなく、

 熱を奪ったら?

 

 コップに水を入れる。

 掌をかざす。

 水にある熱が、

 外へ逃げていくところを思い浮かべる。

 

「水から熱を、外へ」

 

 水面が震えた。

 

「…………!」

 

 続ける。

 

 熱を。

 外へ。

 外へ。

 さらに外へ。

 

 ぱき。

 

「え?」

 

 音がした。

 

 見る。

 

 水面に、

 薄い膜が張っていた。

 

「…………」

 

 指先で触れる。

 冷たい。

 硬い。

 

「氷……」

 

 俺は固まった。

 しばらく。

 

 ただ、

 コップを見つめる。

 

「…………これ」

 

 まずいな。

 

 思ってたより。

 

 ずっと。

 何でもできる。

 

 

 

 

 翌日の午後。

 俺は村外れの森にいた。

 

 家でやるには危険な実験が増えてきたからだ。

 

 森と言っても、村人が薪を拾いに入る浅い場所。

 近くには小川もある。

 火事になっても水を汲める。

 

「熱を集める」

 

 枯れ枝。

 燃える。

 

「熱を外へ」

 

 小川の表面。

 凍る。

 

「空気を、一方向へ動かす」

 

 ぶわっ。

 

「うわっ!」

 

 予想以上の風が吹き、

 俺の髪が全部後ろへ流れた。

 

「…………」

 

 帳面に書く。

 

 一つ。

 魔術は、既に存在するものを()()()ほうが簡単。

 

 二つ。

 変化させる量が多いほど難しい。

 

 三つ。

 具体的な現象を理解しているほど成功率が高い。

 

 四つ。

 紋章は不要。

 

「…………」

 

 四つ目だけ、

 何度見ても危険だな。

 

 俺は線を二重に引いた。

 

 これを見られたら、

 間違いなく終わる。

 

 いや、

 帳面だけならまだ、

 

『子供の妄想です』

 

 で押し通せる可能性がある。

 

 実際に魔術を使っているところを見られたら?

 

「…………」

 

 考える。

 

 異端者。

 牢。

 処刑。

 

「絶対、見られないようにしよう」

 

 そう決めた。

 

 直後だった。

 

 ――ゴォォォォォォォッ!

 

「…………?」

 

 森の奥から。

 地面を震わせるような咆哮が響いた。

 

 鳥が一斉に飛び立つ。

 

 俺は立ち上がった。

 

「今の……」

 

 獣?

 

 いや、

 こんな鳴き声をする獣は、

 この辺りにはいない。

 

 次の瞬間。

 

 遠くで、

 鐘が鳴った。

 

 カン。

 カン。

 カン。

 

 一定ではない。

 

 乱暴に。

 何度も。

 何度も。

 

「…………警鐘?」

 

 村だ。

 俺は帳面を掴んで走り出した。

 

 

 

 

 村へ戻ったとき、

 入口の柵が、

 半分吹き飛んでいた。

 

「なんだ……これ」

 

 地面には、

 巨大な足跡。

 俺の胸ほどもある。

 

「ショウ!」

 

 声。

 振り向く。

 

「姉さん!」

 

 リナ姉さんが走ってきた。

 顔色が変わっている。

 

「どこ行ってたのよ!」

「森」

「馬鹿! 今、森から魔物が出たのよ!」

「魔物?」

「岩甲熊よ!」

 

 岩甲熊。

 

 聞いたことがある。

 背中を岩みたいに硬い外皮で覆われた魔物。

 

 普段はもっと深い山にいる。

 たまに餌を求めて人里へ下りてくることがあるが、

 大人が十人がかりでも相手にならない。

 

「父さんと母さんは?」

「礼拝堂! みんな避難してる! 自警団が時間を稼いで――」

 

 轟音。

 村の奥で、

 家の壁が吹き飛んだ。

 

「…………」

 

 現れた。

 

 でかい。

 想像より。

 ずっと。

 

 巨大だった。

 四つ足なのに、背丈は大人より高い。

 全身が黒灰色。

 背中から頭にかけて、岩のような甲殻に覆われている。

 

 口元には、

 赤いものがついていた。

 

「下がれぇぇぇ!」

 

 ダグの声。

 自警団の男たちが槍を構えている。

 

 その中心で、

 ダグが右手を掲げた。

 

 金色の紋章。

 

「集え、熱よ! 渦を成し、光と成りて、我が手に灯れ!」

 

 炎。

 

