魔術が神の奇跡だと信じられている世界ですべて論理的に説明してしまった少年の末路   作:TOKUMEI

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第三話

 王都に着いたのは、村を出てから六日目の昼だった。

 

「…………でかい」

 

 城壁を見上げたまま、俺はしばらく動けなかった。

 

 村で一番高い建物は礼拝堂だ。

 その礼拝堂を三つ積んでも、まだ届かないんじゃないかという壁が、左右の果てまで続いている。

 

 門はさらに大きい。

 荷馬車が四台並んでも通れそうな幅があり、その上には白い石で作られた神像が立っていた。

 

 右手には杖。

 左手には炎。

 

 たぶん、神が人へ奇跡を授ける場面なのだろう。

 

「おい、坊主! 門の真ん中で止まるな!」

 

 後ろから怒鳴られた。

 

「すみません!」

 

 慌てて道の端へ避ける。

 俺を追い越していった荷馬車の御者が、呆れた顔で振り返った。

 

「田舎者かよ」

 

 入って十秒も経たずにばれた。

 

 門の脇には、白銀の鎧を着た聖堂騎士が立っていた。

 

 胸が、どくりと鳴る。

 

 村を出てから六日。

 父さんの話では、早馬なら村から王都まで四日ほどだ。

 

 もう。

 俺のことが聖堂へ伝わっていても、おかしくない。

 

 俺は目を伏せ、できるだけ騎士から離れて歩いた。

 けれど、呼び止められない。

 

 騎士たちは荷馬車の荷を調べているだけで、俺には目も向けなかった。

 

 まだ知らせが広がっていないのか。

 それとも、村へ確認の騎士を送っただけなのか。

 

 分からない。

 

 分からないけど。

 門の前で立ち止まって考えるのは危険だ。

 

 

 王都は、何もかもが村と違った。

 

 道は土ではなく、平らな石で敷き詰められている。

 建物は二階どころか、三階、四階まである。

 道の両側には水路が走り、決まった間隔で鉄の街灯が並んでいた。

 

 人も多い。

 

 前から来る人を避けたら、後ろの人にぶつかる。

 謝ろうとしている間に、その人はもう人混みの中へ消えている。

 

「…………」

 

 王都。

 難しい。

 

 でも。

 

 壁は、どうやってあれほど高く積んだ?

 水路の水は、どこから流れてくる?

 油壺の見当たらない街灯は、どうやって火を灯す?

 

 気になるものが多すぎる。

 目がいくつあっても足りない。

 

「……ふふ」

 

 自然と口元が緩んだ。

 

 来てよかった。

 ここなら、調べるものに困ることは一生なさそうだ。

 

 そう思った直後。

 

 通りの向こうから、大きな歓声が上がった。

 

 

 

 

 人の流れについていくと、広い石造りの広場へ出た。

 

 中央には、大きな噴水。

 その前を、何十人もの人が取り囲んでいる。

 

「レオン様だ!」

「今日も奇跡を見せてくださるぞ!」

 

 聞こえてきた声に、俺は足を止めた。

 

 奇跡。

 

 つまり、魔術だ。

 

 俺は人と人の隙間を縫って、できるだけ前へ進んだ。

 途中で三度肩をぶつけ、二度足を踏まれ、一度押し戻された。

 

 ようやく見えたのは、噴水の縁に立つ一人の男だった。

 

 年は二十歳を少し過ぎたくらい。

 白い外套に、金の刺繍。

 明るい金髪は丁寧に撫でつけられ、顔立ちも腹が立つくらい整っている。

 

 男が右手を掲げる。

 

 手の甲には、金色の紋章。

 

 村で見たものより線が多い。

 細い文様が手首近くまで広がっていた。

 

「ご覧ください」

 

 男――レオンは、集まった人々へ微笑んだ。

 

「主の御心は、今日も我らと共にあります」

 

 歓声。

 

 何人かは、その場で膝をついた。

 レオンはそれを当然のように見渡し、噴水へ掌を向ける。

 

「――集え、清き水よ。風の腕に抱かれ、天翔ける白鳥となれ。冷たき静寂よ、その翼を永遠に留めよ」

 

 噴水の水面が、大きく盛り上がった。

 

