自分の命がそう長くないことは、どこかで感づいていた。もとを正せば自分は、怪人「エレボス人」のなりそこないという不完全な存在から派生した肉体なのだ。人並みの寿命など最初から期待できるはずもなかった。だが、ダザクから告げられた衰弱の理由は、寿命という緩やかな概念よりもはるかに直接的で、圧倒的に手遅れな事態だった。
……脳が、物理的に溶けかけている。
カウンター越しに向かい合うダザクの瞳は、命を奪おうとする敵のそれではなく、傷病者の症状を観察する冷徹で静かなカウンセラーのようだった。目と目を合わせ、淡々と現実の異常を突きつけてくるその空気感に、山田はただ呼吸を殺して耳を傾けるしかなかった。
「まず前提として、幻覚……というよりは認識の歪みと現実の境界線が曖昧になっているね」
ダザクは顎に手を当て、確認するように言葉を紡ぐ。
「僕とその子の出会いはなんだっけ? 保育園で? 僕とその子が会って? 仲良くなった……みたいだけど」
「そうだよ、だから私は貴方を探してこの手で終わらせたかった……」
かすれた声で応える山田に対し、ダザクは困ったように、けれど容赦のない口調で首を振った。
「でも残念なことに、君はもう既に認識に異常が起きている、あれを『保育園』と認識していたところからね」
山田の視界に映る世界は、もはや本来の2012年の歌舞伎町ですらなかった。
ダザクと出遭う直前まで、脳内のドーパミンが急速に枯渇し、ベッドの上で腐敗した水たまりのように動けなくなっていたのは、肉体が精神の許容量を完全に超えてしまった前兆に過ぎなかったのだ。
そこへ、みいちゃんへの異常な執着と独占欲という強烈な感情の揺さぶりがかかり、再び無理やり過剰なドーパミンを脳内へ噴射させた。禁断症状を打ち消すために麻薬を打ち込むようなその自家中毒は、衰弱した四肢を強引に動かせる代償として、脳細胞を焼き切り、致命的な幻覚へと山田を引きずり込んでいたのだ。
禁断症状の果てに待つ崩壊という、ごくありふれた破滅の坂道を、山田は着実に転がり落ちていた。
この崩壊した肉体が、あとどれだけ持つのかすら分からない。
「何より君は、過去に君自身を殺しているね」
ダザクのその一言に、山田の胸が跳ねた。ダザクがどこまで知っているのかは分からないが、山田の心底に眠る最悪の秘密を易々と読み取っていた。
記憶を取り戻しかけたあの日、山田は全てを知った上で現実に耐えきれなくなった。だからこそ、記憶喪失の間に芽生えた「みいちゃんを愛する都合の良い自分」という人格を守るため、ナイフを振り下ろすようにして、かつてみいちゃんと過ごしてきた本来の「山田美咲」という人格を自らの手で破壊したのだ。
いまここにいる「山田」は、自らのオリジナルを殺害し、その肉体と名前を乗っ取って再構築された偽りの自我に過ぎない。そうまでして作り上げた理想の生活も、いまや脳の物理的な損壊によって崩れ去ろうとしている。
(私はあと、どれだけ生きられる……? これから先、ただみいちゃんと一緒にいたいだけなのに……)
「残念だが君の幻覚はどんどん現実が見えてこない形で悪化している、いや……むしろ現実から逃げようとしている」
ダザクの指摘は正確だった。直視したくない過酷な現実があるからこそ、山田の脳は都合の良い幻想を織り上げ、自らを優しく包み込んで隠そうとする。しかし、現実との接点を失ってあやふやになった世界は急速に失速し、最後には思考も視界も真っ暗な闇に呑み込まれて何も見えなくなる。それが、いま山田の身体に起きている現在進行形の破滅だった。
だが、ダザクの口から出たのは絶望の告知だけではなかった。
「……ただ、手をこまねいて死を待つ必要もないみたいなんだ」
かつてエレボス人が起こした事件の後、再発防止のために数年かけて対策や抗体が作られていたという。元々ホルモンの研究を進めてきた白革県には、細胞の異常や脳の不全に精通した専門家が揃っており、今の山田の脳の損耗を改善できる可能性があるのだという。
山田はダザクの言葉を素直に鵜呑みにはできなかった。白革県へと赴けば、またあの異質な者たちの手で改造や残酷な実験の検体にされるのではないかという不信感が拭えない。山田の警戒を察したように、ダザクは肩をすくめてすぐに付け加えた。
「実験というよりは、交渉かな……例の大総統は血液を欲しがってる、君の血液を少し……とはいえ献血みたいなものだよ」
白革県を率いる大総統が求めているのは、エレボス人の変質を秘めた山田の血液そのもの。ほんの少しの血を差し出すだけで、白革県の技術によってこの溶けゆく脳を繋ぎ止め、生存を保つことができる。
葛藤する山田の脳裏に、自室に残してきた幼い娘・麻美子の姿が浮かんだ。
みいちゃんとの静かな逃避行はもちろん大切だった。だが、今の山田には麻美子がいる。まだ幼く、何も知らぬままこの狂乱の渦中に産み落とされたあの小さな命を、一人残して死ぬわけにはいかない。娘が生きていくためには、母である自分が狂気に塗れた肉体を引き摺ってでも長生きしなければならないのだ。
条件を受け入れることを、山田は決意した。
いま自分にできることは、どんな無様な姿になろうとも泥臭く生き抜くことだけだ。生き延びてさえいれば、理想の生活を繋ぎ止めることができる。
(……これは誰のためだ?)
