ドアを開けると、そこにはスーツを着こなした同年代と思われる黒髪の女性が立っていた。
十二郎から連絡を受けてやってきたという彼女はどこか投げやりで、この場所や私という存在に関わること自体を酷く嫌がっているように見えた。
「あまりこの名前は使いたくないけど……私のことは『ココロ』と呼んで、覚えはある?」
「いや……全くない」
山田が申し訳なさそうに頭を振ると、ココロは小さく溜息をついた。
『山田』としての自分や、亡くなったみいちゃんの存在。このココロという人物が、長居を拒み関わりを避けようとしている態度からも、十二郎から聞いたみいちゃん像からも、彼女がみいちゃんに対してあまり良い感情を抱いていないことが察せられた。
それでもこうして自分のもとに足を運んだのは、十二郎からの強引な要請があったからに他ならないのだろう。
「ねえ、別にみいちゃんに何があったのかこだわることもなく、自分の記憶を取り戻す方を優先したほうがいいと思うけど」
ココロは呆れたように私を見つめ、関わりを絶つよう暗に促してくる。けれど、私の決意が揺らぐことはなかった。
「ただ思い出すだけじゃダメなんだよ。何か危ない目に遭ったなら私の為にもなるし……それに、みいちゃんが可哀想だから……」
「可哀想ね……確かに記憶を失う前から、山田さんはみいちゃんと親密だったところはあるけど……」
ココロや十二郎から見たみいちゃんがどれほど悪印象だったとしても、みいちゃんの何がそこまでの惨劇を引き起こしたのかを知る必要が山田にはあった。
その答えがどれほど険しく厳しいものだったとしても、それを見過ごしてしまえば、自分自身を取り戻すことすらできなくなってしまう気がしたからだ。
山田は意を決して、みいちゃんの周辺を探るための問いを投げかけた。
「みいちゃんってどんな仕事してたの? 私と同い年ぐらいに見えるけど……」
「最後に私と会ったときに、山田さんからパン屋のアルバイトに入ることが出来たって聞いたけど……」
「……その前にも何かやってたりしてない?」
「……いずれ知ることになるなら、私がここで黙ってた方が印象悪くなるわね。これが貴方の知りたかったみいちゃんよ」
ココロはポケットから1枚の名刺を取り出した。自分が大事に持っていたわけではなく、十二郎が回収して彼女に手渡していたものらしい。
そこに刻まれていたのは、『Ephemere(エフェメール)』という洗練されたロゴと、夜の街を感じさせる店舗の案内だった……それは、みいちゃんの……。
「みいちゃんってキャバ嬢だったの!?」
「はあ……正確にはみいちゃんだけじゃなくて、貴方と私もよ。3人とも既に辞めたけど……」
「え……私も……?」
突きつけられた現実に、山田の思考が一瞬フリーズする。
新たな情報が見えてきたとはいえ、それと同時に謎はさらに深まっていく。この山田自身もかつて『Ephemere』で働き、何かしらの理由でその夜の世界に身を投じていたということだ。そしてみいちゃんも、ココロも。
その上で自分もみいちゃんも後に店を抜け、昼の別の仕事に就いていた。生活を改善させようとした形跡はあるものの、なぜ3人ともそこを去らなければならなかったのか。
情報源が見つかったとはいえ、一度辞めた歌舞伎町のキャバクラへ安易に足を踏み入れるのはあまりにも危険が大きすぎる。
もしもそこに危険な裏の繋がりや悪意が潜んでいたとしたら、無防備な今の自分がみいちゃんの死を詮索したところで、命がいくつあっても足りない。
(まだここを調べるには危険だ……)
手元に残された数少ない手がかりと、急速に広がる暗雲。
みいちゃんと『山田』という自分が抱える闇は、想像以上に深く、冷たいものだった。
名刺だけ渡すとそそくさとココロは荷物をまとめて逃げようとしていた。
「……これだけは言っておくけど、私がエフェで働いていたこと、私が聞いたことを周囲に話すようなことしたら私許さないから、山田さんのことだってブロックしてるし」
「それを堂々と私の前で話すのは何故?」
「記憶喪失って、思い出した時には今度は『貴方』の存在も消える、全て解決すれば山田さんともやっと他人になれるんだから」
ココロは自分の過去を捨てたいようだ、思い出も、みいちゃんのことも、山田も……みいちゃんが亡くなって自分の記憶がない今、ようやくココロにとっては自分にとって楽になれる場所を探したわけである。
