深淵のような闇の底へ落ちていく感覚の中で、私は自分自身の境界線すら見失っていた。
呼吸の苦しさも、喉を焼くような薬の熱も消え去り、視界に広がったのはどこまでも静寂が支配する未知の空間だった。上下も左右もない無の広がり。その中心に、ぽつんとひとりの少女が立っていた。
「……みいちゃん?」
呼びかけた声は音にならず、波紋のように空間へ伝わっていく。
振り返った彼女の姿を目にした瞬間、私の胸は激痛で引き裂かれそうになった。
先ほどモモから聞かされた惨劇の記憶が、目の前の彼女の姿を凄惨に歪めていた。
可愛らしかったはずの顔立ちは血と打撲痕で腫れ上がり、ペンチで折られたという前歯の隙間から痛々しい空白が覗いている。華奢な腕や首筋には、くっきりと紫黒い絞め跡が刻まれ、力無く垂れ下がった手の指先からは爪が丸ごと剥ぎ取られて痛々しい肉が剥き出しになっていた。
だが、そんな地獄のような傷を負いながらも、彼女は記憶の中にあるものと同じ、幼く儚げな微笑みを浮かべていた。
「山田さん、みいちゃんね、もう1回山田さんに会いたかったよ」
壊れた人形のような口元から漏れた声は、あまりにも優しく、そして哀しかった。
「そっか……ごめんね、まだどうして離ればなれになったのか分からないけど……私、絶対にみいちゃんを殺した人を突き止めてみせるから」
山田は堪らず手を伸ばし、彼女の剥がされた爪の痛々しい手をそっと包み込んだ。
痛むはずなのに、触れた皮膚からはどこか懐かしく、確かな温もりが伝わってくる。
「いつもみいちゃんに優しくしてくれたのは山田さんだけだったよ」
みいちゃんは嬉しそうに目を細めた。
この空想の中にいる彼女が、私の都合の良い記憶の残滓に過ぎないのだとしても——かつて私たちが交わした思いや深めてきた絆までが嘘だったとは思えなかった。
みいちゃんの手を握りしめていると、不思議と心が穏やかになっていく。
山田自身、記憶を失う前にどんな人生を歩んでいたのかは分からない。けれど、モモの言葉やこれまでの断片的な情報から察するに、私だって人並みの幸せや温もりを知らずに生きてきたはずだ。夜の世界に身を投じ、誰からも省みられない孤独の中で擦り切れていた山田にとって、みいちゃんという存在だけが唯一の救いだったのではないだろうか。
(せめて……せめて天国では、人並みに安らかに眠ってほしい)
そう強く願った瞬間、視界の闇が急速に眩い光へと塗り替えられていった。
空想のみいちゃんの身体が、光の粒子となって輪郭を失っていく。彼女は最後に私をじっと見つめ、残された力を振り絞るように呟いた。
「歌舞伎町は気をつけて、あそこは普通じゃ……」
言葉の語尾は光の中に溶け去り、山田の意識は再び現実の重力へと引き戻されていった。
重く濁った空気が鼻腔を突く。
目を開けると、そこはきらびやかな装飾が施されているものの、どこか退廃的で息苦しい部屋だった。革張りのソファ、化粧台、壁に飾られた装飾品……歌舞伎町の店の裏側にある、キャバ嬢たちの控室のような場所だ。
頭が割れるように痛む。体を動かそうとしても、麻痺したような痺れが残っていた。
途切れた記憶を手繰り寄せる。そうだ、私はあの部屋でモモと話していて——。
「薬を盛られた……」
口の中で小さく呟くと、正面のドレッサーに腰掛けていた人物がゆっくりとこちらを振り返った。水色の髪を揺らし、煙草の煙を吐き出す女性——モモだった。
「記憶を失っているなら都合が良いと様子をみたけど、まさかそこまでこだわりを見せながら警戒することも無いなんて、不用心なのは変わらないんだ」
モモは冷ややかな眼差しで自分を見下ろす。山田は身体を起こそうと壁に背を預けながら、詰じるように問いかけた。
「……お前がみいちゃんを殺したのか?」
「私はそっちと違ってあんなやつに執着するほど暇じゃないの。まあ……今回薬を盛ったのは報復を兼ねてるのは正解だから、一概に無関係とも言えないけど」
モモは爪を弄びながら、他人事のように鼻で笑った。
「報復……? 記憶を失った私が、何をしたの?」
「調べてみたら、山田さんのせいでみいちゃんが宮城に勝手に帰るような事になったことでさぁ。ウチの管轄でしか生きていけないような人間だったのに」
モモの言葉に胸が騒ぐ。みいちゃんが東京を去り、死の地となった宮城へ向かった原因が……私?