 昨日より大きい。

 拳二つ分ほどの火球が生まれる。

 

「行けぇ!」

 

 ダグが腕を振る。

 火が飛んだ。

 岩甲熊の肩に当たる。

 

 ぼんっ。

 

 炎が弾けた。

 

「やった!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

 煙。

 

 その向こうから。

 岩甲熊が出てくる。

 

 無傷。

 

「…………」

 

 ダグの顔が引きつった。

 

「嘘だろ……」

 

 岩甲熊が走り出す。

 

「逃げろ!」

 

 男たちが散った。

 ダグも飛び退く。

 

 だが。

 

 一人。

 転んだ。

 

「父さん!」

 

 姉さんが叫ぶ。

 

「え?」

 

 見る。

 

 地面に倒れているのは、

 

 父さんだった。

 

 足を押さえている。

 

 岩甲熊が、

 父さんへ向かう。

 

「父さん!」

 

 姉さんが駆け出した。

 

「待って!」

 

 間に合わない。

 姉さんでも。

 間に合わない。

 

 自警団も。

 ダグも。

 間に合わない。

 

 岩甲熊が前脚を上げる。

 

「…………」

 

 頭が、

 冷えた。

 

 妙に、

 ゆっくり見える。

 

 でかい。

 重い。

 硬い。

 

 炎は効かなかった。

 表面を熱しただけだからだ。

 

 なら。

 どうする。

 

 熱。

 風。

 水。

 

 俺にできること。

 

 考えろ。

 考えろ。

 考えろ。

 

 岩みたいに硬い外皮。

 

 でも。

 

 中まで岩じゃない。

 

 生き物だ。

 

 血が流れている。

 呼吸をしている。

 熱を持っている。

 

 だったら。

 

 外側を壊す必要なんてない。

 

「――熱を」

 

 口から、

 言葉が漏れた。

 

「ショウ!?」

 

 姉さんが振り返る。

 

 俺は右手を、

 岩甲熊へ向けた。

 

「体の中から――」

 

 何をしてる。

 やめろ。

 見られる。

 村中に。

 

 でも。

 

 父さんが死ぬ。

 

 そんなもの。

 比べるまでもない。

 

「――奪え!」

 

 空気が、

 歪んだ。

 

 岩甲熊の動きが。

 

 止まる。

 

「…………?」

 

 巨体が、一歩よろめいた。

 

 でも。

 倒れない。

 

 足りない。

 

 生き物一頭分。

 熱を奪う。

 今までとは量が違いすぎる。

 

「ぐっ……!」

 

 頭が痛い。

 目の奥が焼ける。

 

 それでも。

 想像する。

 

 血。

 体中を巡る血液。

 そこから熱を奪う。

 

 筋肉。

 内臓。

 全身から。

 

 熱を。

 

 外へ。

 外へ。

 外へ――!

 

「止まれぇぇぇぇっ!」

 

 びき。

 

 音がした。

 

 岩甲熊の口元に、

 白い霜がついた。

 

 次の瞬間。

 

 巨体が、

 傾いた。

 

 ずずん。

 

 地面が揺れる。

 

「…………」

 

 静寂。

 

 誰も。

 何も言わない。

 

 俺は、

 荒い息を吐きながら、

 倒れた岩甲熊を見ていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 死んでる?

 

 分からない。

 

 でも、動かない。

 

「父さん」

 

 俺は駆け寄った。

 

「大丈夫?」

「あ、ああ……」

 

 父さんが、

 俺を見る。

 

 変な顔だった。

 

 助かった安堵。

 驚き。

 

 それから。

 

 困惑。

 

「ショウ……」

「うん」

「今のは……」

 

 その声で、

 ようやく、

 思い出した。

 

 周囲を見る。

 

 村人たち。

 ダグ。

 自警団。

 姉さん。

 みんな。

 

 俺を見ている。

 

「…………」

 

 あ。

 

 やった。

 やってしまった。

 

 絶対見られないようにしよう。

 ついさっき、

 そう決めたばっかりだったのに。

 

 

 

 

「ショウ」

 

 静寂を破ったのは、

 マルコ司祭だった。

 

 いつの間にか、

 礼拝堂から出てきていたらしい。

 

 司祭は、

 倒れた魔物ではなく、

 俺の右手を見ていた。

 

「手を」

「…………」

「右手を、見せなさい」

 

 嫌だ。

 ものすごく嫌だ。

 

 でも、

 ここで隠したら、

 もっと怪しい。

 

