壬氏は、とりあえず一つの結論に達した。
フリーレンとフェルンは異世界から来た。
――理解はまったく追いついていない。
正直なところ、今でも「そんな馬鹿な」と思っている。
だが、目の前で魔法を見せられてしまった。
何もないところから大量の氷を、それも見たこともないほど細かく削った状態で出してみせたのである。
フリーレンの長い耳も作り物には見えない。
何より、猫猫も楼蘭も二人が空から降ってきたところを目撃しているという。
ならば、もうそう考えるしかない。
「……分かった」
壬氏は額を押さえながら言った。
「お前達が異世界から来たという話は……ひとまず事実として扱おう」
「信じてくれた?」
フリーレンが言う。
「信じたというより、他に説明のしようがない」
「私達も同じ結論でした」
猫猫が答えた。
「だがな、問題がある」
壬氏の表情が険しくなった。
異世界が存在する。
魔法が存在する。
そんな途方もない話よりも、後宮管理人としての壬氏には、もっと差し迫った問題がある。
「おい、どうする」
「何をです?」
「この二人が入ってきたという記録はないのだぞ」
「……ですよね」
後宮は、誰でも自由に出入りできる場所ではない。
基本的に住んでいるのは皇帝の妃たち。
その世話をする女官や下女。
そして宦官。
当然、出入りは厳重に管理されている。
誰が、いつ、何のために入ったのか。
そうしたことが何一つ分からない人間が、ある日突然後宮の中にいる。
「異世界から来ました、では済まないぞ」
「まあ、普通は信じませんね」
「俺だって信じられん!」
壬氏は頭を抱える。
もし誰かに見つかったらどうなる。
「どこから入った」
「誰が許可した」
「なぜ記録がない」
「何者だ」
当然そうなる。
だからといって――
「追い出すというのもな……」
壬氏はフリーレンとフェルンを見る。
二人は何も悪いことをしていない。
勝手に後宮へ忍び込んだわけでもない。
本人たちの話を信じるなら、事故に巻き込まれた被害者と言っていい。
それを「怪しいから出ていけ」というのは、さすがに気が引ける。
それに――
壬氏は先ほどのかき氷を思い出した。
魔法、そして異世界の知識。
(使い方によっては、この国にとって非常に大きな意味を持つかもしれない)
フリーレンとフェルンには、自分たちの世界にはない知識がある。
その知識を得ることで、茘にとって大きな利益になる可能性はある。
「うーむ……」
壬氏が唸る。
猫猫も考える。
楼蘭も考える。
そのときだった。
「入ってきた、という事実なら作れるかも」
フリーレンが何気なく言った。
「…………」
三人がフリーレンを見る。
壬氏が聞いた。
「どうやってだ?」
「簡単だよ」
フリーレンは答える。
「一度後宮の外に出てから、入ればいいんだよ」
「…………」
壬氏が眉をひそめる。
「後宮の外に出る?」
「うん」
「どうやって?」
「空を飛ぶんだよ」
「「「空を飛ぶ???」」」
壬氏。
猫猫。
楼蘭。
三人の声が見事に重なった。
フェルンだけが「ああ、やはりそうなりますよね」という顔をしている。
「待て待て待て」
壬氏が言う。
「空を飛ぶというのは比喩ではないよな?」
「違うよ」
「鳥みたいに?」
「まあ、そんな感じ」
猫猫が食いついた。
「本当にできるのか?」
「できるよ」
「どういう原理なんだ?」
「魔法」
「だから、その魔法の原理を聞いている」
「魔法は魔法だけど」
「説明になってない」
猫猫の好奇心に火がついた。
「人間が空を飛ぶんだぞ? どうやって身体を浮かせている? 風か? 何か上向きの力を発生させているのか? 体重そのものを軽くしているのか?」
「そんなこと聞かれても……」
「飛んでいる最中に身体へかかる負担は? 高く上がれば空気はどうなる?」
「猫猫」
楼蘭が肩を叩く。
「何だ」
「後にしましょう」
「……そうだな」
楼蘭の方は別の意味で目を輝かせていた。
「ねえ、フリーレン」
「何?」
「やってやって!」
「え?」
「空を飛ぶところ、見てみたい!」
「いいけど」
「本当!?」
楼蘭の目が子供のように輝く。
「私も飛べる?」
「え?」
「私を抱えて飛ぶとか」
「楼蘭妃!」
壬氏が即座に止めた。
「駄目だ!」
「まだ何もしてませんわ」
「しようとしただろう!」
「ちょっと空を飛んでみたいだけです」
「上級妃が空を飛んでいるところを誰かに見られたら、俺はどう説明すればいいんだ!」
「魔法です、と」
「それで納得すると思うか!」
そんな二人をよそに、フェルンが現実的な問題を指摘した。
「フリーレン様」
「何?」
「誰かに見つかると大騒ぎでは?」
「そうだね」
フリーレンは少し考え――
「じゃあ、まだ日が昇らないうちに飛べばいいんだよ」
「なるほど」
猫猫が頷く。
人々が動き始める前、暗いうちに後宮の外へ出る。
その後、壬氏が正式な手続きを整える。
そして二人を正規の客人として門から入れる。
そうすれば少なくとも、
後宮の中に突然現れた正体不明の二人
ではなく、
楼蘭妃の客人として正式に後宮へ入った異国の女性二人
