翡翠宮。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かだった。
だが、部屋の中に漂う空気は決して穏やかではない。
玉葉皇后の前には猫猫、子翠、小蘭。そしてフリーレンとフェルンがいる。
壬氏はすでに帝への報告と後宮の警備体制を整えるために動いている。こちらでは、実際に魔物と遭遇した者たちから玉葉皇后へ詳しい説明をすることになった。
一通り話を聞き終えた玉葉皇后は、いつもの柔らかな笑みを消していた。
「つまり……あの怪物は、フリーレンたちの国――いえ、世界にいる生き物なのね」
玉葉皇后には、フリーレンとフェルンが異世界から来たと説明している。
最初はとても驚いた玉葉皇后だったが、フリーレンがかき氷を出し――蜂蜜と果汁を合わせたものをかけて皆でおいしく召し上がった――それで納得はしたのだ。
ちなみに楼蘭は子翠の姿。楼蘭としてだといろいろ面倒な手続きとか政治的なことがあるので子翠の姿、それも子翠になる理由の一つ‥‥‥と楼蘭は主張(半分言い訳だが)している。
それはともかく、魔物に関する説明だ。
「はい」
フェルンが答える。
「魔物と呼ばれています」
猫猫は腕を組んで考えていた。
先ほどの光景が、まだ頭から離れない。
巨大な身体。
鋭い爪。
こちらへ向かってきた時に感じた、どうしようもない恐怖。
そして、それらを次々と消し飛ばした二人。
「フリーレン達は……」
猫猫がぽつりと言った。
「あんな化け物と戦っているのか……」
今まで何度も聞いていた。
魔物がいる。
魔族がいる。
フリーレンは勇者一行の魔法使いだった。
フェルンも魔法使いとして魔物と戦っている。
だが、どこか遠い世界の話だった。
実際に見るまでは。
「でも」
子翠が言う。
「あっという間にやっつけちゃったよね」
そしてフリーレンとフェルンを見る。
「二人とも、すごく強いのね」
「あの程度ならね」
フリーレンは平然と答えた。
「……あの程度?」
猫猫が聞き返す。
「うん」
「…………」
猫猫は何とも言えない顔になる。
自分たちにとっては、遭遇しただけで死を覚悟するような怪物だった。
それがフリーレンにとっては「あの程度」。
やはり住んでいる世界が違いすぎる。
フェルンの表情は硬かった。
「安心はできません」
「どういうこと?」
玉葉皇后が尋ねる。
「今回現れた魔物より、もっと強いものはいくらでもいます」
「……あれより?」
子翠の顔から笑みが消える。
「はい」
フェルンは頷いた。
「私達でも、相手によっては簡単には倒せません」
フリーレンも続ける。
「空を飛ぶ魔物もいるし、すごく大きいものもいるよ」
「…………」
小蘭はフリーレンとフェルンを見ている。
じーっと、それも、妙に目を輝かせて。
フェルンが気付いた。
「小蘭?」
「…………」
「どうしました?」
「二人とも……」
「はい?」
小蘭は胸の前で手を組んだ。
「素敵……」
「え?」
フリーレンとフェルンの声が重なった。
「だってだって!」
小蘭が身を乗り出す。
「二人とも、あんな化け物が来ても全然逃げなかったじゃない!」
「いや、それは……」
「フリーレンなんて、いきなりピカーッてやって!」
「ピカーッ……」
「フェルンも、私達の前に立って、どんどんやっつけて!」
「どんどん……」
フェルンが少し困っている。
「すっごく格好良かった!」
「格好良かったって……そんな……」
フェルンは照れたように目を逸らす。
子翠が笑う。
「良かったじゃない、フェルン。小蘭の英雄ね」
「英雄だなんて……」
「だって命の恩人だもん!」
小蘭は力いっぱい言った。
だがその直後、少しだけ表情が曇った。
「……でも」
「小蘭?」
「また……出てくるかもしれないんでしょう?」
先ほどまでの興奮が消える。
膝の上に置いた手が、ぎゅっと衣を掴んでいた。
まだ怖いのだ。
当然だ。つい先ほど、自分を殺しかねない怪物が目の前まで迫ってきたのだから。
フェルンの声が柔らかくなる。
「ええ。その可能性はあります」
「……そっか」
小蘭が俯く。
フェルンはそんな小蘭を見つめる。
猫猫がフリーレンへ尋ねた。
「フリーレン」
「何?」
「さっき、この世界とフリーレン達の世界が繋がっているかもしれないって言ったよね」
「うん」
「それ」
猫猫は真剣な顔になる。
「調べれば分かりそうなのか?」
「…………」
フリーレンは少し考えた。
そして首を横に振る。
「正直、それは何とも言えない」
「フリーレンでも?」
「うん」
「そうか……」
「今まで帰る方法を調べてきたけど、何も分からなかったからね」
フェルンも頷く。
単に空間上の場所だけの問題ではないように思える。空間の次元や位相ともいうべきものと関連する、難しい話になりそうなのだ。
「魔物が現れたことで、初めて手掛かりらしいものができました。でも、それが本当に二つの世界が繋がった結果なのかも、まだ断定できません」