山田自身、何らかの理由でみいちゃんに関わり、彼女を追い詰めるか、あるいは連れ出そうとしたのだろうか。
だが、思考を巡らせるうちに違和感が重くのしかかってくる。
モモが私を邪魔だと思い、真実の発覚を恐れているのなら、コーヒーに毒を混ぜてあのまま息の根を止めることもできたはずだ。にもかかわらず、私はこうして生かされ、わざわざ別の場所へ連れてこられている。
山田の中に、彼女たちがまだ利用価値を見出している何かがあるということだ。
それに、一目につく場所でターゲットを薬物で眠らせ、速やかに回収し、こんな厳重な控室へと連れ込む手際……ただの一キャバ嬢に過ぎない人間に、ここまでの準備と実行ができるはずがない。
「貴方って何者なの? こんなことをただのホステスが出来ると思えない……」
この問いに、モモは楽しそうに目を輝かせた。
「そうだよ? ただのホステスじゃないから、わざわざ山田さん捕まえに来たのよ」
彼女は立ち上がると、控室の厚い防音ドアの鍵を閉め、重いカーテンを引いて窓を完全に遮断した。密室と化した部屋の中で、モモはテーブルの上に1枚の大きな紙を広げる。
それは、見慣れた新宿・歌舞伎町周辺の地図だった。
しかし、その地図には異様な加工が施されていた。歌舞伎町の境界線をなぞるように、太い赤線が町全体をすっぽりと囲い込んでいる。まるで、外の世界からこの街を隔離する「檻」のように。
地図を指差し、モモは嘲笑を浮かべた。
「昔から言うじゃなぁい? 『クサい物には蓋をしろ』って。実際、そんなことやっちゃったのがここってわけ」
「……何の話をしてるの?」
「ここは東京新宿歌舞伎町。でもね山田さん、ここが普通の夜の繁華街だったのは……もう数十年前までの話なのよ」
モモは地図の中央をトン、と指先で叩いた。
「数年前、この場所は国家の法規が及ばない特別地区に指定されて……後から、街ごと完全に切り離された『隔離所』になったの」
モモは少し前の話をする、最近の日本は金が有り余っているというか変なことをするというカ……町その物を改装して一つの時代を再現しようとしたプロジェクトが建てられたらしい。
この歌舞伎町も数年前出来たばかりの「2012年の歌舞伎町」らしい。
「じゃあ、実際はは西暦何年?」
「2075年だよ、ここで生きてる人には関係ないことだけど」
つまり自分達は全員記憶を失う前から、特定の時代を再現した箱庭と化した歌舞伎町で過ごしていたらしい。
それが山田達に何の関係があるのかという話だが、モモは次にすぐ近くの町を見せる……東京辺りなのは確かだが。
「四年前にここを管理してた奴がやらかして色々調整が入った、前々からそういう考えはあったんだけどそれが決定的になった……まあ要は、ダメ人間を全部特別地区に入れて隔離しておいた方が平和なんじゃなぁい? って理屈!」
「なっ……」
つまりこの場所は……みいちゃんは、山田は、この日本で人為的に造られた掃きだめで過ごしていた?
何かしら問題のある人間はこの場所に追い込まれてずっとそこで生活……?
いや、いくらなんでも世界観がめちゃくちゃになりすぎてからかわれているようにしか見えない。
そう思いたいのにモモの目が本気すぎる、余裕そうだがあれはまるで狂人の目だ、彼女は完全にこの問題だらけの場所に適応している。
「……い、いや、やっぱり信じられない、私は断言できないけどココロさんみたいなまともな人だって……」
「ああ~ココロちゃん? あれほんと面白いよね、世の中には居るんだよ……下を見て安心したい為にわざわざここに引っ越してくるような小物が!」
ココロにさえもこの言い草、多分本人にこれを聞かせたら殴り合いで済まないことだろう……モモが言うには、ここに来るような人間なんて所詮こんなものだという。
周囲に迷惑をかけないように入れられたもの、普通を勘違いした人、見上げる事しか出来なかった人、諦めた人……。
だったら、こんな風に同じ穴の狢でありながら全方位を見下したような態度をとれるモモはどんな立場というのか?