「…………!」

 

 水が空へ伸びる。

 

 一本。

 二本。

 細い流れに分かれた水が、空中で絡み合う。

 

 胴体。

 首。

 広げた翼。

 

 それは、巨大な白鳥の形になった。

 

 次の瞬間。

 

 ぱき、ぱき、ぱき。

 

 水が端から白く曇り、凍っていく。

 ほんの数秒で、透き通った氷の白鳥が噴水の上に浮かんだ。

 

「おおおおおおっ!」

 

 広場が揺れるほどの歓声。

 

「なんと美しい……!」

「さすが中央聖堂が誇る紋章持ちだ!」

「奇跡の貴公子、レオン・クラウゼン様!」

 

 俺は、氷の白鳥を見上げた。

 

 水を持ち上げた。

 形を作った。

 そのまま熱を奪って凍らせた。

 

 空中に留まっているところを見ると、今も風で下から支えているらしい。

 白鳥の周りだけ、空気が陽炎のように細かく揺れている。

 

「…………なるほど」

 

 面白い。

 

 詠唱の言葉は、かなり曖昧だった。

 

『風の腕に抱かれ』

『冷たき静寂』

『翼を永遠に留めよ』

 

 起きている現象を、そのまま順番に述べているわけではない。

 それでも発動した。

 

 つまり、やはり重要なのは言葉そのものじゃない。

 レオンの頭の中では、水をどう動かし、どこから熱を奪うかが、もっと具体的に組み立てられているはずだ。

 

 詠唱は、その想像を呼び起こすための合図。

 

 ただ。

 

「……ずいぶん遠回りだな」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 隣にいた太った男が振り向く。

 

「何だと?」

「え?」

「今、レオン様の奇跡を遠回りと言ったか?」

「…………」

 

 聞かれていた。

 

「いや」

 

 どう答えるべきか考える。

 

 遠回りではある。

 でも、ここでその理由を説明するとまずい。

 

 何しろ俺は、

 つい数日前、同じような説明をして村から逃げ出したばかりだ。

 

「…………」

「どうした」

 

 太った男が眉をひそめる。

 

 俺が答えをまとめている間に、

 周りの人まで、こちらを見始めた。

 

 そして。

 

「何か、気になることでも?」

 

 噴水の前から、レオン本人が声をかけてきた。

 

 人垣が左右に割れる。

 

 ものすごく逃げたい。

 

 でも。

 今から急に走ったところで、俺の足では三歩で捕まる。

 

 俺は仕方なく、その場に立った。

 

「私の奇跡が、遠回りだと聞こえましたが」

 

 レオンが笑顔で言う。

 

「聞き間違いでしょうか?」

「…………」

「どうぞ。遠慮なく」

 

 言えと言われた。

 

 なら。

 

「水を全部持ち上げてから形を作って、そのあとで凍らせてるから」

「…………」

「形を作りながら端から凍らせれば、支える風はもっと弱くていいと思う。水の量も半分で同じ大きさに見せられるし」

「…………」

 

 広場が静かになった。

 

 あ。

 

 説明しすぎた。

 

 レオンの笑顔が、少しだけ固まる。

 

「君は」

「はい」

「どちらの聖堂で、奇跡を学んでいるのですか?」

「学んでない」

「では、学院の生徒?」

「違う」

「紋章を見せてもらえますか」

「…………」

 

 断る理由を考える。

 

 考えている間に、

 

「どうしました?」

 

 催促された。

 

 仕方なく右手を上げる。

 

 何もない。

 日焼けした手の甲。

 

 周囲から、失笑が漏れた。

 

「無紋か」

「何だ、ただの知ったかぶりじゃないか」

「あの服、どこの村のだよ」

 

 レオンは、俺の手と泥のついた靴を順番に見た。

 

「なるほど」

 

 さっきまでより、ずっと優しそうな笑顔になった。

 

 なぜか、

 その笑顔のほうが、嫌な感じがした。

 

「王都へ来たばかりですね?」

「今日」

「やはり」

 

 レオンが人々へ向き直る。

 

「皆さん、笑ってはいけません。この少年は、神の奇跡を間近で見るのが初めてなのでしょう」

 

 いかにも俺を庇っているような言い方だった。

 

