歌舞伎町は、もはや「社会から排除された者の収容地区」という形すら保てなくなっていた。
2012年のまま固定された街の各地で、本来そこにあるはずのない「揺らぎ」が目撃され始める。
山田の脳内から漏れ出した狂気の残滓か、あるいは歪んだ愛が凝縮された何かか。山田の抱く「理想の愛人」という枠組みを軽々と飛び越えたみいちゃんの影は、周囲の人間にとっても薄ぼんやりとした実体として認識されつつあった。
しかし、それは決して救いをもたらす神聖な存在でも、怨念で動く単純な悪霊でもない。人間に許容できる理解の限界を超えた、名付けようのない「異形」そのものだった。
閉ざされた街から脱出しようと叫ぶ者たちは絶えない。しかし、現代社会から切り離されたこの特別地区からの退出など、最初から許されてはいなかった。すでに何十人もの命が理不尽に散っており、住人たちに事態を静観する余地など残されていない。
——同時刻、裏から街を監視する桃花は、画面越しに白革県のシエルへ報告を入れていた。
「もうあそこは私の手には負えない感じですけどどうします?」
「歌舞伎町は放置しても構わん、はみ出し者の収容所と化した歓楽街が機能不全になったところで支障はない」
「まあそうなりますか、じゃあ私はしばらく管理者のまま……」
もとより白革県側の人間である桃花にとって、歌舞伎町はただの実験場であり、使い捨てのテリトリーに過ぎない。日本本土にどんな惨劇が及ぼうと知ったことではなかった。
だが、現象は歌舞伎町の外へと波及し始める。目立ちたがり屋の影響と思わしき日本各地から届く「みいちゃんらしきナニカ」の目撃証言。防犯カメラに映る人々の中で、逃げ遅れた者は一瞬で犠牲となり、奇妙な「何か」を正視してしまった者だけが命を拾っていた。
そして、桃花たちは一つの恐ろしい結論に達する。生前の「中村実衣子」を少しでも知っている人間には、あの偶像の姿を見ることすらできない。
つまり、みいちゃんの故郷である宮城に奴が降り立てば、誰もその姿を捉えられないまま一方的に解体される、一方的な惨劇の場と化す。
だが必ずしも絶体絶命という感覚でもない、相手が幽霊ではなく化け物に近い存在なら息の根を止めることも可能ということ。
この地元を犠牲にする勢いで仕留めにかかれば、もしかすれば……。
しかし宮城の榎本家でその事実を知らされたココロは、絶望の淵に突き落とされていた。どこへ逃げても姿なき死が追いかけてくるのなら、逃亡など無意味だ。だが、相手が「幽霊」ではなく殺傷可能な「化け物」、あるいは元凶であるなら——
ココロは血のにじむほど唇を噛み締め、沈み始めた太陽の下で激しく震える拳を握りしめた。
「私が死ぬ前に山田さんを殺すしかない……」
ココロはもう普通には戻れない、たとえそれが人道から外れた選択肢だとしても、もはや自分は普通の生活を送れない……。
家においてあった包丁を握りしめるが……その手を少し熱い手が止める。
いつの間にか、花火がココロの手を止めていた。
「やめなさい、貴方のような人が手を汚すことないわ」
「手を汚す……誰のせいだと思ってるの!! 誰のッ!!!」
しかし、夢の時のように激怒したココロはその手を払い花火の顔面に鋭いビンタを叩き込み、よろけてテーブルをひっくり返す勢いで倒れ込む。
山田に付き合わされてからろくなことがない。
「貴方がちゃんとした教育を山田さんにしておけばみいちゃんと出会うような環境にはならなかったでしょ!? いまどき勉強一筋でいい大学に行けたぐらいで幸せになれると思ったの!?」
「うるさいわね小娘!! 頭いい子ぶってるくせに貴方もみいちゃんと同じキャバで働いていたそうじゃない!!」
「それどっちのみいちゃん!? どっちのみいちゃんでともわりと許せないんだけどその発言は!!」
「やめなさいこんなところで、死ぬ早さが変わるだけよ」
殺し合いが今にでも始まりそうな花火とココロを、アサガオのツルのようなものがからめとって引き離す。
後ろから種を植えている水仙が色々と仕込んでおり、桃花も後ろで待機している。
「大総統様がさ、結構面白いことを昔言ってたんだよね……この時代、誰一人として生きてて救われた奴なんていない、共感しちゃったな~、私も管理人になったりエフェで働くまで色々あったけどいい思い出なんて全然なかったかな、皆も無かった?」
桃花曰く、ここで生まれ育った人たちに幸福は無い。
いや、正確には運命のいたずらに悪用されて『大切な物』を掴むことが出来なかった奴らばかりだ、大なれ小なれ……そのせいで人生が潰れてはいないが、ぽっかりと開いた手遅れの穴。
