鳴りやまない電子音を切り裂くように、花岡桃花の耳元で低い男の声が響く。
「ええまァ、あのぬいぐるみは確かに俺が作ったモンだな、みいちゃんって言うんだっけあれ」
「受け取った人とか覚えてたりしない?」
「さあ? 俺はずっとぬいぐるみ作るか電話対応だし、5日前に急に受け取りに来たからな。何かあったの?」
宮城の静けさと、首だけの榎本水仙が鎮座する異様な居間。その片隅で、モモは端末を指先で弄びながら吐息を漏らした。
あの不気味で歪な赤黒いぬいぐるみ。出所を洗っていくうちに辿り着いたのは、歌舞伎町の一角にひっそりと佇む小さなオーダーメイドショップだった。
店主の男は数年前、別の特別地区から流れてきて、歌舞伎町の改装が完了した直後からその場所で粛々とぬいぐるみを作り続けているという。特に金回りや羽振りが良いようには見えないが、なぜか潰れる気配もなく店を維持していた。不思議なカリスマ性か、あるいは裏の繋がりか。
「あのぬいぐるみ自体、注文自体は少し前から入ってたんだよ。ただ、完成してもなかなか取りに来なくてなあ。それを5日前に突然現れて、急かすように回収して去っていった。……特定のキャラクターなんかを元に作る注文なら引き受けてるが、実在の人間をモデルに再現してくれなんてのは初めての試みだったから、ちょっと印象に残ってンだよ」
実在の人物をぬいぐるみに仕上げる狂気。そしてそのぬいぐるみは、血みどろの殺人現場にポツンと残されていた。モモが軽めの口調で事の顛末をかいつまんで伝えると、電話の向こうで男は乾いた笑声を漏らした。
「へぇ……歌舞伎町にも悪魔みてぇなのがいるもんだなぁ」
「悪魔だった方がよっぽど楽だった気もするけど……ああ、そっちにとっては楽でもないか」
「俺は軽〜い気持ちでぬいぐるみ職人始めたけどよ、そっちの仕事もまだ現役のつもりだぜ」
受話器越しに漂う、ただの職人とは思えぬ圧倒的な場数と場場をくぐり抜けてきた気配。
この男はモモと同じような「管理者のひとり」というわけではない。だが、かつてこの特別地区が『1997年の東京』と呼ばれ、今よりもずっと広大だった頃——日本全体を揺るがすほどの巨大な騒動を引き起こした当事者の一人だという噂があった。彼自身の口から語られるため真偽のほどは定かではないが、ちょうどその時期に『1997年の東京』の管理者が唐突に失踪している事実を考えれば、彼がただの一般人でないことだけは確かだった。
「……で? そっちから送られてきたこのデータ、マジで言ってんの?」
「俺の野生の勘を疑うのか〜? まあ、目を通しとけよ」
男から転送されてきたファイルを開いたモモの瞳に、冷ややかな緊張が走る。そこに記載されていたのは、到底見過ごすことのできない最悪の『歪み』だった。
都市伝説『目立ちたがり屋』
40年以上も前から都市の闇で語り継がれる謎の存在——通称『目立ちたがり屋』。
何か大きな災厄や事件が起きる際、必ず裏で糸を巻き、「自分がヒーローとして最も華々しく活躍できるお誂え向きの舞台」を自らセッティングすることを目的とする歪んだ狂者。
水仙の人生を狂わせた過去の「桃の園事件」も。
ぬいぐるみ職人の男が関与した「1997年の東京」の惨劇も。
そのすべての裏には、この『目立ちたがり屋』の影が密かにチラついていたのだ。当然、モモ自身も都市の管理者としてその存在の噂自体は把握していた。
そして——あろうことか、ネット上で「山田さん」という都市伝説を爆発的に拡散させ、恐怖を煽っている発信源の正体こそ、この『目立ちたがり屋』の仕業だという。
「……そういうこと」
モモは歯噛みした。
みいちゃんと山田が歌舞伎町のキャバクラで出会ってからの約1年間。何かとトラブル続きではあったものの、致命的な大事件に発展することなく平穏(とも言えないが)に過ぎ去っていた時間。
だが、みいちゃんとの歪んだ同棲生活を経て、山田の中に眠っていた「エレボス人失敗作」としての異常な性質と過剰なドーパミンが徐々に覚醒し、限界を迎えて崩壊する——。
そのストーリーラインのすべてが、何者かによって計算し尽くされた「完璧な仕込み」だったとしたら?
