ここで目覚めるまで、何回ぐらい周囲から見たみいちゃんの話を聞いてきただろうか。
何回以上、自分にとって親しい友かもしれない娘を悪く見てきたような評価を知ったのだろうか。
自分が一番みいちゃんの事を見てきたかもしれないのに、それを思い出せない。
この歌舞伎町で知ったのは、おぞましくも醜いこの世界のあり方と、みいちゃんがどれだけそんな空間に適切なほどの人間だったのか……山田にとっては知ったことではないが。
「貴方も知っているんだ、みいちゃんの事」
「貴方が友達と言って連れ帰ったのよ、正気を疑ったくらいには鮮明に覚えているわ」
冷ややかな視線を投げかけてくる母親の態度に、胸の奥が不快感で重く沈む。
みいちゃんのような人間は世界が違う。
受けてきた教育も、歩む道も、衣食住も、認識するものも……そして死に場所さえも、すべてが違う。
そんな人間とは一生分かり会えないものだ、それほどの境界線が山田とみいちゃんにはあった。
実際そうしてあの子は常人ではあり得ないような形で死んだ。
そんな交わらないはずの人間と歌舞伎町で出会ってしまったのが、記憶を失う前の山田らしい。
「世の中一見すると終わってるような人間なんていくらでもいる、みいちゃんと付き合いがあることの何がいけないの? 私の人生というブランドが穢れるわけでもないのに」
山田が言い返すと、母親は呆れたように短く溜息をつき、侮蔑を込めた笑みを浮かべた。
「手っ取り早く分かりやすい答えを求めている顔ね、いいわ……貴方でも『ラジオ体操』は知ってるでしょう、ラジオ体操が何のために行われるのか分かる?」
「何のためって……簡単に誰でもできる形で体を整える為じゃないの?」
「個人に対する効果はそれで充分よ、集団的な目的としては……短い時間で簡単に無能を割り出すことが出来るからよ」
母親の言葉は、氷のように冷たく淡々としていた。
ラジオ体操というものは見方を変えれば指示される内容通りに体を動かすという行為であり、言われた通りのことを問題なく行うという大人になった先で必ず行われる行為だ、つまりは運動以上に一種の教育的な側面もある。
しかしだ、世の中にはラジオ体操さえも出来ない人間というものがいる……それが常識的な思考では想像だに出来ない下の人間。
決められたリズム通りの動きも維持できない者、やる気が見えないもの……何よりそれがどんなにやり直しても改善の兆しが見えないもの、つまりは簡単に決められた通りの事さえも出来ない人間が世の中にいる。
せいぜい1回3分程度、これだけの事が出来ないだけでもその人の人間性が決まる、分かってしまう。
実際、ラジオ体操を行う企業などもありそれが正確に果たせていないというだけで仕事をさせてもらえない所もあるという。
「ママはね、ケーキを三等分でとかよく聞くけど交友関係やケーキを食べた経験による詭弁では人間性を判断しないわ、でもラジオ体操だったら日本人なら絶対一度は経験するのよ、そして理解するべきよ……常識とされることさえ『できない』人間が平然と同じ目線になったつもりでいることを」
言葉の裏に見え隠れする選民思想と、みいちゃんという存在そのものを根底から否定するような言い草に、山田は言葉を失う。
(それこそ詭弁じゃないのか……?)
まさか、本当に自分の母親がみいちゃんの死に関与しているのか?
