歌舞伎町の街頭から届く報告は、日に日に惨劇の色彩を強めていた。社会から排除された者が集う特別地区において、警察機能など端から存在しないに等しい。暴走する『山田』を止める術は皆無だった。猛獣用の強力な麻酔は過剰なドーパミンの激流に呑まれてまるで意味をなさず、業を煮やして実弾が解放された際にも惨劇は加速しただけだった。異常発達した身体能力で弾丸を指先で容易く摘み止め、迎撃に向かった鎮圧部隊は一人残らず肉塊へと変えられたという。
「もしみいちゃんにとってはまあまあ悪くない関係の人間でも山田さんは殺すなら、いよいよ自分は関係ないと言えない状況になってきたか」
宮城の静けさの中で、モモがぽつりと呟いた言葉は、ココロの背筋を氷のように冷たく撫で上げた。
ココロ自身、みいちゃんに直接手を下したわけではない。だが、彼女の異常性を察して早々に身を引いたし、心のどこかでみいちゃんを見下してもいたのだ。
ココロからすればみいちゃんの被害者だったところに何もかも奪われて山田に突然命を狙われることになればたまったものではないだろう。
山田の凶行が「みいちゃんに関わった者すべて」に及ぶなら、次に肉を砕かれるのは自分かもしれない。自分が生き残るためには、あの怪物の命が完全に途絶えたことをこの目で確認するしか道はないのだ。
「あっ……銃とかで殺せなくても兵糧攻めとかあるじゃない! そこの生首だって野菜しか食べられないし、エレボス人が副作用で栄養の取り方も変わってくるなら……!」
「山田さんの場合はそうもいかないっぽい。ほら、キャバやってた頃から異食症だったじゃん」
モモは冷ややかに首を振る。山田の異食症はストレスではなく、歪んだ体質そのものに起因していた。歯で噛み砕ける範囲であるなら、どんな物体だろうと咀嚼し消化吸収してしまう。現に歌舞伎町では、捨てられた弁当を食べ尽くした後、プラスチックの蓋と容器までも何食わぬ顔で噛み砕き飲み込んでいたという目撃例まであった。
「なんか……言いたくないけど、あれからの山田さんって、どんどんみいちゃんに近づいてきてない……?」
「それ絶対に本人に言わないで。どうリアクションされてもめんどくさいことになるから」
みいちゃんを買っていた過去の客を潰してまわる山田が、いずれこの宮城に現れるのは明白だった。みいちゃんを集団リンチした半グレどもを、犯人の特定すら曖昧なまま見境なく血祭りにあげるために。
だが、その緊張を切り裂くように、モモの端末に歌舞伎町からの新たな一報が飛び込んできた。画面の文字を凝視したモモが、柄にもなく驚愕の声を上げる。
「山田さんが出生届を提出したァ!?」
この一年の間に、山田がみいちゃん以外の誰かと深い関係を結んだ覚えなど存在しない。
だが、男性を必要とせず種を遺すよう作り替えられたエレボス人の失敗作の特異性——植物と同じ原理で娘の睦を遺せた水仙の例を引くまでもなく、山田がたった一人で「命」を作り出すことは理論上可能だった。
自分と理想のみいちゃんだけの閉ざされた聖域で、狂気の果てに単為生殖で生み落とされた子供。それは果たして、どのような不気味な異形としてこの世に芽吹いたというのだろうか。
——
「ふふふ……かわいいなぁ麻美子は……」
そして歌舞伎町、山田は2012年の歌舞伎町でしか通用しない出生届を提出した後に、かなり小さいおくるみを傍らに抱いて撫でている。
山田麻美子、キャバ嬢時代の源氏名である『マミ』とみいちゃんの名前を組み合わせた忌まわしい響き。それは愛らしい赤子の声ではなく、不気味に脈動する小さな影がわずかに蠢く姿であった。
母親という立場すらも、みいちゃんと密着するための口実に過ぎない。山田は歪んだ母性愛に溺れていた。この歪んだ愛情が、これからどのような破滅的な未来を招くのかは、まだ誰も知らない。
しかし今はただ、麻美子と名付けられた異形の生命体が放つ歪な鼓動だけが、夜の帳に低く震え続けていた。
「パパなんていらない……みいちゃんとママと麻美子だけでずっと幸せに暮らしていこうね……ふふふふ……」
山田の人生はまた一段階踏み出して人を越えた領域へ……幻覚の愛人と、また別の形で人間と呼べるのか分からない我が子を両手に抱えて妖しく笑う。
「山田さんとみいちゃんの子だ! みいちゃんね、沢山の家族に囲まれてママになるのが夢だったんだ」
