支部にも上げてます。
死者は夢を見ない。
真空には音がない。
それでも彼は、砲声を聞いた。
遠い地表から撃ち上げられた光が、大気を貫いてゆく。
雲を裂き、青を抜け、昼と夜の境界を越える。幾筋もの白光が、地球を覆う衛星軌道へ伸びていた。
エーレンベルク。
かつて人類が、自ら閉ざした空を撃ち破るために造られた砲。
その照準の先に、星ではない光が浮かんでいる。
アサルトセル。
国家が互いを恐れ、企業が他者の宇宙を許さず、誰も出られない檻を空へ築いた時代の遺物。
長い年月、地上から飛び立とうとするものを、敵も味方もなく撃ち落としてきた無人兵器群。
人類の頭上にありながら、地上からはほとんど見えない壁。
最初の一基が、光に呑まれた。
爆発音はない。
破片が、ゆっくりと四方へ散ってゆく。
人工の星がひとつ、消える。
続いて二つ。
三つ。
軌道上に張り巡らされていた光点が、白い砲撃に貫かれるたび沈黙していく。
星空に穿たれた穴ではなかった。
むしろ、今まで星空を塞いでいた蓋が、ようやく剥がれ落ちているのだ。
「……そうだ」
声を出したつもりだった。
だが、言葉はどこにも響かなかった。
彼にはもう、肺がないのかもしれない。
声帯も、舌も、口腔も。
そもそも、ここに身体があるのかさえ定かではなかった。
眼下に地球がある。
白い雲と、濁った大気。
コジマ粒子に蝕まれた大地は、青い惑星という言葉からは遠い。雲間に覗く海も、どこか鈍く、古い金属のような色をしていた。
その上を漂っていたクレイドルが、高度を失ってゆく。
一隻ではない。
幾つもの巨大な翼が傾き、ゆっくりと地表へ向かっている。
優雅に見えるのは、遠くから眺めているからだ。
あの中では警報が鳴り、人々が走り、子供が泣き、誰かが祈っている。
床は傾き、照明は消え、空を故郷だと思っていた者たちの足元から、世界そのものが失われている。
彼は目を逸らさなかった。
これは比喩ではない。
計算式の末尾へ置かれた、抽象的な犠牲でもない。
あの一つ一つに人間がいる。
名前を持ち、過去を持ち、明日を信じていた者がいる。
クローズ・プランとは、彼らの明日を奪い、その先にいる人類へ未来を渡す計画だった。
何を言い換えても、その事実は変わらない。
必要だったと唱えたところで、死者が生き返るわけではない。
人類のためだったと宣言したところで、落下する者の恐怖が軽くなるわけでもない。
だから彼は、許しを求めなかった。
正義とも呼ばなかった。
ただ、引き受けた。
空を開くために流された血を、誰かの過失へ押しつけるつもりはなかった。
彼らを落としたのはORCAだ。
その頂点に名を置いたのは、マクシミリアン・テルミドールだ。
その計画を守るため、幾つもの顔を使い分けたのは、オッツダルヴァだ。
そしてそのどちらも、今はもう存在しない。
最後のアサルトセルが砲光に貫かれた。
長く、人類の頭上に居座っていた光が消える。
何もなくなった。
ただ暗いだけの真空が広がっていた。
空は、何も約束しない。
食料も、水も、呼吸できる空気もない。
温度も、重力も、生き物の都合に合わせてはくれない。
そこにあるのは、人間を拒む静寂ばかりだった。
だからこそ、美しいと彼は思った。
企業の所有地ではない。
国家の領土でもない。
誰かが先に柵を築き、後から来る者を自動的に撃ち殺す場所でもない。
人類を歓迎しているわけではないが、拒絶する意志すらない。
ただ、空いている。
人間が自らの意志で向かい、失敗し、死に、それでも次を飛ばす余地がある。
彼が欲したものは、楽園ではなかった。
可能性だった。
夢の中で、時間が流れた。
一年か。
十年か。