「じゃあ、ココロって意識して呼ばないように気をつけるから本名だけでも教えてよ、どうせあなたの理論だと最終的に忘れることになるから」
「自分の本名より先に私の名前から知ろうとするんだ……絶対に、嫌」
山田は悟った、自分は分からないがかつてのこの体、この記憶の時にはココロに舐められていたのだろう。
なんらかのコンプレックスを刺激するのか、それとも山田やみいちゃんが特別ココロに嫌われているのか。
だが、裏を返せば……ココロは自分に対して無関心ではないということだ。
出ていく寸前のココロに対して山田は問いかけた。
「あのさ、ココロちゃんはそこまで外面気にして就職もしたならなんでわざわざ夜職なんてしようと思っ……」
山田が言い終える前にココロが振り返っていた時の気迫で何も言えなくなる。
まさに触れられたくない領域に土足で踏み込んだような、知られたくない所から逆鱗をなぞったような……先ほどの雰囲気とはまた違うような、その形相……もしココロがカタギじゃなかったら、もしかしたら包丁でも投げ飛ばされて無理矢理黙らされていたかもしれない。
「ねえ山田さん、貴方がみいちゃんの事気になって個人で調べてるなら好きにすればいいよ? でもさ、私は違くない? 私はもうみいちゃんに関わりたくないし、向こうでもそんなたいした付き合いじゃないって言ったよね?」
「あんな子に付き合わされるほど私は今ヒマじゃないの!! これ以上関わらないで!!!」
決別のように叫んでドアを張り裂けて折れそうなほどに強く締める、関わるなといわれても恐らく十二郎が勝手に連れてきただけだし何とも言えない所はあるが……あの様子ではとても有益な情報はつかめそうにない。
すると今度は今でもエフェで働いているような古参のキャバ嬢だろうか? だが外面はまともそうなココロにも発言次第であんなっことになるのだ、気を付けなくてはならない。
(まあ……それにしたって私、めちゃくちゃ嫌われてるみたいだな……)
もちろんココロを焚き付けるような発言にも理由がある、自分のやった行動に対して気付かれないように気を紛らわせる必要があった。
実は山田は、ここまでの間に彼女の鞄をスリのように手を伸ばして名刺を抜き取っていたのだ……ただし取り出せたのは奥底でクシャクシャになっていたゴミのようになっていたEphemereの名刺、つまり書いてあったのは『ココロ』だ。
「ああ……源氏名か、みいちゃんのも聞いとけばよかったかな」
まさか『みいちゃん』がキャバ嬢としての名前なわけもない、だって十二郎は彼女を『中村実衣子』と呼んでいた。
本名に近い名前で仕事をするわけも無いし、二人揃ってプライベートで深い付き合いもあったぐらいには仲が良かったのだろう、うんきっとそうだ。
しかしその場合山田はどうなのだろうか、山田という苗字なんてはっきり言ってかなりありふれたものだ、キャバ嬢なら普通に彼女に対して偽名を使った可能性も出てきた。
……いや、それでも。
「違う! 私は山田だ……キャバ嬢だからってみいちゃんを疑うなんて失礼だ、きっと私はちゃんと山田……みいちゃんの友達……」
鏡の前でみいちゃんとの写真を見ながら、自分に言い聞かせるように呟く山田。
失われてしまった彼女の大事な情報源たる彼女を悪く言いたくなかった。
「Ephemereの事は……十二郎さんに調べてもらおう……今の私に出来る事は……みいちゃんのために……何かしろ……」
十二郎はみいちゃんのことまではっきりしていたので、エフェメールの住所はわかっているはずだ……。
問題はそんな山田よりもずっと昔からずっと長くみいちゃんと付き合っていた人物に当たること。
そう考えていた時、ようやく扉が開いて今度こそ本題の人間がやってきた気がした。
「十二郎さん、あの……」
「いや、例の彼じゃないよ」
「へ? でも……え?」
目の前には水色の髪をしたいかにも水商売をしていそうな女性が来ていた、そして山田は彼女に見覚えがあった気がする、ココロが見せてくれた店の写真に……そう、こんな人物がいたじゃないか。
その人もそれを見て妖しげに笑いながら隣に座ってくる。
「私は桃花、エフェじゃ『モモ』でやってるよ」
「……貴方は本名教えてくれるんですね」
「別に私はアンタに公開されたところで困るもんじゃないからね、あの子みたいに光がある奴らと違って」