そうでなくともこの人は今まで見て来た中で一番……記憶の中で良く思っていない。
まだ疑いの範囲だが、負の側面で一番この人であってほしくない。
母親の本質にある歪んだ選民意識と、平気で人を見下す冷酷さ。もしこの手がみいちゃんを追い詰め、あの惨劇を引き起こすきっかけになっていたのだとしたら——背筋に嫌な汗が伝う。
「それとこの部屋もさっさと片付けておきなさい、ほんの少しでもあんな友達と同棲していたなんて……」
母親が吐き捨てるように放った一言に、山田の思考がピタリと止まった。
「……同棲?」
聞き間違いではない。母親は今、はっきりとそう口にした。
こんな所にもずっと残っていた、みいちゃんと山田を繋げてくれる、貴重な痕跡……。
「そうよ。貴方が勝手に連れ込んできて、二人でだらだらと気味の悪い共同生活を送っていたじゃない。思い出すだけで虫酸が走るわ」
母親は部屋の隅に溜まった埃や、乱雑に置かれた生活用品に蔑むような視線を向けながら、吐き気をもよおすかのように顔を顰めている。
だが、山田の頭の中は別の感情で満たされていた。
ただの職場の同僚でも、たまに遊ぶ程度の友人でもなかった。
自分とみいちゃんは、この部屋で、同じ時間を分け合い、同じ屋根の下で暮らしていたのだ。
キャバクラで落ちこぼれと呼ばれ、社会の「普通」からも弾き出され、この特別地区という檻に閉じ込められていた二人。けれど、この部屋にいる間だけは、二人だけの確かな「居場所」があったのではないだろうか。
母親の排他的で冷酷な言葉が、どれほど二人を追い詰めたかはわからない。
けれど、かつての自分がリスクを犯してまでみいちゃんをここに連れ帰り、一緒に暮らすことを選んだという事実。それだけは、どんな理屈や暴論で踏みにじられようとも消せない、ふたりの絆の証明だった。
「……出ていってよ」
低く、絞り出すような山田の声に、母親は眉をひそめた。
「なにか言ったかしら?」
「私に指図しないでって言ったの。片付けるかどうかも、思い出すかどうかも私の勝手でしょ……! さっさと帰って!!」
山田の強い目力に一瞬圧されたのか、母親は不快そうに唇を噛み締めると、取り付く島もないといった様子で小さく鼻を鳴らした。
「……好きにしなさい。どうせ貴方も、あんな子と同レベルまで落ちぶれていくのがオチなんだから」
捨て台詞を残し、ヒールの音を荒々しく響かせながら、母親はドアを強く閉めて出て行った。
静まり返った埃っぽい部屋。
山田は力なくその場に膝をつき、小さく息を吐き出した。
歪んだ社会、特別地区の秘密、モモや十二郎の思惑、そして実の母親が抱く悍ましい差別意識。歌舞伎町の闇は、調べれば調べるほど深く、底が見えない。
けれど、部屋のどこかに残っているはずの「みいちゃんと暮らした時間」の温もりだけが、今の山田にとって唯一の道標だった。
「みいちゃん……私、やっぱり逃げないよ」
山田はポケットからみいちゃんと写った一枚の写真を取り出し、指先でそっと擦った。
失われた記憶の向こう側で、自分が命がけで守ろうとした真実を確かめるために。山田は再び、この歪んだ街へ踏み出す覚悟を固めていた。
——
母親がいなくなった後……改めて自分の部屋を確認する。
昨日は疲れてすぐに寝たので部屋を確認するヒマもなかったが、改めて自分と……みいちゃんが居た場所を確認すると、真っ先に目に留まったのは小さなケージだった。
「え!? 私の家ペット飼ってたの!? あ……あ! そういえば!!」
山田はまた最初の写真を見返す……そういえば自分とみいちゃんの間にハムスターが写っていたはずだ、名前ももう1個書いてあった……【ハムカツ】と。
字がみいちゃんと同じものなのでみいちゃんが飼っているのだろう、おそるおそる檻を確認すると、そこにはぐったりとしたハムスターが横になって……。
「うあああああああああ!?」
この手の死が無理なタイプだったのか思わず腰が抜けるがよく見るとぐったりしているだけだ。
「い……生きてる!? よかった、でもなんで……足が折れてる!? 誰がこんな酷いことを……みいちゃんか私じゃないといいけど」
ハムカツにどうにか餌や水を与えて大人しく処置させた後……改めて周りを確認する。
途中で宮城に帰ってしまったのだから当然だが、みいちゃんの荷物は殆どのこっていない……。
ただし残されたものもあり、山田は笑みがこぼれる。
「みいちゃん……」
それはみいちゃんがいつまでも自分を忘れないようにするためか、それとも心が繋がっていることを示すためか……日記が残っている、おぼつかない字で色んなことが書いてあった。