 でも、

 周囲の笑いは、さっきより大きくなった。

 

「田舎では、氷の白鳥など見られないでしょうから」

「白鳥自体、見たことない」

「…………そうですか」

 

 正直に答えたら、また笑われた。

 

 おかしい。

 質問されたから答えただけなのに。

 

 レオンは外套の内側から銀貨を一枚取り出した。

 

「王都は、君のような少年には少々厳しい場所です」

 

 指で弾く。

 

 銀貨が俺の胸に当たり、石畳へ落ちた。

 

「それで新しい靴でも買いなさい。そして、奇跡について語るのは、もう少し神の教えを学んでからにするといい」

「…………」

 

 笑い声。

 

 銀貨が石畳の上を転がり、俺の足元で止まった。

 

 腹が立った。

 

 かなり。

 

 何か言い返そう。

 

 そう思って、頭の中で言葉を組み立てる。

 

 奇跡。

 靴。

 神の教え。

 性格。

 

「…………」

 

 まとまった頃には、レオンはもう背を向けていた。

 

「……奇跡でも」

 

 俺は足元の銀貨を拾いながら言った。

 

「性格の悪さまでは治せないんだな」

 

 近くにいた誰かが、吹き出した。

 

 レオンの足が止まる。

 

 ゆっくり、

 こちらを振り返った。

 

 笑顔は残っている。

 

 でも、

 目だけは、まったく笑っていなかった。

 

「無知は罪ではありません」

 

 静かな声。

 

「ですが、不敬を繰り返せば、いずれ罪になります。覚えておきなさい。田舎の少年」

「…………はい」

 

 反射的に返事をしてしまった。

 

 レオンは、今度こそ人々を引き連れて去っていく。

 

 広場に残った氷の白鳥だけが、光を受けてきらきら輝いていた。

 

「…………」

 

 腹が立つ。

 

 ものすごく腹が立つ。

 

 でも。

 

 俺は拾った銀貨を袋へ入れた。

 

 腹は立つが、銀貨に罪はない。

 姉さんなら、たぶんレオンを一発殴ってから拾う。

 

 俺は殴れないので、

 拾うだけにしておいた。

 

 

 

 

 王都へ来た目的は、本を読むことだ。

 

 だから俺は、まず王立大書庫へ向かった。

 

 場所は、道具屋の主人に聞いた。

 説明の途中で道が分からなくなったので三回聞き直し、二回違う道へ入り、最終的には同じ建物の周りを一周した。

 

 大書庫は、すぐ目の前にあった。

 

「…………でかい」

 

 今日、二度目の言葉だった。

 

 中へ入ろうとすると、入口の係員に止められた。

 

「閲覧証を」

「持ってない」

「では、学院の所属証か、中央聖堂の紹介状を」

「どっちもない」

「紋章登録証は?」

「紋章もない」

「では、一般閲覧料として銀貨三枚です」

「…………一枚しかない」

「お帰りください」

「本を見るだけなのに?」

「本は貴重ですので」

「触らない。見るだけ」

「お帰りください」

 

 駄目だった。

 

 王都へ来れば、好きなだけ本が読めると思っていた。

 

 世の中、

 そんなに親切には出来ていないらしい。

 

「一般向けの閲覧所はない?」

「南区に有料の読書室があります」

「いくら?」

「一日、銀貨一枚」

「…………」

 

 読書室へ入ったら、今夜泊まれない。

 

 本を読むか。

 寝る場所を確保するか。

 

 難しい。

 

 かなり悩んだ末。

 

 俺は、寝るほうを選んだ。

 

 野宿して聖堂騎士に見つかったら困る。

 それに、帳面を盗まれるのもまずい。

 

 大書庫の階段に座り込み、

 俺は、今日初めて気づいた。

 

 王都では、

 研究にも、金がかかる。

 

 

 

 

 その夜。

 

 俺は南区の外れにある、安宿の酒場にいた。

 

 看板には、

 

『麦酒一杯、寝床つき。銀貨一枚』

 

 と書いてあった。

 

 正確には、

 麦酒一杯を頼むと、夜の間だけ二階の大部屋の床を使っていいらしい。

 

 寝台ではない。

 床だ。

 