みいちゃんのため。麻美子との生活のため。そう自分に言い聞かせてきた山田は、脳の奥底でふっと芽生えた冷ややかな冷徹さに気づく。
みいちゃんに固執することも、彼女の人生を壊した人間を殺害することも、麻美子を育てて逃げ続けることも。
全部、結局は自分自身のためなのだ。
本当の自分を殺してまで手に入れた「愛する者のために生きる自分」という物語を守り抜くための、身勝手で貪欲な自己満足。その真実に辿り着いた山田の瞳に、濁った、だが力強い生への執着が宿っていた。山田は胸の血を拭い、静かに立ち上がった。
——
そうして山田はダザクに連れられてまた白革県に向かうことになったが……まさか強引に担がれてとは思わなかった。
「ごめん酔った? 僕だったら新幹線やバスよりこっち使うほうが早いからさ」
「……あ、貴方って本当に化け物みたいなスペックなんですね」
「仮にも成功例だからね、種を残すため……だけど」
ダザクはそのまま山田を担いで走っていく、1回気遣ったが降ろしてくれるとは言ってないので遠慮なく行く。
もしかしたら目的地までに1回吐くかもしれないがダザクはそのまま話を続ける。
「一度会ってみたら聞いてみたかったんだけど、子供が欲しいってどんな気持ちなの?」
エレボス人は本来、男を必要としない事を想定した社会で女だけで手を残すために生まれ……ダザクは、その完成形。
しかしダザクは生まれてから食べて寝るだけの怪人2大欲求に忠実であり、性欲……何かを好きになったり、その人との子供を残したいと意識したことはなかった。
その一方で関心はあった、子供を求めるというものがどういう感覚なのか。
子供を産み育てる。生物の当たり前……にも関わらず、どうしてこんなにも興味深いのか分からなかった。
山田は頭を悩ませながら言葉を考える。まず最初に出た言葉は……
「1人ぼっちで寂しいし、私から離れない存在がほしい……あと愛されたいとかですかね」
「うん、なるほど……僕には縁のない感情だ、一人になってもさみしいと思ったことはないし、愛してほしいってことはないね」
「じゃあ、いなくなったら嫌な人とかいなかったんですか?」
「ん? うん……そうだな、一人いたね、好きとはまた違うんだが……」
「私も似たようなものです……」
掠れた声で山田は呟いた。体はもう限界だ。頭痛はガンガンと鳴り響き、視界の端はチカチカと白い火花のようなものが散っている。脳が溶けていく実感と共に、「もうダメだ」という諦めにも似た安堵感が押し寄せそうになる。
しかし、同時に湧き上がる熱い衝動があった。
みいちゃんに会いたい。
麻美子を抱きしめたい。
そんな純粋な願いが、焼け爛れる脳髄の中でなお強く燃え上がり、山田を現実に踏みとどまらせている。
(逃げるんじゃない……私は生きるんだ)
ダザクがひときわ強く地面を蹴った。視界が急上昇し、ビル群を見下ろす高度へと到達する。風が全身を殴りつけ、胃がふわりと宙に浮く感覚。
その時だった。
「ひ……っ!?」
突如、喉の奥から猛烈な吐き気が込み上げてきた。胃袋がひっくり返るような感覚。必死で唇を噛みしめるが、胃酸が逆流し、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「おっと……やっぱりキツイかな?」
ダザクが風圧の中でも聞き取れるほどの大きな声で問いかけてくる。
「……だ、いじょうぶ……です……!」
掠れ声で答える山田の言葉を待たず、ダザクの腕の力が微かに緩み、山田の背中がわずかに開放される。遠慮する余裕はなかった。
次の瞬間、我慢の堰が切れ、山田はその場で嘔吐した。黄ばんだ胃液と昨夜食べたはずの食べ物の断片が混じった液体が、空中へと撒き散らされ、眼下の街並みへと真っ直ぐ落下していく。
通行人の悲鳴が小さく聞こえたような気がしたが、ダザクは意に介さず、そのまま滑るようにマンションの屋上の縁を蹴り、更なる加速をつけて目的地へと向かった。
*
「……ふぅ」
一気に吐き出したことで、わずかだが圧迫されていた肺と胸が楽になる。同時に、猛烈な虚脱感と倦怠感が襲ってきた。体中の血が引き、頭の中でキーンという金属音のような耳鳴りがする……最近急に痩せたのもあってか体が脆いかもしれない。
