人には告げよ 海人の釣船』
────広い海原をたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと、京都にいる人に伝えておくれ、漁師の釣り船よ
2022年、『天皇賞・秋』。
レース展開を引っ掻き回す暴走系逃げウマ娘、パンサラッサ。彼女が笑いながら臨んだのは、直面していた多くの不安要素を押し退けるかのような稀代の大逃亡劇だった。
あまりにリスクが大きい挑戦は、なぜ成立し得たのか。
先頭で一人旅に向かう彼女を、なぜ誰も遮ろうとしなかったのか。
無謀としか言えないような「冒険」に、なぜ彼女は打って出たのか。
誰もいない海原を征く彼女、その軌跡と本音を探る物語。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ハーメルン初投稿です。
拙い部分もあるかもしれませんが、お楽しみいただければ幸いです。
※pixivにも投稿しています(一部描写を改稿)
「ぱ〜ん、ぱぱぱ〜ん、ぱぱぱぱ〜ん♪」
遠くから聞こえるラッパの音に合わせて、ご機嫌な鼻歌が初秋の空気に舞い踊る。
青く茂った芝の上、少女は楽しそうにハミングを続けながらホップ、ステップ、そしてジャンプ。そよぐ風を楽しむように頭の上でふるると震える長い耳に、茶色いポニーテールと一緒にたなびく尻尾。横いっぱいに広がった笑みも合わせて、その様子はまさしく、草原に来て散歩を楽しむ無邪気なウマ娘そのものだ。
その舞い踊っている草原が約6万人の大観衆が詰め寄っている大舞台のスタートラインど真ん中であり、この軽やかにくるくる踊っているウマ娘はあと数分でその大戦に身を投じることになるのだという事実に目を瞑れば、の話だが。
「ぱ、ぱ、ぱ、ぱ~~ん♪
それにしても、府中ってなんかヘンテコなところにゲートがあるんだな~。他のレース場はこんな中途ハンパなところにあったっけ? ……まいっか、レースできればなんでも♪」
遠くの演奏が終わったところで、少女はふと湧き出た疑問を口にする。……とほぼ同時にその疑問を放り投げ、再び陽気にステップを敢行。
普段であれば『色々経緯があるにはありますが、一先ず今は目の前に集中してください』とトレーナーが首根っこを捕まえるところだろうが、生憎彼は今この場にいない。日ごろから彼女の足りない部分を補うのが役目だった彼が、珍しくそのカバーに失敗する事態となってしまった。
否、今はむしろ彼女のリズムを崩しかねないことを考えると、その場にいないことこそトレーナーの気遣いだったのかもしれない。
極彩色の船々が立ち並ぶ港にて、少女はただ独り、己が帆の張られる瞬間を待ちわびる。
「ゲート入り、始めます。出走ウマ娘の方は準備を───」
「! はいはいハイハーイ!! 3番パンサラッサ、一番乗り行っきまーーす!!」
呼びかける声に跳ね上がるように応じ、クルッとした急旋回がポニテを振り回す。スキップし飛び跳ね、ピタッと降り立った先は門の前。でかでかと「3」の字が掲げられた、自分専用の港だ。
「さぁて、っと……!」
鉄箱の前、残された猶予の合間に、足を開いて腰を落とす。踏ん張り、よろし。重心、バランスよろし。筋肉の伸び、ゴムみたい。文句なし!
「……っっっしゃあああ!!! オータムシーズン、ブチ上げて行っちゃうぞーーー!!」
ィヨーソロゥ!!の掛け声と共にゲートの中、船の甲版へと乗り込む。ガシャン、と錨が上がれば、あとは風が吹くのを待つのみ。
「よし……!」
一気に静まった世界の中で、身体が叩き込まれた動作を刻む。左脚は後ろへ、右は踏みしめ、帆が風を受け広がるが如く。張りつめ、踏みしめ、時を待つ。
ゲート前では笑い飛び回り、入ったら心を空にする。この数ヶ月で叩き込んだ鉄則が、開いた帆を緩ませない。
「……」
ガコン、ガシャンと音が響く。多くの船が、同じく出航の時を待ちわびる。数を切り捨てて、ただ前にだけ意識を向ける。
「……」
「…………」
「……………………」
────────────ガコン
「うおおおおおぉぉぉっっ!!!!」
────10月30日、『天皇賞(秋)』。
それは、冒険だった。
幾多の積み重ねと深謀遠慮、それらが繋ぎとめた丁半の賭け。その無謀を笑ったウマ娘とその共謀者は、それ程までにイカれていたのか。
あるいはその狂気すら霞んで見える程に、その果てに見える夢は鮮烈だったのか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────時は遡り、8月21日。
『札幌記念』。
『──ジャックドール! ジャックドールかわしてゴールイン! 快速ウマ娘ジャックドール、見据えるのは秋の盾か?!』
「はぁっ、はぁ……くっそぉ〜……」
照りつける陽射しの中、足はびっしり生い茂るターフを踏む。絶え絶えの息に任せて足を緩めると、金髪をなびかせる才媛が観客に笑顔を振りまきながら遠ざかっていく。
普段はムスッとしてるのに、勝ったらよく笑う子だ。そんな彼女の笑顔を見るのは……正直に言うと嬉しくもあり、悔しくもあり、といったところ。
話しかけてもいいが、生憎こちらはちょっぴりダウン気味。多少持ち直した時の方がしっかりお祝いできるだろう。そう判断し、踵を返して地下道へと足を向ける。
「あ゛~、バリバリ完敗たにえん……ってやつかな、コレ? ちょっち足んなかった感───」
「お疲れさまです、サラさん」
「!!」
芝からコンクリへと道を移らせ、うんうんと唸るパンサラッサの思考を一人の声が遮る。声を聞けばピクリと耳が動き、足は自然と動き出す。そうして小走りのパンサラッサは、道の少し先、自分を待つ男性の元まで駆け寄った。
「トレーナーお疲れ~! やーメンゴ、最後負けちった♪ 一応、抜かされてもイケるように踏ん張ってたんけど、え~と……」
「ハイそこまで。
あれだけ序盤から間隔を詰められた上で逃げ続けて、最後に詰めてきたのがジャックドールさんであれば仕方がないでしょう。むしろ『宝塚記念』から引き続きの中距離路線、距離延長しても逃げ粘りの勘を失っていない様子で安心しました」
合流して一言目、気張るように明るさを主張するパンサラッサを遮るようにピシッと掌がかざされた。そのまま淡々とした口調とは裏腹にゆったりとこちらを労う言葉が紡がれ、さっきまで言うつもりだった反省やら回訓が自然と蒸発してゆく。
そうして大人しく口をつぐんでしまった担当ウマ娘に苦笑しながら、「それに」と言葉が続けられた。
「サラさん的には完敗なのかもしれませんが、少なくとも結果は違うと語っていますよ。先頭で逃げ続けての2着ですし、それにほら───」
「……疲れたぁ……疲゛れ゛た゛ぁ゛ーー!!」
背後を指さされて「?」と思ったその時、同方向から突如として大抗議声が上がる。何事かと振り返ってみると、そこにいたのは先ほどまで一緒に走ってた純白のお姫様系アイドルと友人、二人ともフラフラの状態でターフから戻ってくるところだった。
「まぁまぁソダシちゃん、今日は帰ったらたくさん休も? ね?」
「ん゛!!」
肯定なのか否定なのか分からない応答とともに、ウマ娘二人が横を通り過ぎてゆく。その様子を見たパンサラッサは、「え~と」と呟きながら頬をかいた。
「もしかして……アタシ、またやってた?」
「ドバイターフと同じパターン、といったところでしょうか。引き離さずとも後続はバテバテ、大逃げでなくともハイペース逃げは健在でしたね」
おずおずとした確認に、トレーナーは何故だか味わい深そうな表情でうんうんと頷く。その満足げな担当バカっぷりを見たターフのテロリストは、どこか照れくさそうな笑みを浮かべた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────パンサラッサ。
今のトゥインクルシリーズを賑わせる名役者の一人であり、同時に過去に類を見ない逃げ戦法でレースを盛大に引っ搔き回す、異色の逃亡者の名である。