ココロに対して皮肉っているのか、それとも別の形で見下しているのか分からないが嘲笑うようにモモは答える。
間違いなく彼女は自分やみいちゃんが抜けた後にもあの場所で働いている人間、きっと自分達よりもエフェの詳しい情報を知っているはずだ。
そしてココロには悪いが……彼女から教わるつもりなど毛頭ない。
「すいません、まず初めにココロちゃんの事をちょっと触れてたみたいだけど、教えてもらってもいいかな」
「知ってるんじゃないの? ココロちゃんがこの界隈からはもう足を洗ったことぐらい」
「でも彼女、ちょっと触れちゃいけない所に触れたからか凄い怒られたんですよね、それで何も聞けずに終わっちゃって……モモさんから見てみいちゃんって向こうじゃどんな人だったの?」
「へぇ……まあそれなら教えてあげるよ、みいちゃんはさ、ウチの店には本来いられない子だったわけよ」
モモによれば、みいちゃんは他のキャバ嬢との付き合いが悪くてあまり仕事や稼ぎに対して頑張りこそあるがそれが空回りしてミスばかりでいい所なかったという。
当然のようにお客様に対するサービス精神も斜め下の方向、給料はあんまり貰えてないし、同僚どころか店長やオーナーも困らせていたほどなのだとか。
「でもね、そういうタイプのお客さんもいてさ顧客は居たには居た……といっても、要領悪いし空気は読めないしではっきり言って人間としても欠陥だらけだったなぁ……イジメる分には面白かったけど」
「う……つまりあまり売り上げは良くなかったと」
「あ、それで言ったら山田さんだってドングリの背比べみたいなものだったけど」
「そうなの!?」
「そうそう、そっちもなーんか真面目っぽい雰囲気だけでやる気ないしまあノルマも達成してるけど慣性って感じ……それに大学生なことは聞いてる? 単位だってちゃんと足りてるか確かめた?」
「た……確かめたってまさか学校にもろくに行ってなかったり!?」
モモの口からどんどん暴かれていく……みいちゃんよりも自分が結構ヤバいんじゃないのか? それに対してモモも今更気付いたかと言いたげな表情。
びっくりするくらいやる気がない姿が仕事にも学業にも反映されていたようだ、ちょっと記憶を取り戻しても問題がありそう。
対してみいちゃんの事は、キャバクラ嬢としてどころか仕事も失敗に空回りの連続であり、お客を取れているからといって帳消しに出来ないくらいの厄介な存在……仕事については分かった、後はその後の事。
モモも聞きたがっているのが分かるようだ……みいちゃんのその後を。
「私さぁ、一度だけ言ってみたかったんだよね……良いニュースと悪いニュースどっちから聞いてみたい? せっかくだからこれも」
モモがコーヒーを出しながら用意したのがまさにドラマのような王道のシチュエーション、どっちからということは両方聞かせてくれるわけであり……恐らく、良くも悪くも山田にとっては情報源に繋がるはずだ。
「こういうときは……悪いニュースから聞いておこうかな」
「で……悪いニュースからでいいんだね?」
モモはコーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、どこか他人事のような冷ややかな笑みを浮かべた。
「みいちゃんが殺された件だけどさ。向こう……宮城県警の方で、もう裁判に向けて容疑者が捕まってるんだよね」
「え……? 捕まってるの……!?」
思わず身を乗り出した山田に、モモは楽しそうに首を傾げてみせる。
「うん。捕まったのはね……みいちゃんの母親」
「お、母親……?」
「そう。なんかあの子の地元での評判って最悪でね。親族からも酷い暴力を振るわれてたり、ずっと邪険に扱われてたらしいの。で、遺体を最初に発見したのもその母親だったから、真っ先に疑われてそのまま御用ってワケ。でもさ、その母親が尋問でも証言でも荒唐無稽なことばかり叫んでてさ。話がめちゃくちゃで取り調べが全然進まないらしいんだよね」
実の母親による殺害——。
あまりにも救いのない話に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。みいちゃんはそんな過酷な環境から逃げ出すために東京へ出てきて、キャバクラで働き、そして結局地元に連れ戻されるような形で殺されたのだろうか。
だが、すでに犯人が捕まっているというのなら……。
「じゃあ……良いニュースの方って何なの?」
