××ちゃんと山田?さん。   作:黒影時空

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第21話「後ろばかり見て始まらない」

 ダザクから手渡された合成タンパクの薬は、確かに山田の暴走する神経伝達を強引に繋ぎ止めていた。しかし、その効果がもたらしたのは救いばかりではない。脳を焼き尽くしていた高濃度のドーパミンが急速に収まりを見せると同時に、これまで都合良く書き換えられていた視界のフィルターがベリベリと音を立てて剥がれ落ちていったのだ。

 

 息を弾ませながらアパートの階段を駆け上がり、自室のドアを押し開けた山田の目に飛び込んできたのは、あまりにも凄惨な「現実」だった。

 ドーパミン越しに見えていたあたたかく光に満ちた部屋など、どこにも存在しなかった。

 目に入ったのは、湿気とヤニで黄ばんだ壁紙、剥げかけたフローリング、足の踏み場もないほどに散らかったゴミと、鼻をつく酷い生活臭。現実は、山田が脳内で補正していた理想の生活などとは程遠く、どこまでも泥臭く、圧倒的に汚汚しかった。自分がいかに万能からかけ離れた、無力で惨めな存在であるかを突きつけられるような惨状だった。

 

(麻美子……!)

 

 山田はハッとして奥の布団へ駆け寄った。幸いにも、幼い娘の麻美子はすやすやと息をたてて眠っていた。体に異常は見当たらない。

 山田自身も、急激な減量と脳の疲労で体は鉛のように重いものの、衰弱して動けなくなるほど飢えてはいなかった。

 だが、正気に戻った頭で考え始めると、すぐに恐ろしい疑問が浮上した。

 

 自分は歌舞伎町のキャバクラを辞めて久しく、わずかな記憶に残っているレンタルDVD店のアルバイトも、記憶を失って倒れて以来一度も行っていない。今の自分は完全に無職であり、収入など一銭もないのだ。

 なら、自分たちがこうして停滞していた間、どうやって生き延びていたのか?

 働いていない自分が、どうやって食事を調達し、赤ん坊を育てるだけの生活を維持できていたというのか。

 

「ただいまー」

 

 背後で、パタンとドアの開く音がした。

 軽やかな声とともに部屋に入ってきた人物を見て、山田の息が止まる。

 

「みいちゃん……?」

 

「山田さん、どうしたの? 難しい顔して」

 

 そこに立っていたのは、紛れもなくみいちゃんだった。

 山田は混乱し、自分の胸を強く締め付けた。今はドーパミンを過剰に出さないよう、固く自我をコントロールしているはずだった。あそこにいるみいちゃんは、過剰な脳内物質が見せる幻覚の補正だと思っていたのだ。

 

 だが、違った。

 ドーパミンの霞が晴れたクリアな視界の先にも、みいちゃんは確かに「実体」としてそこに存在していた。

 かつての記憶にある姿のまま、生きてそこに立っている。死んだはずのみいちゃんが、人間とは根本的に異なる何か異質な存在へ変貌を遂げながらも、現実の肉体を持って山田の目の前にたたずんでいた。

 

「みいちゃん……私たちが動けなかったこの数日間、……私たちは何を食べて過ごしていたの?」

 

 恐る恐る尋ねる山田に、みいちゃんは屈託のない笑みを浮かべた。

 

「みいちゃんね、山田さんと麻美ちゃんのために、ずっとお肉を用意してたよ! 山田さんがお腹すかせないようにって!」

 

「肉……?」

 

 山田には、肉を食べた記憶すらなかった。脳が溶けかかっていた時期の感覚はあまりに曖昧で、何をどう口に運んでいたのかすら思い出せない。

 みいちゃんはご機嫌な様子で台所へ向かうと、古びた冷蔵庫の扉を勢いよく開け放った。

 

「ほら、まだいっぱいあるよ!」

 

 開かれた冷蔵庫の隙間から、ドロッとした冷気とともに、生臭い、異様な血の匂いが部屋中に立ち込めた。

 そこに敷き詰められていた「肉」の塊を目にした瞬間、山田の思考は凍りつき、直後に胃袋が激しく痙攣した。

 