パンサラッサのレーススタイルはざっくり言ってしまうと、「序盤からハナを奪って中盤以降もハイペースで飛ばし、最終直線で粘って逃げ切りを狙う」という、一般的に『大逃げ』と呼ばれる類のもの。
コレだけであれば非常にシンプルなのだが、問題がこの中盤以降のハイペース。
パンサラッサが逃げる際のスピードは、レース距離にもよるものの、1000メートル通過タイムがおよそ58秒前後。中距離の舞台においては破格のハイペースであり、より短いマイル戦、あるいはスプリント戦にすら匹敵する巡航速度である。
このスピードによって敢行される狂気的なまでのラップは、通常の中距離ウマ娘にとってもはや未知の領域。不用意にパンサラッサの作り出す流れに乗ってしまうと、終盤にはまともにレースできる状態ではなくなってしまうのだ。
一方でこのような大逃げ戦法に打って出るウマ娘は得てして能力の低さを補うため、他が下手を打つことを願っての一か八かの勝負に出ていることが多い。そのため終盤に入ってスタミナが底を尽き、見る間に減速して後続に追い抜かれてしまう事が殆どだ。
だがこの点においてパンサラッサと他の大逃げウマ娘とを区別する一つの大きな特徴がある。それが、最終直線に入ってからの驚異的な粘り腰だ。
彼女のスタミナそれ自体は中距離ウマ娘としては平均的なものだが、こと「限界近くで粘り続ける」耐久力に関しては他の追随を許さない才を持つ。ハイペースで飛ばし続け、体力切れにより最早ここまで……と思わせたところから、彼女は根性と気力だけで速度を維持し続けるのだ。
減速するはずが人並み外れたしぶとさで脚を動かし続け、それに気が付いた後続が猛追してきたところを凌ぎ切りゴール板に駆け込む。これがパンサラッサのレーススタイルだった。
この特性のため、パンサラッサは他の逃げウマ娘とは違い、放置することが非常に危険な逃亡者というのが彼女を知るウマ娘たちの認識だ。下手にセーフティーリードを許せば、そのリードを存分に活かして一人最終直線を駆け抜け、後続を封じ込んでしまうのだから。
そのためパンサラッサが出るレースでは大逃げウマ娘にしては珍しく、後続がある程度の距離を離しつつも追従してくる場合が多い。
しかし、ここからがこのウマ娘の真の恐ろしさ。
パンサラッサに付いていくということは、彼女の作り出す1ハロン11秒台の狂気的ラップを真正面から浴びる事を意味する。余程のスタミナ自慢でもなければ、このラップをまともに走ってレースを完遂できる者はいない。
つまりパンサラッサが逃げた時点で、後続のウマ娘はレースができるか以前に「このハイペースに耐えられるか否か」という測りにかけられてしまうのだ。
この特徴が如実に表れたのが、パンサラッサの初GⅠ戴冠となった海外レース「ドバイターフ」。
パンサラッサを知らなかった海外ウマ娘たちが逃げる彼女をピッタリ追走した結果、先行したウマ娘が最終直線で次々に脱落していき、残ったパンサラッサが独走する状態になってしまったのだ。
唯一この煽りを耐えきったのが、中団から機を伺っていた前年覇者のロードノース、そして更に後方から猛追を仕掛けたヴァンドギャルド。
この二人の直線一気に対してパンサラッサは粘りに粘り続け、最終的に三人横並びの体勢でゴールイン。長い写真判定の末、パンサラッサとロードノースの「同着優勝」という前代未聞の結果となった。
このレースは同着という結果だけでなくその道中から終盤にかけての限界を攻めた逃亡劇が話題となり、パンサラッサの名を一躍世界のウマ娘に轟かせる結果となった。
殺人ペースに伸るか反るか、耐えるか攻めに打って出るか。出走するだけでレース展開を一つに収束させ、その対処の選択を一方的に相手に押し付ける。
明るい言動とは裏腹にレース全体を捻じ曲げる凶悪な戦法を駆使するこの稀代の逃亡者は、その奇抜なスタイルと実力以上にレースをかき乱す存在感によって単なる強者とは別ベクトルの熱量でファンを魅了し続けていた。
……とまぁ、ここまで聞くとまるで稀代の大逃亡者のように聞こえるのだが。
「蓋を開けてみると、存外ダメな点が多いのが不思議なところですよね。いわゆる箇条書きマジックというヤツでしょうか」
「レースからクタクタで帰って早々なんでアタシディスられてんの?!」
レース遠征のために滞在しているホテルにて、トレーナーからの唐突なダメ出しに抗議の声を上げるパンサラッサの姿がそこにはあった。
札幌記念を2着で終え、レース後のインタビューも済ませた午後6時。ベッドの上から信じられないものを見る目線を送るパンサラッサに対し、その横の椅子に座ったトレーナーはなだめる様に手を構える。
「失礼、口が滑りました。ちょうどサラさんのこれまでの活躍を特集した記事を見つけまして、読んでいたらつい熱が入ってしまい。
この記事、とてもよくサラさんを追ってくれていますが、いかんせん特異性や派手さをかなり強調した内容となってまして。伝わってくる壮大さが目の前のウマ娘とあまりにかけ離れており……つい」
「『つい』って言いながらこっち見てニッコリするのヤバくない?! アタシだって激ヤバ大逃げパリピーズの一人なんだけど! 別におかしくないんですけど!」
「では冗談はこのあたりにして振り返りにしましょうか」
「スルー?!」
手元のタブレットをスワイプして淡々と切り替えるトレーナーの態度に、パンサラッサはベッドに座ったまま膝から崩れ落ちるという器用な芸当を披露。しかしそこではっと何かを思い出したかのように顔を上げると、頭をぶんぶんと振りながらトレーナーの動く手を遮った。
「ていうか、ちょいちょい、ちょっとタンマ! 用事あるのはアタシが先!」
「? どうかされました、藪から棒に。反省会で前のめりになるなんて珍しいですね」
「いやそうじゃなくて!」
手首を抑えられて「?」を頭の上に浮かべるトレーナーに対し、パンサラッサはむっとした表情で自身のスマホをずいっと差し出す。そこに映っていたのは……
「コレ、さっきまで受けてたレース後のインタビューってやつっしょ? なんか言ってること、レース前にアタシに話したことと違くない?」
「えっ? あ〜……もうネットの海に放流されてたんですね」
映っていたのは、札幌記念のレース後回顧録のようなもの。勝ちウマ娘のインタビューはもちろん、専門家の批評と共に出場していたウマ娘のトレーナー達のコメントも記載されている。当然その中には2着だったパンサラッサのトレーナーのコメントも載っているのだが、その内容というのは……
「『あんまり逃げにキレがありませんでしたね。積極性が前より削がれている様子もありますが、最近いい子になってきたのもあるのかもしれません』……ってさ!
トレーナー、アタシのレース見ての感想がコレ? 正直かなりショックなんですけど!」
「おっと……そこですか。
それに関してはインタビューの入りが『あんまり離さずに逃げてましたね』という質問だったので……サラさんが真面目にやっていないだとか疑ってるわけではないですよ。
それに結局、そのあたりをサラさんときちんと話せないままだったじゃないですか。それこそあんまり下手なこと伝えたくなかったので、対外的に納得されそうなところでお茶を濁しておいたという……」
ご機嫌斜めの担当から向けられた失望の疑い、それを晴らすべくトレーナーは釈明を述べる。少なくとも今日の走りで、パンサラッサへの評価を下げるつもりはないのだ、と。
しかしそんな狙いとは裏腹に、トレーナーの言葉を受けてパンサラッサの眉間にはさらに深い皺が刻まれていった。
「いやそれもあるけど、『最近いい子になってきたのもあるのかも』って方! トレーナー、最近のアタシ大人しくなってるみたいに見えてたん?」
「え、あっ、そこそんな風に捉えます?! 一応褒め言葉というかポジティブめに見た言葉だと思ってたんですが、ダメ寄りでした?」
「全然ダメダメに決まってるっしょ! 何のために年中無休ウェイウェイ営業チュウだと思ってんの? 大人しく堅実なんてアタシ的ビッグNGだし! いつも全力パリピ道だし!