百年か。
地上では、落ちたクレイドルの残骸が巨大な山脈のように横たわっている。
その周囲に人が集まり、使える金属を剥がし、無事な機関を運び出していた。
かつて空中都市を浮かせていた技術が、今度は地上から空へ昇るために使われる。
最初に打ち上げられた機体は、ひどく不格好だった。
兵器に似た胴体。
継ぎ接ぎの外板。
経済戦争で使い古された推進機関。
機体側面には企業の標章が幾つも並び、それぞれが他社より大きく自らの名を記そうとしていた。
人類は変わっていない。
空が開いたからといって、欲望が消えるわけではなかった。
企業は宇宙航路を奪い合い、資源の所有権を主張し、新たな市場へ誰より先に旗を立てようとする。
地上では、打ち上げ費用を巡って人が殺される。
宇宙船の搭乗者名簿には順位があり、金と地位を持つ者から先に席を得る。
ある組織は、軌道上へ再び兵器を置こうとした。
ある国家の残党は、宇宙居住区を自らの領土と宣言した。
歴史は繰り返す。
人間は、地上で犯した愚行を、そのまま宇宙へ持ち込もうとしている。
彼は、それを見ても失望しなかった。
人類が賢くなることなど、初めから期待していない。
善良になることも。
争いを捨てることも。
彼が賭けたのは、人類の正しさではなかった。
愚かで、醜く、何度誤っても、それでも滅びる以外の道を選べるという一点だけだった。
打ち上げの時刻が来る。
地上の炎が、機体を押し上げる。
汚染された雲を突き抜け、機体は上昇していく。
かつてアサルトセルが待ち受けていた高度へ近づく。
管制室では、誰も声を出さなかった。
消えたはずの敵が、再び砲撃してくるのではないか。
長く閉ざされていた空が、今さら人類を通すはずがない。
そんな非合理な恐怖を、誰もが抱いていた。
機体が軌道を越える。
何も起きない。
警報は鳴らない。
光は飛んでこない。
小さな宇宙船は、そのまま地球の重力を離れていった。
管制室で誰かが泣いた。
別の誰かが机を叩き、叫ぶ。
通信回線を通して歓声が広がってゆく。
彼には聞こえない。
真空には音がない。
それでも、砲声よりはっきりと聞こえた気がした。
さらに時が流れる。
軌道上に、小さな居住区が生まれる。
最初は人間が数十人眠るだけの筒だった。
やがて複数の区画が接続され、回転によって擬似的な重力を作り、内部へ土と水が運ばれた。
初めて植物の芽が出た日、居住者たちはそれを囲んだ。
誰かが写真を撮り、誰かが記録へ残す。
一本の頼りない芽は、かつて数億の人間を浮かべたクレイドルよりも、未来の象徴らしく見えた。
月の暗い地表へ、人が降りた。
大地へ足跡を刻む。
企業の旗を立てた者もいた。
その隣へ、地球全体を象った印を置く者もいた。
どちらが正しいのか、彼には分からない。
正しさなど、後世が好きに決めればよい。
やがて船は、月より遠くへ向かった。
数か月を要する航海。
通信に遅延が生じ、地球からの命令がすぐには届かなくなる距離。
そこで初めて、人類は地球の支配から僅かに離れた。
宇宙で生まれた子供がいた。
その子は、本物の空を知らない。
青い大気も、雲も、雨も知らず、回転する居住区の内壁を地面として育った。
窓の外にある地球を、故郷ではなく、遠い祖先の星として眺めた。
「いつか、行ってみたい」
子供が言った。
隣にいた大人は答える。
「帰る、ではないのか」
「生まれたところじゃないもの」
その言葉を聞いて、彼は初めて理解した。
クローズ・プランが成功するということは、すべての人間が地球を捨てることではない。
地球を、唯一の場所ではなくすことだ。
人類が生きる場所を、自ら選べるようにすること。