たまに喧嘩したり、色んなことを教えてもらったり、みいちゃんを色々手助けしてパン屋のアルバイトに成功して……キャバクラを抜けてから順風満帆に進んでいたはずなのに何かきっかけがあって別れ……そのまま亡くなってしまった。
あの頃に戻りたいが戻ったところでそれは記憶を失う前の山田だ。
「決定的な何かがあったとして、どうして……」
山田が辺りを探す手が止まる……それは一見するとただのプラスチックのマグカップのようにも見える、しかしそれには……絵が描かれていた。
そして更に手紙が、カップの中に入っていた。
『やまださんへ みいちゃんにすてきなカップありがと! みいちゃんをわすれないように たからものをひとつおいていきます!』
「……そっか、これを私が……」
経緯は分からないが自分が絵を描いてみいちゃんに渡した、それをみいちゃんが宝物と言ってくれた。
そして……そんな大事な物を自分との思い出の証として残してくれた、記憶を失ってからここまで嬉しいことは今までなかった。
山田はようやく……みいちゃんとの繋がりを形に残ったものとして実感することができた。
「私も……もう忘れないよ。みいちゃん」
もうこの部屋に泣き声は聞こえない。
夜はまだ明けないが、同じ人間として必ずしなければならないことがあると、強く思える夜だった。
その日はずっと、みいちゃんとの同棲生活があった形跡をかたっぱしから追った。
改めて考えると凄い思う、自分だけの生活が楽だからそうしたわけではないにせよ、それを続けていくということは本当に仲が良いことに他ならない。
一人暮らしをしていたところにみいちゃんを誘ってどんな風に過ごしていたのだろうか。
「……なんだこれ?」
色々探している最中に見つけたのは謎の紙の束と缶だ。
開封してみるとそこにはメモが挟まっていた。
「えーっと……」
山田はメモを見る……なぜか鉛筆で書いてあるので読みにくかったがなんとか解読する。
『ヤマダさんへ みいちゃんがちゃんとおしごとできたらおいわいしたいです、なにがいいのか あつまってみてください メモはいつもこうやってみんなくる しめはい やまだ』
そして別のメモ、最後に『しめはい』と書かれている。
メモの内容は様々なものが寄せられており、大抵が酒に関する話だった。
「お祝いの案出しにみんな使ってくれたんだ、……しめはい? ああ……」
山田は自分がいつもペンを持ち歩いており、そこにメモを書いているのでなんとなく意味がわかった。
たぶん山田自身がみんなにこういうことをやろうと言い出したのだ、そして自分が最後に『〆は○○』と書くというのが定番になっていたのではないか。
そしてそのメモを読んでいた山田は気づいた、この缶に大量のメモが詰め込まれているが、その殆どが綺麗に並べ替えをしようとか、ちゃんと靴を揃えようみたいな一般的なお約束事項である。
こんなときにあの母親が言っていた、人並みの常識も出来ない人間という言葉がフラッシュバックしてしまうが……。
「みいちゃんは違う……! ちゃんとアルバイトだって出来てたんだから、ちゃんと……普通に生きることだって」
「そうだよ!」
……声が聞こえた、いや。
夢を見るたびに……みいちゃんを知るたびに、少しずつ鮮明になっていく。
夢の中以外で、初めてみいちゃんの幻を見た。
「山田さんがここに来ればみいちゃんの事をしっかり見てくれると思った!」
山田の前におぼろげに映るみいちゃんは笑っていた。とても綺麗に、眩しいくらいの笑顔で佇んでいる。その姿はあまりにも鮮明で、現実の境界線が見えなくなってくるほどに、まるで彼女がまだ生きているかのような錯覚を抱かせた。それだけこの埃っぽい部屋には、みいちゃんと確かに過ごした時間の熱量と気配が、今も濃密に残っているのだろう。
「みいちゃんがちゃんとした仕事を出来るようになったのはね、山田さんのおかげなんだよ! よく思い出してみて!」
みいちゃんの幻像に導かれるように、山田は部屋をまたぐるりと見渡した。すると、かつて二人で生活していたその痕跡のすべてが、まるでキラキラと光を放っているように見えてくる。
机の引き出しから覗く、項目に穴だらけの不器用な履歴書。何時間もかけて無数に修正を重ねたスケジュールの用紙。そして、生活習慣や言葉遣いを整えるために山田が残したと思われる、矯正用のメモの数々。
「山田さんが建てた予定をみいちゃんちゃんと守ったよ! 山田さんがエフェ辞めたあとにちゃんとお仕事も教えてくれたよ!」
キャバクラでも落ちこぼれと呼ばれ、社会の「普通」から弾き出されていた二人。みいちゃんにとって、自分はどれだけ役に立てただろうか?
