事態を聞いた壬氏は、文字通りすっ飛んできた。
「薬屋!」
「はい」
「大丈夫なのか?」
「私は」
猫猫は答える。
「小蘭はかなり怖い思いをしましたけどね」
小蘭はまだフェルンのそばから離れようとしない。
フェルンもそんな小蘭を気遣っている。
壬氏は大きく息を吐いた。
「……状況は聞いた」
そして、フリーレンへ向き直る。
「だが」
「うん」
「どうして魔物なんてものが、ここに出たんだ?」
フリーレンが答える。
「確かなことは言いえない。だけど……」
「何だ?」
「今回、私達の世界にいる魔物が、この世界に現れた。だから」
フリーレンは静かに言う。
「どこかで、私達の世界とこの世界が繋がった可能性はある」
壬氏が眉を寄せる。
「世界と世界が……」
言葉にすると、あまりにも途方もない。
数日前なら、いや、フリーレンとフェルンに会う前なら、こんな話を真面目に聞く自分など想像もできなかっただろう。
しかし、今は違う。
異世界人が目の前にいる。
魔法も見た。
そして今度は、魔物まで現れた。
「その繋がっている場所」
壬氏が聞く。
「分かるか?」
「調査はする」
フリーレンが答える。
「でも、見つけられるとは保証できない」
「魔力の痕跡を探してみます」
フェルンも言う。
「ただ、今まで何も分からなかった以上、かなり特殊な現象なのだと思います」
「そうか」
魔物が出現した原因を探るのは大事だ。しかし、今は差し迫ったことがある。
「それで」
壬氏は訊く。
「化け物と、どう戦えばいい?」
フリーレンが答えた。
「私達の世界でも、剣や斧は通じる」
「本当か?」
「うん」
壬氏の表情が少しだけ明るくなる。
「なら、我々でも――」
「ただ」
フリーレンが続ける。
「種類によるけど、普通の人が一人で戦うのは危ないよ」
「…………」
「魔物は人間より強いものが多いです」
フェルンも説明する。
フリーレンが言う。
「かなり腕の立つ人じゃないと、正面から戦うのはおすすめしない」
「そうか……」
壬氏は考え込む。
後宮には宦官がいる。
その中にも、護衛や警備を担当する者はいる。
だが、魔物相手に十分な戦力かと言われれば――
「宦官達だけでは対処できないかもしれないな」
「そうですね」
猫猫も同意する。
「なら」
壬氏は少し嫌そうな顔をする。
「男の武人を後宮に入れるしかないか……」
本来、後宮は男性が自由に出入りする場所ではない。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
魔物が妃や女官を襲う可能性があるのだ。
「緊急時ですからね」
猫猫が言う。
「帝から正式な命を出してもらえば、何とかなるでしょう」
「ああ」
壬氏は頷いた。
フリーレンが続ける。
「今のところ」
「うん?」
「魔物を見つけたら、私かフェルンに知らせて」
「やはり、それが一番確実か」
「はい」
フェルンも頷く。
「特に女官たちには逃げることを徹底してください」
子翠が聞く。
「逃げる?」
「はい」
「とにかく逃げる」
フリーレンも言う。
「建物に入れるなら入る。大声で周囲に知らせる」
「なるほど」
フェルンはさらに続ける。
「それから」
「まだあるのか?」
「武人の方々も、決して一人で行動しない方がいいです」
「複数で?」
「はい」
「もし一人で魔物に遭遇したら?」
「戦わず、応援を呼ぶべきです」
「腕に自信があっても?」
フェルンははっきり答えた。
「駄目です」
「……分かった」
壬氏は素直に頷く。
香琳妃の件で、フェルンの実力は嫌というほど分かった。
そのフェルンが言うなら、従った方がいい。
そして、フリーレンが、さらに気になることを口にした。
「あと」
「何だ?」
「魔物が出るのは、ここだけとは限らない」
「…………」
壬氏の顔が変わった。
猫猫も気付く。
そうだ。
魔物が現れた理由が。
「後宮だから」
とは限らない。
繋がっている箇所が一か所だけかどうかも分からない。
「街にも?」
壬氏が聞く。
「可能性はあります」
「宮城の外も?」
