あれから一か月が過ぎた。
あの日以来、後宮にも都にも魔物や魔族は現れていない。
「ねえ、子翠」
小蘭がぽつりと言った。
「何?」
「フェルン達、元気にやってるかなあ」
子翠は少し笑う。
「大丈夫よ」
「本当に?」
「だって、あの二人だよ?」
「それはそうだけど……」
小蘭は少し不安そうな顔をする。
「あっちの世界には魔物とか魔族とか、怖いのがいっぱいいるんでしょう?」
「そうみたいね」
「心配だよ」
「でも」
子翠は言う。
「あの二人、とんでもなく強いじゃない」
「……うん」
小蘭は、あの日のことを思い出す。
自分達へ襲いかかってきた魔物。
何もできず、怖くて、腰が抜けて動くことすらできなかった。
その時、フェルン達が現れた。
自分達の前へ立ち、一歩も退かず次々と魔物を倒した。
そして、震えて泣いていた自分を優しく抱きしめてくれた。
「……そうだね」
小蘭が自分自身へ言い聞かせるように言った。
「大丈夫だよね」
「大丈夫」
「フリーレンもいるし」
「うん」
「フェルンも強いし」
「そうそう」
「…………」
小蘭は空を見る。
「でもなあ」
「何?」
「フェルン達」
少しだけ寂しそうに。
「私達のこと、忘れてないかなあ……」
「忘れないわよ」
「本当?」
「フェルン、約束したんでしょう?」
「うん」
――忘れません。
――絶対です。
フェルンはそう言ってくれた。
小蘭の顔に少しだけ笑顔が戻る。
「そうだね」
「そうよ」
「……ところで」
小蘭は周囲を見る。
「猫猫は?」
「猫猫なら」
子翠は、ものすごく分かりやすくため息をついた。
「また、あの人のところに呼ばれていったわよ」
「あの人?」
「ほら」
「ああ」
小蘭も分かった。
その頃。
「はああああああああああああああ……」
深い。
非常に深いため息が響いていた。
猫猫は目の前の人物を見る。
「壬氏様」
「何だ……」
「お疲れのようで」
「見れば分かるだろう」
「かなり」
「かなりどころではない!」
壬氏は疲れ切っていた。
フリーレンとフェルンがいきなり現れた、その時点で大騒ぎ。
異国の客人という体裁を作る。
帝へ説明する。
玉葉后へ説明する。
後宮内での体裁を整える。
さらに、毒殺未遂事件。
魔物の出現。
魔族の出現。
行方不明事件。
都の警戒。
武人の後宮への配置。
人々の混乱。
そして最後、フリーレンとフェルンが――いなくなった。
壬氏、後始末が大変だったのだ。
「なあ、薬屋」
「はい」
「せめてこちらの準備が整ってから帰ってくれても良かったんじゃないか?」
「そこまで待っている余裕はなかったですからね」
「分かってる!」
壬氏は頭を抱える。
「分かってるんだよ!」
「なら言わなければいいのでは」
「愚痴くらい言わせろ!」
「はいはい」
猫猫は適当に聞き流す。
「でも」
猫猫が言う。
「あの二人、ずっとこっちにいるわけにもいかなかったでしょう」
「それはそうだが……」
壬氏も理解している。
二人には帰るべき世界がある。
それに、あの日以来、魔物も魔族も現れていない。
つまり。
「恐らく」
壬氏が言う。
「最後に何かしてくれたんだろうな」
「そうでしょうね」
「世界を繋いでいたという場所を閉じたか」
「多分」
猫猫もそう考えている。
最後にフリーレンは言っていた。
一度その空間へ入り向こうから閉じる必要がある。
もし、本当にそれをやったのなら。
「……感謝しないとな」
壬氏が呟く。
「そうですね」
猫猫も珍しく素直に答えた。
子翠も。
小蘭も。
玉葉后も。
皆同じ気持ちだろう。
だが、壬氏の愚痴はそれで終わらない。
「けどなあ」
「はい?」
「一難去ってまた一難だ!」
「何かありました?」
「楼蘭妃が」
「子翠が?」
「蝗害が起きるかもしれないと言い出した」
猫猫の表情が少しだけ変わる。
「蝗害?」
「ああ」
「それは……」
さすがに笑い事ではない。
大量の蝗。
農作物。
食糧。
もし本当に起きれば、魔物や魔族とはまた違う意味で国そのものへ大打撃になる。
「調べた方がいいですね」
「だから調べている!」
「そうですか」
「さらに」
壬氏が指を折る。
「地方から妙な報告」
「はい」
「宮中で起きた不可解な出来事」
「はい」
「役人同士の揉め事」
「それは私に関係ないでしょう」
「毒物の可能性がある案件」
「……それは少し興味あります」
「ほら!」
「何です?」
「すぐ食いつく!」
猫猫は、今日も今日とて、宮廷で起きた不思議な出来事について調べてほしいと頼まれていた。
(ちっ、こっちを便利な道具と思いやがって)
以前ならそれだけだった。
面倒、厄介、関わりたくない。
でも、最近はほんの少し違う。
頼られること、事件を解くこと、自分の知識が役に立つこと、それを以前ほど嫌だとは思わなくなっている。
(まあ)
猫猫は思う。
(こういうのも悪くはないかな)