っていうか、トレーナーが言ってくれたんじゃん! 『サラさんはいつもどんどんと前に行くから、見てて気持ちがいい』って! まさか、アレあたしを調子づかせるための嘘だったとか……!」
「ストップストップ! 分かりました、サラさん宛として不相応な言葉選びだったのは分かりました! そのうえで一旦、ちょっとこちらからも弁解の余地をいただきたいですが、どうでしょう?」
いつの間にか掴みかからんばかりの勢いをもってこちらに迫りくるパンサラッサの肩を抑え、トレーナーは謝罪と懇願を繰り返す。ひとまずは止まりながらもそこそこの至近距離からジト目で睨め付ける担当ウマ娘に対し、改めて口を開く。
「まず繰り返しにはなるんですけど、レース直後のインタビューはあくまで所感を聞く面が大きいので、あの内容もあくまでそのくらいの温度感で話してます。
少なくとも私としては、あれが今日のレースやサラさんのパフォーマンスの結論だという意図はありません」
「……続けて?」
「ありがとうございます。
サラさんが気にかけていた『大人しいのもいい子になってきたから』……という表現についても、同じく外部の方に伝わりやすいという認識で使ったまでです。
普段のサラさんは……走りについてきちんと相談したり、トレーニング外でも私と積極的に関わろうとして下さったり、私にとっては間違いなく『いい子』に分類されるべきウマ娘ですが。少なくとも大人しく消極的という印象は、私はサラさんに抱いていません」
「……ホントに? 今日サボってたって思ってない? 大人しい子タイプじゃない?」
「質問の内容が若干変わってませんか? 少なくともレースの敗因が怠慢にあるとは思ってませんし、それをハッキリさせるためにもこうして話したいと考えています。
タイプという話については言葉を濁させて頂きますが、少なくとも大人しくないサラさんについて不愉快に感じたことはありません」
「…………まあ、それなら」
釈明を聞いて多少なりとも納得したのか、ジト目のままではあるが迫っていた顔が元の場所に戻っていく。抑えていたプレッシャーがなくなってホッとしながら、トレーナーは横に放り出されたタブレットをもう一度拾い上げた。
「え〜、それでは改めて今日のレースの振り返りをば。いくつか聞きたい点があるんですけど、大丈夫でしょうか」
「は~い。……っていうか、この振り返りができてないからお茶を濁したみたいなこと言ってたけど、それってつまりインタビューテキトーに済ませたって事になるんじゃないん?」
「ハハハそんなバカなハハハハハ」
急に謎の乾いた笑いを連発させながら、トレーナーは改めてタブレットを数度タップ。画面の上を、何やら難しい数字が踊り始めた。
「さて、気まずい話題を逸らすべく……ひとまずはズバリ敗因について。流石に他の人が聞ける環境ではこの話はできませんからね。
まず……スタートについてですが、今回も?」
「うぐ……トレーナー的には、やっぱそこだよね~……。またしくっちゃった、てへ」
観念した様子のパンサラッサが舌を出す様子を見て、ズバリ切り込んだトレーナーもため息。
レース前に何度か言い含めた甲斐もなく、今日のレースでも前々からの課題だった出足の遅さが出てしまった。スタートこそ悪くなかったものの最初の200メートルで他の逃げウマ娘に先頭を獲られ、そこからしつこく競りかけて奪い返した形だ。それにより最初のペースアップにスムーズに入れず、思わぬ体力ロス。そして、
「最初にレースの主導権を握り切れなかったことで、その後のペースにも多少の影響が出た形でしょうか。ペース的にも1000メートルで60秒を少し切るくらいで、普段や『宝塚記念』の時と比較しても少し遅めのペースですし。
サラさん的には、この中盤頃の逃げてる時の感触はいかがでしたか? 普段通りだったとか、なにか引っ掛かるものがあったとか」
「アタシ? ん~、テンションはいつも通り爆アゲで行ってたよ? けどいつもよりブッパ感は低めってゆーか……ちょい引っかかるみたいなとこはあったかも。ずっとドルちんが後ろからギラギラ睨んできて、いい感じに離せなかった……的な?」
「ふむ……間合いをきちんと測りつつ、近づきすぎないようにマークを強めてたというところでしょうか。今回のレース、やはり展開の鍵はジャックドールさんにありそうですね」
ところどころがフワッとした表現を翻訳して担当ウマ娘の意図を噛み砕きつつ、トレーナーはどこか予想が的中したという様子で唇を引き結んだ。
ジャックドール。パンサラッサと同じく、冬から春にかけて頭角を現した栗毛の逃げウマ娘だ。淡々と自分のペースを維持してレースの流れを支配する、スタートから飛ばすパンサラッサとは真逆の逃亡者。
今回はいつもの逃げではなく四番手からパンサラッサの逃げに追走して余力を残し、ラストで並み居るGⅠウマ娘を寄せ付けずに押し切ってみせた。今回の札幌記念は、ジャックドールの実力を存分に魅せる舞台となっただろう。
「出遅れてハナを取れなかった事…「うぐっ」…それを取り戻そうとして余計なロスを背負ったこと…「うぐぐぅ」…そのロスが響いてジャックドールを引き離せなかったこと…「うごっ」…今回の反省点としてはこんなところでしょうか」
「うぅ……トレーナーがアタシに優しくない……マジソルティ……」
「まぁ、トレーナーですので」
胸を抑えてうずくまる担当ウマ娘にさらりと返答しつつ、トレーナーは手元のタブレットで今日の『札幌記念』のレース映像を再生する。映るのはスタート直後の映像、パンサラッサがゲートから飛び出そうという場面。
やはり若干モタついたのもそうだが、その上で出た直後の加速が他と比べてイマイチ。これが原因で早期にハナを奪えず、ただでさえ距離的にやや不安があったところに更に不利要素を抱えてしまったようだ。
(『宝塚記念』でもそうだったけど、やっぱり一つ綻ぶとそこから厳しい展開になってしまうな……。サラさんも、どうしても安定してるとは言い難いタイプのウマ娘だし)
そう口の中でつぶやきながら、トレーナーはさてどうしたものかと思案を始める。
レースの流れを掌握する『大逃げ』は間違いなくパンサラッサの強みを最大限発揮する奇策ではあるが、決して万能というわけではない。むしろ王道でない以上、どれほど影響力が高くともリスクを抱えざるを得ないものだ。
そしてそんな『大逃げ』を得手とするパンサラッサのレースにも、主に三つの弱点が存在する。
一つは先述した通り、スタートの甘さ。スタートを五分に出るかも半々な上、スタートしてからエンジンがかかるまでもそれなりに時間が掛かる。逃げウマ娘はこの序盤のスピードに優れるものが多い故に、これだけでもパンサラッサのレースはランダム要素を含んでしまっている。
二つ目は得意条件の狭さだ。パンサラッサのスタイルは先述した通りハイペースラップからの最終盤の粘りなのだが、このレースプランを成立させるには複数の要件をクリアしなければならない。
まず最後に失速せずに粘り続けるとは言うものの、その前にスタミナが本格的に尽きては意味がない。パンサラッサのスタミナそのものはあくまでも平均的、その上で大逃げを実現させる必要がある。つまりこのレーススタイルの強みが十全に発揮されるのは、大逃げを決めながら最終直線までスタミナを最低限温存できる程度の距離……およそ2000メートルが限界なのだ。
一方で距離が短いと、今度はスピードの問題が出てしまう。パンサラッサの巡航速度は確かに目を見張るものがあるが、それはあくまで中距離での話。1600メートル以下のマイル戦では距離が短くなる分レース全体の速度が速まり、パンサラッサのラップの強みが殆ど出なくなってしまうのだ。
つまりパンサラッサが十分に実力を発揮できるのは、1800~2000メートル……中距離の最低ラインが適性距離となる。この適性範囲の短さは、日本のレース傾向を考慮するとやや厳しいものがある。
そして最後、三つ目の弱点。それは明確な不利対面……ハイペース耐性の高い優秀な逃げウマ娘などが、最近の中距離路線で豊富なことだ。パンサラッサの生み出すハイペースを前受けでき、尚且つそこから勝利を狙えるウマ娘が相手となると、最後の最後に逆転の手がなく勝利を明け渡す展開になってしまいがちなのだ。
例えば『宝塚記念』覇者のタイトルホルダーは、『天皇賞・春』を七バ身差で制した莫大なスタミナでパンサラッサの消耗ラップを二番手で耐えきり、更にそのペースをそのまま乗っとる形で牽引してきた後続を置き去りにしてみせた。先頭から消耗戦を仕掛けるこちらにとって、同じ逃げウマ娘である彼女は天敵と言えるほどに相性が最悪だ。仮に2200メートルの『宝塚記念』より短いレースだったとしても、勝機はかなり薄いだろう。