 俺は、

 ゆっくりと、

 右手を上げた。

 

 何もない、

 日焼けした手の甲。

 

 金色の文様なんて、

 ない。

 

 村人たちが、

 息を呑む。

 

「紋章が……ない」

 

 誰かが呟いた。

 

「嘘……」

「でも今……」

「魔術を……」

 

 ざわ。

 ざわざわ。

 

 さっきまで、

 俺を見ていた目。

 

 命を救われた。

 そんな目だった。

 

 それが。

 変わっていく。

 

「なぜです」

 

 マルコ司祭の声が、

 低くなる。

 

「なぜ、紋章を持たぬあなたが、奇跡を使えるのです」

「…………」

 

 答える。

 答えない。

 

 どっちが安全だ?

 

 俺は考えた。

 

 考えて。

 考えている間に。

 

「まさか……」

 

 村人の一人が、

 震えた声を上げる。

 

「悪魔の力じゃ……」

「違う!」

 

 姉さんが叫んだ。

 

「ショウはそんなこと――」

「では、何なのです」

 

 司祭が、

 俺から目を離さずに言った。

 

「神に選ばれていない者が、神の奇跡を使った」

「…………」

「これは、あり得てはならないことです」

 

 あり得てはならない。

 

 でも。

 起きた。

 

 なら。

 

 前提が間違ってる。

 

 それだけだ。

 

「……司祭様」

「何です」

「一つ、聞いてもいい?」

「…………」

「魔術は、紋章を持った人にしか使えないんだよね?」

「当然です」

「でも、俺は使えた」

「…………」

「なら」

 

 口に出す前に。

 

 まずい。

 

 と思った。

 

 でも、

 俺は、

 言葉を考えるのが遅い。

 

 一度頭の中で形になった言葉を、

 途中で別の形に直すのは、

 

 もっと遅い。

 

「その教えが、間違ってるんじゃない?」

 

 しん。

 

 今までで一番、

 静かになった。

 

「…………あ」

 

 遅かった。

 言ってしまった。

 

 司祭の顔から、

 表情が消える。

 

「ショウ」

「はい」

「今、自分が何を言ったか分かっていますか」

「たぶん」

「神の教えを否定したのですよ」

「…………」

 

 そうなるよな。

 でも。

 

「だって」

 

 俺は、

 倒れた岩甲熊を見る。

 

「実際に使えたし」

 

 ざわっ。

 

 村人たちがさらに騒ぎ出す。

 

「俺、紋章ないよ」

「黙りなさい!」

 

 怒声。

 

 びくりと肩が跳ねた。

 

 マルコ司祭が、

 初めて見る顔で俺を睨んでいた。

 

「それ以上、口にしてはなりません」

「でも」

「黙りなさい!」

「…………はい」

 

 怒鳴られると、

 反射的に黙ってしまう。

 

 昔からそうだ。

 

 口喧嘩に弱いので、

 そのほうが楽でもある。

 

 ただ、

 頭の中では、

 ずっと考えていた。

 

 なぜ怒る?

 

 俺が間違っているなら、

 説明すればいい。

 

 紋章がなければ使えない理由を。

 俺のしたことが魔術ではない理由を。

 

 でも。

 

 司祭は、

 説明しない。

 

 ただ、

 黙れと言う。

 

「父さん」

 

 姉さんが父さんを支えながら、

 俺の隣へ来る。

 

「ショウは父さんを助けたのよ」

「分かっています」

「だったら!」

「それとこれは別です」

 

 司祭が言う。

 

「奇跡を騙ることは、重大な背徳です」

「騙ってない」

 

 思わず口を挟んだ。

 

「俺は別に神様からもらったなんて言ってない」

「ショウ!」

 

 父さんが、

 初めて強い声を出した。

 

「もう、黙れ」

「…………」

 

 父さんを見る。

 

 顔が青い。

 

 怒っているんじゃない。

 怖がっている。

 

 何を?

 俺を?