息を呑んで問いかける私に、モモは目を細めて妖しく微笑んだ。
「私はなんとなくだけど、犯人はその人じゃないと思っている」
「……え?」
「だってさ、いくら日頃からDVがあったとしても、遺体に残っている痕跡はあまりにも計画的すぎると思わない? ペンチで歯を折られてたって話はアンタも聞いたでしょ? それだけじゃないよ。手の爪も全部剥がされてて、腕にも首にも残虐な絞め跡が残ってたの。それだけの拷問を完璧な手順で実行できる人間が、遺体発見の第一発見者としてノコノコ出てきて、警察の前で大雑把で支離滅裂な嘘をつくと思う? 冤罪とまでは言わなくても、何者かに『身代わり』として誘導されてる気がするんだよね」
「それって……つまり、みいちゃんが死んだのは、母親が見つけるよりずっと前……?」
「そう。そして、本当の犯人は他にいる」
背筋に冷たい氷を押し当てられたような戦慄が走る。警察すらも煙に巻くような、正体のわからない本当の殺害者。
「……本当に正体の知れない犯人がいるってこと?」
「そうよ。ただし、山田さんが想定している通りめちゃくちゃまずい奴がついてるのは確か……だってみいちゃんの遺体からはさ、覚醒剤とかの違法薬物反応が出てるんだよね」
「えっ……!? みいちゃんが違法薬物……!?」
「ウチで働いてた時も変な奴と付き合ってた感じはしてたけど、クスリやるほど飛んでるようには見えなかったけどね……まあアレがシラフだからとんでもないし、本人がやってたんじゃなくて、投与されただけかもしれないけどさ」
違法薬物、凄惨な拷問、そして警察の目を逸らす工作——。
モモの話を聞けば聞くほど、みいちゃんの背後に渦巻く闇の巨大さが浮き彫りになっていく。安易に首を突っ込めば、私の命など一瞬で吹き飛んでしまうだろう。
「エフェに居た頃から、そんな怪しい人がいたの……?」
「直接ウチに来たことはないけど、みいちゃんって彼氏いたんだよね〜。でもいつだったか、顔面凄い状態で出勤してきてさ……そういえば、そいつも今どうなったのやら」
顔面が変形するほどの暴力。DV彼氏、ヤバい客、地元の冷酷な親族、そして薬物を扱う裏組織の影。みいちゃんの周囲には、彼女の命を脅かす人間が山ほどいたのだ。調べるべき方向性が少し見えたとはいえ、その道はあまりにも危険すぎる。
「う、く……っ!?」
突如、激しい浮遊感が脳を襲った。
視界がぐにゃりと歪み、手足から急速に感覚が失われていく。力が入らず、立っていることも座っていることもできなくなっていく。
(な、に……これ……っ!?)
呼吸をしようとしても、肺が酸素を拒否するように喉が固まる。喉が焼き付くように熱い。
覚えがあるとすれば……さっき、モモが「話のついでに」と差し出してきた、あのコーヒーだ。
「はっ……が……っ、モモ……さん……?」
テーブルに突っ伏しそうになる体を必死で支えようとするが、腕は麻痺したようにピクリとも動かない。
視界の端で、さっきまで親身な顔をして話していたモモが、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。その瞳には、先ほどまでの軽薄な笑みではなく、底知れない冷酷さと悪意が宿っていた。
「あーあ。相変わらずおめでたい頭してて助かるよ、山田さん」
「あ……が……っ……」
「アンタがどれだけみいちゃんの味方ぶったってさ、もう手遅れなんだよ。昔からそう。いっつも一歩遅くて、何も守れなくて……本当に無様」
薄れゆく意識の中で、モモの声だけが嫌にクリアに響く。
空気を取り込むこともできなくなり、私の視界は急速に深い闇へと染まっていく。歌舞伎町の片隅、借り物の部屋で、私は再び自分の愚かさを噛み締めることしかできなかった。
倒れ込む私の顔を見下ろしながら、モモはさも可笑しそうに、吐き捨てるように呟いた。
「バーカ」
冷たい言葉を最後に、私の意識は完全に途絶えた。
——
「……え? 桃花が直接山田を捕らえた? 面倒な事をしてくれたな……そんなにあの東京の件を重く見ているのか、日本は」
十二郎の携帯から淡々とメールで、モモが山田に行ったことが発信される。
しかし彼は助けに行くつもりはない、モモはこれから山田を虐げるつもりだろうが……特別死なせることはないだろう。
「でも妙だな……俺はココロにしか連絡していないはずだ、世間体を気にするココロがエフェの人間にチクるわけないし……」