 でも、屋根があるだけありがたい。

 

 俺は銀貨を払い、薄い麦酒と硬いパンを受け取った。

 レオンにもらった銀貨で泊まるのは、少しだけ癪だった。

 

 ただ、

 野宿よりはいい。

 

 腹が立っても、寒さは防げない。

 

 隅の席に座り、帳面を開く。

 

 今日見た魔術を書き残す。

 

 一つ。

 詠唱は、現象を直接説明する言葉でなくても発動する。

 

 二つ。

 比喩や曖昧な言葉でも、術者の想像が具体的なら問題ない可能性がある。

 

 三つ。

 水を動かす、形を作る、熱を奪うという複数の手順を連続して行える。

 

 四つ。

 レオン・クラウゼンは、性格が悪い。

 

「…………」

 

 四つ目は、研究とは関係ない。

 

 線を引いて消した。

 

「消すんだ、それ」

 

 向かいから声がした。

 

 顔を上げる。

 

 いつの間にか、女が座っていた。

 

 年は二十歳前後だと思う。

 灰色の外套を頭から被り、長い黒髪は手入れされていない。

 顔色が悪い。

 頬も少し痩けている。

 

 机には空の酒瓶が二本。

 

 それなのに、

 目だけは、妙に鋭かった。

 

「見てた?」

「見えるように書いてたでしょ」

「これは人に見せちゃいけない帳面なんだけど」

「じゃあ酒場で開くのやめなさいよ」

「…………」

 

 正しい。

 

 俺は帳面を閉じた。

 

 女は、俺の顔を見て、

 それから、泥のついた服と荷物を見た。

 

「広場にいた田舎の子ね」

「どうして分かる?」

「今日、レオンに噛みついた無紋の田舎者がいるって、もうこの辺まで噂になってる」

「早いな」

「王都で一番速いのは馬でも風でもないわ。人の悪口よ」

「なるほど」

 

 帳面に書こうとして、

 やめた。

 

 研究とは関係ない。

 

「名前は?」

「ショウ」

「それだけ?」

「うん」

「本当に田舎の子なのね」

「王都だと、名前は二つ必要?」

「必要ではないけど。ないと勝手に下に見られる」

「一つ増やせばいい?」

「そういう問題じゃない」

 

 女は空の杯を傾けた。

 一滴も出ない。

 

 そのとき、

 

「おいおい」

 

 背後から、酔った男の声がした。

 

「誰かと思えば、()()()()()()じゃねえか」

 

 女の肩が固まった。

 

 二人組の男が、机の横に立つ。

 服装からすると職人だろうか。

 二人とも頬が赤い。

 

「まだ王都にいたのかよ」

「レオン様に土下座はしたか?」

「してないわ」

「はっ。神に選ばれたお方を嘘つき呼ばわりしておいて、随分偉そうだな」

「私は、あの人を嘘つきだなんて書いてない」

「同じだろうが」

 

 男の一人が、エレナの空の杯を指で弾いた。

 

 杯が倒れる。

 

 エレナは、それを起こそうともしなかった。

 

「…………」

 

 俺は二人を見る。

 

 関わらないほうがいい。

 

 俺は今、

 教会に追われるかもしれない立場だ。

 

 ここで目立つのは、ものすごくよくない。

 

「レオン様の奇跡で火が消えた。なのにお前は、レオン様が火事を広げたなんて書きやがった」

「最初の風で隣の家に火の粉が飛んだのは事実よ」

「奇跡を疑ったんだろ!」

「…………」

 

 エレナは何も言わない。

 

 男たちは笑っている。

 

 関わらないほうがいい。

 

 そう思った。

 

 でも。

 

「それ」

 

 口が動いた。

 

 二人が俺を見る。

 

「何だ、坊主」

「同じじゃないと思う」

「あ?」

「奇跡で火を消したことと、その前に失敗して火を広げたことは、両方起きる」

「…………」

「片方を書いたら、もう片方を否定したことにはならない」

「何だと?」

 

 まずい。

 

 思ったより、怒らせた。

 

 俺は言葉を足す。

 

「たとえば、俺が今からあなたに殴られて」

「おう」

「そのあと、あなたが俺の怪我に布を巻いたとして」

「…………」

「怪我を手当てしたことと、最初に殴ったことは別だから」

「喧嘩売ってんのか、てめえ」

 