また今日の『札幌記念』を制したジャックドールも、正確なペース管理と優れたスピードでパンサラッサのペースに順応してみせた。二番手、三番手が脱落する中抜け出してパンサラッサとの競り合いを制してみせたあの様子を見るに、スタミナと順応性ではあちらが上手。今後レースをしていく中ではかなりやりづらい相手になると予想される。
(やっぱりGⅠ級を相手にするとなると、彼女のようなピーキーなウマ娘はどうしても後手に回りがち……特に今日のジャックドールは、サラさんを制する上での模範解答のような勝ち方だった。今日の結果を参考にして、今後サラさんへの対策も構築されていくだろう。
そして当のジャックドールも、次の目標として宣言しているのが……)
「サラさん、一つお伺いしたいんですが」
「うぅ……出会った時はノリの良い人だったのにマジロールキャベツ……」
「もうその話はいいですから。……次走、本当に出るつもりですか? 『天皇賞・秋』」
うずくまり『の』の字を書いてたパンサラッサの耳がピクリ、と起き上がる。そこからのそり、と起き上がって向けられたのは、まごうことなき真剣の眼差しだった。
「うん、決めてる。次は、秋の盾がほしい」
「……やはり、ですか」
予想された反応を聞き、考える。元々秋天を目指すルートで計画を立てていたし、実績的には何の文句もない。しかし、ここ2戦で勝負に影響する弱点の露呈。天敵のような競合もいる。何より秋天と言えば──
「『逃げウマ娘殺し』、府中の最終直線500メートル。ニッポーテイオー以来秋天を逃げ切り勝利したウマ娘はいない。特にあなたの逃げ戦法は、正直言って地の利があるとはとても言えない舞台です」
「分かってる。距離がギリの2000でそれじゃあ、きっと今までよりガチのギリギリ勝負になる、ってことくらい。
けどさ、」
そう一呼吸おいて、手が膝の上でグッと握られる。上げられた顔に浮かぶのは、笑み。真っ直ぐ見つめる瞳に映るのは、いつも通りの夢。
「夜のドバイに、春のグランプリ。この一年に入ってから、アタシはずっとすごい冒険ばっかしてる。今でも思い出したら、ドキドキが止まんないくらい。
それがこの先にも、まだまだ待ってるなら……アタシは止まんない。一回くらいのヘマとか不安で、航海から逃げたくない。
……それにそれに~、トレーナーも知ってるっしょ? アタシ、マイルじゃ流石にスピード負けしちゃうし、マイルCSとかだと流石に厳しいって~」
「……確かに、それは一理ありますが。いっそ次の香港カップまで、長めに休養を取るという手も……」
「──ダメっ!!」
ひっくり返ったような一声とともに、右腕に軽い衝撃。見ると、伸ばされたパンサラッサの手が、トレーナーの袖を掴んでいた。ふるふると僅かに震えを孕みながら、ギュッと力が籠められる。
「……お願い。あたしはもう、掴めるチャンスを前に、躊躇いたくない。手を伸ばせない悔しさに、慣れたくない」
「…………」
「今のあたしなら、もう大丈夫。走っても、バテても、折れたりしない。迷ったりしない。だから……」
瞳に映った夢が、煌めく。光る。無邪気に語り笑ったかつてと、脚を抱えながら涙をこぼしたあの日が、瞳の中で重なる。
「…………お願い。あたしを、信じて」
「………………。
そうなると、冒険には相応に準備が必要ですね。早速取り掛かりましょうか」
「へ?」
先ほどと打って変わった返答に目が点になる担当をよそに、トレーナーはタブレットの画面を切り替える。今後のスケジュールと、トレーニングプランだ。
「明日……は、流石に休養した方が良いでしょうし、来週あたりから様子を見つつ秋天に向けたトレーニングに移ります。それまではトレーナー室での作戦会議メインにしましょうか」
「──! じゃ、じゃあ!」
「ご心配なさらずとも、私があなたを信じなかったことなんて一度もありませんよ。……秋天、獲りに行きましょう」
喰いつくパンサラッサに苦笑しながら、タブレットを置いて、掴まれてない左手でぐっ、と小さくガッツポーズ。それを見て再起動したように、みるみると表情に喜色が差し込んできた。
「っ~~~しゃあ! さっすがトレーナー、ノリが分かってるぅ!」
「はいはい、まだ喜ぶには早いですよ。あとあまりぴょんぴょんはしないように。まだレースの疲れは残ってるんですから。
それから、まだもう少し話を聞いていきますよ。方針が固まった以上、こちらも保険を有効活用できるように動かなければ」
「うぇ〜い♪ ……ん? ホケン、って?」
ベッドで飛び跳ねるのを諌められ大人しくなったパンサラッサが、ふと言葉尻に引っかかりを覚えたように首をひねる。それを受けて、トレーナーは苦笑しつつ、
「ああ、本来はほんの出来心というか、もしかしたら程度の気持ちで仕込んだことだったんですが」
そこまで言って、トレーナーはそっと口元に立てた指を当てる。その口に浮かぶのは、どこか担当に似た、悪戯を思いついた子供のような笑みで。
「レースまでの間にやることが多いのは、ウマ娘だけではないですから。折角なので、思い切りはしゃいでいきましょう」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────二か月後。
「ふん、ふん、ふふ~ん♪」
ホップ、ステップ、ジャンピーング!のテンポで、コンクリのアーチから青空の下へと降り立つ。遠くから響く雑音が間近からの雑踏へと変化し、青々としたターフが眼前に広がる。ゆっくりと息を吸い込むと、秋の寒気と芝の香りがスーッと肺に広がった。
天候晴れ、船体異常ナシ、風とてもよろし! うん、
「万全の航海日和! 気合い入ってきましたぁ~!」
「──おお、間に合いましたね。サラさん、ちょっとだけよろしいでしょうか」
「ん? おっ、トレーナー!」
景気づけの一声の直後、呼びかける声が聞こえ、顔と体がそっちへと向かう。トレーナーが立っていたのはターフ入場口のすぐ近く、関係者が近づけるギリギリといったところだ。控室で別れてから観客席までは来ただろうと思っていたが、直前まで見届けてくれるとは。
「いい盛り上がりっぷりですね、サラさん」
「そりゃもちろん! 久しぶりのレースで、バイブス絶好調!ってな感じ。トレーニングの成果も、バッチリ活かせそうだよ」
「それは何より。私も、あれやこれやと手を回した回がありました。となると、後は……」
悪戯っぽい笑みを浮かべたところで、トレーナーの指がピンと立った。そのままこちらをピッと指差しながら、問いかけるように首を傾ける。
「『秘策』、お忘れになりました? バ場に入る前に……」
「ああっ、そうだった! 危ない危ない!」
意味深に言われ、パンサラッサの耳がピコーン!と跳ね上がる。そのまま両手は跳ね上がった右耳、そこをカバーする赤のメンコへ。
結び目を引っ張り、紐を外す。と、左の耳にも何やらゴソゴソという感触。左のメンコに手をかけ、同じく結び目をほどくトレーナーと目が合う。どちらからともなく浮かび上がった笑みを、互いに交換する。
『そういえばにはなりますが、サラさんの普段使っているメンコ、レースのときは大体外してますよね。何か理由があるのですか』
『おっ、何ナニこいつの話? そ、アタシのお気に! コレ着けてるといー感じに周りの音がシャットアウトできるんよね。けどレースのときは、むしろバイブスアゲアゲ〜ってなるために外してる的な?』
『……スイッチ代わりでもあるのか。ちなみにそれってどのタイミングで外してます?』
『およ? 普段はゲート前だけど……』
『では、提案なのですが……』
──スルリ
『より早いタイミング……例えば観客のいるスタンドの近くで外せば、そのバイブスもよりアゲアゲになるのではないでしょうか?』
──瞬間。
薄膜に遮られた雑踏が、脱ぎ捨てるかのように万雷の拍手へと生まれ変わる。ただ押し寄せる波だった音響が百千万の粒へと一瞬で分裂し、恵みの雨のように頭上から降り注いでくる。一つ一つの雨粒が帯びる極彩色の喝采が耳に滑り込み、電気を帯びたように脊髄を駆け登って脳を巡って全身の肌を粟立たせて世界を生まれ変わらせて、風もターフも空も運命も全部全部全部背を押して手招いて心待ちのように雄たけびを上げて血も肉も脳もバイブスもバリバリバチバチハイボルテージぶち上げで────────!!!
