「これは──困った事になりましたね」
安楽椅子に身を預けていた老人──コンラート・ファルクは嘆息する。視線の先には先ほどルーラーが蹴り割った窓があった。
床には硝子の破片が散らばり、夜風を受けてはためくカーテンには所々木屑が付いているが勿論コンラートの頭を悩ませているのはそんな事ではない。
「本命の聖杯が起動している。ブランのお嬢さんの悪戯ですかな」
いやはや──、と。コンラートは好々爺然とした柔らかな苦笑を浮かべて額の汗を拭った。
「若い人の考える事は何とも突飛というか……老体の心臓には些か堪える所がある」
ハインリヒの苦言は傍に控えている黒い靄にも、立ち尽くす二人の奴隷にも、ましてや床に転がったままの男の死体にも返答を期待しているようには聞こえず、またそれを許さないような硬い響きがあった。
そんな中、空気を読まない笑いを漏らす男が一人。
「くカカ、そう嘆く事もねえさ」
先程まで傀儡のように項垂れて、言われるがままにサーヴァントを召喚した一人の奴隷。目元まで掛かった黒髪は震えるように笑う彼に合わせて左右に揺れていた。
「前座と本命が一緒くたになっちまっただけで、やる事は何も変わらねえ」
愉快そうに広げられた腕には左に二画、右に三画の令呪が刻まれていた。月明りに照らされるそれを見て、コンラートの瞳がすっと細められた。
「そう単純な話でもないのですよ。何しろマスターの選定がどう行われたのかも分からない」
「現に奴隷の貴方がたが本命の聖杯戦争のマスターに指名されている。その令呪が良い証拠です」
愉快そうに笑う男の両腕。そして、俯くもう一人の奴隷の女にもまた新たに令呪が宿っている事を確認してコンラートはため息を吐く。
「各オーナーとの意向の擦り合わせに加えて外部のマスターの排除。いやはや……何とも困った」
前座はあくまで勝敗が始めから決まった談合試合だったからこそ奴隷の代理出場で魔術師同士の合意が取れていたのだ。
本命の聖杯がブランによって起動された今となってはもはや、その合意に意味はない。本当の意味での殺し合いが始まる。
コンラートは既に、この場で継続してマスターとして指名された二名の奴隷を殺すべきかを勘案していた。
「外部のマスターだぁ?」
奴隷の男の言葉に、コンラートは机上の盤を見つめながら頷きを返す。その盤は既に風窓の町にセイバーを除いてルーラー、ランサー、キャスター、ライダー、アサシン、バーサーカーの
「貴方がた二名のマスターを加えて我々四家側のマスターは三名。追加の令呪発現報告はありません。つまり──」
「おたくら魔術師側とは別のマスターが残り二人居るってワケね」
男は得心が言ったというように頷く。そして、口元を歪めてコンラートを指差した。
「ならその物騒な顔はやめときな、爺さん。あんた年の割に腹芸向いてないぜ」
垂れさがった前髪をかき上げ、ジャケットのポケットから取り出した整髪料をふんだんに塗りたくり固めていく。
「ウチのオーナーはひとまず代理を続投するとよ。んで、あんたが考えるべきは俺らをいつ殺すか、じゃあなく」
黒髪が覆い隠していた鋭い目付きと下品な笑みを堂々と晒して両の手を広げた。
「俺らと協力して、如何に外様を出来るだけ早く排除するかだ」
「せこせこダラダラ準備してようやく本番に漕ぎつけたんだ。内輪もめしてる間に部外者に掻っ攫われちゃ世話ないだろ?」
未だに一言も発しないもう一人の奴隷をちらりと見て、男は背を向ける。
「俺様はイレギュラー塗れの勝負には一家言あるんだ。ひとまずギブ&テイクでいこうや」
「──貴方はその勝負に負けて奴隷の身に落ちたと聞いていますがね、パノス・カロス」
コンラートの言葉にパノスはウザったそうに顔を歪める。
「爺さん、アンタ人に話しててつまんねえって言われねえか?」
「敵ならともかく、これから協力しようって相手の士気を削ぐなよな」
「これは失礼。幾ら歳を重ねても減らず口は増すばかりでして」
セイバーの影が揺らいだのを手で制して、コンラートは深く頷く。
「では、早急に四家を除いたマスターの特定と排除を行います。マスター権の取り扱いは各家へお任せしますが──パトリシア・ブランの身柄は早急に確保したい」
コンラートの言葉とほぼ同時、一連の流れを見守っていた使い魔たちが各々の手段で部屋から飛び出していく。
予想だにしない幸運に、パノスの心は踊り狂っていた。魔術師からは魔術使いと侮られ、市井からはイカサマ師と軽蔑された博徒。
自らの人生を賭けた大一番に無様に敗北し、魔術師に使い潰される終わりを迎えるのかと絶望していたが──どうだ?
