「匂い?」
「そう。ここに残ってるのはどれもこれも古い」
スン、と鼻を鳴らしてキャスターの問いにアンリエッテは頷いて見せた。当然、ここはブランの屋敷であり彼女の父親が工房を構えていた場所なのだから匂いは残っている。ただそれが薄い。
アンリエッテの嗅覚は内に秘めた獣性によって常人よりも遥かに鋭く細やかだ。例えば、キャスターが今しがた触っている錬金術についての魔術書と、先程彼が持たれていた壁を嗅げばどちらが先に触れられたものなのか、触れてからどれだけの時間が経ったのかを殆ど正確に言い当てる事が出来る。
勿論、十年経過した物の匂いを数分単位で当てろと言われれば首を振るしかないがこの屋敷に限って言えばパトリシアがこの屋敷から消えて数日経っている事は分かる。遠い昔、アンリエッテの先祖たちはこの嗅覚に特化した獣性を以てコミュニティの脱走者の追跡と処刑を請け負っていた。
そこで、思わず嘲笑が漏れる。魔術師としては下の下も良い所だ。劇的な滅びなど用意されていない、自然消滅。それこそモローの家にとって相応しい結末だった。
と、そこでキャスターがまた肩に触れたのを感じて鬱陶しそうに振り払う。
「隠れたという事はやはりマスターの主人……ややこしいな。まあいい、あの男が言うように聖杯の二連起動は意図的だったという事かな?」
「ほぼ間違いないでしょうね。出来ればその目的まで聞きだしてから消したい所だけど」
生け捕りが難しいなら殺しても構わない。そう主人からは仰せつかっている。キャスターは戦闘向きのサーヴァントとは言えないが、一人の魔術師を消すくらいの事は容易にやってのけるだろう。
後は時間の問題だ。追手の掛かる前に予め隠遁の準備をしていたことは賢明だが、生物である以上匂いを完全に消して動くことはできない。僅かでも痕跡があればそれでどこまでだって追って行けるという自身がアンリエッテにはあった。
「キャスター。ここはもういいわ、追いましょう」
興味深そうに錬金術の本を壁に背を預けて読んでいたキャスターが顔を上げる。この男がキャスターとして召喚された以上、何らかの魔術系統に関りがあったのは間違いないのだろうが──アンリエッテの調べた限り、カサノヴァと魔術の関りは精々が鉛の監獄に投獄された際の告発程度のものだ。
本当にこのサーヴァントにまともな使い道などあるのだろうか?そう考え、再び顔を覗かせた頭痛に顔を顰めたのを見て取ったのか。
突然、いつの間にか近くに立っていたキャスターに抱き寄せられる。本当にこの男は軽薄で、嘘臭くて、腹立たしい。背筋を走った悪寒を抑えつける事無く、今度こそ怒鳴りつけてやろうと口を開いた瞬間だった。
めり、という何かが裂けるような音と共に。
先程までアンリエッテの立っていた空間を漂う空気ごと切り裂いて長細い何かが通り過ぎて壁に突き刺さる。古式ゆかしい丁寧な装飾の施されたブランの屋敷は、見目こそ麗しいが工房の外壁にほかならずそれはすなわち魔術による攻撃から身を守る為の盾でもある。
それが、まるで紙のようにあっさりと裂けた。
細長い何かはどうやら槍らしい、と気付いた瞬間に吹き荒れる暴風に目を瞑る。槍が完全に床に突き刺さり、静止するまで自身がまだ生存しているという事に確信を持てなかった。
「──名乗れ、サーヴァント」
その低い声は、私を抱き寄せたまま冷や汗を滝のように流しているキャスターから発せられたものではない。外から飛来した槍によって裂けた外壁の穴からゆっくりと甲冑を纏った長身の人影が姿を現す。
全身から迸る陰鬱な緊張感はこちらの神経の走りさえも絡めとるようで、恐ろしいと理解しているのに身体がそれに気付けない。今すぐに逃げ出すべきだと理解しているのに、口を開く事すらできない。
アンリエッテにとって未体験と言える質の恐怖だった。ただ、言えることは。
──あり得ない。
例え、聖杯の二連起動が起きていようと。例え、目の前のサーヴァントが単独行動スキルを有した魔力効率のいいサーヴァントだったとしても。例え、このサーヴァントのマスターが令呪を行使し、全力を振るっているのだとしても。
あり得ない。
何もかもが未体験で、知識でしか聖杯戦争を知らぬアンリエッテも確信を持って言えた。こんなものがここにあってはならない。こんな戦場にあってはならない。
この男が、此処に居てはいけない。
目の前のサーヴァントの正体の手がかりすら掴んでいない状態で、アンリエッテはそう確信する。そして、傍らのキャスターも殆ど同じ様な結論に達したらしく顔は青ざめ、汗は滝のように流れていた。
「お初に──お目にかかる。お約束に従い、キャスターと名乗らせていただくが」