ここを隔離地区とする場合……それを管理する人間がいる。
「まさか、貴方は……」
「まあそういうこと、表向きは明かせないけど……私の本当の名前は花岡桃花、少し前には名家なんて言われてたけど、落ちこぼれの集まりに上級階級の落ちこぼれが管理を任されたというわけ」
あまりにも淡々と自虐ネタを放つモモ……改めてどこまでが本当なのか分からないが、要するに彼女はこの箱庭の管理者的な存在で、自分がみいちゃんを宮城に帰すような発言をしたことで苛立っている……そういうことらしい。
「……それで? 私に会いに来たのなんてみいちゃんの事なんでしょ、何がしたいの?」
「こちとら向こうの東京特別地区で管理者やってたある女がトンチキやらかしたせいで周りで波風を立てないを意識してたんだよ、それをお前がさぁ〜? 新宿から出すような真似したどころか殺人事件に発展とか本当に頭痛いわけ」
「……そう、だから代わりに私でも裁くの? きっかけになった私を……」
「うーん……まあ最初はその気だったよ? でも記憶喪失のやつ責任取らせたところでなぁって感じ、それに都合よかった」
モモはあくまで自分を逃がすつもりはないだろう、蛇が巻き付いているかのように肩に手を伸ばしてこっちをじっと眺めてくる。
「山田さんはこの歌舞伎町で好きに動ける権利をあけまる、ただし……みいちゃんを殺したやつ絶対に突き止めること、そして生きたまま私の所に連れて来ること、それさえ守れば全面的に手を貸してあげるよ」
「……結局、私をハメたいわけじゃないんだね」
モモの言葉を反芻しながら、私は喉の奥に残る苦い後味を飲み込んだ。
彼女の思惑がどうであれ、この隔離された歌舞伎町という箱庭で、みいちゃんという存在が持つ意味は大きかったのだろう。
普通の世界では生きていけない人間を閉じ込め、社会の秩序を保つための実験場。そこで最低限の「普通」を演じることすら破綻した人間たちが集まる場所。
けれど、下を見ればどこまでもキリがない。みいちゃんをこの街から出さず、ずっと留めておくべきだった——それがモモたちの失態であり、この特別地区の管理において致命的なマイナスだったのだ。
「私が手を組まない可能性だってあるんじゃないの?」
私が半信半疑の眼差しを向けると、モモは煙草の煙をふっと天井へ吐き出し、口元を歪めた。
「今の山田さんはみいちゃんのことを知りたいわけだから、私にとってはどちらも同じことだよ」
その冷ややかな瞳に見つめられ、私は言葉を詰まらせた。
断れる雰囲気など微塵もない。ここで彼女の提案を拒絶したところで、次に何をやられるか分かったものではないのだ。毒を盛られて意識を飛ばされた恐怖が、未だに体に残っている。
「山田さんは今お金も身分証もないんでしょ? 何の助けも無しにこれからどうするのかな。そっちもよその県でバックレたら本当に誰かに殺されるかもしれないし」
「……じゃあ、もう1回エフェで働くことって」
「辞めるって言ったのはそっちだし、成績悪かった人を入れる余裕ってないし」
あっさりと切り捨てられ、私は思わずため息をついた。かつての自分がどれほど使えないキャバ嬢だったかを突きつけられるのは、地味に精神へ来る。
「……何か凄いことしてるのに、よくキャバ嬢をしてられるね」
「逆だよ、キャバ嬢でもしてないとやってられないよこんな生活」
モモは自虐的に笑うと、ポケットから小さな紙切れと古びた金属の鍵を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
「それ、山田さん家の住所。普段こういうことしちゃいけないけど、特例中の特例で黙らせて用意させた」
「……あ、ありがとう……」
「礼なんていらないよ。とにかく、約束は守ってね」
表向きには余裕を崩さないモモだったが、その仕草の端々からは焦りと苛立ちが透けて見えた。
みいちゃんの死と、この街の秘密。
表の正義感などではなく、この異常な箱庭を守るための「管理者としての責任」のようなものが、彼女を突き動かしているのかもしれなかった。
もし彼女を裏切ったり、しくじったりしたら自分はどうなってしまうのか。寒気を覚えながら、山田は紙切れと鍵をポケットに押し込んだ。
控室の裏口から暗い路地裏へと送り出される際、モモは足を止め、振り返ることなくぽつりと呟いた。
「十二郎とか名乗った男には関わりすぎないほうがいいよ」
それだけ言い残すと、彼女は重い鉄の扉をピシャリと閉めた。
夜の冷気が頬を刺す歌舞伎町の裏通りを抜け、私は渡された紙切れの住所を頼りに歩いた。
雑居ビルが立ち並ぶ区画の奥、古びたマンションの一室。鍵を差し込むと、カチャリと軽い音がしてドアが開いた。
埃っぽい匂いの立ち込める部屋。ここが、記憶を失う前の私が生活していた場所なのだ。懐かしさすら湧かない自分の部屋で、私はポケットの中で小さく振動したスマートフォンを取り出した。
