『着せ恋』だと思った? 残念『呪術廻戦』でした! 作:自分のことを五条新菜と信じている(文字数
互いに領域が展開され、十数秒程度の出来事だった。
《無量空処》の外殻に、亀裂が走った。
一本だったそれは瞬く間に枝分かれし、閉じた領域を外から食い破っていく。
黒い球体が、砕け散る。
同時に、《伏魔御厨子》の斬撃が五条悟へ殺到した。斬撃が重なるたび、その身体から血が散る。
だが、次の斬撃が届く頃には、最初に開いた傷はもう塞がっていた。流れ出した血が止まり、抉られた肉も見る間に元の形へ戻っていく。
宿儺が踏み込む。五条悟も地を蹴った。
斬撃に身体を刻まれながら宿儺の拳をいなし、返す掌底で相手を揺らす。続けざまに蹴りが交差した。
五条悟の領域が消えてなお、攻防は途切れない。
その最中、宿儺の視界に消えない人影が映った。
先ほどまで自分と打ち合っていた少年。片目は潰れ、一方の腕はすでにない。原形を失った着ぐるみも全身も、元の色を探すのが難しいほど流れた血で濡れている。
それでも、立っていた。《伏魔御厨子》の斬撃は止まっていない。宿儺が見ている間にも、少年の身体へは新たな傷が走っている。
その程度なら、まだ宿儺には許容できた。目の前の五条悟も、反転術式を最大限回しているとはいえ似たようなもの。領域に一時的に耐えることは、不可能ではない。
問題は、少年の後ろ。六つの影が残っている。そして、誰一人欠けていない。それどころか、一太刀も斬られた痕跡がない。
「……ほう」
自然と声が漏れた。宿儺の目が細まる。
何かが起きている。そう意識を向けた。
その一瞬、僅かに動きが遅れた。
◆
一拍。
五条悟にとってはそれで十分だった。宿儺が何に気を取られたかなど知る必要はない。開いた懐に身体を滑り込ませる。
宿儺が腕を引き戻すより早く、呪力を乗せた拳が鳩尾へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃。
宿儺の上体が折れる。その身体が退くより先に、五条悟が一歩。二撃目は、宿儺の腕に受け止められた。
五条悟は押し返された腕を流し、そのまま角度を変えてもう一度踏み込んだ。宿儺も即座に応じる。
その最中、宿儺の動きに乱れが生じた。引き戻しかけた腕が、ほんの一瞬もたつく。
「僕を相手に、舐めすぎじゃない?」
追撃の一撃。宿儺の足捌きが、半拍遅れた。
呪力はある。出力も落ちていない。それなのに、動かそうとした身体が意図どおりについて来ない。五条悟の目には、そう映った。
宿儺自身も無視できないと気づいたのだろう。眉間に皺が寄り、舌打ちをした。
その瞬間、《伏魔御厨子》の斬撃が乱れた。
「忌々しい……!」
「悠仁に負けそうじゃん」
不敵に笑って五条悟は拳を握る。打撃が入った。
領域そのものが、大きく揺らぐ。斬撃が途切れ、御厨子に罅が走る。
宿儺が距離を取ろうとして、今度こそ続かなかった。
領域が崩れる。纏っていた呪力が揺らぐ。宿儺がもう一度腕を上げようとして、その手が途中で落ちた。身体が大きく傾き、片膝をつく。
荒い息を吐いて俯いていた顔が上がった。そこに、黒い紋様はなかった。
「……五条、先生……?」
拳を止めた。
「おかえり、悠仁」
◆
斬撃が止まった。すぐには、そのことに気づけなかった。
次が来る。そう思って身体を強張らせたまま、ただ耐える。けれど、いつまで経っても新しい熱が増えない。
ずっと《無限》全体に押しつけられていた重さも、嘘みたいに消えていた。
──止まっ、た……?
耳鳴りが酷い。片方しか残っていない視界も赤く滲んでいて、何が起きたのかなんて全然分からない。
宿儺は? 五条悟は?
