静かだった。
どこか遠くで、小さな鳥の羽ばたく音が聞こえる。
まぶたの裏に届くやわらかな日差しを感じながら、俺はゆっくりと目を開けた。
「……え?」
天井が見えた。見覚えのある、俺の自室の天井だ。
体を起こす。体に激痛はない。それどころか、血の匂いも、焦げ付いた甲冑の重みも、皮膚を切り裂いたあの禍々しい結晶の感触すら微塵もなかった。
傷一つない自分の両手を何度も握り直し、見下ろす。着ているのは、いつも着慣れた紺色のパジャマだった。
「…………」
胸の奥に、理屈では説明できない強烈な違和感と、底知れない冷たさがへばりついていた。
しかし、思考を深く巡らせようとすると、頭の中に白い霧がかかったように記憶が霞んでいく。
俺は首を振り、ベッドから立ち上がった。
違和感を無理やり押さえつけながら制服に着替え、1階へ下りて朝食を作る。
いつものようにトーストを焼き、目玉焼きを焼き、淹れたてのコーヒーと一緒に口へ運ぶ。
テレビをつけると、女子アナウンサーが今日の天気と、どこか遠くの街の平和なニュースを淡々と伝えていた。
「……時間か」
時計の針がいつもの登校時刻を指す。
鞄を肩にかけ、俺は家を出た先の通学路は、驚くほど普段通りだった。
学校に着けば、教室にはいつもの仲間たちがいた。
「よお那津男、顔色悪いぞ? 夕べ遅くまでゲームでもしてたのか?」
「いやなんでもねぇぜ」
「そうか?無理はすんなよな!」
「そうそう!」
友人たちと交わす他愛のない雑談。退屈で、けれど心地よい授業のチャイム。昼休みの賑やかな喧騒。
それも過ぎ去り、やがて夕方になると、終わりのホームルームを告げる教師の声が響く。俺は荷物をまとめ、夕日に染まる校舎をあとにした。
帰り道をあてもなく歩く。
途中で、ふと足が止まった。街角にある小さな公園が目に入ったからだ。
何となくだった。胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚に導かれるように、俺は公園の中へと足を踏み入れた。
敷地内を一望できる、古びた木製のベンチ。そこにゆっくりと腰を下ろす。
斜陽が影を長く伸ばす公園をぼんやりと眺めていた。
その時だった。
「あはは! 本当に!? それすごーい!」
公園の柵の外、歩道を通り過ぎていく制服姿の少女たちの声。
その中央で、弾むような笑顔を咲かせながら友人たちと楽しそうに喋っている少女の姿が、俺の視界に飛び込んできた。
「──紡」
息が止まった。
紡だった。黒い髪をなびかせ、何の憂いもない無邪気な笑顔で、クラスメイトと思われる友達たちと肩を並べて歩いている。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
俺は反射的にベンチから立ち上がり、彼女のもとへ駆け出そうとする。
「っ!」
だが、その足が途中で止まる。
俺は伸ばしかけた手をゆっくりと引き戻し、再び深くベンチへと腰を下ろした。
そうか。
これでいいんだ。
俺は静かに目を細め、去っていく紡の背中を見つめた。
彼女の楽しそうな笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。
「へへへっ…………」
自嘲気味に笑う。少し震えている。
あんな恐ろしい戦いや、魔法少女なんていう残酷な運命から解放されて、友達と笑い合いながら帰る日常。それこそが、彼女が望んでいた日常だ。
紡の姿が見えなくなり、公園に再び静寂が戻った。
「彼女に、会わなくて良いのか?」
不意に、すぐ横から低く重厚な声が響いた。
「っ!?」
驚いて横を向く。
いつの間に座っていたのか、俺のすぐ隣に、とんでもない存在が鎮座していた。
身長は3メートル近くあるだろうか。
全身を重厚で禍々しい漆黒の生体甲冑に包み込んだ、圧迫感の固まりのような大男。
その鎧の隙間からは、ドロリとした闇の威圧感が漏れ出ている。
俺は一瞬息をのんだが、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
すぐに引きつった笑みを浮かべると、背もたれに深く体重を預け、空を見上げた。
「いいだろ別に……」
恐ろしいくらいに弱々しい声が響く。
だが甲冑の大男は納得していないらしい。
「……フン、それがカッコいい道を進む男の答えか?」