「昔、俺の先生が言ってたんだよ」
電話の向こうで、男が煙草を吹かすような吐息とともに呟く。
「ヒーローがスカッとする活躍をするのに必要なことは、自分から『殴りがいのある敵』を用意するってなぁ」
仕込みの1年が終わり、今まさに惨劇の「本番」が幕を開けたのだ。
理想の恐怖像へと再構築され、姿を消した山田がこの先どこで何をしでかすかなど、誰にも予測できない。
その時、モモの端末に緊急ニュースの通知が舞い込んだ。画面には、赤黒い速報の文字が踊っている。
【速報】特別地区内遊園地『キチィランド』で多数の傷病者。無差別殺傷事件発生により臨時休業を宣言。
「あいつ……」
画面を凝視するモモの顔から戯け気が消え去る。
遊園地での凄惨な地獄絵図。だがモモには分かっていた。これは理性を失った怪物の無差別な虐殺などではない。
すでに裏のネットワークを通じて、現場で命を散らした人間たちの身元調査は完了していた。
倒れていた男たち——彼らは全員、かつて歌舞伎町で『みいちゃんを買った(春を売らせた)』客たちだった。
「なるほどね……『みいちゃんを穢した害虫を駆除する』ってわけか……」
理想の聖域を守るために覚醒した山田の殺意。だが、みいちゃんに関わった男など歌舞伎町の内外に何十人と存在する。当面の間、山田の牙が自分たちや直接的な関係者に届くことはないだろう。
しかし、それは決して安心を意味しない。
問題は、犯行の主体が「山田」だと分かったところで、どうやってあの化け物を捕獲すればいいのかという点だ。
全身の75%がドーパミンで構成され、快楽と拒絶のままに記憶と身体能力を爆発させる改造人間の成り損ない。事件の規模はもはや個人の手に負える境界を超えており、いくら特別地区の管理者たるモモといえど、街の枠組みを超えて万能に行動できるわけではないのだから。
「……ねえ、管理人さん? なんか嫌なニュースでも見出してるの?」
居間の床で首だけのまま土から芽吹こうとしている水仙が、怪訝そうに目を向けてくる。傍らではココロが疲れ切った顔でため息をつき、睦が静かに泥遊びをしていた。
歌舞伎町から離れたこの宮城の田舎町。
だが——ここが安全地帯であるなどという幻想は、とっくに破綻していた。
「あのさおばさんよ。これ……いつ届いた?」
モモはテーブルの端、乱雑に積まれた郵便物の中から一枚の紙片を指差した。
それは、みいちゃんや山田の過去に直結する、あまりにも無神経で不穏な通知。
『××中学校 同窓会のお知らせ』
過去の惨事も、禁忌の血脈も、狂った友情も——すべてを飲み込んだ歪んだ舞台は、逃れられない引き寄せの力で、この宮城の地をも侵食し始めていた。
——
そんでもってもう1回視点を戻して歌舞伎町、山田さんは金村を殺した際に奪った顧客リストがある。
これを片手に片手に『みいちゃんを汚した害虫』を殺すことを決意する。
山田は朱色の空の下、ただ漠然と街をさまよう。
手に入れたばかりの情報の重みなど一切考慮せず、衝動的に最初に飛び込んだ路地で目をつけた男を無造作に殴殺した。
死体から這い出した赤黒い液体が、山田の足元を滑らかに濡らしていく。生臭い匂いが鼻をつくが、今の彼女にとってはどうでもよい。
なぜなら彼女の体内を支配するドーパミンの奔流は、外部からの感覚を一切遮断していたからだ。鋭く研ぎ澄まされた五感と引き換えに、他の感覚器官は完全に麻痺していた。
店長を仕留めて真の意味で卒業した山田が殺戮の序章として選んだ相手は、普段はなんの変哲もない一般市民。山田は一瞬たりとも躊躇わなかった。
町を平然と歩く一見すると普通に人生を歩む男も、裏ではデリヘルでみいちゃんを何度も買う常習的変態であり。その手でみいちゃんに触れたことを想像するだけで、山田の脳裏を燃えるような怒りが焼き尽くす。
次なる標的は、みいちゃんを自宅に呼び出して、風俗嬢としての商品価値を嘲笑った元客。さらにはみいちゃんの自撮り写真を拡散させた掲示板管理者まで含まれていた。
山田はそれらの虐殺を躊躇なく行わせた、それはドーパミンによるものかは分からない。
誰もが気になるのは、何故この凶行に走るまでやる気のない落ちぶれた一般人として生きていた山田がそういう星の元に生まれてきたかのようにシリアルキラーとしての才能を発揮できているのか? ということだ。
山田がこれまで一度も使われることのなかったスキルが、ドーパミンによる覚醒とともに突如として開花した。
それは単に身体能力が向上しただけでなく、思考力の回転速度すら劇的に変化させていた。
山田の心臓は以前と同じように弱く、簡単に激しい運動で崩れてしまう危険性を秘めているはずなのに、今はまるでその制約が存在しないかのように強靭さを獲得している。
殺戮の過程で、山田はわずか数時間で20人以上の人間を死に至らしめた。しかも、彼女が狙い撃ちにしたのは、全員が過去にみいちゃんに関わりを持ち、人身売買やいじめに加担した者たちだった。
無差別殺人ではない。それぞれが山田の中で「みいちゃんを汚した害虫」と烙印を押され、容赦なく処刑されるべき存在として認定されていた。
みいちゃんもこの結果に笑っている、この結果を受け入れてくれる。
みいちゃんの為だから問題ない。
そうして次のターゲットを考えていたときに、豆電球が浮かんだように振り向く。
そういえば……みいちゃんには彼氏がいた。
みいちゃんがあそこまで働くようになったのも、金を必要になったのもあいつのせいだ。
自分も会った記憶があるがアレはひどい男だった。
「はーっ……殺す殺す殺す殺す殺す……」
しかし一旦我に返る、あいつは最後に消息を絶っている。
確か偽装した身分証を持って空港まで高飛びしようとするが、みいちゃんが遅刻したので結局再開することはなくそれ以降は姿も見せていない。
代わりに売られてしまったのか、それとも……?
