『着せ恋』だと思った? 残念『呪術廻戦』でした! 作:自分のことを五条新菜と信じている(文字数
治療室の扉が開いた。消毒液のにおいと一緒に、家入硝子が廊下に出てくる。捲った白衣の袖を戻しながら、背後の扉を閉めた。
その扉の向こうで、五条若菜はまだ眠っていた。
廊下には、夜蛾正道、七海建人、伊地知潔高、そして五条悟の四人。若菜の治療が一段落するのを待つため、誰もその場を離れずにいた。
「どうだ?」
夜蛾の声に、廊下にいた四人の視線が家入に集まった。
家入はすぐには答えなかった。
扉から離れると、壁に肩を預けて短く息を吐く。顔色は悪く、目の下には人一人を治療したにしては濃い疲労の色が浮かんでいた。白衣の袖を戻す指先の動きも鈍い。少しだけ首を回すと、凝り固まった筋肉が小さく鳴った。
それからようやく、顔を上げる。
「生きてる」
それだけだった。
伊地知の肩が目に見えて落ちた。知らず詰めていたらしい息が、細く長く吐き出される。
七海は表情を変えなかった。だが、家入に向けた視線はそのままだ。壁に背を預けていた五条も、口を挟まない。
「……えっと……、それだけ、ですか?」
伊地知の声は、思ったより小さかった。
「今はそれで十分じゃない? ……まあ、傷はひどいよ。見れば分かると思うけど」
あの身体を見た者なら、聞き返す必要はなかった。
片腕は失われていた。残った腕も、形を保っているとは言い難かった。片目は潰れ、頬は剥がれ、歯茎まで見える。頭皮は捲れ、骨が平然と覗いていた。頭だけでそれだ。
身体の方はもっとひどい。凌遅刑でも行われたのかと思うほど、肉が削げていた。当然肋骨も剥き出しで、内臓まで届いていなかったことが奇跡と言える。無事な肌を探すのが難しいほど、身体には斬られた痕が残っていた。
血で濡れた衣服を取り除いても、その下から現れたものはまた新たな傷。衣服があるから守られた、などと言うことは少しもなかった。治療を担当した家入でさえ、思わず手を止めたほどだ。
それほどの重傷でありながら、若菜の心臓は止まっていなかった。呼吸も微かではあるが、途切れていなかった。
どこにそんな力が残っていたのか。あれだけ壊れた身体で、生存に必要な機能だけが辛うじて保たれていた。
「普通なら、死んでるよ」
伊地知の顔から、先ほど戻りかけていた血の気がまた薄くなる。
「呪力で防いでいた、ということか?」
「かもしれないですね」
夜蛾の問いに首肯する。
「でも、あれだけ滅多刺しで、大事なとこだけがちゃんと残ってる。異常ですよ」
若菜がどこで何をして傷を負ったのか。治療に入る前、家入は五条から簡単に話を聞かされていた。宿儺の領域に巻き込まれ、数十秒から数分、必中の斬撃を受け続けていたことも。
家入の視線が、五条へ向く。
「で、宿儺の領域ってどうなの? まともに受けて生きてられる?」
「無理だね」
即答だった。
「僕も反転術式を回し続けてたから立ってられたけど、それも出力の問題だろうね。それをあの子は──」
一度、閉じた扉を見る。
「少なくとも、治しながら耐えてたわけじゃなさそうだったね」
家入も扉へ目をやった。
「……そう」
短く返してから、続ける。
「あの子、反転術式の効きが悪すぎる」
「……効かないんですか?」
伊地知が訊く。
「いや、効く。なんとかね。普通の患者なら、がーっとやってぶわってなったらもうそれでお終い。でもあの子は、だばどばぁっっスンッ……て感じ」
「……何もわからん」
「学長、私と何年の付き合いだと思ってんですか。うーん……普通なら、治せる。もっと言えば、外科的な手法にそこまで頼らずいける。けど、あの子にできたのは、文字通り傷を塞ぐだけ。私の呪力が弾かれてるとかじゃなくて、
家入は壁に預けた肩を僅かに動かした。
「なもんで、今回は出血を止めて、命に関わる傷を塞ぐところまで。失った腕や潰れた眼の再生は、天才美人ドクター家入硝子をもってしてもたぶん無理ですね。今回だけでかなり呪力持ってかれたし」