「あります」
「もっと遠くも?」
「否定できません」
壬氏は即座に立ち上がった。
「分かった」
「壬氏様?」
「帝へ報告する」
迷っている時間はない。
「後宮だけでなく、都全体へ警戒を呼びかける」
「その方がいいと思う」
フリーレンが頷いた。
報告を受けた帝の判断も早かった。
「後宮だけの問題ではない可能性があるのだな」
「はい」
壬氏が答える。
「異国の客人――フリーレンとフェルンによれば、魔物は人を襲う危険な生物です」
「こちらの武器は効くのか?」
「剣や槍は通じるそうです。ただし、かなり危険だと」
帝は少し考え、すぐに命じた。
「宮城の警備を増やせ」
「はっ」
「都の武官にも通達する。見慣れぬ怪物を発見した場合、単独で相手をするなと」
「はっ」
「民にも不用意に近づかぬよう知らせよ」
「はい」
さらに、一時的に後宮の者たちを別の場所へ避難させる案も出た。
妃たち。
女官。
侍女。
少なくとも、魔物が現れた場所から遠ざける。
だが、その検討をしていた最中、一人の武官が血相を変えて駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何事だ」
帝が聞く。
「都で――」
武官が息を整える。
「街中に、異形の怪物が現れました!」
「何!?」
壬氏が立ち上がる。
帝の表情も険しくなる。
「場所は?」
「南側の市です!」
「被害は?」
武官が答える。
「幸い一体だけでしたので、近くにいた武人たちが数人がかりで討ち取りました」
「死者は?」
「今のところ、ありません」
「そうか……」
一瞬だけ安堵する。
だが、問題はそこではない。
「街にも出た……」
壬氏が呟く。
フリーレンの予想通り、後宮だけではなかった。
そして、壬氏は気付いた。
「……待て」
「どうした?」
帝が聞く。
「後宮から避難させても」
言葉が止まる。
「避難先に魔物が出ない保証がない」
「…………」
帝も黙った。
街に出た。
なら、どこが安全なのか。
分からない。
むしろ――
「皮肉な話ですが」
壬氏が言う。
「今のところ、フリーレンとフェルンがいる後宮の方が安全かもしれません」
「…………」
帝も否定できなかった。
魔物を簡単に倒せる二人。
彼女達がどれほどの魔法使いなのか、壬氏は香琳妃の一件でその片鱗を見た。
だが、あれすら、二人にとっては簡単なことだったのだろう。
後宮で十体近い魔物を、二人であっという間に始末したという。
「なら」
帝は判断する。
「後宮の警備を増強する」
「はい」
「武人の入宮を、一時的に許可する」
「承知しました」
「妃や女官たちには、むやみに外へ出ぬよう伝えよ」
「はい」
「ただし」
帝の目が鋭くなる。
「都全体の警戒も怠るな」
「もちろんです」
事態は完全に変わった。
最初は異世界から二人の魔法使いがやってきた、それだけだった。
不思議ではあるが危険ではなかった。
むしろ、猫猫達にとっては新しい友人が増え、珍しい知識に触れ、時々、変な発明で騒ぎになる、そんな日々だった。
しかし今、異世界から来たのはフリーレンとフェルンだけではない。
魔物まで流れ込んできている。
そして。
「フリーレン様」
フェルンが言う。
「これは」
「うん」
フリーレンは空を見上げていた。
世界が繋がった。
それが事実なら、その道を通って何がこちらへ来るか。分からない。
さらに強い魔物、あるいは――
フリーレンは目を細めた。
「魔族まで来なければいいんだけど」
「…………」
フェルンの表情が固まる。
猫猫が聞く。
「魔族って」
「前に話したよね」
「人の言葉を話す奴か」
「うん」
フリーレンは静かに答えた。
「魔物より、ずっと厄介」
猫猫の顔から、わずかに血の気が引く。
武器を持った怪物なら、見れば危険だと分かる。
逃げることもできる。
だが、人の言葉を話し、そのうえで人間を殺す存在。
もし、そんなものまでこの世界へ流れ込んできたら。
「……面倒どころじゃないね」
猫猫が呟く。
「うん」
フリーレンも頷いた。