『着せ恋』だと思った? 残念『呪術廻戦』でした!   作:自分のことを五条新菜と信じている(文字数

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第二十六話 ただいま

 

 手元の書類から顔を上げた看護師の目に、窓の向こうを横切る人影が映った。白い髪に、遠目でも分かるほどの上背。そのまま敷地の端にある小さな病棟の方へ歩いていく。

 その背中が建物の陰に消えるのを見送ってから、看護師は端末に向かう医師に声をかけた。

 

「先生。あっちの特別病棟、最近ずいぶん人が出入りしてません?」

 

 スタッフステーションの窓の向こう。その建物は一般病棟よりひと回り以上は小さい。

 要人や系列法人の関係者を受け入れるための病棟だとは聞いている。けれど、少なくとも彼女は、あそこに患者らしい人が入っていくところをこれまで見たことがなかった。

 

「まあまあ、担当外の患者のことは詮索しない」

「いや、患者さんじゃなくて見舞い?に来てる人の方です」

「そっちはもっと詮索しない」

 

 医師は電子カルテの写る端末を見つめたまま、苦笑を浮かべる。看護師は少しだけ声を落とした。

 

「だって、この一週間ですよ? 白髪で、すっごい背が高くて、目隠ししたまま歩いてる人。何回も見ません?」

「知らない」

「絶対見てるじゃないですか」

「見てても知らない。そういうことになってる」

「余計気になるんですけど」

 

 返事はなかった。

 看護師はもう一度窓の外へ目を向ける。

 特別病棟は、今日も何事もないように静かだった。

 

 ◆

 

 赤いものが視界を横切った。

 誰かの身体が大きく揺れ、その向こうでも傾いていく。

 何が起きたのか分からないまま、また赤い飛沫が飛んだ。

 見えない何かが走っている。ひとつ、またひとつと、立っていた影が崩れていく。

 顔が見えない。声も聞こえない。それが誰なのかさえ、分からない。

 それでも、助けなければならない。そのことだけが、頭の中を占めていた。

 腕を伸ばそうとする。上がらない。肩から先が何かに縫い止められたみたいに、どれだけ力を入れても前へ出ない。

 

 目の前で、また一つの影が崩れた。

 

 近づかなければと、脚を踏み出そうとする。けれど、身体が思うようについてこない。

 焦りに任せて無理やり前へ。

 瞬間、あちこちが一斉に引き攣った。身体の内側を別々に引かれるような激痛に、息が詰まる。

 それでも、倒れていく影から目を逸らせなかった。せめて届いてくれと、もう一度手を伸ばす。

 その指先に、何かが触れた気がした。何なのかを確かめるより先に、反射的に指を曲げる。

 目の前が滲む。人影の輪郭が崩れていく。

 代わりに、全身を締め上げるような痛みだけが、急速に現実味を増していた。

 

 ◆

 

 ぼやけた白が視界に広がった。

 何度か瞬きをするうちに、滲んでいたものが少しずつ輪郭を定めていく。白い天井と、その下に続く壁の境界。最後に見た光景と違って、見るからに清潔感があった。

 息を吸う。口がひどく乾いている。空気が通っただけで、喉の奥が引っ掛かるようにざらつく。その不快感に、思わず咳き込んだ。

 一度では止まらなかった。二度、三度と咳が出たところで、胸の奥から脇腹、背中まで一塊となって痛みが走る。身体を丸めようとしても思うように動かず、喘ぐように息が漏れた。

 手を、強く握られた気がした。

 

「ごじょー君……?」

 

 すぐ近くから声がした。

 目だけをそちらへ動かすと、視界の端に金色が揺れた。

 喜多川さんだった。目を見開いたまま、俺を見ている。

 

「ごじょー君……起きた? 分かる? ウチ、分かる?」

 

 その声と同時に、左手を包んでいたものがまた強くなった。

 視線を下げると、喜多川さんの両手が包帯の巻かれた俺の手を握っていた。手首の少し上からは、細い管が伸びている。喜多川さんはその腕ごと、半ば抱くように引き寄せていた。

 掌の温度と、柔らかさ。どこか遠い感触の中で、それだけは鮮明に伝わってくる。

 返事をしようと再び息を吸う。さっき咳き込んだばかりの喉がひりつき、舌も思うように回らなかった。

 