「──っっっ、来ったあああ! きた来たキタキタキタ!! 冒険が、アタシを、
呼! ん! で! るッッ!!!」
「……どうやら、狙いは的中の様子ですね」
全身の高揚を発散するように足踏みするパンサラッサの様子を見て、トレーナーは満足げに頷いた。その返答もそぞろに、ウマ娘はターフへと駆けだす。
「おっしゃーい準備完了! じゃ行ってくっから、トレーナーもそろそろ──」
「サラさん」
「っとっ、と……?」
駆け出しかけた脚を止め、顔だけトレーナーに向ける。今は色々聞こえる分、一人の声に集中はあまりできない。にもかかわらず、トレーナーの声はやけに明瞭に届いた。
「私にできることはここまでです。残念ながら、あなたの冒険に同乗することは叶わない。なので、最後に一つだけ。
どうか、私にも見せて下さい。あなたが夢に描いた冒険の景色を。あなたがずっと見つめてきた水平線の向こうに、一体何があるのかを」
「────」
きっと、なんてことない台詞。トレーナーの……彼の胸中に今浮かんでいる感情を言葉にした、ただそれだけの言葉。
なのに、いや、だからこそ。その言葉が、胸の奥に重く響く。響いて、そして、熱が込み上がる。
ああ、そうか。
あたしは、この人の夢なんだ。
掌が拳を形作る。腕が持ち上がり、突き出される。そうして今も自分を見つめるあの人に、笑みで応える。
これまでのアタシらしく。この人があたしに見た、アタシという夢らしく。
「もち。そっちこそ、一瞬だって目を逸らすの禁止っしょ。
──どんな荒れ海でも、アタシの音色に塗り替えてみせっから!」
10分後、ゲートが開く。14の荒波がひしめく海へ、一艘の船が漕ぎ出す。
超海洋の名の通り、己で世界を染め上げながら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────ガコン!!
『さあ天皇賞・秋スタートが切られました! 注目の先行争い、パンサラッサが行く! そしてジャックドールも外から……』
「よしッ! 第一関門突破!」
スクリーン越し、開いたゲートを睨みながら、パンサラッサのトレーナーが思わずガッツポーズ。目線の先にはゲートから出発した集団の先頭に早くも立つ担当ウマ娘、望外の結果に飛び跳ねたくなるような衝動をギリギリ堪える。
それもそうだろう、この一瞬のために十週間近く秘策を練りまくったのだから。
数か月前にも思い返した通り、パンサラッサの大きな弱点はそのハイスピード逃げを十分に発揮できなくしてしまうスタートの弱さ。特に札幌記念はその欠点が大きく影響し、ジャックドールら後続を引き離せるほどのスピードを出せなくなってしまった。このレースを見て、『思い通りにレースができないウマ娘』と評価されてしまうのも無理はない。
しかし、
「逆に言えば、その弱みさえ克服できればやれることは一気に増える」
ハイスピード逃げを阻害するのが本人の弱みなら、それを取り除れば一気に化ける。そしてその訓練は、レースとレースの間のトレーニングで積めるもの。十週間という期間の中で成功するかは完全な賭けだったが、パンサラッサは見事に応え、この天皇賞の舞台で一部の隙も無いスタートを決めた。逃げウマ娘として理想のパフォーマンスだ。
そして一方、
「他の方から見たサラさんのイメージがその『札幌記念』の時のまま固定されていれば、序盤からさらに一歩、有利に出れる……!」
呟くトレーナーが左手に握るのは、レースの情報誌。開いているページは、パンサラッサについてのレース前のインタビュー。一面に書かれていたのは……
『最近は大人っぽくなってきたのがレースにも出てるかも』
『一歩目が甘くなりがちかもしれない』
『溜め逃げの形になっても十分やっていける』
「……我ながら腹芸とは、何とも柔軟になったものですね」
自分の秘策の結果を握りしめながら、トレーナーは皮肉げに呟く。だがそれが担当のために尽くした結果だからか、心中はどこか誇らしげだった。
パンサラッサにゲートの練習を鬼ほど課す傍ら、トレーナーは対メディアでも一つの策を講じていた。『札幌記念』の時に匂わせた「逃げにキレがない」「思ったようなレースができてない」という言説を基に、少しずつインタビューの雰囲気をそちらへと寄せていったのだ。
別に嘘を言っていたわけではない。パンサラッサの作戦は実際スタート含めいくつもの要素に依存した不安定なものだし、溜め逃げの形でも勝ったことは実際ある。しかし結局のところ、パンサラッサの本領は高速ラップからの消耗戦だ。それを目指さないことには、勝利など夢のまた夢だろう。
その意図を隠し、「パンサラッサはハイペースがいけなくても仕方がない」というニュアンスを混ぜて情報を流布し続けた。そうすることで世間に悩んでいる素振りを訴えかけ続け、『課題克服できず別のやり方を模索するパンサラッサ』のイメージを構築し続けた。
この狙いが見事に功を奏し、パンサラッサはGⅠ勝ちウマ娘にしては低い人気で本番を迎えることとなった。人気が低めということは他陣営の警戒が少ないということ、そして警戒が少ないと言うことは逃げウマ娘にとっての絶好の舞台が整ったということ。
油断の種を撒き、不意打ちの成功する舞台を整えた。あとは、後続が咄嗟にどう反応するかだ。こればかりはトレーナーではどうにもできない。だがどう反応しても、出航した船は戻れないし、あの船は戻る気などさらさらない。
勝負は第二コーナーを越え、向正面へと入ろうとしていた。先頭は努力を結実させ、先頭を見事勝ち取ったパンサラッサ。
「さあ行ってください、サラさん。一度帆を張ったあなたは、誰にも止められない」
豆粒のように遠くを過ぎてゆく影を目線で追いながら、口元には抑えきれない笑みが浮かぶ。
かつて紡がれた大言壮語がどんな景色を見つけるのか、何度味わっても飽き足りぬ高鳴りに胸を躍らせながら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────第二コーナー
(──なんだ、けっこう上手くやるじゃない……っ!)
カーブを曲がり切って向正面、ジャックドールはライバルの意外な挙動に苛立ち半分、感嘆半分で心の中で舌打ちした。
パンサラッサ……前回戦った札幌記念ではまるでキレのないスタートからがむしゃらに先頭に立ってリードを奪ってきた。今回もそのパターンかと思いきや、予想外にいいスタートを決める。今日のために重ねた多くのものを、その背中に垣間見た気がした。
(しかしそうなるとどうするか……ここから追いかけるとなると、中々勇気がいるわね)
『札幌記念』で競り勝って以降、異なる逃げの戦術から「パンサラッサの天敵」と見做されることも多くなったジャックドールだが、当人から言わせるとそれは逆もまた然り、といったところだ。
いくらスタミナ面で一歩勝るといっても、パンサラッサの後続というのは破裂寸前の風船を持たされるかのような緊張感に満ちたポジションだ。いつまで持つか、いつ手放すか、それを一瞬でも誤れば撃沈するのはこちら。そんなリスクに満ちた位置に付かなければならないのが、パンサラッサ相手のレースなのだ。何度もこうしてぶつかる以上、付き合い方も考えなければいけないのだが。
さて閑話休題、現在ジャックドールは四番手。先頭パンサラッサから約一バ身ほどの位置に、また別の逃げウマ娘。この子はそこまでハイペース型じゃなかったはずだから、パンサラッサに積極的についていきはしないだろう。
(そこを躱して二番手に立つ? ここでロスを覚悟で加速して?)
……いや、得策じゃない。相手がパンサラッサだけならともかく、後続にも警戒すべき相手が多い。ダービーとドバイでGⅠ二勝のシャフリヤールに、クラシック銀二冠のイクイノックス。無暗に消耗すれば確実に差し切られる。となると……
(番手のレース運びは『札幌記念』でも経験した。ここは……!)
改めて前を向き、走りながら無駄に力んだ四肢をリラックスさせる。元々ジャックドールは逃げウマ娘、走りながらペースをコントロールするのはお手の物だ。今は耐えて先頭がバテるのを窺おう。
札幌でも差し切った通り、消耗戦ならこっちに分がある。全体がスローに落ちるならこちらにとっては有利だ。ここから数バ身先の先頭を監視しつつ、スキを見計らって一気にペースを上げて───
(ん?)
先頭、その姿に違和感を覚える。少し、先ほどよりも「小さい」のだ。さっき確認した時よりも足音も「遠く」なっていき、今も……
(──うそ)
間違いではない。先頭との距離が、刻一刻と離れ始めている。直線に入ってから何秒、十秒もいかないうちにもう三バ身ほどのリードを取っており、今もなおその距離は広がり続けている。二番手がそれだけ遅いのか? いや、歩いてもない限りここまで歴然とした差は出まい。つまり単純に、先頭が後続を引き離す勢いで走っているのだ。
まだ1000メートル以上も残っているはずの、レース中盤から。
(まさか……)
そして、曲がりなりにも一度手合せをしたジャックドールの背を、嫌な汗が伝う。夏の終わりの、『札幌記念』。そこで延々と見続けたパンサラッサの背中が今の状況と重複し、一つの予感が言葉となる。
(まだ、そのペースで走るつもり?)