「叶うよ、みいちゃんの夢、私がママになってみいちゃんに沢山の家族を見せてあげるから」
──ー
「いやだよ……そんなのってないよ……」
宮城県内の郊外の街にある自宅から逃げ出し、人気のない山奥の洞穴に隠れ住んでいたココロは涙ながらに呟いた。
みいちゃんをリンチにかけた犯人たちを、山田は徹底的に潰した。ココロへの追及の手が及ぶのも時間の問題だろう。
そしてついに、追跡の網はココロを捉える。
「見つけたよ、ココロちゃん」
耳に届いた声に、ココロの心臓が跳ね上がる。振り向くと、そこにはエレボス人化した山田が佇んでいた。
山田の側には、おくるみに包まれた麻美子もいる。あのとき麻美子はココロを見つめ、何かを悟ったような顔をした。
「なんで……ここに……!」
ココロは腰を抜かし、その場にへたり込む。
山田はゆっくりと歩み寄ると、ココロの前に立ち塞がった。その瞳は、復讐者特有の憎しみに染まっていた。
「なんで……? ココロさん、あなたはみいちゃんを傷つけたんですよ……? あんなに甲斐甲斐しく勉強を教えたりしたのに見捨てるような真似をして」
「な……何が悪いの!? あれはもうしょうがないじゃない! みいちゃんは良くなりたいんじゃなくて舐められたくないだけなんだから教えたところで何も変わらないじゃない!!」
「むしろこっちはなぁ!! みいちゃんが勝手にSNS更新して私がキャバやってることバレそうになったんだよ!? こっちは優しくして何の特もなかったんだよ、ええ!? 貴方みたいに都合よく受けた被害を忘れられるほどさっぱりしたオツムしてないんだよ私はぁ!!」
みいちゃんに対して身勝手な因縁をふっかけられて堪忍袋の緒が切れるココロ、自分に関しては本当にこんなやつらに対して殺されるほどに恨まれる筋合いなどない。
だが頭がいいココロは1つ過ちを犯した、マトモな倫理観や理論などは今の山田に通用する保証などないということを。
山田はココロの怒りを首を軽くかしげるように眺め、ゆっくりと近づいて懐から包丁を取り出し、ココロを押し倒す。
「別にいいよ、みいちゃんを忘れたいなら、私がここで何も考えられないように楽にしてあげるから……」
——
「ギャアアアアアア!!!」
この世の物とは思えない悲鳴をあげて布団から飛び上がるココロ、今回の出来事は夢だったことに気付く。
まだ暑い季節とはいえ汗が止まらない、しかしコレは暑さのせいというよりはぞわっとするような感覚。
殺されかけた感覚が夢とは思えないほどにリアルに感じたものがすっと抜け落ちた途端、小腹が空くのを感じて月光に照らされながら吊り下げられた胡瓜を齧る。
ポリ……ポリ……
咀嚼する音だけが響き、噛んでいくほど涙が溢れてくる。
——どうして自分は、こんな惨めな生活を送っているのだろうか?
順当に就活に成功して、大学を卒業して、いい会社に入って、結婚して……一般的なイメージでもある幸せな人生を歌舞伎町で送ってもおかしくないはずだった。
ただしそれは社会のはみ出し者扱いされている場所での幸せ、ただちょっとプライドが許せなかった。
自分なら外に出ても何の問題もなく出られると思ったし、その為には過去を知る山田さんは少し都合が悪いとは思っていた、記憶を失ったときはラッキーと思って完全に縁がなくなると思っていたのに……。
だが現実はコレだ、一か八かで歌舞伎町から出てみればヤバい化け物に目をつけられて本当に死にかけたし、やっぱり歌舞伎町に戻ろうとすれば戸籍が消失していた。
苦労して得たはずの資格も、学歴も、内定も……人生そのものが全て塵となり、果てにはこんな田舎で細々とした形で怯えて過ごす。
自分が築き上げてきたものは全部無駄になり、みいちゃんを見下していたのが生活環境も彼女に匹敵するようなものになった。
地元の店をほとんど出禁にされた彼女と買い物も金稼ぎも出来るか怪しい今の自分、どっちが立場は終わってるのか。
だがどっちにしてもキラキラした未来になれるはずと信じていたココロを折るには充分すぎるものだった。
「どうして!? なんで私がこんな目に遭わないといけないの!? 私はただ幸せを努力して掴んだだけなのに! みいちゃんに対しては、こんな風にはなりたくないって思っただけなのに!!」
「……憎いのね、実衣子のこと」
気がつけば彼女の隣に水仙が座っていた。