 

 違う。

 たぶん。

 これから起きることを。

 

 マルコ司祭が、

 深く息を吸った。

 

「この件は、私だけで判断できません」

「…………」

「聖堂へ報告します」

 

 心臓が、

 一度、

 大きく鳴った。

 

 聖堂。

 

 その言葉で、

 五年前の行商人を思い出した。

 

『魔術にだって、タネも仕掛けもあるんじゃねえのか』

 

 翌朝。

 聖堂騎士に連れて行かれ。

 二度と帰らなかった。

 

「それまでは」

 

 司祭が俺を見る。

 

「家から出ないように」

「…………」

「よろしいですね」

 

 俺は、

 返事をしなかった。

 

 

 

 

 その夜。

 

 家の中は、

 静かだった。

 

 誰も、

 夕食に手をつけない。

 

 父さんは足に包帯を巻いて、

 椅子に座っている。

 

 母さんは、

 泣いたあとみたいに目が赤い。

 

 姉さんは、

 腕を組んで、

 ずっと不機嫌そうな顔をしていた。

 

「…………ごめん」

 

 俺が言う。

 

「何がよ」

 

 姉さん。

 

「騒ぎになって」

「あんた馬鹿?」

「それは」

「今はその話してない」

「…………」

「父さん助けたんでしょ」

「うん」

「じゃあ謝る必要ないじゃない」

「でも」

「あたしは」

 

 姉さんが机を叩いた。

 

「ショウが何したかなんてどうでもいい!」

「…………」

「魔術だろうが悪魔の力だろうが何だろうが! あんたが父さん助けた! それだけでしょ!」

「リナ」

 

 母さんが弱い声で呼ぶ。

 

「でもね……」

「母さんまで何よ」

「聖堂に逆らったら……」

 

 続きは聞かなくても分かる。

 

 この国で、

 教会に逆らって、

 普通に暮らせる人間はいない。

 

「ショウ」

 

 父さんが口を開いた。

 

「お前」

「うん」

「いつから、魔術を使えた」

「五日前」

「…………」

「ちゃんと使えたのは三日前くらい」

「紋章は」

「最初からないよ」

「どうやって」

 

 俺は口を閉じた。

 

 言っていいのか。

 考える。

 

 でも。

 もう。

 

 隠しても仕方ない。

 

「魔術って」

「うん」

「たぶん、奇跡じゃない」

 

 母さんの肩が揺れる。

 

 父さんも。

 何も言わない。

 

 俺は続ける。

 

「決まった条件があるんだ」

「条件?」

「うん」

「詠唱は祈りじゃない。起こしたいことを順番に整理するためのものだと思う。それだけでも足りなくて、頭の中で何をどう変えるかを考える必要がある」

「…………」

「それで、たぶん人間は紋章がなくても最初から――」

「待て」

 

 父さんが遮った。

 

「もういい」

「でも」

「分かった」

 

 分かってない顔だった。

 

 でも、

 父さんは、

 それ以上聞こうとしなかった。

 

「その話」

 

 父さんが、

 低い声で言う。

 

「外では絶対するな」

「うん」

「帳面は?」

「え?」

「あるんだろ」

 

 ぎく。

 

「何で」

「お前が何年も部屋で何か書いてることくらい知ってる」

「…………」

 

 父さん。

 知ってたのか。

 

「持ってこい」

「燃やす?」

「馬鹿」

「…………」

「持って逃げろ」

 

 時間が、

 止まった気がした。

 

「…………え?」

「王都へ行け」

「父さん?」

「今夜中に」

 

 姉さんも。

 母さんも。

 驚いた顔で父さんを見る。

 

「ちょっと、あなた」

「聖堂への知らせは、早ければ明日の朝出る」

 

 父さんが言った。

 

「王都から聖堂騎士が来るまで、馬なら四日。急げば三日」

「でも」

「来てからじゃ遅い」

「…………」

「五年前の行商人を覚えてるか」

「うん」

「俺は」

 

 父さんは、

 そこで一度、

 言葉を止めた。

 

「あの男がどうなったか、少しだけ知ってる」

「…………」

「村には帰ってこなかった」

「それは知ってる」

「違う」

 

 父さんが、

 俺を見る。

 

「王都にも着いてない」

「え?」

「途中で死んだ」

 

 母さんが息を呑む。

 姉さんも黙った。

 

「異端者が護送中に逃亡を企て、やむなく処刑した。そういうことになってる」

「…………」

「俺は、昔。荷運びで聖堂騎士と同じ街道を通ったことがある」

 

 父さんは机の上で拳を握った。

 

「道端に吊るされてた」

「…………」

「だから行け」

 

 背中が冷たくなる。

 

 分かっていた。

 処刑されるかもしれない。

 ずっと。

 分かっていたつもりだった。

 

 でも、

 実際に、

 自分の知っている人間が、

 そうなった話を聞くと、

 急に、

 現実になる。

 