「相性の問題か?」
夜蛾が訊く。
「そうですねぇ……。他人にかける反転術式は、元々相性が出る。でも、これはちょっと……、……なんていうのか……」
言い淀む家入の視線が、もう一度扉へ戻る。
「……身体の方も、普通とは言いにくい。人間の人体構造に倣っていて、実際、物理的な作りも一緒。けど、呪力的な……、アストラルボディって言えばいいんですかね? あれが何か違います」
「原因は?」
「よく分からないですね」
家入はそれ以上続けなかった。
夜蛾が組んでいた腕を一度解き、手持ち無沙汰となったのかまた組み直す。
「七海」
「はい」
「お前が最初に接触したんだったな」
「正確には、伊地知さん、伏黒君、猪野君もその場にいました。本人と言葉を交わしたというのなら、主に私が」
七海はそう言って眼鏡の位置を直した。
「印象は?」
「真面目な少年、という印象です。ただ、あの状況だけで人となりまで判断するのは早計でしょう」
夜蛾は僅かに顎を引いた。
「呪術関係者か?」
「いいえ。今日まで──時間を考えると昨日でしょうか?──無関係に暮らしていた、と。術式を使ったのも初めてだったそうです。現時点では、本人の説明以上のことは分かりません」
七海の視線が、閉じた治療室の方へ向いた。
夜蛾の視線も、同じように動く。
「なら、本人から話を聞く必要があるな」
「はい。ただ、それは回復してからでないと無理でしょうね」
夜蛾は短く頷いた。
「問題は、その後だ。事情を確認した上で、今後どうするかを決める必要がある」
「それも、本人の意思抜きに決めるべきではないでしょうね」
七海の返答に、夜蛾は異を唱えなかった。
「その点は僕も賛成」
壁へ背を預けていた五条が、ようやく身体を起こした。
「ただ、どうなるにせよ術式のことは僕が見るよ。仮に呪術師でないのなら、なおさら」
一歩だけ前へ出る。
その顔が、若菜の眠る扉へ向いた。
「僕が見た範囲じゃ、あの子が《無下限呪術》を持ってるのは間違いないからね」
一瞬、沈黙が降りた。
「なら、血筋も確認しておいた方が良いな」
「そこも僕がやるよ。家の記録なら、僕が見た方が早い」
「分かった。そのあたりの確認は悟に任せる。そして目を覚ましてから、今日までの経緯を聞く。その上で、呪術を学ぶのか、これまでの生活を続けるのか。必要な説明をした上で、本人と相談だ。……ただ、これまでの生活に戻るのは、難しいだろうな……」
「そうだね……」
少しの間、誰も何も言えなかった。
昨日までと同じ学校に通い、同じ友人たちと過ごすことはできるかもしれない。けれど、呪いを知らなかった昨日までと、まったく同じにはきっと戻れない。
それは予想ではなく、確信に近かった。
「本人が望むなら、戻る道は考える」
夜蛾が言う。
「だが、何もなかったことにはできん」
「ええ」
七海も、それ以上は言わなかった。
「まあ、その辺も起きてからでしょ」
重苦しい空気を吹き飛ばすかのように、五条が軽く告げる。
少なくとも、若菜がこの先呪いに関わることになったとしても、五条はさほど心配していなかった。
術式の強さだけの話ではない。
友人を守るためとはいえ、自分の命を懸けることは簡単ではない。それも、昨日まで何者でもなかった少年が、両面宿儺を前にして最後まで退かなかった。
危うさはある。教えるべきことも、山ほどある。
それでも、呪術師としてやっていけるかと問われれば──その点について、五条の答えはもう決まっていた。
「目を覚ますまでは、治療と保護を優先する。その後は、本人の話を聞いてからだ」
「異論ありません」
七海が答えた。伊地知も小さく頷く。家入は白衣のポケットへ手を入れ、そのまま煙草を取り出した。
扉の向こうから返ってくるものは、何もない。
足音も、声も、誰かを呼ぶ気配も。五条若菜は、まだ眠っていた。