「きた、がわ……さ……」

 

 出てきたのは、ほとんど息に近い声だった。

 それでも届いたらしく、喜多川さんの目がさらに大きく開く。

 

「……返事、した」

 

 俺の手を包む指が、きゅっと締まった。

 次いで、片側の頬を何かが伝った。

 その感触に意識を向けて、初めて頬の違和感に気づく。皮膚が引きつるようにこわばっていて、感覚も鈍い。口がうまく動かなかったのも、頬がどうにかなっているからだった。

 ただ、それが何なのか分からないまま、喜多川さんは俺の腕を離し、ベッド脇に手を伸ばす。

 

「ちょっと、口拭くね」

 

 頬にガーゼがそっと押し当てられ、離れた。

 遅れて、そこが濡れていたのだと分かる。

 どうして頬が濡れているのか。答えを探すより先に、口の中に溜まっていた唾液がまた同じ方向へ流れた。飲み込むより早く、そのまま口の端から漏れていく。

 あるはずのものが足りない。頬の一部がなくなって、穴でも空いているかのような感覚だった。

 その感覚に、記憶も重なる。宿儺の斬撃が、顔を横切った瞬間。ここも、あの時に刻まれた傷の一つだった。

 

「ごじょー君。ほんとにあたしのこと、分かる?」

「……はい」

 

 今度は、さっきより少しだけ声になった。

 喜多川さんの顔がくしゃりと歪んだ。赤くなった目に、また涙が滲んでいく。それでも泣き崩れることはなく、何度も瞬きをしながら俺を見ていた。

 

「よかった……」

 

 小さく零れた声のあと、少し離れたところで椅子が軋んだ。

 

「……若菜?」

 

 喜多川さんの向こうで、じいちゃんが身体を起こしていた。

 その拍子に膝から毛布が落ちる。乱れた髪の下には濃い隈ができていて、顎には普段より伸びた髭があった。

 

「じい、ちゃん……?」

「ああ。若菜、分かるか?」

 

 じいちゃんが立ち上がる。

 その動きを追っているうちに、足元の鞄や椅子に掛けられた上着が目に入った。机の上には飲みかけのペットボトル、棚の端には小さなポーチが置かれ、壁際には充電器まで繋がっている。

 今度は喜多川さんが身じろぎして、見慣れた制服が目に入った。近くの椅子には学校の鞄も置かれ、ハロウィンの夜からそのまま一晩経っただけには見えなかった。

 それも、かなり時間が経っている。一日二日程度ではなさそうだった。

 

「……みんな、は……?」

「無事……! みんな無事だよ! 乃和も、大愛も、瑠寧も、健成君も、志季君。みんな、大丈夫だから……!」

 

 喜多川さんがすぐに頷く。

 一人ずつ名前が出るたびに、夢の中で倒れていった人影が頭から薄れていく。

 全員、生きている。それが分かったところで、身体から少し力が抜けた。

 

「あたし、家入さん呼んでくる!」

「……家、入……?」

「うん。すぐ戻るから待っててね!」

 

 喜多川さんが立ち上がる。それまで左手を包んでいた手が離れ、扉の方へ駆けていった。

 閉まった扉の向こうに、足音が遠ざかる。その静けさの中で、一定の間隔を刻む電子音が耳に入った。

 じいちゃんがベッドの横まで来る。

 左手に触れようとして、一度だけ手を止めた。そのあと、包帯の少ない指先をそっと握った。

 

「……よかった」

 

 それだけ言って、じいちゃんは黙った。

 握る手が、少し震えている。近くまで来たことで、目の下の隈も、伸びた髭もさっきよりはっきり見えた。

 

「俺……どれくらい、寝てた?」

 

 じいちゃんはすぐには答えず、一度目を伏せた。

 

「今日で七日だ」

「……七日?」

「ああ」

 