「うっ……ぐっ……!!」

 

 口を両手で押さえ、山田はその場に崩れ落ちた。猛烈な嘔吐感が喉を焼き、酸っぱい胃液が口内に広がる。

 肉の形状、不自然な切り口、そしてみいちゃんがこれまで自分に関わった人間たちを殺害してきたという事実——全ての点が脳内で最悪の形として繋がってしまった。何も知らないまま、意識の混濁の中で自分は一体何を口にさせられていたのか。そして、この「みいちゃん」という存在が、どれほど人間の倫理から遠く離れた怪物へと成り果てているのかを、否応なしに理解させられた。

 

「みいちゃん……それ、……っ、全部捨てて……!」

 

 血の気が引いた顔で懇願する山田に、みいちゃんは首をかしげ、不思議そうに瞳を丸くした。

 

「え? でも山田さん、これから何を食べて生きていくの? 人はご飯食べないと死んじゃうんだよ?」

 

 無邪気な声だった。悪意も害意もなく、ただ純粋に山田を生かしたいという一心で放たれたその言葉が、何よりも重く山田の心臓を刺し貫く。

 

「今日からまた……別のものを食べるようにしよう……」

 

 山田は掠れた声で、どうにかそれだけを絞り出した。

 ドーパミンの麻薬のような夢から覚めた現実は、あまりにも厳しく、あまりにも地獄だった。

 まともな食料もない。お金もない。戸籍も逃げ場もなく、警察や国家権力、そして本当に消えたのかも分からない『目立ちたがり屋』という脅威に追われている。

 その上で、自分と、幼い麻美子と、人からかけ離れてしまったみいちゃん——この「3人」で生きていかなければならないのだ。

 

(どうすればいい……? これから私は、何を食べて生きていけばいいの……?)

 

 汚れたアパートの部屋で、すやすやと眠る娘の寝顔を見つめながら、山田は途方に暮れるしかなかった。泥沼のような現実から逃げ出す術はもうない。ただ泥を這いずり回るようにしてでも、この狂気と貧困の底で、生を繋ぎ止めなければならないのだから。

 

 ……そうしてその日のうちに新しい食料を探すことにした。

 とりあえずみいちゃんは雑食だ、以前から簡単な料理も出来るし山田は前から異食症を患っている、贅沢を言わなければゴミでもなんでも食って生きていける。

 だが麻美子はそうもいかない、山田はとりあえず近くにあるコンビニに入り、手に取った物は……廃棄物の残飯、今ここで山田はこんなものでも平然と食べられる、これで動き回る分の栄養は確保したが、現在の人間とは思えない振る舞いにため息を吐く。

 

(本当に私、人間としてはだいぶ底辺以下みたいな状態だな……)

 

 ゴミを食べても特に恥を感じなくなってきたのだから重症である、だが栄養が乏しい廃棄物だけでは栄養不足は免れない、それを察した山田はコンビニを後にして……

 みいちゃんは目の前の道路を歩いて来た年配の男性へ襲いかかり、噛み付いて殺すとそのまま咥えて路地裏に運び込み……いつか見た光景と同じように服を剥ぎ取り、肉を毟り……貪っている、それはさながらグールのような……

 

「ちょっと! ダメだよ人を殺して食べちゃ!!」

 

「みいちゃんはお肉食べたいの!」

 

 やはり今のみいちゃんの様子はおかしかった、まるで本当の人間のふりをやめたかのように、彼女もまたどんどん変わって行っている……

 だがそんなことはもうどうでもよかった、山田はとにかく食料を得ることに必死になった、

 

 なんとか色々と教えてみたら、みいちゃんは山田の意思を尊重しながらも、人肉以外の食事を欲するようになった。みいちゃんが料理できるものを買えばいいと提案すると、二人は安価で日持ちする食材を探し始めた、みいちゃんにも期待できないので、

 もはや特別地区でお金を稼ぐという発想も浮かんでこない、それにみいちゃんならおそらくこの場所で殺してもあまり問題にはならないだろうがマトモな生活の為にはやはりお金、それで山田は思い付いた。

 