 襟を掴まれた。

 

 体が、簡単に椅子から浮く。

 

 やっぱり、

 例えが悪かったかもしれない。

 

「こいつ、昼間の田舎者じゃねえか」

「レオン様に恵んでもらったくせに、まだ分かってねえらしいな」

「いや、銀貨はもう宿代に使った」

「そういう話じゃねえ!」

 

 怒鳴られた。

 

 返事を考えている間に、拳が上がる。

 

 殴られる。

 

 そう思ったとき。

 

 どんっ。

 

 机に大きな包丁が突き刺さった。

 

「店で喧嘩するなら」

 

 酒場の女主人が、包丁の柄に手を置いていた。

 

「二人とも、その腕を置いていきな」

「…………」

「…………」

 

 男たちは、俺を下ろした。

 

「ちっ。異端者同士、仲良くしやがれ」

 

 捨て台詞を残し、店を出ていく。

 

 俺は椅子に座り直した。

 首元が痛い。

 

「助かった……」

「勘違いすんじゃないよ」

 

 女主人が俺を見る。

 

「椅子を壊されたくなかっただけだ」

「はい」

「あと、その子に飯を食わせな」

「え?」

「三日、酒しか飲んでない」

「余計なこと言わないでよ」

 

 エレナが低い声で言った。

 

 女主人は鼻を鳴らし、厨房へ戻っていく。

 

「…………」

 

 俺はエレナを見る。

 

 確かに、

 顔色が悪い。

 

「食べないの?」

「金がないの」

「酒は?」

「最後の金で買った」

「食べ物のほうが長く生きられると思う」

「長く生きたいと思ってないから」

「…………」

 

 どう答えるべきか。

 考える。

 

 かなり難しい。

 

「でも」

「何」

「死んだら、さっきの人たちが正しかったことにされるんじゃない?」

「…………」

「あなたが反論できなくなるから」

「慰めるの、下手ね」

「よく言われる」

「そうでしょうね」

 

 エレナは、ほんの少しだけ笑った。

 

 俺は袋の中を探る。

 銀貨はもうない。

 銅貨が数枚。

 

 帰り道で使うつもりだった金だ。

 

 いや、

 帰る道は、今のところない。

 

「すみません」

 

 女主人を呼ぶ。

 

「煮込みを一つ」

「ショウ」

「俺はパンがあるから」

「いらない」

「三日酒だけなら、たぶん考える力も落ちてる」

「別に考えることなんて」

「俺にはある」

「は?」

「さっきの話。何が起きたのか知りたい」

 

 エレナはしばらく俺を見た。

 

「変な子」

「よく言われる」

 

 しばらくして。

 湯気の立つ煮込みが運ばれてきた。

 

 エレナは最初、匙を取らなかった。

 

 でも、

 一度口に入れると、

 

 あとは、何も言わずに食べ続けた。

 

 

 

 

「私は、王都公報の書き手だった」

 

 煮込みの皿が半分ほど空になった頃。

 エレナは、ぽつりと話し始めた。

 

「王都で起きたことを調べて、記事にする仕事」

「本みたいなもの?」

「もっと薄くて、もっと早く捨てられるものよ」

「もったいない」

「そこ気にする?」

 

 エレナは匙を置く。

 

「レオンのことも、何度も書いた。新しい奇跡を披露した。貧民区へ食料を配った。火事を消した。病人を励ました。そういう、立派な話ばかり」

「実際にやった?」

「やったわ。人に見られているときはね」

 

 最後の一言だけ、声が冷たい。

 

「二か月前。南の倉庫街で、大きな火事があった」

「うん」

「レオンは風と水の奇跡で消そうとした。でも最初の風が強すぎて、火の粉が隣の長屋へ飛んだ。三人が火傷した」

「それで?」

「私は、そのまま書いた」

「普通だと思う」

「私もそう思った」

 

 エレナが笑う。

 

 今度の笑いには、

 さっきみたいな明るさがなかった。

 

「記事を出す前に、レオンから呼び出された。火を消した奇跡だけを書け。失敗は削れって」

「どうして?」

「神の奇跡に失敗はないから」

「でも、あったんだよね」

「ええ」

「なら消したら駄目だ」

「そう言ったわ」

 