ここで生きている奴はそうやって過ごしている、シエルは人生の中でそう結論付けた。
その『大切』とは何か? と聞いた時には答えられられなかったが、桃花は共感したからこそ2012年の歌舞伎町の管理者になったという。
「じゃあモモさんはどうして、大切なものが欠けてると思ったの?」
「さあ? それを知りたいからあの仕事してるけど案外エフェの方が楽しくやっていけたんだよね~、もしかしてあの仕事をやっていた事の方がおかしかったりして……」
思い返すような桃花の発言に、水仙が共感するように答えた。
「それだったら私も心当たりがあるわ……花火さんも同期なら覚えがない? ほら、桃の園の講師に……」
「……思い出したくもない奴がいたわね」
水仙と花火がまだ学生だった頃、桃の園で変な講師が居た。
軍服みたいな感じだがなんというか言葉にするのが難しいような本当に凄い恰好、若々しいが年は結構いってるとか。
だが恰好以上に授業も印象深く、1にカワイイ100にカワイイを重視した、いかにもバズって目立って派手なことを重視するような、あの学校の雰囲気にはあっているが……思い出しながら花火は鉛筆を指の圧力だけで折る。
「私が一番嫌いなタイプの女だったわ……確か、阿良河……そんな苗字していたわね、あいつが何?」
「私、あの人からこんなぼやきを聞いたの」
……
『あ──ー! すっげぇつまんね! これなら前みたいに魔法少女ぶっ飛ばしてた頃の方がよっぽどやりたい放題出来たよ!』
『……もしくはアタシがつまんねぇ女のままなのかな、あの時あいつがカワイイとか言ってくれたら……いや、ないか、あいつはそんな性格じゃないし、あいつのことはそこまで……』
『……というかアタシ、なんでずっとあいつのこと覚えてんだろ?』
——
「案外その大総統さんとやらの発言も的を得ているかもしれないわね……みんな、みんな記憶に骨が詰まったような引っかかるような体験をしている」
「……じゃあ肝心な、山田さんは?」
みいちゃんと山田さんのコレまでの体験を思い返す、キャバ嬢として運命の出会いを果たした2人。
この間にもみいちゃんはトラブルばかり起こしてココロはこの時点で被害を被って見切っていたが、さらに暴力沙汰を呼びかけないことに繋がり、みいちゃんはあの店長に売られて風俗へ……それも山田が回収するが、花火に会いたくない一心で同棲を提案するもすぐに破局……。
どこをどう見ても問題しかない体験だが……。
「山田さんはほら、今からって感じじゃないの?」
「今から……ねえ」
もしも、山田美咲の人生がぽっかり開いていたとして……どのような失敗を演出するのだろうか?
「……で、そんなことは長々と言わなくていいの! 私たちはどうやってみいちゃんをなんとかするのかってこと!!」
「宮城を火の海に変えることになるけど……あるにはあるわよ」
——
一方その頃、歌舞伎町は……いつの間にか清掃も済まされて、山田とみいちゃんはまた悠々と散歩をしていた。
特に何かやりたいわけでもない、ただ赴くままに歩くだけで……街の人々は彼らの事を全く気にしていない。
「この世界がずっと続けばいいのにね、みいちゃん」
「ええ~、でもそれだと退屈になっちゃうもん!」
「じゃあ、こうしようか、この世界を広げよう、東京全体に、いや関東全体に拡張して……いつかは日本のどこに行っても私とみいちゃんだけの場所にしようよ!」
「すごいよ山田さん!」
「でもなんだか……これじゃあ世界征服と変わらないか、麻美子以外にも」
冗談っぽく語る山田の目は本気だ、全ての人の時計は止まり、日本中の至る所は山田が思い描いた2012年に染まる。
そんな光景に、みいちゃんは高揚した笑みで応える。
もはや彼女達はこの街では抑えきれないほどの怪物になりつつある。
みいちゃんはいつものような雰囲気で、少し前まで血塗られていたところを歩く。
「ねえ山田さん、将来を占ってもらったことある? よく当たるって話題なんだって! みいちゃん占ってもらったら日本中で人気者になれるって!」
「ああそれ? 私もやってみたけど……太って痩せてを繰り返しながら漫画家になって……30歳くらいで亡くなるとか言われたよ? だから信じてないかな」
「ふ~ん、じゃあそん時はみいちゃんが一緒に死んであげる!」
「いや、みいちゃんはもう……あれ?」
みいちゃんは死んで、いや、生きている。
ここにいる、でもここにいるのは本物が亡くなったから、いや、本物はあれれ?
