柘榴宮。
いつもなら、楼蘭が退屈しきって子翠の姿になり、どこかへ抜け出していてもおかしくない。
だが、今は、そうはいかなかった。
魔物だけではなく魔族まで、この世界へ入り込んでいる可能性がある。
となれば、上級妃である楼蘭が、勝手に下女姿となって宮を抜け出すなどさすがに危険すぎる。
「…………」
楼蘭は、ものすごく退屈そうな顔で座っていた。
「暇」
「我慢してください」
フェルンが言う。
「分かってるわよ」
「でしたら、その顔は何ですか」
「暇な顔」
「…………」
猫猫が呆れたように見る。
「お前、今までどれだけ好き勝手やってたんだ」
「子翠なら、今頃みんなと一緒に色々調べに行けるのに」
楼蘭が子翠になる理由の一つには、後宮の情報収集や下女たちの様子を見ると言うのもあるのだ。単に虫を取るだけが目的ではない‥‥‥のではある。
「駄目に決まってるだろ」
「虫も探せない」
「今そこか?」
「大事よ」
もちろん、上級妃としての責務を理解している。
むしろ、柘榴宮の女官たちを落ち着かせ、混乱を防ぐ、楼蘭はしっかりとその役割を果たしている。
下々の事情にも精通している楼蘭は、侍女たちの気持ちも汲んでいる。
ただ、それと、子翠になって遊び回れない鬱憤は別問題なのである。
そして小蘭は現在ここにはいない。
下女たちが居住する建物へ戻り、複数の武官に守られていた。
本人は、
「フェルンと一緒の方が安全じゃない?」
と言ったのだが、さすがに、後宮中の女官をフリーレンとフェルンの周囲へ集めるわけにもいかない。
武人達による警備体制も整えられ、今は、それぞれが持ち場で警戒を続けることになっている。
猫猫。
フリーレン。
フェルン。
楼蘭。
四人は柘榴宮の一室で、改めて魔族について話していた。
「人間に擬態できる魔族もいるのね」
「今回、武人二人を殺した奴が本当に魔族なら?」
「人間に擬態できる魔族の可能性は高いね」
「やっぱり……」
猫猫は腕を組む。
ただでさえ人間と同じ姿をする。
さらに。
「声も?」
「人間と同じように話すよ」
「表情も?」
「できる」
「泣いたりも?」
「できる」
「…………」
厄介。あまりにも厄介だった。
楼蘭が言う。
「じゃあ、見た目だけじゃ完全に分からないってこと?」
「そうなるね」
「でも」
フェルンが続ける。
「フリーレン様や私なら、見分けることはできます」
「本当?」
猫猫が聞く。
「はい」
「どうやって?」
「魔力です」
フェルンは説明する。
「魔族は魔力を持っています。この世界の人間には、そもそも魔力がないようですから私達から見ればかなり分かりやすいです。」
フリーレンも頷く。
「私達なら魔力を持っているかが分かるからね」
「なるほど」
猫猫が言う。
「つまりフリーレンとフェルンなら、見抜ける」
「多分ね」
「でも」
猫猫は自分を指す。
「私達には?」
「無理だと思う」
「……だよなあ」
猫猫はため息をつく。
匂い。
脈。
皮膚。
瞳。
体温。
そうした違いがあるのなら、猫猫にも調べようがある。
だが、魔力。
見えない。
感じられない。
「毒なら、まだ何とかなるんだけど」
「猫猫」
フェルンが言う。
「比較の対象が違いすぎます」
「分かってる」
楼蘭も少し考える。
「じゃあ、フリーレンとフェルンを連れて、後宮中の人を見て回る?」
「できなくはないけど」
「街にもいるかもしれないんだよね」
楼蘭が言う。
「うん」
「宮城にも?」
「可能性はある」
「…………」
楼蘭の表情が真面目になる。
もはや、自分が外へ遊びに行けない程度の問題ではない。
国全体に関わる。
そして、それを裏付けるように。
都では、不審な行方不明事件が立て続けに起こった。
「まただ」
壬氏が険しい顔で言った。
「今度は南の市で一人と宮城の外れ。しかもほぼ同じ時刻に起こっている」
壬氏が尋ねる。
「どう思う?」
フリーレンはしばらく考え。
「魔族の仕業の可能性は高いね。それも複数」
「やはりか。魔族が」
壬氏は声を低くする。
「人間を食っていると?」
「可能性はあります」
フェルンが答える。
壬氏は言葉を失う。
都では、すでに噂が広まっていた。
人を食う化け物がいる。
人の姿をしているらしい。
誰が化け物か分からない。
夜になると人が消える。
そんな話が、事実と憶測を混ぜながらどんどん膨らんでいく。
商人は早仕舞いをする。
夜道を歩く者が減る。
子供を外に出さなくなる家も増える。
見知らぬ者へ向ける目も険しくなる。
「このままだと」
壬氏が言う。
「魔族に殺される前に、民同士で疑い合いかねない」