「ねえみいちゃん、これまで『お掃除』や『加工』してきた人って持ってるものとかどうしたの?」

 

「ちゃんとお片付けしてまとめたよ!」

 

「そっか、じゃあ家にあるんだね」

 

 それは本来人として超えてはいけないライン、しかし山田は自分が生きるため、日本の常識が通用しないこの場所でどんなことでも出来る。

 改めて……山田はかつてのみいちゃんとあまり変わらない存在になってしまった、ドーパミンの己の軽率な行動による産物によって……。

 

 ──ー

 

「よし、この人の携帯電話と通帳も使える……漫画で色々見ておいてよかった」

 

「山田さん、財布じゃなくていいの?」

 

「財布は中身しか使えないけどこういう口座も結構売れるんだって、漫画でやってた」

 

 山田は今何をしているのかというと、今までみいちゃんが殺してきた人間が持っていたものと通帳から直接下ろした金を現金化している、通帳は預金があればそのままの価値が出せる上に本人確認もいらないので、これだけでも十分すぎるほど、それでも足りない場合は携帯電話や貴金属なども売ることになるが……とにかく金を稼ぐ手段を見つけた山田は、再び人間の生活に戻ることが出来た。

 勿論違法だしバレれば裁かれてしまうのだが……今さら何を躊躇うというのだろう? この生活のために。

 

「通帳と携帯電話だけで約60万かぁ、みいちゃんすごいね〜」

 

「えへへ」

 

 山田は久しぶりにみいちゃんの頭を撫でる、こうすれば喜ぶのかな? と以前から何度も繰り返したことだった。

 

 ──ー

 

 そうしてやっと金を手に入れ、麻美子やみいちゃんに必要な物を揃えつつ、安価な定食を食べて山田はようやく普通の生活を取り戻した。

 このお金もしばらくしたら無くなるだろうが……まだ換金出来るものは山程ある。

 

「はぁ……お金があればこれくらい楽々食べられるんだ、ちゃんとお金を稼ぐって重みも分かるわ〜」

 

「狩った肉の方が美味しいよ?」

 

「いやだから食べちゃダメだって」

 

 どうやらみいちゃんは普通の人肉の方が好きらしい、彼女からすれば人肉は美味しいけれど普通の肉より劣るのでこっそり食べようとするが、もう少しすれば矯正出来るだろう。

 口座は闇の界隈に特別地区から売り飛ばして、もっと確保できる。

 もう既に人間の幸せとかそういう階段に立ってないが、山田は今幸福だったからそれでよかった、ドーパミンだって我慢して合成タンパクも切らさないようにして……もう既に普通じゃない人間ほど、普通を望んでしまうかもしれない。そう考えて、山田はみいちゃんの頭を撫でた。

 

 *

 

 ……山田の新生活が始まってから一カ月過ぎた頃。金周りも不安定な生活だが、山田は比較的裕福だった。なにせ普通の人はこんなところまで来ない、来たとしても消えてもらうか消されるかの二択しかないのだ。

 しかも山田は自分の能力を使って適度に栄養を摂り、特殊な状況を避ける程度の能力を得ており、普通の人より長く生きられる……もう既に人間ではないようなものである。

 それでも山田は人間としての理性を保っていた、その理性こそが彼女を長く生かしているのかもしれない。

 

「山田さんー! ごはんの時間ー!」

 

「ごめん、ちょっと待っててすぐ行くからー」

 

 そんな感じで子供の麻美子の呼ぶ声に反応し、山田は素早く反応してリビングに向かった。もう一人の家族も、一緒に来てくれる。

 その日の夕飯は安い豚汁だった。具材のほとんどが、安い野菜だ。それでも特別地区では十分すぎる御馳走である。ちなみにみいちゃんが作った、味付けは普通だった。

 

「おいしい?」

 

「おいしいよ」

 

「よかった」

 

 ……

 

「……よかあねえでしょうが、人間ここまで堕ちれるものなんだね〜尊敬するよ〜」

 

 その一方で、そんな山田さんの生活環境にニコニコしながらも血管がキレそうになっているのが桃花だった。

 無法地帯とはいえ、自分の敷地内でどれだけ犯罪を犯せば気が済むのか、それでいて平然と過ごせるのもなんなのか。

 どこまで人としての尊厳すら落ちられるかのコンテストでもしているのか?