山田は都合の良いみいちゃんを作ってきた、しかしその過程でみいちゃんの死を利用することもあった。
生き物は時に死に向かうことを恐れない為に幸福という快楽物質を摂取する。
では、『死』からも外れてしまったみいちゃんは一体どうなってしまうのか?
この世界線では『終わってしまう』と幸せが待っている、しかし山田さんは引きずりすぎた。
山田はみいちゃんを死んだままにすることを拒んだ、みいちゃんが死んで始まるお話で始まりさえも否定しようとした。
「みいちゃ……」
もともと不完全に傲慢に作られた世界がバグり始め、空にノイズが走る。
どこまでが山田とみいちゃんが歩むべき世界なのか、そもそも、2人はこの先何に向かって歩いていくのか。
二人は答えが見えない、しかしみいちゃんは唐突に……山田を押し倒した。
「あっ、危ない!」
その瞬間、山田がいた所へ巨大なトラックが突っ込み、建物を破壊しながらも止まらず、最後はガードレールに突っ込みながら急停止する。
トラックの運転手は……運転席ごと血まみれになり、中身は粉々になっているのだろう。
だが山田は咄嗟の事で何も反応できず、ただ呆然とする。
「ねえ山田さん、もしさ……みいちゃんがもっと大好きだったら、山田さん死んじゃってたよ?」
「みいちゃん……?」
山田はなんとなく感じた、みいちゃんは山田に死んでほしくないのだ。
だから何度も目の前に現れた、どんな状況でも助けに来てくれた。
しかし、それはもはや「人」としての干渉ではない、人の範疇を超えた執着と、強引な愛の形だった。
多分……あの占いみたいに自分は早いうちに死んでしまうのかもしれない、デブになって死ぬのは御免だが。
「随分と楽しんでるみたいだね、山田さん……いや、美咲さんっていうんだっけ?」
そんな雰囲気を邪魔する影が一つ……。
「中村……祐太郎っ!」
すっかり忘れていた、突如宮城で会い、みいちゃんの父親を名乗っていたのだがその実体は血縁関係すら否定されていることまで把握している、つまりこの男はみいちゃんと全く関係ないくせに……自分に絡んできた。
何故みいちゃんに対してそんなことをする必要がある?
そして、空想のみいちゃんも祐太郎を見ると目を合わせようとせずにそそくさと麻美子を抱えて去っていく。
「みいちゃん、ハムカツに餌を上げてくるね!」
「……へえ、君面白いもの抱えてるね」
「君だって気づいているんだろう? 幻覚が赤子を抱えて移動なんて出来る時点で妙って」
「……何か文句あるの? みいちゃんはあそこにいる、あと少しであっちがみいちゃんになるんだ」
「へぇ……」
冷静を取り戻し始めた山田の脳内で、ドーパミンの異常分泌による甘やかな霧がゆっくりと晴れていく。
周囲が鮮明に見えるようになるにつれ、自分が置かれた異常な現実が輪郭を帯びてきた。しかし——どれほど思考が澄み渡ろうとも、目の前には変わらず「みいちゃん」が存在していた。
ただの脳が見せる幻覚や妄想だと思おうとすれば、そこには確固たる実体のような触感がある。さっき手を触れた時、そこには確かに、生前のあたたかみと柔らかさを持った「みいちゃん」がいた感覚が残っていた。
だが、その存在はすでに山田自身のコントロールすら完全に離れている。
自分が麻美子を取り戻すために白革県へと向かい、歌舞伎町を離れていたほんの数時間のあいだ。山田自身の手を介さずとも、現地に残っていた中村実衣子の関係者たちは漏れなく血の海へと沈められ、息絶えていた。
自分が認知もしていない、顔すら思い浮かべられないような相手すらも、こちらの「みいちゃん」は一方的に報復を果たしていたのだ。
これは、自分がみいちゃんという存在を忘れられなかった結果なのだろうか。
彼女がこの世に生きた証を強固に残そうとするあまり、歪んだ脳の防衛本能が、本来の「理想の愛人」という枠組みを超えた異形の怪物を作り出してしまったのだろうか。
疑問が渦巻く中、山田は目の前でうそぶく男——中村祐太郎を凝視した。
なぜ、まったく無関係なはずのこの男が、事もなげに自分の前に現れたのか。
「そういえば……あの変な基地を歩くときに、資料を拾って盗み見たことがある……」
思い返せば、新国家保安部隊の研究施設で目にした膨大なデータの中に、奇妙な記述があった。