しかしいなくなってしまったのなら殺す手間は省けるのでいいが、まだだ。
確か……まだいるではないか、みいちゃんが好きだった人。
Ephemereでみいちゃんの顧客であり、自分より前から本気でみいちゃんに恋していた男。
「確か……鈴木茂雄だったか、みいちゃんのことが好きな気持ちは今なら共感できるけどなぁ」
「でもまあ、あいつもみいちゃんを一方的に認知して愛してたんだからなぁ、殺すか」
今の山田にまともに考える力はない、もはやみいちゃんにとって害になる存在は誰だって仕留められる。
たとえそれが、一度はみいちゃんを愛したような人間であっても。
——
歌舞伎町で夜の雰囲気から少し離れた一軒家、インターホンを鳴らして扉を掴みチェーンを壊しそうな勢いでこじ開ける。
中に居たのは……いかにも、みいちゃんを指名しそうな女に縁のなさそうな男だ、この男がかつての顧客の一人、シゲオだ。
みいちゃんの同業者である山田のこともしっかり覚えていたシゲオは山田を見て驚く。
「えっ、なんで俺の家を知って……」
「話したいことがあるんだ……開けて」
これまでみいちゃんと話して、全面的に『女性』を避けていたシゲオは本能で理解する。
これを拒否するようなことがあれば、死ぬ。
——
「え!? みいちゃんが殺されたのか!?」
シゲオは驚愕の声を上げた。
元々彼とみいちゃんの付き合いは『Ephemere』を通じてのものだったが、ある一件をきっかけに、彼は店からもみいちゃんからも完全に距離を置いていた。
シゲオはもともと極端な認知バイアスを抱えており、まともな女性付き合いすらままならない男だった。そんな彼にとって、みいちゃんだけは唯一無二の特別な存在だったのだ。
しかし、彼女との関係を深め、本気で結婚まで見据えようとしたその時、彼はとある会話で突きつけられた。自分が愛していたのは本物の「みいちゃん」ではなく、自分に都合よく作り上げたただの偶像に過ぎなかったのだと。
皮肉にも、みいちゃんという少女の持つ圧倒的な異常性に直面したことで、シゲオは己の歪みを自覚し、現実の足場へと踏み出すことができた。
みいちゃんに関わった人間の中で、彼女を通してまともな人間へと前に進めた数少ない生き残り——それが今のシゲオだった。
だからこそ、いま眼前に立つ山田を一目見た瞬間、シゲオの背筋に冷や汗が伝った。
今の山田から漂う雰囲気は、かつて偶像に狂っていた頃の自分によく似ている……いや、そんな甘っちょろいレベルではない。異様で、狂気じみている。
(あっ……もしかして見ない間に、薬とか……)
まさか、目の前の女が人間離れした体質を持ち、体内の75%を支配する過剰なドーパミンによって脳を焼き尽くされかけているなどとは思いもしない。
しかし、客観的なシゲオの目から見ても、いまの山田は手遅れなほどに危険な領域へ踏み込んでいた。
みいちゃんに対して自分の身勝手な理想しか見えていないその姿は、かつての自分を遥かに超える暴走そのものだった。
そして、突きつけられたみいちゃんの死。
昔のシゲオであれば、みいちゃんが風俗に消えた件のように彼女の訃報を聞いた瞬間に狂乱し、後追い自殺でも考えていたかもしれない。
だが、いまその事実を耳にしても、自分でも恐ろしいほど冷めていた。
それはみいちゃんへの未練が消えたからと切って捨てるような、薄情な理由からではない。ただ——「死亡」という絶対に覆らない形で二度と会えなくなったのだと知った時、彼女もまた自分と同じ、命ある一人の人間だったのだという実感が、遅れて深く胸に染み込んできたからだ。
「まあ……今更関わりたくないなんていうのも違うからな、葬式は終わったの? 墓参りくらいは行かないとみいちゃんに失礼だからな……」
苦笑混じりにポツリと溢す。
みいちゃんとの間にあった時間は、客観的に見れば歪で不健康なものだったかもしれない。けれど、あの時感じていた楽しさや救いまで偽物だったと否定する気はなかった。
思い出は思い出として胸に抱き、いつか自分にももう一度素敵な出会いがあれば、今度こそそれを大切に育みたいと思えている。
みいちゃんだって、どこかでそういう良い出会いに恵まれるチャンスがあったのかもしれない。風俗を辞めて新しい仕事を始めたという噂は耳にしていたが、一体どこでどう狂って死に繋がってしまったのだろうか。
「みいちゃんってさ、風俗辞めれた後は何の仕事してたの?」
「パン屋に受かることは……出来たよ」
「そっか、知ってたら俺も毎朝パンを買って帰る程度の付き合いは続けてみたかったかもな……」
寂しげに目を細めながら、シゲオは山田の顔を見つめた。
……彼女はあれから、少しでも前に進めたのだろうか?