その時、壬氏がふと思い出したように言った。
「そうだ」
「?」
「薬屋」
「何でしょう」
「あの簪」
「…………」
猫猫の動きが止まる。
「持ってるだろうな?」
「…………」
「持ってるよな?」
猫猫の視線が、ほんの少しだけ横へ逃げる。
壬氏は嫌な予感がした。
「薬屋」
「はい」
「たまには付けろ!」
「……あの簪ですか」
「そうだ」
「それは……」
猫猫の目が泳ぐ。
壬氏がじっと見る。
「まさか」
「…………」
「売ったんじゃないだろうな?」
「失礼ですね」
猫猫が言う。
「売ってませんよ」
「本当か?」
「本当です」
壬氏は少し安心する。
「なら、持ってるんだな?」
「…………」
猫猫は黙る。
「薬屋?」
「……持ってません」
「なに!?」
壬氏が立ち上がる。
「今、売ってないと言っただろう!」
「売ってません」
「なら、どこへやった!」
「人にあげました」
「…………」
壬氏が固まる。
「……やった?」
「はい」
「誰に?」
猫猫は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「フリーレンに」
「…………」
壬氏が目を瞬く。
「フリーレン?」
「はい」
「あのフリーレン?」
「他にどのフリーレンがいるんです?」
「いや」
壬氏は少し混乱する。
「どうして?」
猫猫は淡々と答える。
「この世界の思い出に‥‥‥私が持っている物の中で」
少しだけ間。
「一番価値のある物をあげたんですよ」
「…………」
壬氏は黙った。
確かにあの簪は、猫猫にとって、金銭的にもそれ以外の意味でもかなり価値がある。
猫猫が、わざわざそれをフリーレンへ渡した。
つまり、それだけ大切な友人だった、そういうことなのだろう。
「……そうか」
壬氏は、少しだけ、寂しそうな、いや、不満そうな何とも言えない顔。
「まあ」
「?」
「それなら……」
納得しかける。
だが。
「いや」
「何です?」
「他にあっただろう!」
「何がです」
「渡す物!」
「別にいいじゃないですか」
「良くない!」
「なぜです?」
「俺がやったものだぞ!」
「だから?」
「だから……」
壬氏は言葉に詰まる。
猫猫が半眼になる。
「男が女に贈った簪の意味くらい分かれ!」
「知ってますよ」
「なら!」
「でも、もう私の物でしょう?」
「ぐっ」
正論。壬氏敗北。
「…………」
壬氏は、またぶつぶつ言い始める。
「他にもあっただろうに」
「はいはい」
「あれでなくても」
「でも簪にしました」
「なぜだ!」
猫猫は、その質問にはすぐ答えなかった。
もちろん、この世界での思い出、それもある。
だが、もう一つ‥‥‥猫猫自身、馬鹿馬鹿しいとは分かっている。
簪をくれた男は、異常なほどしつこい。
粘着質。
何度振り払ってもまたやってくる。
だから、そんな男からもらった簪なら、ひょっとしたらその性質まで少しは移っているかもしれない。
そして、いつか、あり得ないはずなのに、その簪を持ったフリーレンがまた空から降ってくるかもしれない。
そんなことあるはずがない。分かっている。
二つの世界を繋ぐ空間は閉じられたのだろう。
もう会えない。
それでも。
(……戻ってくればいいのにな)
ほんの少し、本気でそう思っている。
「薬屋?」
「何でしょう」
「今、何考えてた?」
「別に」
「絶対何か考えてただろう」
「気のせいです」
「お前がそう言う時は――」
「ところで壬氏様」
「何だ!」
「今日調べろと言われた件」
「あ」
「説明してください」
「ああ……」
壬氏は、また大量の書類を取り出す。
「まずこれだ」
「多いですね」
「だから疲れてると言ってるだろう!」
猫猫は、ため息。
壬氏も、ため息。
窓の外にはいつもの日常が戻っている。
小蘭は、今日も元気に働いている。
楼蘭は、やっぱり子翠になっている。
玉葉后。
梨花妃。
里樹妃。
阿多妃。
李白。
高順。
都。
花街。
皆、それぞれの日常へ。
そして遠い遠い別の世界、そこにはきっと、一人のエルフとその弟子が、いつもの旅を続けている。
猫猫は、ほんの一瞬だけ窓の外を見る。
「……元気でやってるかな」
「何か言ったか、薬屋?」
「いえ」
猫猫はいつもの顔に戻る。
「何でもありません」
そして目の前の書類を取った。
世界が違っても、会えなくなっても、一緒に過ごした時間まで消えるわけではない。
フリーレンとフェルンが猫猫達を忘れないように、猫猫達も二人を忘れることはない。
こうして、異世界からやって来た二人の魔法使いが巻き起こした、後宮の、不思議で、騒がしく、危険もあったが楽しかった日々は、ひとまず終わりを告げた。
けれど、猫猫がフリーレンへ渡した一本の簪は、今も、別の世界を旅するエルフのもとにある。
いつか、もう一度二つの世界が繋がる日が来るのか、それは、女神様だけが知っているのかもしれなかった。