世の中で凄惨な事件や異変が起きるたび、頻繁に姿を変え、名前を変え、世界を波乱へと導くヒーローのようにあろうとした男。決まって事件の中心人物の身内や関係者になりすまし、いつしか都市伝説として噂されるようになった存在。
その名は——。
「そう、俺がこの物語の『目立ちたがり屋』だ」
男は事もなげに笑い、言い放った。
中村祐太郎こそが、その「目立ちたがり屋」の正体だった。そうでなければ、あんな問題だらけの中村実衣子の父親なんていう、誰もやりたがらないような損な役回りを自ら引き受けるはずもない。
「まあ、今回は勝手が違ったけどね」
祐太郎は肩をすくめ、煙に巻くような口調で続ける。
「過去の『俺』が色々と手探りで失敗したケースも多いから、今回はただ観察に徹してもらったんだ」
本来のシナリオであれば、みいちゃんと山田が出会った瞬間から介入し、派手に舞台を掻き回すはずだった。しかし今回は、みいちゃんが命を落とすその瞬間まで、何もすることはなかったのだという。
自らはただの経過報告に徹し、観測者として記録を残す。すべては、みいちゃんという存在を後世へと繋げ、永遠に刻み続けるために。
「生きた人間は基本的にはたった100年ぐらいしか歴史に踏ん張ることは出来ない。影響力だって目減りしていく微々たるものだ。だが——『噂』は違う。今の時代なら人間の寿命をはるかに超えて残り続け、都市伝説として拡散される。そうなれば、この世界に与える影響は計り知れない」
「そうして生まれたのが……あのみいちゃんとでもいうの……?」
かすれる声で問う山田に、祐太郎はどこか満足そうに目を細めた。
「ちゃんとみいちゃんを一人にしないように、『山田さん』って名付けて都市伝説にしたつもりだよ」
そこまで語ると、祐太郎は満足したように深く息を吐いた。
すでに彼の役目は終わったのだ。これから先の未来、自分とは別の『目立ちたがり屋』が幾人も現れ、何百年先にも物語は紡がれていく。その無数の破片のうちの1つが、ここで静かに果たされたところで、世界の理には何の支障もない。
ただ、山田美咲という一人の人間の人生が崩壊したあとに、少しの時間だけが残されたというだけだ。
「じゃあね、山田さん」
一瞬の静寂ののち、祐太郎の姿は影が解けるようにどこにもなくなっていた。
あとに残されたのは、不気味なほど静まり返った歌舞伎町と、ポツンと佇む山田一人だけだった。
「……帰ろう」
小さく呟き、歩き出す。
だが、山田の目に映る街の景色は、かつて見慣れていたはずのものとは大きく違っていた。
体内のドーパミン分泌量を緻密に制御し、コントロールできるようになった代償として、彼女はもう、異常な快楽の波に思考を麻痺させることができなくなっていた。甘美な夢から覚め、見たくもない現実の輪郭が容赦なく視界を侵食してくる。
足を一歩踏み出すたびに、自分がこれまで犯してきた罪と責任の重さが、鉛のように身体へとのしかかる。
押し潰されそうなプレッシャーに耐かね、今更になってドーパミンの量を強制的に増やそうと試みても、すでに過剰な快楽に慣れきってしまった肉体はまったく反応を示さない。幸福感も、麻薬のような興奮も、二度と湧き上がってはくれなかった。
振り返ることも、逃げ出すことも許されない。
山田に遺された道はただ一つ——自分が快楽の果てに産み落としてしまった「あのみいちゃん」を背負い、この地獄のような現実を生きていくことだけだった。
重い足取りで、かつて二人が暮らしていた家へと辿り着く。
部屋に入ると、脳が焼き切れるような激しい幻覚自体は、もう見えなくなっていた。
それなのに——「みいちゃん」は、変わらずそこにいた。
ソファーの傍らで、麻美子を抱えて微笑んでいる「それ」。
それが化学反応の産物なのか、世界を侵食する都市伝説の具現化なのか、あるいは自分が作り出した概念そのものなのか、山田にはもう判別がつかない。声をかける気力すら起きなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
理由がどうであれ、みいちゃんが自分のすぐそばに佇んでいるというその事実だけは、昔から何一つ変わっていないのだ。
揺らめく影を見つめながら、山田は静かに問いかける。
——あのみいちゃんは、今、生きているのだろうか?