自分は胸を張って、彼女を立派な人に育て上げることができたのだろうか。
しかし……その問いに対する答えは、もう二度と聞くことができない。どんなに叫んでも、みいちゃんは既にこの世を去り、おぞましい形で命を奪われてしまったのだから。その冷酷な現実を突きつけられるたび、山田の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「みいちゃん、私どうすればよかったのかな……みいちゃんに何をしたのかな……みいちゃんを殺したやつを見つけても、私どうすればいいか分からないよ……」
部屋の片隅に膝を折り、嗚咽を漏らす。
かつてこの場所で二人で身を寄せ合い、ルームシェアをしていたあの時間が、どれほど愛おしく楽しかったかという思い出の欠片が鮮明に浮かんでくる。だが、もう二度とそんな穏やかな日々が戻ってくることはない。失われた記憶を取り戻したところで、山田の胸に残るのはどこまでも底のない空虚さだけだった。
そんな立ち尽くす山田に、みいちゃんの偶像は優しく微笑みかけ、あの宝物のプラスチックコップをその手に握らせた。
「山田さんにはこれがあるよ! みいちゃん、山田さんにいっぱい絵を描いてほしい! ……山田さん、これだけは覚えて。みいちゃんにだけ教えてくれた、大切な夢」
みいちゃんの幻影が示し、導いた先——そこには、使いかけの原稿用紙と、インクの匂いがかすかに残るペンが用意されていた。それらは、かつて山田自身が日常的に使っていたものだった。
自分は……漫画家になろうとしていたのだ。
原稿用紙の白い紙面を見つめた瞬間、脳裏の霧が晴れるように、またひとつ大切な記憶が鮮やかに蘇ってきた。
——あれは、夏の夜のことだった。
夜空を鮮やかに染め上げる大きな花火の音と大輪の光。その横で、誰にも言えなかった自分の本当の夢を、山田は初めてみいちゃんだけに打ち明けたのだ。
その景色と思い出がフラッシュバックした途端、山田の頭の中がゆらりと変な感覚に包まれていく。これは単に忘れていた過去を「思い出して理解した」というレベルのものではない。自分という存在の根底が、急速に塗り替えられていくような、恐ろしいほどの強烈な自己の認識。
『私が描いたものを誰かに読んでもらって楽しんでもらうこと、それが私の「幸せ」なんだ』
『すごーい! じゃあさ、いつかみいちゃんの事漫画にしてね!』
二人が生きていたのは『2012年の歌舞伎町』という名の隔離された箱庭、社会に馴染めない「普通」ではない人間として追いやられた、はみ出し者の世界。
しかし、そんな社会的に問題とされ、差別されるような自分たちだって……人並みに近いような幸せを掴みたかった。あの日、覚悟を決めて語った自分の夢を、目の前で心から純粋に肯定してくれたみいちゃん。その無垢な笑顔に向けられた時、山田の胸は間違いなく、激しく高鳴っていたのだ。
部屋に残されていた思い出と記憶のすべてを頭に刻み込むと、山田は震える指先でスマートフォンを取り出した。
そして、この渦中で自分に警告を投げてきた協力者——十二郎に向けて、短くメールを打ち込んで送信する。
『私は自分の部屋に帰るべきじゃなかった、こんなにも早くみいちゃんとの思い出を知るべきじゃなかった』
画面から目を離し、手元に残された手描きカップと原稿用紙を抱きしめながら、山田はポツリと呟いた。
「だって私は……いなくなってから今更みいちゃんに対して、こんなにも……胸が張り裂けそうなほどに恋しくて……恋している……」
失われた記憶を取り戻させ、犯人を突き止めさせようと、この部屋や住所へ彼女を導いた者たちがいた。だが、その者たちから見れば、今の山田が見せた反応は、完全にボタンを掛け違えたかのような歪んだ結末だったのかもしれない。
しかし、今の山田を支配している情動を、あえてこう表現しよう。
恋は盲目、と。
——
別の日、情報をまた集めるために……今度はちゃんとみいちゃんを殺した容疑者を探すために十二郎の所に行くが、メールの内容からもう既に母親と遭遇してしまったことは察しているらしい。
「……何もされてないか? はっきり言って心苦しい相手だっただろう」
「いえ、私が記憶喪失とわかると関心を無くして出ていってくれましたけど」
「そっか……なら、今は忘れてるだけいいほうか、ただし結構トラウマとかあるから覚悟したほうがいいぞ」
「大丈夫です、思い出していくという事はそういうこともあるって受け入れていますし……それに」
山田は胸に手を当てる、あの時思い出したことは自分にとっても変な感覚だが……それを悪くないとは思わない。
だが、あれだけで一瞬のうちにみいちゃんに対する認識が変わった。
「私があの部屋に行ったことで……私もみいちゃんもこんなにも『特別』なことを知った……自分でもおかしくなっちゃったのかもしれないけど、この心まで否定したくない……」
「……えっ」
そして、その様子を山田の部屋に招き入れた元凶であるモモも覗いていたが。
「……なんでそうなっちゃうかな?」