どん底から一転、思いもよらぬ晴れ舞台へ躍り出た。自身の人生にとって、あの敗北という不幸はこの大舞台へ向けた前振りでしかなかったのだ。
やはり、やはり。重要なのは今なのだとパノスは乱舞する。不格好な、バランスを崩したスキップにも思える挙動で廊下を進みながら。
時折すれ違う使用人たちに奇異な目で見られたが、彼らに投げキッスをしてやりたいとすら思う。
「すげえ、すげえぞ!やっぱりだ、俺は幸運だ!」
「過去に負けてようと、未来で負けようと、今勝ってりゃそれでいい!全部、全部!重要なのは今なんだ!」
「なあ、そうだろ──あー……ええと」
背後を振り返り、何もない空間に向けて頬を掻くパノスの言葉に空気を介さない威厳のある声が応える。
『サーヴァント、ランサー。我が真名は──』
『
ギリシャ神話の英雄譚、イリアスに記された名高い大英雄。亜種聖杯戦争において聞く筈もないその名を口にしたサーヴァントを、パノスは一切疑わない。
事実かどうか、そんな事もどうでも良い。ただ、おいとかお前とか淡泊な呼び方をしたくなかっただけだ。
「アキレウス、アキレウスね。学のねえ俺でも知ってるぜ。聖杯戦争のお約束に従ってランサーと呼ぶのが正しいか?」
『好きにしろ』
鬱陶しそうに、どこか怒りに満ちた返答をするサーヴァントにもパノスは一切不快感を見せず肩を竦める。
「まあそう邪険にするなよ。勝ちたいなら俺達仲良しこよしでやっていくのがベストだぜ」
「俺は学はねえが先人には敬意を払いたいし、お前に意向があるなら可能な限り汲んでやりたい」
「肩を並べて戦うってのにいがみ合うなんてのはバカのやることさ」
『…………』
パノスの真意を測りかねているのか、沈黙するランサーに構わずパノスは言葉を続ける。腕を広げ、左右に刻まれた令呪を灯りの元へと晒して。
「コイツは俺達の勝利の為に、有効に使いたい。ギスギスしながら、お前の首輪に令呪を何画残しゃいいか、なんてつまんねえ駆け引きをしない為にもな」
「勝ちの目に全Bet出来無いヤツァ勝つ資格がねえ」
「お前の聖杯にかける望みは何だ、ランサー。俺もそいつに命を賭けよう」
あまりに軽薄な宣誓に、ランサーの冷たい笑いが漏れて。僅かな沈黙の後に短い答えが返る。
『勝利』
「いいね。俺ァ愉快な勝負だ」
「んで、勝つのは愉快だ。だろ、ランサー」
「勝って勝って勝ちまくろうぜ。肩組んで、ゲラゲラ笑って」
「頭ん中であれこれこねくり回してる馬鹿共に腰かけて聖杯で乾杯しよう」
なんの駆け引きもない、言葉通りの誓いに。空気が揺らいでランサーが姿を現した。全身を甲冑で覆い隠し、表情すらうかがい知れない戦士。その手には輝く長槍があった。
『契約はここに成った。この槍と身は我らが勝利の為、捧げる事を誓おう』
『──お前が、私のマスターだ』