 一週間。

 言葉としては分かるのに、感覚が追いつかない。

 俺にとっては、ついさっきまで渋谷にいた。《伏魔御厨子》の斬撃が止まって、みんなが立っているのを確かめた。

 そこまでしかない。

 その次が、今だ。七日も経ったなんて実感が湧かない。

 じいちゃんは床に落ちた毛布を拾い、膝に掛け直して椅子へ腰を下ろした。

 その動きを何となく目で追ってから、もう一度病室を見る。さっき目に入った足元の鞄。椅子に掛けられた上着。備え付けの机に置かれた飲みかけのペットボトル。棚の端の洗面道具の入った小さなポーチ。壁際まで伸びた携帯電話の充電器。

 どれも、さっきはただそこにあるものとして見ていた。けれど、眠っていた時間の長さを知った今では違って見える。この一週間じいちゃんがここに通い、長い時間を過ごしていた、その痕跡だった。

 喜多川さんの学校鞄も、残っている。

 俺の知らない一週間が本当にあったのだと、目に入るものが少しずつ実感に変わっていく。

 じいちゃんも何も言わなかった。俺もしばらく、そのまま病室を眺めていた。

 やがて、扉が開く。

 

「起きたって?」

 

 白衣の女性が入ってきた。その後ろから、喜多川さんも戻ってくる。

 『家入さん』。さっき、喜多川さんはそう言っていた。

 改めて女性の顔を見ると、前世で見た『呪術廻戦』の家入硝子と重なるところがある。現実でみればこういう感じだろう、という既視感があった。

 じいちゃんが椅子を引いて、家入さんがベッドの傍まで来た。

 

「名前、言える?」

「五条……若菜」

「ここがどこかは?」

「……病院、ですか?」

「正解。じゃ、こっち見て」

 

 目の前に光が来る。取り出されたライトの眩しさに瞼を狭めると、すぐに離れた。反対側にも同じことをするのかと思ったけど、家入さんの手はそのまま左手の指先へ移っていった。

 わずかに引っかかったものの、触れられた感覚に意識が向く。

 

「握れる?」

 

 言われた通り、指を曲げた。

 動く。ただ、思ったより全然力が入らない。

 

「脚は?」

 

 布団の下で膝を曲げる。

 こちらも動いたものの、全身に重い痛みとして返ってきた。さっき咳き込んだ時ほどではない。それでも、身体を起こせるような状態ではなさそうだった。

 

「意識ははっきりしてるね。呼吸も悪くない」

 

 家入さんはそう言って、今度は俺の鼻の下へ手を伸ばした。

 その動きにつられて、鼻の奥から喉へ何かが通っているような異物感に意識が向く。片方の鼻から伸びた細い管が、頬のあたりで固定されていた。

 家入さんはそれを軽く確認すると、横のモニターへ視線を移した。

 どの動きも迷いがない。喜多川さんが呼んできたことも考えれば、俺を診ていたのは家入さんなのだろう。

 

「……俺、どうなってる……んですか?」

 

 家入さんの視線が、一度だけ俺の身体を下へ辿った。

 

「運び込まれた時よりは、だいぶ戻ってる。何度か処置を重ねて、残ってるところは少しずつ治した。普通の治療も併用してる」

 

 家入さんの言うその「重ねた処置」が何なのかは、想像がつく。反転術式。ただ、口振りからしてそれだけではない。

 家入さんはそのまま続ける。

 

「ただ、君はちょっと特殊でね。普通ならもっと戻るはずのところが、思ったほど戻らなかった。残ってた組織はかなり治療できたけど、なくなったところまでは無理だった」

 

 なくなったもの。

 そう言われて、自分の身体へ視線を落とす。

 布団の上には、包帯の巻かれた左腕がある。指は動く。さっきまで喜多川さんが握っていた手で、今は僅かに握り返すこともできる。

 その反対側には、同じものがなかった。右腕が、途中から途切れている。

 目にした瞬間、夢の中で伸ばそうとしても動かなかった腕の感覚が蘇った。

 

「眼も同じ」

 

 家入さんに言われ、視線を上げる。

 

「そっちは戻せなかった」

 

 眼。

 言われてから、片方ずつ閉じてみる。

 右目を閉じても、見えているものはほとんど変わらない。というより、閉じられたという実感がなかった。逆を閉じると、視界が消えた。こちらはちゃんと瞼が動く感覚があった。

 

「……見えて、ない」

「うん」

 

 左手を上げて顔へ触れようとする。肩から胸に鈍い痛みが走り、少しも上がらずに腕が止まった。

 