 

「失敗した失敗した……」

 

 これには花火も絶望、そりゃ当然だが目を背けるわけにもいかない。

 

「目を背けちゃダメだよ〜奥さん、これがアンタの娘の現状、まあそれもちょっと違うけど……」

 

 

「あんたの娘はもうとっくに死んでるんだよ、精神的には……今を支配してる人格はドーパミンが作り出した『エレボス人』の化け物、みいちゃんが大好きな山田美咲の人生を相乗りして利用してるだけのモンスターってこと」

 

 ……

 

 2012年の歌舞伎町。雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い街並みは、一見するとこれまで通りの停滞と腐敗を保っているように見えた。

 だが、その裏側で蠢く「歪み」は、確実にこの隔離領域の命運を食い破りつつあった。

 

 モニターの無機質な光に照らされた部屋で、花岡桃花は吐き捨てるように息を吐き出した。

 画面の向こうに映し出されているのは、古びたアパートの一室と、その周辺を徘徊する「それ」の姿だ。

 

 ダザクから合成タンパクを回収させて以降、山田は何ひとつ変わっていなかった。白革県から戻ってきてなお、2012年の歌舞伎町という安全圏から動く気配すら見せない。

 何か怪しい動きを見せないかと徹底的に監視を続けてきた結果、弾き出された結論はあまりにも酷惨なものだった。

 

「救いようのない、ただのモンスターだね……」

 

 桃花の呟きに、隣に立つ花火は力なく俯くことしかできなかった。

 

 いまの「山田」は、記憶を取り戻しかけた際、現実の残酷さに耐えかねて自らのオリジナル——「山田美咲」という本来の人格を殺し、肉体の主導権を奪い取った存在だ。わかりやすく言えば、元の人格を自分の手で死なせて成り代わった偽物の自我。

 そうまでして残ったのは、高濃度のドーパミンに脳を灼かれた中毒者であり、社交性も社会経験も皆無な、ただ「みいちゃん」という偶像への身勝手な好意だけで動く化け物だった。

 

 一見すると、娘の麻美子を気遣い、安価な定食を食べて「普通の生活」を望んでいるかのように見える。

 だがその内面には、ま当な人間的社交性など欠片も存在しない。どこまでも自己本位で、自分の欲望と「平穏」を守るためならどんな手段もいとわない。

 

 かつて彼女が連れていた『みいちゃん』が殺していたのは、みいちゃんを傷つけた者や、彼女たちの関係を脅かす「理由のある人間」だけだった。

 しかし、今は違う。

 今の山田は、自分が今日を生き延びるため、わずかな生活費を得るためという理由だけで、日常的に人間を狩り始めている。財布を奪い、携帯電話や預金口座を暗室の売人に売り飛ばす。その手口はもはや怨恨でも防衛でもなく、ただ家畜を屠殺して部位を切り売りする感覚と同じだった。

 

(恐ろしいよ、本当に……)

 

 桃花はぞっとするような冷気を背筋に感じていた。

 山田は今や、目の前にいる『みいちゃん』が単なる幻覚などではなく、倫理から完全に逸脱した異常な存在であることを自覚している。

 そして、それ以上に邪悪なのは——山田自身の中にある狂気や残虐性、人間性の欠如といったすべての異常を、すべて『みいちゃん』という存在になすりつけている点だった。

 

「どんな悪事を働いても、どれだけ人を犠牲にしても、私はみいちゃんより狂っていない。私は被害者で、みいちゃんを繋ぎ止める愛おしい母親なんだ」——そんな身勝手な自己正当化の鎧を身に纏い、平然と殺人と剥ぎ取りを繰り返している。自己を守るために本来の自分すら殺せた人間が、他人の命や尊厳に深い関心など寄せるはずもないのだ。

 記憶喪失になる前の山田美咲からしてその素質はあったが、現在の状態は正気の沙汰を遥かに超えていた。

 