「ついたよ、まずはここでちょっと血液を貰う……といっても、さっきも言ったけど献血みたいな感じでいいから」
ダザクが山田をお姫様抱っこで連れて行き、連れて行ったのは普通の病院、ただし病院とは思えないぐらい清潔で最新の設備が整えられていた。見た目こそ古い建築物だが、内部は驚くほど近代的で洗練されている。無機質な白い壁に囲まれた廊下には、医療機器と思しき箱型の装置が等間隔に並んでいた。
「まぁ、確かに普通の病院ではないんだ、ここは君みたいに特殊な事情で体が不調を起こしてる人たちの治療ができる所……ここで色々やってくれる、僕は一旦、君が大丈夫な状態にするためにいるだけなんだけどね」
ダザクに案内されるまま診察室に入ると、そこにはなんと……あの大総統、シエル・フローレスがその場にいた。
「久しぶり〜シエル、異世界の時以来だっけ?」
「馴れ馴れしいぞダザク、それより……そいつが例のやつか?」
「うん、君も不思議だよね、エレボス人ならともかく失敗作の血液なんて欲しがるなんて」
「ふん、勘違いするな……世の中なんでも使い道があるものだ、いいから血をよこせ」
シエル自ら注射器を持って献血パックに使う分、山田の血液を抜き取っていった。
改めて自分の血液を見ると結構黒いしどくどくと泡立っており、お世辞にも健康とは言い難い形であると実感させられる。
こんな血液がとても役に立つとは思えないが……。
「シエル、約束してるから脳を治す薬出してよ」
「貴様また面倒な物を……まあいい、これが生み出す利益を考えれば些細なものだ」
「私の血なんて何に使うんですか、それにエレボス人の輸血なんて……」
その素朴な内容にシエルも隠すことなく鼻で笑い答える。
「お前……血液が輸血にしか使えないと思っているのか? これは中の成分を解析し、複製する……いくらでも作って切らさないようにする、この中に常人の何百倍もののドーパミンが含まれてある、これを注入すれば瞬く間に快楽を得られる……それを欲する人間も多い」
シエルの言う血液の使い道……それは血をただ相手に送るわけではない、本命は血液にも多量に含まれた山田のドーパミン、それを一気に他者に送り込む手段として使える。
……それはつまり、今自分がシエルに渡したものは……?
「それってつまりドラッグじゃないですか!」
「合法だ! 薬物ではなく人体なら誰でも発せられる物質! そして既に血液と一体化している! それもエレボス人の血液なら拒絶反応も出ることはない!」
「……そんなものに、利用価値があるんですか?」
山田の声は震えていた。
自分の血が──否、自分の脳内で暴れ回る“異常”そのものが──まるで工場の原料のように扱われることが、生理的な嫌悪感を呼び起こす。
「あるとも」
シエル・フローレスは眼鏡のレンズ越しに冷静に言った。
「これは“依存性ドーパミン補給システム”の原型となる。
通常の鎮痛剤や抗鬱剤では届かない中枢深部に直接働きかける。
用量を調整すれば、PTSDのフラッシュバックを抑えられる。
あるいは末期癌患者に終末期の苦痛を忘れさせる“静かな祝福”ともなり得る。
──要は“正しく使う側”が決めれば、善にも悪にもなる」
「そんな物はただの建前──」
山田は怒りを爆発させかけた。
だが次の瞬間、胸元から喉へ熱い塊がこみ上げる。
ダザクが素早く肩を支えたが、彼もあまりよく思ってないように見える。
「簡単な快楽を使えば掌握も容易いものね、大総統」
「それが人の弱さだ、否定しても現実は変わらん」
その光景を前に、シエルは一切表情を変えずに白衣の袖をまくると、小さなアンプルを取り出しダザクに投げ渡す。
「お前の目当てのものはこれだ、溶けた脳を固定しながら神経伝達を最低限維持できる合成タンパク。私が欲しいのはサンプルデータだ、人体実験──いや、観察にもなるか、定期的に来い」
「ひとまずはありがとう、これで君は少しはまともに歩けるはずだ」
「まともに……ですか? 本当に」
「それはまぁ、今の君もうまともじゃないし、それどころかはたから見れば狂っているだろう」
「……!」
その言葉が刺さった。自分の脳が狂っているというのは事実だ、この脳は明らかに異常、ドーパミンが多く出て暴れている。ならそれで壊された脳は? そこから滲み出た感情は?