首から下の肉体の栽培が終わったのかしっかり繋がった状態だったが……まだ調子が合わないのか首を鳴らしたりシャツのサイズを整えるように入れ直したりする。
「睦の人生はどこで間違えたのかしらね……あんな女が友達じゃなければ、もっと幸せだったのかしら」
「その……貴方の娘も正直……大っぴらに言えないけど問題はあったように見えるのよ、みいちゃんほどじゃないけど」
「そんなの承知の上よ、それでもこの場所には理解のある人も多かったのにね」
「それで言えば……みいちゃんって睦ちゃん以外に友達いたの?」
「あの女から友達の話なんて聞いた?」
「まあ、そういうことよね」
憎んだり憎みあったり喧嘩したりずたずたにしたり、みいちゃんを通して関係を持った二人。
これは腐れ縁なのかただの傷のなめ合いなのか判断が難しいが、ココロも水仙もまだお互いに気を許したわけではない。
しかし確実にみいちゃんを通して何か惹かれるものが確かの存在した、山田は怖いがあんな奴に易々と殺されてたまるかという気持ちもある。
今、自分達にとって脅威になるのは……宮城で中学の同窓会に誘われたこと。
それが山田に知られたらまた逆鱗に触れて血のパーティーになる、しかし睦は参加しようとするだろう。
……今はもう、これしか方法がない。
「そうだ逃げよう、みいちゃんの地元から遠くに行けば!!」
「遠くに行ったとして……貴方や睦を受け入れてくれるような場所なんてあるの? 軽く言わないで」
実際逃げたとしてどうなる? 追いかけてくるかもしれないし、どこまで情報を辿られるのか……。
しかし今日は夜遅いので眠ろうという時、ココロは水仙の手を握る。
「怖いから一緒に寝て!」
「貴方……何歳になったと思ってるの……」
「貴方の娘と同じくらいよ!」
——
そして、同じ日の夜……山田は!
山田の自室の床は、白と黒の線画で埋め尽くされていた。
ターゲットを仕留める僅かな時間以外、彼女は憑かれたようにペンを走らせ続けていた。
かつて一晩で1作品数十ページのプロットを描き上げた時の比ではない。
爆発的に分泌されるドーパミンの激流に呑まれ、数百ページを超える原稿用紙にみいちゃんとの思い出を描き殴っていく。それは現実から遠く離れ、拗れ、穢れ、歪み切った禁断のラブロマンスへと変貌していた。紙片の上で、理想の「みいちゃん」が新しく形作られていく。傍らでは、単為生殖で生まれた麻美子が泣き声一つ上げず静かに眠っていた。理想の愛から産み落とされた、実に良くできた娘だった。
「みいちゃんもっと子供が欲しい!」
幻覚のみいちゃんが甘えるように強だだを捏ねる。山田は狂気の瞳を爛々と輝かせながら、ペンを止めることなく返した。
「もう少しだけ待ってね……全部終わる頃にはいくらでも相手してあげるから……今はただ、麻美子の行く末がどうなるか、そしてみいちゃんをどこまで皆に伝えられるか……!!」
山田は凄まじい勢いでページを使い切っては新しい物にまたみいちゃんへの想いを吐き出していく。
山田はここしばらく不眠不休の日々が続いていた。日が落ちれば「害虫」を狩り、日が昇れば漫画を描く。
脳を焼き尽くすドーパミンのせいで意識は冴え渡り、数日間不眠でも疲労を感じない。頭蓋が割れるような激痛が走っても、手と思考を止めることは出来なかった。
そうして行動していたところに、ベッドからみいちゃんの手が伸びて招かれる。
「山田さん、寝れないならみいちゃんが一緒に寝てあげるよ」
その声を聞いた瞬間、山田の脳内で理性が音を立てて溶けていく感覚がした。
「みいちゃん、ねえみいちゃん、駄目だよそんな真似したら……そんな風に誘ってきたら私……私、何をするか本当に分からないよ……?」
狂おしい衝動のまま布団へ飛び込み、愛しい偶像と共に抱き合って包み込まれていった……。
——しかし、翌朝。過剰に巡り続けていたドーパミンが急速に底を突いた。極限まで酷使された肉体には二日酔いを遥かに超える地獄のような体調不良が襲いかかり、顔の至る所から体液が溢れ出して止まらない。
みいちゃんの幻覚も消え去り、猛烈な虚脱感とやる気の低下でベッドから起き上がることもままならない。
「今日は何も出来そうにない……明日からドーパミン出しすぎないように練習するか……ああー失敗した失敗した失敗した……」