「でも、俺が逃げたら」

「うん」

「家族も疑われる」

「疑われるだろうな」

「だったら」

「捕まって殺されるよりマシだ」

「…………」

「父さん」

 

 俺は考える。

 

 俺が逃げる。

 家族に迷惑がかかる。

 

 俺が残る。

 たぶん。

 捕まる。

 

 最悪。

 死ぬ。

 

 だったら。

 

「俺が全部勝手にやったってことにする」

「ショウ」

「父さんたちは何も知らなかった」

「…………」

「実際、知らなかったし」

 

 父さんが少しだけ笑った。

 

「こういうときだけ頭回るんだな」

「失礼だな」

「いや」

 

 父さんが俺の頭に手を置く。

 

 子供の頃みたいに、

 乱暴に、

 

 髪をぐしゃぐしゃにされた。

 

「十分だ」

「…………」

「行け」

 

 母さんが口元を押さえる。

 

「絶対」

 

 声が震えていた。

 

「絶対、帰ってきなさいよ」

「うん」

「ちゃんと食べなさい」

「うん」

「知らない人についていっちゃ駄目よ」

「俺、もう十五だよ」

「じゃあ知らない女についていっちゃ駄目」

「なんで女限定なんだよ」

「うるさい」

 

 母さんが泣きながら笑った。

 

「母さん」

「何」

「ありがとう」

「…………」

 

 また。

 泣いた。

 

「ほら」

 

 姉さんが立ち上がる。

 

「ぼさっとしてないで準備するわよ、のろま弟」

「姉さん」

「何よ」

「…………」

 

 言いたいことを考える。

 

 ありがとう。

 心配かけてごめん。

 また会おう。

 

 色々。

 浮かぶ。

 

 でも。

 まとまらない。

 

「…………」

「あーもう」

 

 姉さんが俺の頭を小突いた。

 

「考えてる間に朝になるわよ」

「痛い」

「帰ってきたら聞いてあげる」

「…………うん」

「だから」

 

 姉さんは。

 笑った。

 

「ちゃんと帰ってきなさい」

 

 

 

 

 深夜。

 

 俺は村の裏手にある小道を歩いていた。

 

 背中には。

 服。

 食料。

 温度計。

 少しの金。

 

 それから、

 床下に隠していた帳面。

 

 俺が何年も書き溜めた、

 

 疑問。

 観察。

 仮説。

 

 そして、

 

 神の奇跡を、

 ただの現象へ変えてしまうかもしれない、

 危険な紙束。

 

「…………」

 

 振り返る。

 

 生まれてから十五年。

 一度も出たことのない村。

 

 暗闇の中。

 家々の屋根が並んでいる。

 

 あそこに。

 

 父さん。

 母さん。

 姉さん。

 

 みんながいる。

 

「…………行こう」

 

 俺は前を向いた。

 

 向かう先は、

 

 王都。

 

 別に、

 

 教会と戦いたいわけじゃない。

 世界を変えたいわけでもない。

 神様を否定したいわけでもない。

 

 ただ。

 知りたい。

 

 王都には、

 この村にはない本があるらしい。

 

 大きな図書館も、

 魔術を研究している人間も、

 たくさんの紋章持ちもいる。

 

 この村だけでは、

 もう、

 調べられることに限界がある。

 

「王都か……」

 

 少し。

 怖い。

 

 でも、

 それ以上に、

 楽しみだった。

 

 魔術は。

 

 なぜ動く?

 紋章とは何だ?

 

 俺が動かした、

 目に見えない何か。

 

 あれは。

 

 どこから来る?

 なぜ人間の思考に反応する?

 

 まだ、

 何一つ、

 分かっていない。

 

「…………ふふ」

 

 自然と笑ってしまう。

 分からないことがこんなにある。

 調べることが山ほどある。

 

 最高じゃないか。

 

 このときの俺は、

 本当に、

 ただ研究がしたかっただけだった。

 

 自分の発見が、

 どれだけ危険なものなのかも、

 まだ、

 よく分かっていなかった。

 

 なにしろ、

 俺が見つけてしまったのは、

 紋章なしで魔術を使う方法などという、

 そんな小さなものではなかったのだから。

 

 ――魔術とは、神の奇跡ではない。

 

 正しい手順。

 正しい理解。

 

 そして。

 正しい条件さえ揃えば。

 

 誰にでも再現できる。

 

 つまり俺は――

 

 千年以上、

 神だけのものだった()()を、

 たった数日の実験で、

 ()()に変えてしまったのだ。

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