玉葉皇后が尋ねる。
フリーレンが続けた。
「それに、仮に繋がっている場所が分かったとしても」
フリーレンはいつになく真剣だった。
「魔物がこの世界へ入ってくるのを止められるかどうかは分からない」
「…………」
部屋が静かになった。
もし二つの世界を繋ぐ何かがあっても、それを閉じられるかどうかは分からない。
そして、それをそのままにしておけば魔物がこの世界へ入り続けるかもしれない。
「そうか……」
猫猫が呟く。
重くなる空気。だが、フェルンが迷いなく言った。
「私達が皆さまを守ります」
「…………」
小蘭の目が大きくなる。
「フェルン……」
「はい」
「本当に?」
「もちろんです」
「…………」
小蘭の顔に、ようやく少しだけ笑顔が戻った。
「ありがとう」
嬉しそうに言う。
「フェルン」
「はい」
「やっぱりフェルン、格好いい」
「……もう」
フェルンが少し赤くなる。
「そんなこと言わないでください」
「どうして?」
「恥ずかしいです」
「でも本当だもん」
子翠がにやりと笑う。
「良かったわね、フェルン。すっかり小蘭に懐かれちゃった」
「子翠まで……」
猫猫も少し笑った。
その様子を見ながら玉葉皇后は静かに二人を見つめていた。
異世界から来た客人。
この世界のどこにも故郷を持たない二人。
それでも、この二人は自分達を守ろうとしてくれている。
「フリーレン、フェルン」
玉葉皇后が呼ぶ。
「はい」
「何です?」
「ありがとう」
二人が玉葉皇后を見る。
「あなた達がいてくれて、本当に良かったわ」
フリーレンは少しだけ笑った。
「まだ何も解決してませんよ」
「それでもよ」
玉葉皇后も微笑む。
「今は、それだけで十分」
その言葉に、フリーレンは少しだけ目を細めた。
そして、フリーレンとフェルンは本格的に調査を開始する。
魔物はどこから現れたのか。
この世界と自分達の世界は、本当に繋がっているのか。
そして、もし繋がっているのならその道を閉じる方法はあるのか。
帰還への希望とこの世界へ迫りつつある危険。
二つは今や、同じ場所へと繋がっている可能性が出て来た。
しばらくの間、魔物による被害は大きくならなかった。
魔物そのものが、頻繁に現れるわけではなかったからだ。
一日に何度も出るようなことはなく、数日間まったく姿を見せないことすらあった。
そして、後宮やその近辺に現れれば――
「ゾルトラーク」
フリーレンかフェルンが対処する。
二人にとって、これまで現れた程度の魔物ならば、それほど苦戦する相手ではない。
さらに、この国の者達も、ただ守られているだけではない。
「だあああああああああ!」
雄叫びとともに、武人が魔物へ強烈な一撃を叩き込む。
魔物が大きくよろめいた。
さらにもう一撃。魔物の身体が崩れ、消滅する。
「おおおお!」
周囲の武人達から歓声が上がった。
猫猫も思わず目を丸くする。
「李白様、大丈夫ですか」
「おう!」
李白は武器を肩に担いだ。
「嬢ちゃん、なんてことないさ!」
「……相変わらず頑丈ですね」
「褒めてんのか、それ」
「一応」
少し離れた場所で見ていたフリーレンも感心していた。
「大したもんだよ」
李白が振り返る。
「そうか?」
「うん。私達の出番なかったね」
「へへっ」
李白は少し得意そうに笑った。
だが、すぐに真面目な顔になる。
「お二人さんには感謝してる」
フリーレンとフェルンを見る。
「実際、あんたらがいなかったら、もっと被害が出てただろうさ」
「…………」
「けどな」
李白は胸を張った。
「ここは俺達の国だ」
フリーレンが李白を見る。
「俺達の国なんだから、俺達がやらなきゃ誰がやるってことよ」
フェルンが少し目を見開いた。
そして、わずかに微笑む。
「そうですね」
「だろ?」
李白は他の武人達へ声をかけた。
「おい、次行くぞ!」
「おう!」
そして猫猫達へ振り返る。
「嬢ちゃん達!」
「何です?」
「俺達に任せろ!」
にっと笑う。
「化け物なんて目じゃないさ!」
「調子に乗って一人で戦わないでくださいよ」
「分かってるって!」
「本当ですかね」
「信用ないなあ!」
そんなことを言いながら、李白は仲間の武人達と見回りへ向かっていった。
フリーレンはその背中を眺める。
「強い人だね」
「まあ」
猫猫が答える。
街でも、時折、魔物が出たという報告は入ってきた。
しかし、こちらも武人達が複数で対処することで、少しずつ戦い方が分かってきていた。
一人で相手をしない。
必ず複数で動く。
見つけたら周囲へ知らせる。
弓で牽制する。
槍などの長い武器を使い、距離を取る。
危険だと判断したら無理をせず退く。
もちろん、怪我人は出る。
だが、少なくとも。
「魔物が出れば何もできず殺される」
そんな状況ではない。
猫猫も思う。
(案外、何とかなるのかもしれない)
良い状況とは言えない。しかし、乗り越えることは出来るのでは?そう思えて来たのだ。