山田がすでに過去の全記憶を拒絶して消去し、おぼろげな記憶の中で「理想のみいちゃん」を捏造して再構成し、世界をリセットするかのように凄惨な殺戮を重ねていることなど、シゲオは露知らず——。
「山田さんって男どころか人類その物にも興味なさそうな感じがしたから、なんかそこまでみいちゃんに入れ込んでいそうなのは意外だけど……もう会えないからこそ、生きてる人は数少ない思い出を忘れないように受け入れるしかないんだと俺は思う、それがどんなに嫌な物でもその人の生きた証だから」
もし昔のシゲオなら、「みいちゃんの人生は報われないまま終わった不幸なものだ」と叫んでいただろう。
だが、今の彼は違う。その人が幸せだったか不幸だったか、その一生の価値を決める権利なんて、自分を含めた誰にも存在しないのだから。
いつか世間のほとぼりが冷めた頃、静かにお墓参りへ行き、自分の近況でも報告しよう。
そう決心して、シゲオが小さく息を吐いた時だった。
「みいちゃんにあそこまで入れ込んでいて、何をお前は勝手に自己完結してるの?」
地底から響くような、低く掠れた声が狭い玄関口に落ちた。
シゲオの固まった視線の先で、山田の顔面が歪に引きつっていた。
カッと限界まで見開かれた充血した瞳が、獲物を屠る猛獣のようにシゲオを捉えている。過剰に分泌されるドーパミンによって全身の毛細血管が浮き上がり、彼女の皮膚は異常な熱気を孕んで赤く潮差していた。
山田にとって、シゲオの「まっとうな諦観」は、もっとも許しがたい侮蔑であり、冒涜だった。
かつてみいちゃんを愛したと言い張りながら、過去として整理し、受け入れ、前を向こうとしている。
みいちゃんのいない世界で、別の誰かと出会って幸せになろうとしている。
——そんなものが、どうして「愛」だと言えるのか?
「受け入れる……? 忘れない……? ふざけないでよ」
山田の手元で、赤黒く汚れた茶髪のぬいぐるみがギチ……と強い力で潰された。
山田の脳内では、理想の「みいちゃん」が悲しそうにシゲオを指差し、泣き叫んでいる。
『ねえ山田さん、あの人みいちゃんのこと忘れて捨てようとしてる! ひどいよ!』
『分かってるよ、みいちゃん。あんなのは本当の愛じゃない。みいちゃんを汚して捨て捨てにする、ただの害虫だ』
「みいちゃんは死んでなんかいない……! 私と一緒にここにいるんだよ!!」
山田は抱きしめたぬいぐるみにうっとりと頬を擦り付けたかと思えば、次の瞬間には正気を完全に放棄した凶悪な笑みを浮かべてシゲオに一歩踏み出した。
「死を受け入れて綺麗に思い出にするくらいなら……今ここで、みいちゃんの思い出ごと砕け散りなよ」
ドシ、と床を踏み抜くような足音が響く。
まともな人間になれたはずのシゲオの上に、理想の愛を押し付ける狂気の怪物が襲いかかろうとしていた。
(ああ、そうか……俺の人生、みいちゃんにとって良かったって言ってくれるのかな……)
(親不孝なままでごめん、母ちゃん……)
人は意外と、死ぬと理解した時恐怖を感じながらも走馬灯のようにじっくり考える余裕があるものらしい。