「頬も、傷そのものは閉じてはいるけど、筋肉自体はなくなってるし、組織そのものが足りてない。本格的に戻すなら別の場所から組織を持ってきて繋ぐことになるけど、今の君にやるには負担が大きすぎるからできてない」

 

 さっき喜多川さんに口元を拭かれたことが、そこで繋がった。

 

「……あの……、家入さん?が、治して……くれたんですか?」

「まあね。一週間かけてちょっとずつ」

「……ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

 

 家入さんは短く返すと、もう一度モニターへ目をやった。

 

「とりあえず、起きたばっかりだし無理に喋らないこと。……ちょっと、知らせてくる」

 

 そう言って、家入さんは病室を出ていった。

 扉が閉まる。

 さっきまで家入さんが立っていた場所が空いて、その向こうに喜多川さんが見えた。制服姿のまま、こちらを見ている。

 そういえば、椅子には学校鞄も置かれていた。

 

「喜多川さん……学校、終わってから、来たんですか?」

「うん。今日もそのまま来た」

「……今日も?」

 

 喜多川さんが少しだけ言葉に詰まる。

 その様子を見て、じいちゃんがさりげなく言葉を引き取った。

 

「海凛ちゃんは、毎日来てくれてるよ」

「……毎日?」

「うん」

 

 喜多川さんが、少し困ったように笑った。

 

「だって……起きるかもしれないし」

 

 一週間。

 俺が何も知らずに眠っていた間、喜多川さんは毎日ここに来てくれた。じいちゃんも、こうして傍にいてくれた。俺には何もなかったその時間を、二人はずっと、俺が目を覚ますのを待ちながら過ごしていた。

 ありがとうと言いたかった。ごめんなさいも、多分言わなければならない。けれど、喜多川さんとじいちゃんの顔を見ていると、どちらから口にすればいいのか分からなくなった。

 喉まで出かかった言葉は、結局どちらにもならなかった。

 

「……ただいま」

 

 一瞬、じいちゃんも喜多川さんも動かなかった。

 じいちゃんは俺を見たまま、一度だけゆっくり瞬きをした。それから、小さく息を吐いた。

 

「……ああ。おかえり、若菜」

 

 じいちゃんはそう言って、椅子に座ったまま少しだけ身を乗り出した。膝に置いていた手を伸ばし、包帯の巻かれた左腕を一度、確かめるように撫でる。

 喜多川さんも、少し目を潤ませながら笑った。

 

「おかえり、ごじょー君……!」

 

 喜多川さんが一歩近づく。伸びてきた手が、左の頬をそっと触れた。

 目の前で喜多川さんが笑っている。声が聞こえる。触れられたところから、ちゃんとその温度が伝わってくる。

 渋谷で守れた。生きて、ここにいてくれる。そのことが、今になってようやく実感になった。

 しばらく、その手の温かさを感じていた。

 でも、俺も喜多川さんに触れたかった。触れられるだけじゃなく、自分の手で、ちゃんとここにいることを確かめたかった。できるなら、両腕で抱きしめたかった。

 反射的に、腕を動かそうとした。

 何も、返ってこなかった。

 左手なら辛うじて伸ばせる。触れることだってできる。

 けれど、それだけじゃ足りなかった。

 もう一度、喜多川さんを見る。抱きしめたい相手は、ちゃんと目の前にいる。

 なのに、それができない。

 そのことだけが、どうしても嫌だった。

 




高専の大元を宗教法人として、フロント企業をいくつか持っている想定にしています。若菜はその一つの、都内の医療施設に入院していて、高専の医務室とかに運ばれたわけではないです。
また、いわゆるVIP病棟なので、第二十五話で廊下で夜蛾たちがデリケートなこと(呪術的なこと)を駄弁ってても問題ないという。

その他の一般人や同級生は、表向きの医療施設の方に入院、あるいは宗教法人関係者用の宿泊棟などで一夜を過ごした想定。祖父や海凛、他の同級生は、お見舞いなどのために若菜の病棟まで入ることは許されている感じ。情緒ぐちゃぐちゃでみんな来れるとは限らないけど。一応とはいえ、学校行けてる海凛はメンタル化け物。
本文で書くかわからないんで、ここで開示。
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