『──最初の1000メートル、57秒3!!!』
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
──逃げとは、孤独だ。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ───!」
たった独りのターフで、響くはずのない吐息が木霊する。自分を呼ぶ声は遥か彼方、一緒に走っていた輩は遙か後ろ。きっとそうだと信じながら、一歩、また一歩、誰もいない景色を蹴り続ける。
──逃げとは、孤独だ。
ただ独り、喧騒を置き去りに芝を踏みながら、心のどこかでそんな実感が去来する。
ここには誰もいない。先に行くものも、見るべき相手も、誰もいない。たった一人、何処までも続く海原を、駆け続ける。
誰の声も聞こえないのをいいことに、風が煩く声を立てる。秋の寒気が肌を滑り、喰らうように熱を奪い去る。それを押し退けて、喰われまいと押し退けて、脚を無理やり動かして熱を灯す。
今、どのあたりに来た。とめどなく流れてく景色の中に、僅かな雑念が救いを探す。ずっと横を走る内ラチを頼りに、緩やかな曲線を描いてるのを見つける。ならもう、半分過ぎた? 残り体力は、分かんない。考えてられない。ただこのスピードを続けることだけが、今の自分の命綱なこと以外は。
「はっ、はっ、はっ、はっ──っ!」
ふと、影から抜け出る。沈みかかった陽の光を合図に僅か身体が制動し、コーナーへと突入する。緩やかに、影の主が視界の端で遠ざかっていく、その刹那───
────────────サイレンススズカ
声が、耳をすり抜け、脳へ滑り込み、背筋を凍らせた。
「──っ!」
一度、大きく頭を振りかぶり、踏み込みと同時に振り下ろす。足元の衝撃が体を押し出し、血流が揺れる脳へと殺到し無理やり活性化させる。強張った体を強引に開放させながら、意識は声に囚われる。
誰だ、誰だ、誰の声だ。風か、大地か、あるいは大欅の捨て台詞か。そしてなぜ、あの先輩の名を知っている。このターフで押しつける。
逃げウマ娘なら誰もが知る、かつての大逃げの伝説。圧倒的なスピードでこの天皇賞秋にも挑み、そして走りきることなく終えた、異次元の逃亡者。今はリハビリを経て快復し、アメリカに留学してるんだったか。
一度だけ映像で見た、スズカさんのレースが脳裏をよぎる。あの燃え尽きることもいとわないようなスピードの解放と、その灰の中から蘇るように先頭で舞い踊る、あの常外の大逃げ。
そして何より、破滅と隣り合わせであることを忘れるような、走りながらも走りたいと叫ぶような、あの歓喜の表情。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はっ───!!」
グラつき始めた視界の中、脚だけは回転を緩めない。頭も、意地で固定する。直線にもうじき突入する。フラフラして余計に息を吐くなど、冗談でも笑えない。
ああ、コーナーは得意だけど、嫌いだな。直線なら前だけ見れば終わりが分かるのに、曲がった道じゃそれが分かんない。ずっと堂々巡りを、たった一人でしてる気がしてきて、怖い。
──怖い。
違うのだろうと、ふと思う。
自分はあの人とは違う。だって、こんなにも怖い。
頼れる者が誰もいない中走り続けるのが、怖い。
猟犬たちの追走を振り返るのが、怖い。
今も自分に圧しかかる呪いが……刻一刻と迫りくる『限界』という壁が、こんなにも怖い。
だから、自分にできることは、牙を剥くこと。師匠から、大事なことだけはいつも守り続けてるあの子から教わったように。ただ唇を横に、笑みのカタチに伸ばして、精一杯強がることだけ。
これから挑むものが、失墜という可能性が、どんなに怖くても。
この冒険を選んだのは、他ならないアタシなんだから。
コーナーが、終わりを献上した。堂々巡りは終わった。あと残るは、最後の賭けだけ。
後ろのみんながどれだけ必死になるかと、自分がどれだけみっともなく足掻くか、それだけ。
(──勝負といこうじゃん)
誰にも届かない捨て台詞を、虚空に吐いて。
────逃亡者パンサラッサは『逃げ殺し』の最終直線に、ただ独り身を躍らせた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
(──くっ、失敗した……っ!)
第四コーナーを曲がり、最終直線。グイと目を前方へと向けたイクイノックスの脳裏によぎったのは、ただその悔恨だけだった。
なにせ先頭、ようやく見つけたパンサラッサの背が、余りにあまりに遠かったのだから。
仕掛け時を見誤ったか? 安直に流れに乗らず、引き離しにかかった段階で追いかけるか、そうでなくとももっと前方に位置取りをずらしてペースを握るべきだったか? このメンバーで?
……いいや。マークしようとすればまず間違いなくすり潰され、勝利の芽は摘まれていた。前方に出ても、今度はペースコントロールを余儀なくされて足を使わされる。末脚を得意とするイクイノックスにとっては、どちらも間違いなく敗北を避けられない選択だ。この現状が、おそらく取り得る択の中の最良。
しかしそれでも、賭けしか手元には残っていない。あれほどの差を保ち、なおも引き離しにかかろうとする逃亡者との、末脚が届くかどうかの勝負。
(全部手のひらの上、ということか……!!)
轟く周囲の脚音と押し寄せる歓声、その板挟みの中で脚を繰りながら、イクイノックスは歯噛みする。本人がどれほど意図していたかは分からないが、結末からしてそうとしか言えない。まんまと策にはまり、今まさに挽回のチャンスが刻一刻と失われているのだから。
……否。まだ結末は来てはいない。パンサラッサは50メートル前方、半ハロンにさえ満たない。ここから覆せば、まだ間に合う。
そうなれば今から、他のウマ娘を押し退けてでも追走して───!
その、刹那の判断の直前。まだ選んでない一手が打たれ、パンサラッサに追いついた先の景色が、灰色の幻影となって角膜をよぎる。
──破滅に向かうような、閻魔に噛みつく決死の形相が、枯れ果てる己を押し退ける景色が。
「──ッッ!」
逸る鼓動を、暴れる本能を、それを上回る寒気をもって抑え込む。ゾクリと背を伝う啓示に姿勢を正され、前を向く。そして焦燥に焦げる脳の中で、それでも視界の先を捉える。
(──ダメだ)
ダメだ。ダメなのだ。噛み締めた二度の屈辱が、三度目はないという今生の誓いが、警鐘を鳴らし続けている。短慮などもう十分だと、飽きるほど悔やんだ過去が、耳元で軽率を糾弾している。
見えないのか。分からないのか。この敵は今までの誰よりも往生際が悪いことが、と。
──あれに勝つには、お前はここで、全て乗り越えるしかないのだ、と。
軽率を抑え、代わりに緩慢とも思える動作で右に進路を切り替える。ウマ混みの外、誰も遮る者のいない場所で、脚のラップを少しずつ高め、しかし速度を六割にまで留め置く。
焦らすように、逸るように、放つべき一矢を構えて弦を引き絞る。その目を遥か彼方、射止めるべき勝利に向けながら。
あの人はもはや、余人の知るレースとは領域の違う闘いを演じている。全部を擲ってテーブルに載せて、背水となった己を信じる究極の耐久勝負。その超えるべき相手はきっと、とっくに自分や他のウマ娘ではなくなっているのだ。
ならその博打に、背水に打ち勝つには、自分も同じ地平に立つ以外に道はない。
全てをたった一つの可能性に賭けて、刹那の中の己を信じる。己の全てを賭けて、あの人をその戦場ごと斬り捨てるしか勝機はない。
(──僕なら、できる)
見定めろ。見極めろ。この末脚を、解放する瞬間を。
この目ならこの六割を、十割へと進める瞬間を見極められる。絶対に。
信じろ。
何度破れてきたとしても、一度たりとも己を裏切ろうとしなかったこの目を、信じろ。
────先頭は400の標識を、通過しようとしていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
────世界が、自分に牙を剥いている。
歪み、揺れ始めた視界の中で、そう錯覚するほどに空が圧しかかっていた。
「ゼェっ、ぇ、はッ、はァッ、は、ぁ────!!」
果てのない走路は、終わりのない苦行を強いる。そびえたつ坂路は、自分を地獄へと突き落とそうと迫る。ターフに生える草の一本一本さえ、自分を引きずり降ろそうとする死神の鎌だ。