 エレナは、空の酒瓶を指で転がす。

 

「次の日。中央聖堂の礼拝で、レオンはこう話した。『神に選ばれぬことを妬み、奇跡を穢す嘘を広めようとする者がいる』って」

「…………」

「私の名前は出さなかった。でも、その日のうちに全員が私だと知った」

「公報は?」

「私を辞めさせた。記事も捨てた。父の店には石を投げられた。友人は誰も口を利かなくなった」

「レオンは止めなかった?」

「止める?」

 

 エレナが、俺を見る。

 

「むしろ笑ってたわ。『真実を認めて謝れば、主もお許しになる』って」

「…………」

 

 腹が立った。

 

 広場で笑われたときより、

 ずっと。

 

「私は奇跡を否定したかったんじゃない」

 

 エレナは続ける。

 

「奇跡を使う人間だって、間違える。失敗もする。そう書いただけ」

「当たり前だ」

「王都では、当たり前じゃないのよ」

「どうして?」

「紋章があるから」

 

 エレナの目が、俺の右手へ落ちる。

 

「金色の紋章がある人間の言葉と、何もない私の言葉。皆がどちらを信じるかなんて、最初から決まってる」

「紋章と、話が本当かどうかは関係ない」

「そんなこと、誰も聞かない」

「でも」

「ここではね」

 

 エレナは、疲れた声で言った。

 

「何が真実かは、起きたことで決まらない。誰が言ったかで決まるの」

「…………」

 

 おかしい。

 ものすごく。

 

 水は。

 誰が見ても、同じ温度なら同じように凍る。

 

 火は。

 司祭が触っても、俺が触っても熱い。

 

 起きたことは、起きたことだ。

 

 言った人間に紋章があるかどうかで、

 事実が変わるわけがない。

 

「変だ」

「そうね」

「直したほうがいい」

「簡単に言うわね」

「簡単ではないと思う。でも、変なら」

「直す?」

 

 エレナが鼻で笑う。

 

「無紋の田舎の子が?」

「俺一人だと難しい」

「でしょうね」

「あなたは書ける」

「もう誰も私の文章なんて読まない」

「名前を変えたら?」

「…………」

 

 エレナが、初めて少し驚いた顔をした。

 

「何?」

「いや」

 

 俺は考える。

 

 思いつきで言っただけだ。

 

 でも、

 同じ文章でも、書いた人間の名前で信じるかどうかが変わるなら、

 

 信じられる名前を使えばいい。

 

「…………」

 

 何か使えそうな気がする。

 

 ただ、

 何に使うのかまでは、まだ分からない。

 

「変なところで頭が回るのね」

「村では愚鈍で有名だった」

「それ、誰かが間違ってたんじゃない?」

「村のみんなが?」

「…………やっぱり愚鈍かも」

 

 ひどい。

 

 

 

 

「飲みなさい」

 

 エレナが、新しい杯を俺の前へ置いた。

 

「何これ」

「果実酒」

「麦酒と違う?」

「甘いわ」

「酒はもうある」

「それ、水で薄めすぎてほとんど味しないでしょ。煮込みのお礼」

「お金ないんじゃ」

「店主につけた」

「払える?」

「今考えることじゃない」

「先に考えたほうがいいと思う」

「うるさい」

 

 杯を押しつけられた。

 

 赤い液体。

 匂いは、果物に近い。

 

 少しだけ飲む。

 

「…………甘い」

「でしょ」

「喉が熱い」

「酒だから」

「どうして熱くなる?」

「そういうものだから」

「…………」

 

 俺が嫌いな答えだ。

 

 もう一口飲む。

 今度は、さっきより熱く感じない。

 

 不思議だ。

 

 さらに飲む。

 

「ちょっと。そんな一気に飲むものじゃ」

「違いを確かめてる」

「酒で実験するな」

 

 杯が空になった。

 

 しばらくすると、

 頭の中が、少しふわふわしてきた。

 

 体が温かい。

 指先まで血が回っている感じがする。

 

「これ」

 

 俺は自分の手を見る。

 