それをダザクが救ってくれた、彼も異常な存在だ。
エレボス人も大総統もきっと異常だ……そう考えているうちに涙が止まらない、ここにいると自分もおかしくなりそうな気がする。
「あれ? 泣いてる? ごめん今の一言傷つけたかな」
「お前は以前からそういうところがある、だから私もあまり関わりたくはなかったが……」
怒りなのか悲しみなのか分からない気持ちが出てくるが……どうにか目的の物は手に入れた、自分の血液がどう使われるかに対して文句を言える立場でもない。
しばらくはこの薬に頼らなくてはいけないが、今は帰ろう……まさか、またダザクに背負ってもらいながら?
帰ろうとしたその時、ダザクは言葉を漏らした。
「君のしてることをオリジナルが知ったらきっとびっくりするだろうね……いや、もしくはがっかりするか?」
その一言をシエルは逃さなかった……かっと目を見開いた、それは山田にも覚えがあるあの感情。
「お前までさくらが死んだものとして愚弄に使ってくるのか!? 私もお前も最期は見ていない分際で!!」
(あっ、そうか、これ……大総統も……)
「あああああ!!」
「行こっかぁ」
大総統の逆鱗に触れたというのにダザクは何食わぬ顔、そのまま病院内で置いていってしまった。
——
「あの……いいんですか? あんな状態になったのにほっといて」
「うん、なんか僕も年を取って少しは落ち着いたと思ったらあそこまで拗らせることになるとは思わなかったよ、あの二人そんなに仲良かったっけ?」
帰り道、ダザクは全く気にしていない素振りで山田と話をする。
シエルとダザク、そして言葉でのみ綴られる『オリジナル』……過去に間違いなくなにかあった。
「あの、もしかしてそれって」
「うん、僕らのときにも『目立ちたがり屋』が現れたんだ、その時に奪っていったヤツがさくら……花岡さくら、僕のオリジナル」
「オリジナルって、貴方って改造されたんじゃないんですか?」
「クローン人間ってやつかな、だから君の家族の話を聞いたときには驚いちゃった」
彼女達にもなにか大きなドラマがあり、なにか深い後悔があって現在に至る。
山田がみいちゃんを失って今があるように……シエルもさくらという人物を失ったことで人生が大きく狂ってしまったのだろう、しかし肝心なのはその人物はどうなったのか?
「死んでないって言ってましたけど……どうなったんですか、そのさくらという人は」
「どうなったと言われるとちょっと悩むんだよなぁ……僕もあまりあの時のことを認めたくない気持ちはわかるし……確かに死んだとも言い難いところはある、だがそれでも、もう二度と会えないだろうなってところだね」
「そう……ですか」
やはりそうだ、あの人もまた……大事な人を失ったまま生きている。
この世界で、自分みたいな人間が大勢いる……山田は実感する、この『目立ちたがり屋』の影響は根深い。
山田もそろそろ与えられた合成タンパクを服用すると……ほんの少しだがマシになったような気もする。
しかし脳がちょっと改善されても山田がまたドーパミンを溢れ出させたら意味はない、だが今のみいちゃんのことを考えるだけで溢れるかもしれない。
「君って禁欲とか出来るの?」
「えっ……まあ、その、ドーパミンをコントロールしようとしたことはありますけど」
「なら今後は出し過ぎないようにすることも大事だね……じゃあ、僕とはこれでお別れだ、君のことは忘れないよ」
「はい……え、えっと、みいちゃんのことは、私から言っておきますから」
「うん、僕も君を見て……誰かを好きになったり家族を作ってみようかって興味も湧いてきた、麻美子ちゃんとりにもよろしくね」
そうして別れを告げて……山田はここで思い出す。
「い……いけない!! 麻美子のこと忘れてた!!」