という形にできる。
多少強引だが、今よりは遥かにましだ。
「それならいけるかもしれないな」
壬氏が言った。
「問題は……」
フェルンがフリーレンを見る。
「何?」
「フリーレン様、起きられるのですか?」
「…………」
フリーレンが固まった。
「日の出前ですよ」
「…………」
「かなり早いですよ」
「…………」
「起きられます?」
長い沈黙。
そしてフリーレンは言った。
「……起こして、フェルン」
「やっぱり」
フェルンはため息をついた。
猫猫が首を傾げる。
「千年以上生きてる大魔法使いなんだよな?」
「そうですよ」
「朝起きられないのか?」
「起きられません」
「フェルン」
「事実でしょう」
「そうだけど」
猫猫は何とも言えない顔になった。
千年以上生きる、強大な魔法使い。
空も飛べる。
だが――朝は弟子に起こしてもらう。
(よく分からない生き物だな)
猫猫は思った。
そして翌朝。
まだ空は暗かった。
東の空にも、わずかな明るさしかない。
後宮の大部分は眠りについている。
柘榴宮。
「フリーレン様」
「…………」
「朝です」
「…………」
「起きてください」
「……あと少し……」
「駄目です」
「フェルン……」
「昨日、自分で決めたのでしょう」
「眠い……」
「フリーレン様!」
結局、フェルンに叩き起こされ、髪まで整えてもらい、フリーレンはようやく外へ出てきた。
そこでは猫猫、楼蘭、壬氏が待っていた。
壬氏は既に必要な手配を進めている。
楼蘭は――ものすごく元気だった。
「ねえ、本当に飛ぶの?」
「飛ぶよ……」
「楽しみ!」
「私は眠い……」
猫猫はフリーレンを見る。
「本当に大丈夫なのか?」
「飛行魔法くらいなら大丈夫」
「寝ながら飛んで落ちたりしないだろうな」
「しないよ」
フェルンが横から言う。
「私が見ていますから」
「だったら信用できるな」
「ひどい」
やがて準備が整った。
「じゃ、打ち合わせの通り」
猫猫が言う。
「ああ」
壬氏も頷いた。
「こちらの準備は済ませておく」
「分かった」
フリーレンとフェルンが杖を持つ。
楼蘭が身を乗り出した。
「始まる?」
「始まるよ」
次の瞬間。
二人の身体が――
ふわり。
浮いた。
「…………!」
壬氏が息を呑む。
猫猫の目が見開かれる。
楼蘭は――
「うわあああああ!」
危うく大声を出しかけた。
「楼蘭妃、声!」
壬氏が慌てて止める。
「あ、ごめんなさい」
だが楼蘭の目は完全に輝いている。
「すごい! 本当に浮いてる!」
さらに高く。
猫猫は食い入るように見つめていた。
(どうなってるんだ?)
風で浮いているようには見えない。
何かに吊られているわけでもない。
当然、翼もない。
(身体そのものに上向きの力が働いているのか? いや、そもそも魔法というものをこちらの理屈で考えること自体が間違っているのか?)
未知の薬を目の前にしたときと同じ顔になっている。
楼蘭は単純だった。
「いいなあ……」
羨望の眼差しで二人を見上げる。
「駄目です」
壬氏が即答する。
「まだ何も言ってませんわ」
「顔に書いてあります」
一方、壬氏は空へ上がっていく二人を見ながら、別のことを考えていた。
(……本当に魔法なのだな)
昨日の氷とは次元が違う。
人が飛んでいる。
それも、あまりにも簡単に。
これを軍事に利用できたら――そこまで考えて、壬氏はやめた。
今考えるべきことではない。
それよりも。
(これからどうなるんだ……)
異世界から来た二人。
千年以上を生きるエルフ。
魔法。
自分たちの知らない知識。
もし皇帝へ報告するとなれば、どう説明する。
いや、いずれ報告しないわけにはいかないだろう。
そのとき皇帝はどう判断する。
政治的に利用しようとする者が現れる可能性もある。
逆に、危険な存在として排除しようとする者も出るかもしれない。
考えることは山ほどある。
「壬氏様」
猫猫が言う。
「何だ」
「難しい顔してますね」
「誰のせいだと思っている」
「フリーレンでは?」
「そういう意味ではない!」
そんな会話をしている間にも――
フリーレンとフェルンは後宮の建物より遥かに高いところまで上昇していた。
「じゃあ、行ってくるね」
フリーレンが小さく手を振る。
「行ってきます」
フェルンも頭を下げる。
そして二人は――後宮の外へ向かって飛んでいった。
楼蘭はいつまでも手を振っている。
「すごい……!」
猫猫は二人が飛んでいった方向を見つめながら、まだ考えている。
(やっぱり、一度どういう仕組みなのか詳しく聞きたいな)
壬氏は額を押さえている。
(異世界人を正式に後宮へ入れる手続きなど、前例があるわけないだろう……)
同じ光景を見ながら、三人が考えていることは、見事なまでにバラバラだった。
そして――しばらくして、後宮の門には、楼蘭妃の客人を迎え入れるための準備が整えられることになる。
異世界から突然落ちてきた二人を、今度は正式に、門から入ってきた客人にするために。
もちろん、そんな無茶苦茶な入宮手続きが行われているなど――この時点では、後宮の誰も知る由もなかった。