「実際に体温が上がってるのかな」

「知らないわよ」

「温度計、出そうか」

「酒場で体温測り始めたら他人のふりするからね」

「…………」

 

 ひどい。

 

 エレナが自分の杯へ酒を注ぐ。

 俺の杯にも少し入れた。

 

 俺はまた飲んだ。

 

「それで?」

 

 エレナが頬杖をつく。

 

「広場で、レオンの奇跡が遠回りだって言ってたわね」

「うん」

「本気?」

「うん」

「どうして分かるの」

「見れば分かる」

「普通は分からないわよ」

「空気が揺れてた」

「空気?」

「白鳥の下。風で支えてた。水をあの形にしてから凍らせると重くなるから、ずっと支え続けないと落ちる」

「…………」

「先に薄い氷の骨を作って、そこへ水を沿わせて凍らせれば、もっと少ない力で同じ形になる」

「骨?」

「鳥の骨みたいな形。中を空洞にする」

「どうしてそんなことを考えるの?」

「そのほうが楽だから」

「レオンより上手くできると?」

「やったことないから分からない。でも、たぶん」

 

 エレナは、俺をじっと見た。

 

「あなた、何者?」

「ショウ」

「名前じゃなくて」

「村で愚鈍で有名な」

「それもさっき聞いた」

「十五歳」

「そうじゃなくて」

 

 なぜかエレナが二人いるように見える。

 片方へ顔を向けると、もう片方がずれる。

 王都の酒は人を二人に増やすらしい。

 

「聖堂の研究者でもない。学院にも通っていない。紋章もない。それなのに、どうして奇跡の使い方を批評できるの」

「奇跡じゃないから」

「…………」

 

 エレナの顔が、一つに戻った。

 

「今、何て言った?」

「魔術」

「そのあと」

「奇跡じゃない」

「ショウ」

 

 声が低くなる。

 

「酔ってても、それは口にしちゃ駄目」

「知ってる」

「分かってない。私みたいになるどころじゃない。異端者として捕まるわよ」

「もう追われてるかもしれない」

「は?」

 

 しまった。

 

 言わないほうがよかった。

 

 でも、

 酒のせいか、言葉がいつもより早く出る。

 

 便利。

 いや。

 危険だ。

 

「村で使った」

「何を」

「魔術」

「…………」

「紋章なしで」

「待って」

 

 エレナが身を乗り出す。

 

「何を言ってるの?」

「だから。魔術は神様がその場で起こしてる奇跡じゃない」

「…………」

「熱とか、水とか、空気とか。もともとあるものを、決まった順番で動かしてる」

「誰が?」

「人が」

「紋章持ちが、でしょ」

「違う」

 

 俺は右手を机の上に置いた。

 何もない手の甲。

 

「紋章は、たぶん補助するための道具」

「道具?」

「想像とか手順とか。難しいところを簡単にしてる。なくても、ちゃんと理解して、順番を間違えなければ動く」

「そんなわけ」

「ある」

「どうして言い切れるのよ」

「俺が使えたから」

 

 エレナが黙った。

 

 周囲の喧騒が、急に遠くなる。

 

「水を沸かした」

「…………」

「凍らせた。火もつけた。風も動かした」

「嘘」

「岩甲熊も止めた」

「何、それ」

「体の熱を奪った」

「…………」

 

 エレナの目が大きくなる。

 俺は何だか眠くなってきた。

 

「だから」

 

 目を開けているのが難しい。

 

「正しく知れば……誰でも……」

「ショウ」

「魔術は……使える……」

「ちょっと、寝ないで。今の話――」

 

 額が、机についた。

 

 痛い。

 

 でも。

 顔を上げる力がない。

 

「……もう一度、言いなさいよ」

 

 エレナの声が聞こえる。

 

「今のが本当なら……」

 

 そこで、

 意識が途切れた。

 

 俺は知らなかった。

 

 その夜。

 

 酔った勢いで口にした一言が、

 すべてを失い、もう何も信じる気のなかった女に、

 新しい目的を与えてしまったことを。

 

 そして。

 

 俺がただの酔っぱらいではないと確かめるため、

 翌朝、彼女が最初に要求することになる。

 

 ――なら、紋章なしで魔術を使ってみせろと。

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