意識を失うように二度寝に落ちた山田は、そのまま何日間も眠り続けていた。その間にも裏では彼女の確保計画が進められていたのだが、睡眠中の彼女は体の機能が停止しているのか、全身が固形化してダイヤモンドのように硬く重機のように重い。まるで一度止まったら何が何でも動かないと言わんばかりで、持ち出すことすら不可能な状態だった。
ただし……数日後。
「山田さん!! 山田さんっ、起きてよお!」
切迫したみいちゃんの悲鳴で山田は目を覚ました。薄開いた視界の中で再びドーパミンが巡り始め、みいちゃんの幻覚を認識できるようになるが——。
「麻美子が……麻美子が悪い人に連れてかれちゃったよお!!」
「はあ!!?」
——
「はい、もしもし?」
「私の麻美子をどこにやった?」
「へぇー、あの子麻美子って名付けたんだ、キャバ嬢時代の源氏名を娘の名前にするのは可哀想じゃないかな」
「そういう文句聞きたくないんだよクソアマ、私とみいちゃんの娘にまで手をかけてただで済むと思ってんのかって話をしてんだよ」
それから昼になってモモの所に山田が連絡を入れてくる、当然それは麻美子のこと……長い間寝過ぎていた自分にも非はあるが、こんなことをするような人間なんて心当たりは一つしかなかった。
「なんてたって三世代目のエレボス人は未だに前代未聞だからね〜、成功例の方なんて全然子供作ろうとしないしさぁ、そりゃ回収するでしょ」
「貴方ってエフェで同期だった頃から思ってたけど……本当に性根腐ってるよな?」
「アハハッ、よく言われる〜でも私はどこにいるのかは知らないよ」
「はあ!?」
これは挑発でも嘘でもない、モモはただ連絡を入れただけだ。
このエレボス人に関することへの専門家、日本に独立した都道府県最新にしてこの東北地方から近い場所……この改造人間の下りが始まった元凶とされる場所。
『白革県』
「麻美子はそこにいるってことでいいの?」
「そうなんじゃない? モルモットになってないといいね」
ブツリと電話が切れる、完全に怒りを買った形になるが自分がやれと言ったわけではない……しかし意識することは変えていかなくてはとモモも田舎の小さな家で考える。
これでひとまず山田を白革県へ誘導することが出来た。
だが、その後のココロたちの行動も……全く予想できないものだった。
翌朝、山田の脳内を支配していたドーパミンの奔流が収束した。狂気の極限状態から解放された彼女は、深い虚脱感と倦怠感に苛まれながらも、なんとか身を起こした。昨日までの怒りも焦燥も幻聴もない。ただ、全身が鉛のように重く、頭の中には何も浮かばない。無気力だけが支配していた。
——だからこそ、余計に耐えられなかった。
愛しい麻美子の不在。それは、現実世界に引き戻された山田にとって唯一の拠り所を失ったことを意味していた。
「ふざけるなよ……」
掠れた声が漏れる。怒りでも、恐怖でもない。純粋な、感情の欠落した声だった。
ベッドの横に置かれていたはずのおくるみはない。代わりに、モモからのメールがスマホに残されている。
『白革県はフツーに行けないから迎えは用意しておくよ、まあ生きて帰れたらいいね』
それは事実上の宣戦布告にして静かな殺気。
空からヘリコプターが降りてくるのが見え、山田はゆっくりとそれを見上げる。だが、操縦桿を握っている人間の顔までは判別できない。ただ、モモは最後の最後まで山田の前に出るつもりはなさそうだと確信した。
山田は全てを悟った。自分が野放しにされていたのは最初から、この巨大な組織の実験台に過ぎなかったのだと。
人生の全ては常に誰かの掌の上だった。自分の狂気さえも、彼らの目的を達成させるための壮大な実験の一環に過ぎなかったのだ。
全ての希望が、絶望よりも深く冷たい感覚となって山田を貫いた。
山田は静かに立ち上がり、ヘリコプターが着陸する地点へ向かう。その足取りに迷いはない。ただ、何も感じないだけだ。
白革県へ向かう道は、想像以上に困難を伴うだろう。だが、今の山田には乗り越えるべき障害もない。なぜなら、もう何もないのだから。
「ああ、名前書くのか……へぇ、この歌舞伎町に入ると戸籍が作り直されてるから、ここを出たら無いようなものなんだ」
「ええ、大丈夫です、名前はもう思い出してますから……ええ、私の本名は……」
「山田美咲、私も昔は『みいちゃん』って呼ばれてました」