 そして最悪なことに、これらの惨劇はすべて歌舞伎町という特別地区の中で行われている。

 この無法地帯の中では、警察も国家もまともに機能せず、取り合ってはくれない。白革県からの定期的な連絡も途絶えたままだ。

 このまま山田というモンスターを野放しにすれば、2012年の歌舞伎町に残されたわずかな人間すら根絶やしにされ、領域そのものが壊滅する。そして、食い扶持を失ったあの化け物が外の世界へ放流されたとき、どれほどの被害が出るのか——想像するだけで目眩がした。

 

 既に、この町の秩序なんてものは完全に崩壊している。

 管理者としての桃花の立場も、遠からず終焉を迎えるだろう。逃げ出すこともできたはずだ。しかし、この隔離された歌舞伎町という場所で、過去にわずかでも感じていた「幸福のような時間」が、桃花の足を繋ぎ止めていた。ここで全てを諦めて投げ出すわけにはいかないという、半ば意地のような責任感。

 

 そんな八方塞がりの絶望の中、デスクの通信機器がけたたましく鳴り響いた。

 ディスプレイに表示されたのは、白革県・国家保安部隊の暗号回線。ようやく繋がった通信に、桃花は縋るような思いで通信器を取った。

 

「……大総統、もうキリつけましょう」

 

 画面の向こう、白革県の冷酷な背景を背負ったシエル・フローレスに対し、桃花は疲れ果てた声で切り出した。

 

「我々は今回『目立ちたがり屋』に負けました。何もかも全部巻き返しが利かないんで、もう後始末に徹するしかないです」

 

 すでに山田を仕留めるための布石や罠自体はいくつか用意してある。だが、現在の山田と、彼女に不可逆の変質をもたらした『みいちゃん』を完全に排除しようとすれば、失うものが大きすぎる。桃花自身が直接対峙したところで、道連れにされて刺し違えるのが関の山だろう。

 だからこそ、これ以上の犠牲を出さず、山田をかつてみいちゃんと因縁のあった宮城の地へと誘い出し、隔離された状態で幕を引き引く……それが唯一残された「後始末」のはずだった。

 

『部外者』に対する攻略の糸口は少しずつ見え始めている。だが、この世界の人類は、まだ『目立ちたがり屋』という超常の歪みに対して完全に対抗する術を持っていない。今できるのは、傷口をこれ以上広げないための戦後処理だけなのだ。

 

 そう思っていた。シエルから納得の言葉か、冷淡な同意が返ってくるものと信じていた。

 

 しかし、通信機のスピーカーから聞こえてきたシエルの声は、氷のように冷たく、どこか致命的に破綻していた。

 

『——人員は既に手配している。これより宮城全土の領土を侵略し、新たな白革県の一派とする』

 

「……は?」

 

 桃花の思考が完全にフリーズした。

 耳を疑うような言葉だった。後始末どころか、白革県は広域への電撃侵略を開始するというのだ。

 シエルの声には、かつての理性的な冷徹さはなく、底なしの執着と錯乱が混じり合っていた。白革県がこうした無謀で過激な軍事行動を起こす時は決まっている。トップであるシエルの精神が、制御不能なまでに破綻した時だ。

 

 思い当たる節はひとつしかなかった、この前にもダザクから……一応連絡はもらっている。

 直前に、山田がダザクに連れられて白革県へ向かったこと。そこで山田たちの存在や、過去の禁忌——『花岡さくら』の名を巡る何かが引き金となり、シエルの内に眠る狂気を完全に解き放ってしまったのだ。山田という存在が白革県に触れたことで、あちらの防波堤すらも内側から決壊したのだ。

 

(完全に、後がなくなった……)

 

 桃花は通信が切れた画面を見つめたまま、へたり込むように椅子に深々と身体を沈めた。

 

 歌舞伎町は内部から山田という怪物に喰い荒らされ、外からは狂気に走った白革県の侵略が迫る。

 退路も、進路も、どこを見渡しても破滅への入り口しか残されていない。

 

 もう、どうやって生き残るかという段階は過ぎ去っていた。

 自分という存在が、この狂った世界の中で、最後にどんな形で最期を選ぶか。

 残された時間は、ただそれだけの選択のために刻一刻と削られていっていた。

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