定食屋のある商店街から、あちこちへ伸びる枝のように広がる路地裏はただそこに在るだけで、人通りも何もあったものではなくただ枯れ枝のように空虚な室外機の稼働音とそこから漏れ出る油の匂いだけを湛えていた。
走り出してすぐ、あっさりと捕まった私はルーラーの手によって首根っこを抑えつけられて兎のように大人しく地面へ押し付けられる。あれだけ必死に駆けだしたというのに、なんと無様な事だろう。
「サーヴァントから走って逃げようと考える程愚かには見えなかったがな」
やはりどこか侮蔑的な声色を孕みながらも、ルーラーの言葉には多分に困惑の色が滲んでいるように聞こえる。初めて会った時の背筋を刺すような冷たさも、緊張感もない。だから、私は努めて冷静に言葉を返す。
「サーヴァントが向かった山中には私が仕えるブランの家があるのです」
「主催側の魔術師か。だが、その屋敷とやらに別なサーヴァントの気配はない。参加者でないのなら狙われる道理もなかろうが」
抑えつけていた手をパッと離して、怪訝そうに尋ねる。路地裏を通り抜ける風が彼の髪を揺らした。
「私も詳しい事は聞いていません。ただ、今回のイレギュラーの原因が主人にあるのなら、不確定要素として消される可能性は充分にある」
推測という形をとって口にしながらも、それは殆ど確信に近かった。聖杯戦争の開始前にパトリシアが私に掛けた不必要にも思えるアドバイス。彼女は今回の亜種聖杯の二連起動を予感していた──というより、起こすつもりだったのだ。
そこに一体どんな思惑があるのかまでは分からない。私に知らせないという事は、彼女にとって私の助けを必要とする状況にはないという事だ。浅学極まる私と違い、パトリシアは亜種聖杯戦争の主催側として充分な知識を蓄えているだろう。サーヴァントの恐ろしさを含めて。
ならば、何かしらの自衛手段を用意しているだろうし、もっと言えば既にあの屋敷に彼女がいない可能性もある。
ただ。
だからと言って、そんな現実的な推察に基づいて大人しくしている事も出来なかった。私を突き動かすのはどこまでも自己中心的な恐怖。
彼女を失っては、私は自分が生きていて良いのかも分からない。薄っぺらだろうが、裏があろうが、彼女が私の生を肯定してくれるから私はまだ生きていられる。
しかし、そんな想いをこのサーヴァントに伝えて理解してもらえるのだろうか。彼には彼の目的がある。私の癇癪に付き合えと喚いた所で効力など無いように思える。
「残念だが承服しかねるな。私はあくまで調停者であり、ブランの家を襲撃するという行いに聖杯に悖る不義のない限り静観せねばならない」
「私一人が、向かうというの、は」
ほんの僅かな間地面に押し付けられていただけで軽く咳き込みながら、服に付いた汚れを叩きながら立ち上がる。
「否だ」
予想通りの返答が、予想以上の速度で叩きつけられる。このサーヴァントを納得させられるような詭弁はないものかと必死に頭を回す。だがどれも、口に出す前に私の稚拙な回路にすらNoを突きつけられて飲み下してしまう。
懸命に考え抜き、何度も口を開いては閉じてを繰り返し、結果的には。
「でも……私は、心配、で」
幼児にも劣る詭弁どころか弁にも満たない呟きを漏らして押し黙る事しかできなかった。視線を落とし、両の手の甲に刻まれた令呪を見やる。最初に召喚したサーヴァントに使用した一画を除けばまだ五画ある。
イレギュラーに召喚された、イレギュラーなクラスであるルーラーにこれがどこまでの効力を持つのか分からない。そして、一度これを使用すれば彼とまともな関係を築く事は不可能となるだろう。英雄に首輪を付けるというのはそういう事だ。
散発的に行われた亜種聖杯戦争でも令呪の使用が原因で起こったマスターとサーヴァントの断絶は記録がある。加えて、私はブランの代理としてこの戦いに参加しているに過ぎない。パトリシアの許可もなしに使用する事は──。
「使うか」
そんな堂々巡りの思考を頭でかき混ぜている私をぴしゃりと引っ叩くような冷たい声が響き、頭を上げる。
「マスターを必要とする形の現界である以上、私も令呪に従わざるを得ない。聖杯との契約とはそういうものだ」
「……っ」
「だが、君の貧弱な素養では令呪の効果も高が知れている。一画浪費して私を縛ったところで屋敷まで辿り着けはしない」
未熟な逡巡を見抜かれた事で動揺が高まる。見上げた彼の表情からは何も読み取れず、伽藍とした緊迫感に後退ってしまった。
「五画、なら」
屋敷までたどり着けるのだろうか?自分の身を護る安全弁でもあるこれを、使い切れば。下らない問いだと自分でも笑ってしまいそうになる。
益々彼の心証を損ねてしまっただろう、と場違いな焦りを抱く私を見る彼の顔に僅かな笑みが浮かんだ。それはどこか呆れを含んだ、壊れたと思った時計が放り捨てた拍子に動き出したのを見たかのような。
至極どうでも良い予想外を目にしたような表情だった。そこでルーラーは私から視線を切って歩き出す。
「ど、っどこへ──」
思わず手の甲を見せつけるように上げた私の腕を、ルーラーがそっと抑える。
「屋敷だ。ルーラーとして一方への肩入れは許容できんが、近付かねば静観も出来ん」
子供を諭すような口調と、優し気な手つきに私は項垂れてしまった。きっと彼は私を軽蔑しているし、嫌ってもいるだろう。それでもなお、可能な限り最大限の配慮を向けてくれる。
ルーラーと定められた在り方や、自身の内に燻る感情に板挟みされてもなお彼は公平だ。酷く恥ずかしいものを晒しているような気になって、右手の甲を左の掌で覆い隠す。
「行くぞ。屋敷の場所は君しか知らないのだから、先を歩きたまえ」
2.