画面に表示されていたのは、十二郎からのメッセージだった。
『メールを開いているということはこの家に来てしまったということ、花岡桃花はお前を殺す、関わってはならない』
「……え?」
液晶の光を見つめたまま、山田は固まった。
(え……? いや……ちょっと、せめてこういうのは同業者であってほしかったというか、こういうところで対立までされると本当にみいちゃんどころじゃなくなってくるけど……)
背筋に冷や汗が伝う。
久しぶりに自分の家へ戻ってきた早々、強烈な命の危険を感じざるを得ない。モモは十二郎に気をつけるよう警告し、十二郎はモモが私を殺すと警告してくる。どちらの言葉を信じるべきなのか、あるいはどちらの側についても私の安全など最初から保証されていないのではないか。
「……とにかく、今はみいちゃんを殺した容疑者を絞るのが先決だよね……」
頭の中で渦巻く疑問と警戒心。みいちゃんの死、警察に捕まったという母親、違法薬物と拷問の痕跡、そして歌舞伎町を裏で支配する存在。手がかりを整理しようとしても、情報が多すぎて思考がまとまらない。
その日は結局、一息つくこともできず、部屋の隅で膝を抱えたまま悶々と夜を過ごした。
疲労と混乱が限界に達し、まどろみのような浅い眠りに落ちたのは、東の空が白み始めた頃だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ふと肌寒さを覚えて目を開けた瞬間、山田の心臓は跳ね上がった。
薄暗い部屋の中、私の寝床のすぐ脇に——見知らぬ妙齢の女性が立ち、じっと私を見下ろしていたのだ。
「ぎゃあああああああモモさん助けて!!!」
恐怖のあまり、山田は情けない悲鳴を上げて跳ね起き、そのまま畳の上に転がり落ちた。
しかし、侵入者であるはずのその女性は逃げる様子も危害を加える様子もなく、至極当然といった落ち着き払った様子で、困惑する山田に話しかけてきた。
「貴方……何をそんなに怖がっているの? ママのことがわからないの?」
「え……え!? ママ!?」
床に尻餅をついたまま、山田は絶句してその女性を二度見した。
……
「はぁ、へぇ……そう、つまりしばらく家に帰ってなかったのは記憶喪失で、財布も何もかも持ってなかったから家の場所も知らなかったと」
「……で、本当に確認したいけど貴方が私の母親で間違いないの?」
「そうよ、ついさっき一緒に家に入ったのに全然気付かないまま寝だしたからどうしようかと思ったけど」
「ああ……ちょっとこっちも色々ありすぎてさ……それで? 用件は何?」
「……本当に忘れてるならいいわ、あんな事まで忘れてるならこっちも言う必要がなくて助かるし」
あんなに自分に執着していそうだったのに自分が何もわからなさそうだったらすぐに退散した。
関心がないのだろう、自分が記憶を失う前の山田にしか……母親にしても随分薄情だとは思ったが、これまで出会ってきた女たちが全員ヤバかったことを考えると無視してくるだけなのはまだマシな方かもしれない。
改めて寝ようとした時、モモに言われた歌舞伎町の真実が頭によぎる。
「でもあの母親、私をこの掃き溜めみたいな場所に住まわせたんだよな……」
「貴方が一人暮らししたいって言ったから許しただけで特別地区に住み込むなんて思ってるわけないでしょ」
「うわっまだいた!!!」
その日はずっと山田ママが張り付いていたので寝れなかった。
——
「頭痛い……」
「貴方まさかホームレスだったの? ろくに睡眠も取れてないしちゃんと栄養も」
「いい加減帰りなよ!! お前のせいで寝れなかったしず何をずっとここに籠もって……ああいや、私ほぼ失踪してたみたいなものだし気持ちは分からなくもないけどさ……」
朝になってもまだあいつがいた、十二郎の方が家に帰らないように借家を用意したり、逆にモモがこの家に誘導した理由が何となく分かるかもしれない。
それにこの人もなんとなく……本能的だが、あまり関わりたくない気分になってくる、生理的嫌悪というのか、顔を見ているだけで恨み、憎しみ……何より恐れを感じる。
(恐らくはこいつも……)
だから山田はそそくさと席を離れてまた家を出ようとするが強く肩を掴まれて止められる。
「こんな時間からどこに行く気なの?」
「こんな時間にやることもなさそうな人は黙っててよ、私だってやりたいことはあるんだから」
「……貴方、本当ははっきりと覚えてるんでしょ? あんなドブネズミみたいな女をまだ友達と呼んでいたりとか」
「……本能でなんとなく気味悪いと思ってたけど、お前……みいちゃんが死んだこと何か知ってるな?」
まさかとは思う、記憶を取り戻したとき……この『母親』が親友の死に関わっていたとしたら……。
だが、今の『山田』には関係ないことだ……何故なら、忘れてしまった今から見ればあんな女などただの他人だから。