そこまで考えて、すぐに頭から追い出した。
違う。今、確かめるのはそっちじゃない。
身体を捻って、後ろを見る。
一人、二人、三人と目で追う。視界に、喜多川さんが映った。その周りに菅谷さん、八尋さん、山内さん。森田君と柏木君もいる。全員、いる。
喜多川さんが何かを叫んでいた。口が動いているのは分かるのに、耳鳴りに邪魔されてほとんど聞こえない。
でも、立っている。みんな、自分の足で立っていた。さっきまでなかった傷が増えている人もいない。誰も、斬られていない。
「……よかっ、た……」
声になったのかも分からなかった。
胸の奥で、ずっと張り詰めていたものが切れる。途端に、身体から力が抜けた。
「ごじょー君!!」
今度は、かろうじて聞こえた。傾いていく視界の中で、喜多川さんがこっちへ手を伸ばしている。
間に合った。みんな、生きてる。それだけ分かれば、もう十分だった。
地面に倒れる感覚すらないまま、俺の意識はそこで途切れた。
◆
倒れかけた若菜の身体を、海凛が両腕で抱き止めた。その細い腰に、ずしりと力の抜けた者特有の重みが掛かる。
支えようと踏ん張った足が、その重みに耐えきれず折れた。若菜の背中へ腕を回したまま、海凛はその身体を抱えるようにして路面に膝をつき、そのまま座り込む。
背中に回した腕と彼女の胸元には、生温かいものの広がる感覚があった。
いやでも鼻腔を突き抜ける鉄のにおい。数えるのも億劫なほど刻まれた無数の傷。そこから流れ続ける血が、彼女の裂けた衣装を伝ってその身体まで濡らしていた。
「ごじょー君……!!」
返事はない。ぐったりとした身体は、自分で支える力を失ったまま彼女の腕の中に預けられている。
息をしているのか、していないのか。僅かとも動かない背中に、彼女の顔は青を通り越して白くなっていた。
「ごじょー君!! ねぇ、ごじょー君……!!」
身体を揺さぶろうと、背中へ回した腕に力を込める。
けれど、できなかった。腕の中でずれた若菜の姿が、嫌でも目に入る。
髪の下に除く白い皮膚。鮮やかなピンクと赤黒いほどに濁った瘡蓋。瞼を断つように線が走り、ぱっくり割れたその下からはゼリー質のナニカが溢れそうになっていた。
片腕が失われ、海凛の腕にかかる重みは右側に偏る。もう片方もかろうじて繋がっているような有様で、彼女の腿から外へ力なく垂れ下がったそれの途中から、滴る血が絶え間なく路面を叩いていた。
彼女の背後、何人かが不意に顔を背けた。一歩、二歩とふらつくように離れたところで、あるいはその場で膝をつき、そのまま堪えきれずに吐き出した。
「……やだ……」
原形も分からないほど裂けた着ぐるみの下には、その破片が張り付く斬創。最早血に浸かったとしか言えないような惨状に、声が震えた。
他の誰もが、すぐには動けなかった。
滴る赤い音が、耳にこびりつく。
ほんの数分前まで、異常な状態とは言え五体満足であったはずの五条若菜。彼女が想いを寄せる最愛の人が、ほんの数秒前まで目の前でその身を文字通り削られていた。
その光景の意味が、理解ができなかった。まるでタチの悪い夢かと思ったほど、現実味に乏しかった。
悲鳴も、嗚咽も、上がらなかった。ただただ悪趣味な映画を見せられているかのように、今ここに至るまで何も感じられていなかった。
だが、重みを感じた。熱を感じた。においを感じた。
目の当たりにしたものが真実であると、分からされた。
「……ごじょー君……」
返事はなかった。
これまでなら、どれだけ小さな声で呼んだとしても気づいてくれた。振り向いて、少し困ったような顔をしながら、それでも次に何を言うのかを待ってくれた。
そんなやり取りを、特別なことだと思ったことなど一度もなかった。名前を呼べば返事がある。あまりにも当たり前すぎて、なくなる可能性など考えたことすらなかった。
その唇が、もう一度同じ形に動く。けれど、喉の奥までせり上がった声は、そこから先に出てくれなかった。
呼んで、それでも返事がなかったら。もう一度呼んで、それでも何も返ってこなかったら。
繰り返すほどに、必死に頭の外へ追いやっていた何かが、否定のできない現実として形を持ってしまう気がした。
だから、もう名前を呼ぶことさえできず、ただ腕の中にある若菜の身体を離さないよう抱き締めていた。
「生きてるよ」
その沈黙を断ち切るように、声がした。
誰もが一斉に顔を上げる。海凛もまた、若菜を抱いたまま声のした方へ視線を向けた。
少し離れた場所。少年を支えた長身の男が、真っ直ぐこちらを見ている。
「まだ、生きてる」
あまりにも迷いなく告げられたその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
視線が、腕の中へ戻る。
これほどまでに壊れていて、何度呼んでも何も返してくれなくて、それでも、生きている。
何よりも信じたいはずなのに、目の前にあるものが、その言葉を素直に受け入れることを許してくれなかった。
「……ほん、とに……?」
喉の奥から、ようやくそれだけが零れた。
男は、迷いもなく頷いた。
「うん」
その返事に何の根拠があるのか。
そもそも、この男が誰なのか。
そんなことすら、彼女には分からない。
「だから、そのままでいて。動かさないで」
けれど今は、五条若菜がまだ生きている。その言葉だけに縋った。
小さく頷くと、腕の中の若菜を離さないまま、背中へ回した腕にもう一度力を込めた。
◆
しばらくして、瓦礫を踏む複数の足音が近づいてきた。