地上に残る者もいる。
宇宙へ出る者もいる。
一度出て、戻る者もいる。
二度と帰らない者もいる。
そのどれも、軌道上の無人兵器によって最初から否定されてはいない。
人間が、自分で決められる。
それだけでよかった。
さらに遠い未来。
船はもう、地球の形を肉眼で判別できない場所を進んでいた。
星と星の間を渡るには、人間の一生では足りない。
だから何世代もの命を内包する船が造られた。
出発した者は、目的地へ辿り着けない。
到着するのは、その子供でも、その孫でもない。
まだ生まれてすらいない人間へ、行き先を託して飛び立つ。
彼は、それを見て微かに笑った。
自分と同じだった。
計画の成就を見ることなく、その先にいる者へ未来を渡す。
名を残すためではない。
理解されるためでもない。
ただ、後から来る者が、自分より一歩遠くへ行けるように。
船内の記録庫には、地球の歴史が保存されていた。
国家解体戦争。
リンクス戦争。
パックス・エコノミカ。
クレイドル。
ORCA旅団。
クローズ・プラン。
マクシミリアン・テルミドール。
そこには、彼を狂信者と記した資料もあった。
虐殺者と呼ぶ記録も。
人類を救った革命家と讃えるものもあった。
オッツダルヴァとの関係を疑う論文があり、両者を別人とする説も、同一人物と断定する説も残っていた。
どれも完全には正しくない。
どれも完全には間違っていない。
彼は訂正しようとは思わなかった。
名前とは、生きている者のためにある。
死者が後世の解釈へ口を挟むべきではない。
やがて記録媒体が更新され、古い資料の一部が失われた。
さらに長い時を経て、ORCAという語は歴史の脚注へ移った。
テルミドールの名を知らない世代が生まれる。
それでも船は進んでいた。
彼の名を知らぬ人間たちを乗せて。
それでいい。
遺志とは、名を記憶させることではない。
名が消えたあとにも、結果だけが残ることだ。
彼は、自分の輪郭が真空へ溶けていくのを感じた。
テルミドールが消える。
オッツダルヴァも消える。
革命家も、旅団長も、ランク1も。
すべてが遠ざかり、最後に一人称だけが残った。
私。
どの名にも守られず、どの役割にも命じられていない、ただ一人の私。
その私も、じきに眠りへ落ちる。
最後に見えたのは、見知らぬ星だった。
人類の船が、その周回軌道へ入ってゆく。
窓に張りついた子供が、地表を指差している。
海がある。
雲がある。
大気がある。
生きられるかどうかは、まだ分からない。
調査が必要で、失敗する可能性も高い。
それでも船は、降下艇を準備していた。
誰かが最初に降りなければならない。
誰かが最初の危険を引き受けなければならない。
子供が、大人へ尋ねる。
「怖くないの」
大人は、しばらく考えてから答えた。
「怖いさ」
「それでも行くの?」
「ああ」
「どうして?」
大人は窓の向こうを見た。
「行けるからだ」
彼は目を閉じた。
それが、答えだった。
清浄な未来ではない。
争いのない世界でもない。
彼の犠牲を正当化してくれる、都合のよい楽園でもない。
ただ、人間が行ける場所。
行くか否かを、自ら選べる未来。
かつて誰にも許されなかった選択を、まだ生まれていなかった人々が手にしている。
もう、彼が見届ける必要はない。
砲は役目を果たした。
アサルトセルは消えた。
空は開いた。
その向こうをどう生きるかは、生きている者たちの仕事だ。
真空には音がない。
誰も彼の名を呼ばない。
それでも彼は、無限に広がる静寂の中で、初めて安らかな眠気を覚えた。
遠ざかる船の航跡を眺めながら、名を失った私が微睡んでいる。
人類が、自ら選んだ空の夢の中で。