それはきっと恋だった。
一つは没落していく家系の最後の当主として生まれ、全ての責任を取るだけの人生を壊したあの人の行いへの。
一つは自由も、責任も失った私を命を含めて使い潰すと約束してくれたあの人への。
一つは愛も恋も、憐憫も口にせずただ私という人間一人を大切な資源のように扱ってくれたあの人への。
獣をその身に宿す魔術師であるアンリエッテ・モローにとって、言葉によって紡がれる愛はどれもこれも獲物を引き寄せる為の鳴き声でしかなく、心に触れようとする行いは他者が自身に見出した都合のいい理想を押し付けられる醜い行いでしかなかった。
ただ命じられ、在るがままを求められる事への悦びだけが彼女を傾倒させた。彼女に宿る獣性は、その分かり易さこそを好んだのだ。
だからこそ、主人の”支配”も躊躇うことなく受け入れられた。その首輪は、蜃気楼のようにゆらめく信頼よりも遥かに強く彼と自身を結び付けているように思えた。
この亜種聖杯戦争を勝ち抜き、主人の理想を照らす篝火の贄となれたならそれで良い。その為になら何だってする。そう決意した。
だが。
「嗚呼、アンリエッテ──」
「何がそう君の表情を曇らせるのだ、アンリエッテ。僕に言ってごらん」
不快な甘ったるい呼びかけに、アンリエッテはふっと顔を上げる。視界の下部に恭しく跪き、手を差し出す軽薄な男の手が見切れていた。
「何でもないわ、キャスター。パトリシアが工房を構えるならここだと思ったのだけれど」
見切れたままの手をぐい、と押しのけて進む。こめかみの辺りがキリキリと痛んでいた。
アンリエッテのそっけない対応を全く意に介さない様子で、キャスターと呼ばれた男は立ち上がり後を追ってくる。
まだ秋の足音が聞こえ始めたばかりだというのに、グレーのチェスターコートを羽織ったその色男は革靴を鳴らしながらアンリエッテと並んで歩く。時折気安く肩に触れてくるその振る舞いに、アンリエッテは苛立ちを隠す限界を感じ始めていた。
サーヴァントが如何に恐ろしい存在であるのかは知識としては知っている。知ってはいるものの、この気障ったらしい振る舞いや町娘を口説くような言葉選びはどうにも我慢ならない。
加えて、このサーヴァントはアンリエッテに対してだけでなく女性と見るや似たような態度を見せるのだ。今この瞬間も、亜種聖杯戦争という戦いのまっ最中だという事を忘れているようにすら見える。
加えて、このキャスターのクラスを割り当てられたサーヴァントが期待外れの人物だったという事もアンリエッテの苛立ちを加速させていた。
何も未熟な亜種聖杯戦争で神代の大魔女のような大駒を期待していたわけではない。だが、この男は──魔術師であるのかすら怪しいのだ。
何が楽しいのか鼻唄を鳴らしながら、装飾だけは華美なブランの屋敷を歩く男の背中を睨みつける。
男は、その名をジャコモ・カサノヴァと名乗った。
ベネチアの生んだ世紀の色男。数多の才能を使い潰し、放蕩に明け暮れた希代の遊び人。
アンリエッテの頭痛は、増々激しくなっていた。