抗うため、息を吸う。空気の入る勢いで顔を上げ、幻覚に頭突きして突破する。血肉を千切って亡霊の手を躱し、はらわたをまき散らすような心持ちで脚を回す。
絶叫する脚を回して、回して、出せる限りの速度で疾駆する。
────音を失い、色の抜け落ちた静かな世界の中を。
(ああ、もう。ほんとにサイアクな走りだな)
《領域》。時代を築くウマ娘が目覚める、走りに全神経を超集中させる奥義。
そんなものがあると聞くが、半端者のおまえにはこの半端な領域がお似合いということだろうか。そう悪態をつきたくなるくらい、このギフトは頼りにならない。最弱の《領域》と呼んでやる。
何せ、余裕のある時には呼び声に一切応じないのだ。単に逃げてても全く来る素振りがない。精魂尽きるほどに走り尽くして、まだ先を望んで、死にそうな声で助けを乞うて初めて、この相棒は姿を現す。
そうしてやってくれるのは、死に体に鞭打たせて酷使できるようにするだけ。とんだドS野郎だ。
「ぅ、ぐぇ゛……っ!」
喉の奥に、何か詰まった。途端に締まる首に、酸欠で一瞬で脳が沸騰する。眩む視界、白む五感の中、肉体は導かれるように最適解を選択する。
「ぇ゛っ……ほ! ぐ、っ……は、はッ、はぁっ────!!」
止まりそうになる四肢を強引に駆動させながら、喉を裂くかのような勢いで息を吐き出す。解放される呼吸路、伴ってブレた重心を腕を振って無理やり引き戻す。捻じれる上体をそのままに反対の脚を地面に叩きつけ、帰ってくる衝撃で腕の遠心力と釣り合いを取る。進路のふらつきを最小限にとどめながら、痺れる右脚に喝を入れて身体を蹴りだす。無理にでも、強引にでも、全身を使って走り続ける。
隅々まで感じる、絶叫を上げる全身を使って、それでも前に進み続ける。
──時折、思う。他の人なら、どんな景色なのだろうかと。
スズカさんなら、それともカナロアさんなら、きっと各々の脚で、各々の世界で、このターフを鮮烈に駆け抜けるんだろう。置き去りにする豪速であれ、兵との死闘であれ、己を声高に刻み付けるのだろう。破滅に片足をかける自分とこの世界とは、まるで違うんだろう。
けど。
「ぅぐ、う、うぅぅ……! うう゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛!! ぅ゛う゛ぁ゛ぁ ァ ッ────!!」
肋骨の奥に、灼けるような感覚がある。手脚はまるで針を刺し連ねたかのように痺れ、首から上は茹ったかのような熱で視界まで歪みかけている。それでも、痛みを感じる全てを全力で回す。灼ける肺を押し広げて空気を喰らい、今にも痙攣しそうな脚で地面を抉りながら爪先で眼前の空気を掻き毟る。熱を帯びる脳髄で、溶け落ちそうな眼球で、それでも前を睨み続ける。
引き摺られるように、釣り上げられるように、導かれるように。ただ一つの終着へと、海原を割いて突き進む。
────けど。それでも、走り続けるのなら。
相棒は、こいつがいい。
この頼りない剛脚が良い。
あたしが倒さなきゃいけないのは、後ろから迫る誰かなんかじゃない。
一歩先の、膝を屈しそうな自分なのだから────!
────────────────── 捉 え た
「────ッッ!」
ゾッ、と背筋が凍るプレッシャーに、思わず肺が停止する。死んだふりを決めそうになる臓物に活を入れ、むせないように詰まった息を吐き出す。その最中も、心拍はそれまでの比じゃないほどに危険信号をがなり立て始めた。
背後に、いる。迫ってる。振り返れない。
誰かは分からない。けど、分かる。怪物が、ロードノースともタイトルホルダーとも違う実力を持つ何者かが、牙を剥く。この身にとどめを刺しに、迫ってくる。
「ハッ゛、ハッ゛、ハッ゛、ハッ゛、ハ 、ァ゛────!」
ガタガタと鳴り始めた歯を食いしばって、ぐらぐらの頭を固定する。痛みで感覚も薄れ始めた脚を地面に突き刺す。肘が固まった両腕を肩だけで振り回し、シャットダウンしかけの身体を駆動させながら、それでも予感を振り切れない。
振りほどけない。
逃げきれない。
────ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド
心音は脚音へ。
予感は確信へ。
死神の鎌が、迫ってくる。
灰色の世界の中、景色が歪む。前がぼやけて薄れ始める。後ろの気配が、破滅の合唱が、味方のいないこの世界を引き裂いて、
更に近く、
鮮明に、
絶望的に。
後ろあと何メートルだ、10バ身あるか、いや5バ身、すぐそこにまで迫って脚音すら鮮明に聞こえてどんどん加速して迫って迫って迫って速くて速くて速くて速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い振り解けない!前はまだあんなに残っているのに、世界はこんなにもとろとろのろのろでしか消えてくれないのに後ろから追い抜く時だけこんなに速くて勢い良くてずるいずるいずるいずるい意地悪理不尽ずっとずっとずっとそうだ!!なんでいつもいつもみんなできてきれいでりっぱできらきらしたところにいっちゃってあたしだけできなくておいてけぼりにされて、あたしだってあんなにきらきらしたいだけなのにあのばしょにみんなといっしょのばしょにいきたいだけなのにみんなみんなみんなおいこしてばっかりであたしをおいていってずっとずっとひとりにさせてまたあたしのほしかったきらきらがとどかないところにもっていかれちゃうそんなのいやだいやだおねがいおねがいひとりはいやいっしょにきらきらしたところがいいのおいていかないであたしにもちょっとでいいからみんなといっしょにいさせてくださいもういやだいやだくらいのいやだひとりはいやだおいてけぼりはいやだおねがいだれかだれでもいいからおねがいあたしをみつけてひとりにしないでもうもどりたくないからしんじてあたしのいばしょがないなんていやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ────────
────けるな────
────────あ
────れ、にげきれ────
────ばれ、ねばって、あと────
────────そう、だった
「──────ガンバれぇええっ!! パンサラッサァァァッ!!!!!!」
────もうひとりだけ、ここには
あたしのミカタが、ここには────
「────負 け る か あ あ あ ア ア ァ ァ ! ! ! !」
────────怪物の牙を頭突き砕いて、一歩だけ、世界が光って見えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「────────────────ごッ、ごべッ?!」
顔面を芝が殴りつける音で目が覚める。もう一度叩きつけられる痛みで脳が覚める。次いで止まった肺の痛覚で、世界が再起動する。
「────ッッ、ッハァ゛っ!! はぁっ、ハァッ、っゴホッ、ハァ……ッッ」
全身が絶叫を上げる。頭は銅鑼を鳴らし、肩は捻じり切られ、肺は引き裂かれ痙攣を起こす。手先は痺れたように生ぬるい感触を残し、脚はもはやくっついているのかさえ定かではない。
残った余力をかき集めて顔を上げ、こちらを見下ろす掲示板に何とか目を向ける。最後、横を走り抜けられた感覚と、飲み込まれる直前に体を前に押し出した感触はあったが……
確定
7
3
5
9
8
「…………二、着……」
上げた顔を降ろしそうになる筋肉に鞭を打ち、動く左腕で地面を押して体を浮かせる。くらりと重心が揺れる感覚、世界が回って青空が、目の前に広がった。
負けた。
トレーナーが時間を掛けて、手を尽くして、たくさんたくさん繋いでくれたのに。
それに応えたくて、報いたくて、たくさんたくさんたくさんたくさん、積み重ね続けたのに。
それでも、届かなかった。
あと一歩、届かなかった。
「くっ、そぉ……」
喉が、震える。腹がひくつく。重い右腕を引きずって持ち上げて、顔に触れる。吹き付ける吐息が、熱くてあつくて。覆うように重ねたてのひらの、その中で───
「勝っ、た……?」
風に乗った囁きが、耳をわずかに揺らした。
歪み始めた視界の端、黒髪に一筆塗ったような白い流星が揺れ動いた。膝に手をつき、荒く息を吐き出しながら、その顔は下に伏せられている。額に汗で張り付いたその白黒髪の向こう、僅かに見える目は足元を見つめていた。ただ、大きく見開いたまま、見つめていた。
「……ノクちー」
「──っ」