その言葉に時折カチカチと歯が鳴る音が小さく紛れている事に恐らくアンリエッテだけが気が付いた。
「貴方の名をお聞かせ願えるだろうか、騎士よ。さぞ──高名な英雄だと見るが」
キャスターの問いに、甲冑のサーヴァントは小さく鼻息を漏らして勲章を掲げるように堂々と、誇りをもって応える。
「我が名はアキレウス。ランサーのクラスを以て現界した、ギリシアの大英雄である!」
「そんな、訳が」
思わず、声に出してしまっていた。尊大な名乗りも当然だ。それが事実であるならばもはやこの戦場において勝者となり得るのは目の前のランサーを従えるマスターか、あるいは──。
少なくとも、アンリエッテを含む有象無象の太刀打ちできる相手ではない。あのヘラクレスと肩を並べる無双の大英雄。それ故にその弱点は広く世に知れ渡ってはいるが、それが何だと言うのか。
アキレウスを前にして、どんな手を尽くそうとその踵を捉える隙など得られる筈もない。
アンリエッテの絶望とキャスターの恐れが同期していく。逃げ出す事すら不可能に思え、思わず膝を突きそうになる直前に、アンリエッテはキャスターの顔を見上げる。
キャスターは嗤っていた。
恐らくは己の不運を。不遇を、逆境を。どうしようもない現実を前に、嗤っている。それが彼の性質とそれを現した宝具に由来するものである事はアンリエッテには知りようがなかった。
キャスター、ジャコモ・カサノヴァはサーヴァントとしては三流であった。それはまず疑いようのない事実であり、彼自身もそれを自覚している。
けれど、彼には自身でも制御できない自信があった。どんな苦境でも打ち破れるという曖昧な、根拠のない自負が。
故に、彼の宝具は彼自身の意志で使用する事が出来ない。その曖昧で根拠の判然としない自身が打ち砕かれ、打ちのめされた時にのみ”自動で”起動する。
キャスターの膝がガクガクと笑う。生前、命を賭けた決闘や危険に満ちた冒険はあった。だが、ここまで圧倒的な生物との対峙は経験が無かった。
「は、ははっ──これは、これは不味いなアンリエッテ」
アンリエッテの肩を抱きながら、震える声で語り掛ける。その指の力は強く、決して離すまいという意志が感じられた。キャスター自身にも理解できないが、そうしなければならないという確信があった。
「キャスターか。戦士ならざる身でありながら戦場に立つ者よ」
床に深く突き刺さった槍を軽々と引き抜いて、木屑を軽く振り払いながら騎士は静かに語り掛ける。
「痛みなく逝きたければその女を脇にどけて我が前に膝を突け。そうすれば瞬きの間に首を落としてやる」
「慈悲深い申し出に涙が出そうだが──生憎、そういう訳にもいかない。僕には僕の目的がある」
恐怖に震えながら、それでもキャスターは否、と首を振る。彼にはまだ確信があった。自分の人生は絶望としか言えないような苦境に立たされても必ず上手くいった。どんな困難でも、どんな事でも上手くやってきた。だから、今回もそうなる──と。
だから、宝具はまだ起動しない。
「──そうか。では、苦しんで死ぬが良い」
元々期待していなかったのか、ランサーはあっさりと言い放って槍を構える。その間、アンリエッテは必死に周囲の臭いに意識を集中させていたが、ランサーのマスターらしき臭いはしなかった。
ランサーのマスターは、動き出しの早さからして全くの素人とは思えない。つまり、外部のマスターではなくある程度事前に事情を承知していたこちら側のマスター。
そしてパトリシアの従者であるあのホムンクルスが召喚したのはルーラーだ。となれば消去法的に言ってマスター足り得るのはあの軽薄そうな男──パノスとか言ったか。
あれに違いなかった。だが、その臭いは此処には無い。少なくともすぐに手出しの出来る場所には居ないのだろう。此処に来たのはランサーただ一騎。
マスターを殺しての逆転は狙うべくもない。だから、後は──。
アンリエッテが必死に次へ思考を繋ごうとした時には既に、槍を構えていたランサーが雷鳴のような勢いでこちらへ肉薄していた。
だから、後は為す術もなく──ここで死ぬしかないのだ。
その結論にキャスターとアンリエッテが同時に辿り着いた瞬間。虚ろなキャスターの唇が小さく言葉を紡ぐ。
「──”
その言葉が紡ぎ終わるのと、槍がその肩に喰い込むのはほぼ同時だった。
そして、次の瞬間。
眼前でランサーが急停止した事で吹き荒れる風がアンリエッテの髪を揺らす。
その視界には、困惑と警戒が入り交じった沈黙を以て槍を引いたランサーと、それより深く困惑の色を見せるルーラーの姿があった。
絶対的な中立である筈の調停者はランサーとキャスター達の間に割り込むように立っており、一瞬の沈黙の後にゆっくりと口を開く。
「──何が、どうなっている」