フリーレンも頷く。
「魔族にとっては、その方が都合がいいかもしれないね」
「なに?」
「人間が混乱して、ばらばらになれば」
「襲いやすい?」
「うん」
「……最悪だな」
壬氏は深々とため息をついた。
猫猫は別の意味で頭を抱えていた。
「まったく……」
苛立っている。
「やってられないよ」
フェルンが聞く。
「どうしたのですか?」
「おっさん」
「おっさん?」
「猫猫」
フリーレンが言う。
「それだけじゃ誰か分からないよ」
「実の父親」
「ああ」
フリーレンは理解した。
漢羅漢。
猫猫の実父。
本人は娘を溺愛している。
娘側は――ひたすら嫌がっている。
「何かあったのですか?」
フェルンが聞く。
猫猫の顔がさらに嫌そうになる。
「何が何でも私を引き取るって」
「え?」
「壬氏様のところまで押しかけて」
『こんな危険な場所に娘を置いておけるか!』
『私が守る!』
『今すぐ引き渡せ!』
――と。
かなり強引に迫っているらしい。
「お父様なら」
フェルンは少し迷う。
「心配なのでは?」
「それは分かってる」
「では」
「嫌だ」
即答。
「でも――」
「絶対嫌だ」
「…………」
猫猫が続ける。
「第一、あのおっさん自身は全然強くないんだから」
確かに、漢羅漢は軍の高官。
しかし、本人が武力に秀でているわけではない。
「守ると言ってもね」
猫猫が肩をすくめる。
「魔物や魔族が出てきたら、どうするんだって話だよ」
「兵をたくさん置くのでは?」
「それなら最初から壬氏様のところにいればいい」
「なるほど」
「それか」
猫猫は柘榴宮の中を見る。
「ここにいる」
フリーレン。
フェルン。
二人。
「この二人のそばが一番安全じゃない?」
「それは……」
そうなのだ。
少なくとも、今この世界で魔族への対処能力という意味では、フリーレンとフェルンのそば以上に安全な場所はなかなかない。
「だから帰らない」
フリーレンが横から言う。
「猫猫、お父さん嫌いなんだね」
「嫌い」
「即答」
「嫌い」
「二回言わなくても分かるよ」
「念のため」
そんな会話をしていると。
「はああああ……」
大きなため息。
楼蘭だ。
猫猫が見る。
「何だ」
「暇」
「またか」
「だって」
楼蘭は頬杖をついている。
「柘榴宮から出るな」
「うん」
「子翠になるな」
「うん」
「勝手に歩くな」
「虫取りに行けない」
「今それどころじゃない」
「分かってるけど!」
楼蘭が机へ突っ伏す。
「上級妃として後宮全体に責任があることも分かっているわよ。でも、うう……」
フェルンが苦笑する。
「かなり溜まっていますね」
「そりゃね」
楼蘭が顔だけ上げる。
「妃としてやらなきゃいけないことはちゃんとやっているのよ」
「知ってる」
猫猫も答える。
「でも、それとこれとは別なの!」
「はいはい」
「子翠になりたい」
「駄目」
「少しだけ」
「駄目」
「柘榴宮の中だけ」
「何の意味がある」
「気分」
「我慢しろ」
「猫猫、冷たい」
「死ぬよりましだろ」
「……それ言われると何も言えない」
楼蘭はまた机へ突っ伏した。
フリーレンが言う。
「じゃあ、虫を出す魔法を――」
「フリーレン様」
フェルンが止める。
「今、虫を集めると騒ぎになります」
「そう?」
「ただでさえ皆さん不安なのです」
「なるほど」
その時、外から武官の声が響いた。
「警戒を!」
「不審者を見つけたら、一人で近づくな!」
一瞬で部屋の空気が変わる。
楼蘭も顔を上げる。
猫猫もフリーレンとフェルンも。
都では人が消えている。
魔族が。どこにいるか、何体いるか、誰の姿をしているか。分からない。
そして、人々の疑心暗鬼も、少しずつ強くなっている。
魔物が初めて現れた時、恐怖は単純だった。
見れば分かる。
あれは怪物だ、逃げろ。
だが今は違う。
隣にいる者が、道ですれ違った者が、助けを求めている者が、本当に人間なのかそれすら分からない。
フリーレンが窓の外を見る。
「早く見つけないと」
「魔族を?」
猫猫が聞く。
「それもある」
「他には?」
「世界が繋がっている場所」
「…………」
「原因を止めない限り」
フリーレンは静かに言った。
「また魔族が来るかもしれない」
一体。
二体。
あるいはもっと。
フェルンも杖を握る。
「急ぎましょう、フリーレン様」
「うん」
猫猫も思う。
毒事件の時とは違う。
相手は、人ではない。
だが、やることは同じかもしれない。
手掛かりを探す。
一つずつ繋げる。
そして――正体を暴く。
事件は、いや、二つの世界を巻き込んだ異変は、確実に緊迫の度合いを増していた。