幸せとは何かを知っていて。
不幸とは何かを知っている。
悦びとは何かを知っていて。
痛みとは何かを知っている。
けれどその全てに覚えはなく。
だから私はきっと、何も識らないままなのだろう。
0.
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
窓も、扉も締め切られ灯りもない室内が緩慢とした輝きに照らされる。ただ、床に記された陣をなぞるように、その形を確かめるようにその光は波及していく。
その中で四人の男女は無感情に、初めて見た台本をただ読み上げるように言葉を続ける。
「──告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
そこで四人の男女は顔を上げ、自分たちを見守る使い魔たちに視線を向ける。
「そして是なるは打ち捨てられし大望を欺瞞に満ちた隠匿から掬い上げ、主に捧げるものである」
「──汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
流れる言葉がはっきりとした語調で締めくくられると同時、閉め切られた室内に風が吹き荒れ、積み上げられたガラクタと古書が床に散乱する。
床に刻まれた陣の輝きはいよいよ目を焼かんばかりに広がり、四人の人影へと収束した。
聖杯。万能の願望機足りえる、全ての魔術師が憧れる根源へと至る道。その──亜種。
その輝きに見入られた、人類史に刻まれた英雄達。けれど、そんなものは無関係だ。どれだけ偉大だろうと、邪悪だろうと、そんな事に意味はない。
四人の男女は眼前に顕現した奇跡にさして驚いた様子を見せる事無く手の甲や腕、あるいは首に刻まれた紋様が輝きと熱を持っている事を確認すると、無感情に告げる。
「──そして、令呪を持って命ずる。足を止め、死を受け入れろ」
たったそれだけの宣言で、英雄たちはその場に縫い付けられる。とはいえ時間はない。英雄達へ向けた絶対的な命令権である令呪とはいえ、完全無欠ではない。
予定通りに事が運ばなければこの場で私達が皆殺しにされてもおかしくはない。
刹那。寒風のように鋭く吹いた何かによって四人の英雄達の首は即座に裁断される。抵抗の余地はなく、栄誉と叡智、あるいは名誉に彩られた頭部は宙を舞う。
ゆっくりと重力に引き込まれる頭部から向けられた視線は驚愕と困惑、あるいは怨嗟に満ちていて。私はその双眸から視線を逸らして無感情に天井を見つめる。
全ては予定通りで、予定調和で、下らない茶番だった。
首を裁断した余波が頬を僅かに掠め、赤い線を作る。その痛みさえも自分のものではない。
私は奴隷だ。この、開始前から勝者が決められた三文芝居の役を全うする為だけの、奴隷。
だから、そんなに立派なモノを向けられても私にそれを受け止めるだけの器はない。
床に転がった首が燃えかすのように空気に離散していくのを見下ろしながら私はふっと息を吐く。
──まだ生きている。
白い肌も髪も、赤い瞳も。全てが規格通りの私の身体。その中で、この生への執着だけがどうにも私を不良品たらしめているらしい。
主の為に生きる事に意味を見いだせても、死には意味を見出せない。
無意味は、怖い。
──私も死ねばこんな風に崩れて消えるのだろうか。
ふと浮かび上がった無意味な思考を振り切って、部屋の最奥へと視線を向ける。
そこにはもはやアンティークというよりもただ古いだけのように見える安楽椅子にゆったりと腰かけた老人と、その傍に控える黒い靄のような塊が居た。
「ふむ」
老人は几帳面に切りそろえられた髭を指で弄りながら、満足げに息を吐く。
「改造品とはいえ流石は剣聖。見事な仕事でしたよ、セイバー」
視線も向けずにねぎらいの言葉を口にする老人に、黒い靄はただ静かに揺らめくばかり。その揺らめきの大きさや角度に感情を見出すのは困難だ。
「ではこれにて亜種聖杯戦争、決着。皆さんもお疲れ様でした」
「それぞれのオーナーへは皆さんの働きの程──おや」
そこで老人は言葉を切る。怪訝そうな、大して興味も無さそうな視線を追従すると床に一人の男が転がっていた。
肌は白みのかかった赤に変色し、苦痛に満ちた顔で倒れている。見開かれた目はただ暗闇を受け入れるばかりで何も返さない。
「死に際に呪いでも掛けられましたかね、ご愁傷様」
視線を切った老人に合わせて私達、残った三人は再び前を向く。やはり、死に意味などない。与えるのも、与えられるのも、総じて無意味だ。
奴隷が一人死んだ所で何も変わらないのに。座に帰った英霊は一矢報いた事すら覚えていないのに。貧乏くじを引かなかった幸運に、生存に意味を抱いて一人息を吐く。
三人の奴隷は頭を下げると、部屋を後にするべく踵を返した。
その時。
「無知蒙昧極まる猿共め。よくもまあ、獣臭い手で人理に触れたものよ」
背筋が粟立つような怒気を孕んだ静かな声に、全員が凍り付く。安楽椅子に腰かけていた老人でさえも、汗腺が存在意義を見出したとばかりに冷や汗を噴き出させていた。
声の主は、頭上。天井から逆様に立つようにして私たちを見下ろしていた。薄暗い部屋の中でもやけにはっきりと見えるその男は、まだ幼さを顔に残した青年のように見える。
紳士然としたロングコートに身を包み、腰には華やかな装飾が見える長細い剣──確か儀礼剣といった種類だったかを帯びていた。
その瞳には激しい怒りを湛え、表情全体で私たちへの──主に私への軽蔑を露にしていた。
「──っ、セイバー!」
老人のぴしゃりとした声に私達が身を竦める間もなく、黒い靄がうねり再び鋭い風を吹かせる。
しかし、当たり前のようにその青年の首を裁断する筈だった風は、その目前で停止し歪むように四方へ離散する。
驚愕に目を見開く老人へ視線を向け、吐き捨てるように青年は言い放った。
「己で思考する術を持たぬ傀儡に私を傷つける事は出来ない」
一歩後退した老人を庇うように前へ出た黒い靄を一瞥すると、青年は私のすぐ傍に降り立って。
あろうことか私の身体を抱え上げて声高らかに宣言する。
「サーヴァント、ルーラー!」
「聖杯の寄る辺に従い、今ここに参上した!」
あまりに突然の事に硬直する私を一瞥もせず、ただ目の前の老人に向けて。
「あまねく全ての英雄の名誉の為、ここに新たなマスターの選定をもって──」
「改めて、聖杯戦争の開始を宣言しよう!」
芯の通った、どこまでも響くような声にその場の誰もが聞き惚れたように動けない。それを良い事に、ルーラーと名乗った青年は自身の前髪をかき上げた。
その額には、私達の身体にも刻まれた令呪と似通った紋様が刻まれていた。
「サーヴァントの追加召喚は五騎!どうか、此度は正道なる戦いの末に決着が着くことを切に願う!」
「あ、の──」
混乱に満ちた脳を必死に回して、無意味な音を口から発するとルーラーは再び私に侮蔑の視線を向ける。
「ふん、ホムンクルスか。傀儡以下の木偶め。貴様にマスターの資格などないが、錨の役割は果たしてもらうぞ」
再び振るわれたセイバーの斬撃がこめかみの直前で停止したのを横目で見やって、ルーラーは閉め切られた窓を脚で蹴り壊す。
そして、そのまま割れた窓からあっさりと飛び降りた。
落下の浮遊感と着地の衝撃、そして疾走の揺れを全身で感じながら。何も理解できない事態の中で、私はただ、自分はまだ生きているのだという意味に必死にしがみ付いていた。