囁くような掠れた声に、ピクリと耳が震える。細く震える指が髪をかき上げ、色白の純朴そうな瞳がこちらを覗く。その顔が、先ほど自分があんなに怖がっていた怪物のものだと思うと、どうにもおかしくて。
右手、顔を覆いかけた影を、そのまま持ち上げる。遮るものがなくなり、傾きかけた日差しの中で、ピースサインを少女に向けた。
「ハッピーバースデー、ノクちー。アタシの誕プレ、ど?」
「────っ」
意地っ張りな、強がりのような一言。結局、二着じゃ負けと変わんないのに。悔しいのは本当なのに。
「…………最っ高です」
この泣き笑いを見れたのなら、まぁ。よしとしても、良いのかもしれない。
『ワァァァァァァァァァァァァ────────ッ!!』
色の戻った世界に、色彩が波紋を立てていく。波のように、光のように、声が身体に覆い被さっていく。その中で、息をしながら。
「────すごいぞ、パンサラッサ!」
「────惜しかったな、応援しちゃったぞ!!」
「────イクイノックスおめでと~!」
「────サラさん」
懐かしい音色に、目が開いた。
「……トレ、ナ───」
何ごとか呟く前に、肩が温もりに包まれる。背中に手が回され、ぐいと身体の浮く感覚、瞬きの中で抱き起こされていた。
「……よくやった、とは言いません」
耳元で、声が紡がれる。ぼやけた頭で、揺れる雑踏の中で、それでも。
その声が震えてるのが、不思議なほどによく分かった。
「────惜しかったですね」
「────────」
それだけ。
ただ、その一言だけで。
もう影に隠さなくてもいいのだと、身体が理解してしまった。
「────あたし」
「……はい」
「頑張ったんだよ」
「はい」
「ほんとに、ひっしに、さ」
「ん」
「がんばった、んだよ……?」
「……ええ」
「…………くや、しいよぉ……」
「……そう、ですね」
「………うぅ、うううううぅぅぅ…………!!」
「…………ほんとに、くやしいなぁ……っ」
湛えるほどの歓声の中で、一つ分の悔し泣きと、一つ分のすすり泣きが、歌い合うように府中に寂しく響きわたった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
数時間後、ライブステージ裏にて。
「ぃよっしゃあぁぁ! んじゃあラストド派手に、秋天おつかれライブぶちカマしていっちゃうかーー!」
パンサラッサは輝くばかりの笑みを、周囲に振り撒いていた。
「…………」
「ん? 何ナニみんな? アタシの髪逆立ったりしてる?」
「いや、なんと言いますか……思ったより元気そうだ、と……」
思った反応が得られず首を傾げたパンサラッサに、ライブ衣装に着替えたイクイノックスが応じる。
無理もあるまい、最後にみんなが見たパンサラッサは、疲労困憊で立てずにすぴすぴ鼻をすすりながらトレーナーに引きずられていったのだ。全員あのようなレース後で多少疲労困憊だったとはいえ、二本足でいられない程ではなかった。あそこまでクタクタになった状態から現在のハツラツっぷりは、もはや替え玉を疑った方が現実的なレベルだ。
「疲れ? ん~、アリよりのナシ、ってとこ! ライブあるのにサゲサゲなんてないっしょ! 最後まで盛り上がんなきゃパリピの名が廃る、ってヤツ!」
「この子、前も皆バテバテにさせときながら一人だけ騒いでたもの。気にするだけ無駄よ」
パンサラッサのよく分からない理屈に、一度パンサラッサとのライブを経験したジャックドールの証言が重ねられる。どうやらあれだけのレースをして元気なのは、いつも通りらしい。なんとも不思議なこともあるものだ。
「それよりも! 余力あるなら、ライブの準備に向かった方がいいわ。そろそろスタンバイだそうよ」
「おお、もう行けそう? そんじゃ皆でラスト、盛大にいっちゃろ~! ノクちーも初のGⅠセンターライブ、おもっきし楽しまなきゃ! 油断してたらアタシがスポットライトもらっちゃうよ~?」
手を叩いたジャックドールの一声に突かれ、集団がぞろぞろとステージの方に向かい始める。イクイノックスも、パンサラッサの発破に僅かに笑みを浮かべると、深呼吸して向かう。からかわれはしたが今回は初のセンター、皐月ダービー二着の彼女にとっても特別なステージになることだろう。
「……ぃよっし! じゃアタシも……」
それを見届けて満足げに笑い、パンサラッサも頬を叩いて立ち位置に向かう──その直前、
「ねぇ」
「のわっ、とぉ……?!」
残った一人の声が、舞台袖に留め置いた。
「? ドルちん、どうかしたん? なんか忘れたり──」
「……貴女。本当に大丈夫?」
「──」
暗い舞台の袖の中、僅かに光が差し込む。それを顔に受けるジャックドールの瞳は、僅かな憂慮を向けていた。
「GⅠで、あれだけの走りで二着……身体は知らないけど、内側は本当に大丈夫? 貴女は、あそこに立てる?」
問われるのは、悔しさや惜しさとはまた別の、覚悟の問題。ライブではトップ3はステージの中央で、特別パートを踊る。
つまりパンサラッサは、自分の逃した一着を踊るイクイノックスを誰よりも近くで見るということ。あれほどの接戦を演じた上でそこに立てるのかと、その問いに───
「本当に無理なら、今からでも空席で大丈夫なハズよ。やっぱり疲れがあったってことで───」
「……ふふっ、あはは! 札幌で二着に負かしたドルちんが、今度はアタシの心配? おもしろ!」
「なっ……! あれは別の話でしょ、それに今は四着だからおあいこ! っていうか、こんなこと言わせないでよ!」
何も様子を変えずコロコロと笑うパンサラッサのいじりに、ジャックドールが顔を赤らめて反論する。その反応にまた一通り笑顔を綻ばせながら、「大丈夫」と言葉が続けられる。
「後悔も航海も、先に立たず! だから大丈夫」
「!」
「アタシ、走ったレースに反省はしても、ナシには絶対にしないって決めてるから。二着の景色が、今アタシが見たい景色!」
きっぱりと、宣言。泣いて、泣き合って、泣き止んで。今、彼女はその涙全部の結果が見たいと、胸を張って語る。その宣言に、浮かび上がっていた憂慮も融け落ちるように軽くなっていく。
「……はぁ。結局、心配するだけ無駄ってコトね。やっぱり貴女、よく分かんないわ。」
「あっはは~、たまによく言われる」
ため息一つ残し、ジャックドールは軽く肩を押して横を通り過ぎる。その足が舞台袖から抜ける、その手前。
「……『香港カップ』!」
「……!」
ビシリ、と指先が向けられる。舞台の直前、二人しかいない空間で視線が交錯する。今度は光に当てられる顔へ、金髪を靡かせながら才媛が笑う。
「私の次の目標よ。どうせ、貴女も目指すんでしょう?
今日はバックダンサーに甘んじてあげるわ。けど、首を洗って待ってなさい。次は生まれ変わった私と貴女で、勝負といきましょう」
それだけ言い残し、返答も待たずにきびすを返す。暗闇へと消えていった背中を見つめ、パンサラッサはもはやただ一人。また、独り。
「……ふふふっ」
否、違う。独りではない。もうその先に何が待っているのか、優しい人に教えられたのだから。
「受けて立つよ、ジャックドール。海の向こうの冒険こそ、アタシの一番の楽しみなんだから」
その一言を虚空に残して、パンサラッサは己の待つステージへと歩みを進めた。
最後の一人が並ぶ。15人が出揃う。一拍、二拍、三拍の後に、世界が光で照らされる。
目を開く。僅かな間隔の合間に、舞台の向こうの暗闇を見やる。浮かび上がる光、光、光。無数の光の中で、青の色彩がまた無数に揺れる。
笑みが、ただ歓喜を象って、浮かぶ。
『♪~』
音楽が鳴り響く。それを合図に、ちらと横を見る。この大戦の勝者と目を合わせ、頷き合うと、スッと下がり転調を待つ。その刹那の中、この詩に想いを馳せる。
Next Frontier────『次の地平へ』。そこに己が、想いを載せるとするなら。あの無数の青に、届けるとするなら。
『選ばれしこの道を ひたすらに駆け抜けて』
────もう一度、必ず。アタシはここに立つ。
多くの航海、冒険の果て。あなたたちがアタシに見る夢を、全部背負って。
『頂点に立つ そう決めたの』
────だから、今は。ただアタシの出来る全部をかけて!
『力の限り、先へ────────!』
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
ここにしかいないウマ娘パンサラッサの物語、お楽しみいただけたら幸いです。
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