駆け寄ってきた大人たちが、誰なのかは海凛には分からなかった。何かを尋ねられたような気もしたが、幾つもの声が重なって彼女の頭にはほとんど意味のある言葉として届かなかった。
ただ、そのうちの何人かが彼女の傍で膝をつき、その腕の中へ手を伸ばしてきたことだけは分かった。
背中へ回していた腕に、思わず力が入る。
渡したくない。ほんの一瞬、そんな考えが浮かんだ。
ようやく自分の腕の中まで戻ってきたのに、今ここで手を離したらまたどこかへ行ってしまうような気がした。
けれど、先ほどの男の言葉が頭に残っている。
まだ、生きている。ならば、自分がこうして抱いていることよりも、今はきっと他にするべきことがある。そう考えても、固まった腕はすぐには動いてくれなかった。
海凛は一度だけ強く目を閉じ、それから背中へ回していた腕を少しずつ緩めていった。
「……お願い、します……」
自分の声が相手まで届いたのかも分からない。何人もの手に支えられ、若菜の身体がゆっくりと離れていく。
ずっと感じていた重みがなくなる。途端に、両腕だけが不自然なほど軽くなった。
何も抱いていない手のひらには、赤い血だけがべったりと残っている。その手をしばらく動かすことができなかった。
何人もの大人が若菜を囲んでいる。傷を確かめているのか、何かを話しているのか。それすら海凛にはよく分からなかった。
ただ、先ほどまで自分の腕の中にあった身体が、少しずつ遠ざかっていくことだけは、嫌でも分かった。
追いかけなければ、と思った。路面へ手をつき、立ち上がろうと足に力を込める。けれど膝は震えるばかりで、身体を持ち上げることすらできない。
それでも、視線だけは離せなかった。
人の肩越しに見えていた若菜の姿が、一歩、また一歩と遠くなる。そのたびに見える部分が小さくなり、やがて何人もの背中に遮られて、完全に見えなくなった。
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
ほんの少し前まで、確かに彼女の腕の中にいた。
なのに今は、どこを見てもいない。
「……ごじょー君……」
零れた声に、返事はなかった。
当然だと分かっている。もう、声が届くような距離ではない。
分かっていながら、返事がないことが怖かった。
傍らから何かを言われる。誰かの手が肩に触れ、自分もここを離れるよう促されているのだと、遅れて気づいた。
頭に残っているのは、あの男が口にした言葉だけだった。
まだ、生きてる。その言葉が本当なのか、海凛には確かめようがない。
だから今は、次に会えた時、もう一度その名前を呼んだ時に、今度こそ返事が返ってくることだけを願っていた。
◆
その後、喜多川海凛たち六名は保護され、渋谷の戦闘区域から退避した。
何が起きたのかも分からないまま誘導され、怪我の有無を確かめられ、ひとまず身の安全を確保できる場所へと移されていく。
誰一人、普段の調子には戻っていなかった。自分たちが巻き込まれた一連の出来事を、すぐに飲み込めるはずもない。
それでも、全員そこにいた。
もう逃げ続ける必要はない。誰かに守られていなければ、次の瞬間にも命を失うような場所でもない。五条若菜が守ろうとした六人は、生きて日常へ戻れるところまで辿り着いた。
その瞬間、《空想置換》の規定した三つの縛りが効力を失う。
それらの縛りが五条若菜へもたらしていたものは、制限だけではない。呪術における縛りとは、何かを差し出すことで、別の何かを得る行為でもある。
使用目的を限定する。
守るべき者が害されれば、術式機能を永久に失う。
そして、その制約を自ら認知することも解除することもできない。
五条若菜が差し出していたものは、決して軽くない。
故に、その対価もまた、術師本人へと還元されていた。
六人を守るための《無下限呪術》。
その用途に限って、術式の維持、呪力効率、出力、そして処理の優先度には、本来の五条若菜だけでは得られない補正が掛かっていた。
広範囲へ《無限》を展開し続けられたことも、その状態で《蒼》《赫》《茈》まで使用できたことも、本来なら拮抗し得ない領域展開へ抗い続けたことも、《空想置換》だけで成立したものではない。
五条若菜自身が課した縛りによって得た対価を、《空想置換》が守護へ余すことなく振り向けていた結果だった。
三つの縛りが失われた今、その補正もまた失われる。
だが、失われるばかりではない。
縛りによって得ていた底上げが消えたとしても、五条若菜自身が積み重ねた経験までが消えるわけではない。
《無限》を広げること。
《蒼》の座標と出力を操ること。
《赫》を成立させること。
《蒼》と《赫》をぶつけ、外部で《茈》へ至ること。
一度は《空想置換》の補助と縛りにより支えられていたそれらも、実際に成立させた経験として五条若菜の内に蓄積されている。
呪霊から受け継いだ《理想》へ収斂する性質は、得られた成功と失敗を、その肉体へ急速に馴染ませていく。
それは、術式だけではない。
宿儺との攻防で身につけた間合い。踏み込みへの反応。呪力を乗せて拳を交える感覚。戦う術すら知らなかった少年は、今や怪物たちが立つ高みを、遥か下から見上げるだけの存在ではなくなっていた。
三つの縛りは役目を終えた。その対価として与えられていた力も失われた。
けれど、その力に支えられて掴んだものまで、手離すわけではなかった。
ぼくのかんがえたせっていみて!ってできたんであとは、巻きで。