「…………」
大男の言葉に、俺は答えず黙り込む。
自嘲の混じった問いかけを無視された大男は、深く息を吐き出したあと語る。
「すでに気づいているのだろう」
大男の声は、かつて俺の頭の中で響いたあの禍々しい声と重なっていた。
「ここは、死にかけているお前が見ている走馬灯のようなもの……お前にとって都合の良い記憶の世界だ」
「……走馬灯、ね」
「現実のお前は敗北し、息絶えようとしている。そして闇の魔力によって覚醒した新たな魔王、『剛覇のゼノヴァルグ』が、今や現実の世界で全てを蹂躙しているだろう」
大男の宣告は、冷酷なまでに客観的だった。
夢の世界が揺らぎ始める。夕空が歪み、足元の影が不気味に揺らめく。
「……っ!」
俺は両手で顔を覆った。
指の隙間から、抑えきれない絶望と苛立ちが溢れ出す。
「どうしろってんだよっ!」
俺はベンチから立ち上がり、目の前の巨大な大男に向かって叫んだ。
「どうしろって言うんだよ!! 紡を失って……手に入れた結晶の力すら全部使ったんだぞ!? それでも勝てなかったんだ! あの新しい魔王に……今の俺に何ができるってんだよ!!」
激昂する俺の叫びを、大男は静かに受け止めた。
そして、巨大な甲冑の腕を組み、静かに語り始めた。
「……私はかつて、全てを破壊するために闇の魔力を使った」
「……は?」
「そんな私を見て、私の生み出した部下ども……四天王すらも、自らの欲求のままに暴れることしか知らぬ存在となった。そこに高尚な理性も理想もありはしない。本質的には、欲望のままに破壊を撒き散らす獣に過ぎん」
大男は淡々と自らの存在を自己批判するように続けた。
「だが……お前は違った」
「……何が違うってんだよ」
「お前が力を振るう時、そこにあったのは単純な破壊衝動や我が身の欲求ではない。……敵への復讐、そして何より『誰かを守りたい』という強い思いだ」
「……」
「それは、私や我が部下たちには決して持ち得なかったもの……『愛』という感情から来る力だ」
「ハッ……!」
俺は苦い唾を吐き捨てるように笑った。
「 だからなんだよ!! そんな綺麗事語ったって……それでも負けたんだよ! 結局、力及ばず倒れたじゃねぇか!!」
俺の突っぱねるような叫びに対し、大男は首を横に振った。
「闇だけでは敗れた。だがお前には、まだ力が存在する」
「なに?」
大男が、ゆっくりと巨大な指を立て、俺の体を指し示した。
「見よ。それこそが、私のような闇の魔力しか持たぬ者との決定的な違いの証明だ」
指し示されたのは俺の、左手の薬指だった。
「……指輪……?」
ハッとして息を呑む。
そこには、紡から貰ったあの指輪があった。
そしてそれは少し様子がおかしい。
指輪は今、かつてないほど強く、神聖な黄金の輝きを放ち始めていた。
ピキィィィィンッ!
まばゆい光が、俺の指先から爆発的に広がっていく!
公園の夕暮れを、走馬灯の偽りの世界を、塗りつぶすほどの圧倒的な光の魔力。
温かく、愛おしく、胸が締め付けられるほどに優しい光。
その溢れ出る光の渦の中から、二つのシルエットが実体化していく。
「那津男くん!」
「ルンっ!」
光が収まった場所に立っていたのは、
──満面の笑みを浮かべ、両手を広げる紡と、その肩に乗るルルンの姿だった!
「紡……!? ルルン……!?」
俺は思考が追いつく前に、体が勝手に動いていた。
なりふり構わず走り出し、二人の体を力いっぱい抱きしめる。
「紡……! ルルンっ……!! 本当に……お前たちのか……!?」
「うん……! うんっ! そうだよ!那津男くん!」
温かい。光の粒子となって消えてしまったはずの彼女のぬくもりが、確かな質感となって俺の腕の中にあった。
紡も、そしてルルンも、泣きそうな笑顔で俺の背中に手を回し、ぎゅっと抱き返し返してくれる。
「私ね、まだ那津男くんの中に残ってたんだよ。この指輪を通じて……那津男くんの『諦めない心』が、私をもう一度ここに呼んでくれたの!」
「2人の愛の力は引き裂かれないルン! 那津男の強い愛が、奇跡を起こしたんだルン!」
二人の温もりを感じながら、俺は涙を拭った。
そうか……俺は一人じゃなかった。紡は、ルルンは、まだ俺の中にいたんだ。
バリバリバリッ!
その時、周囲の空間に巨大な亀裂が入った。
空が、公園が、街並みが、ガラスのようにヒビ割れ、少しずつ崩壊していく。走馬灯の夢の世界が終わりを告げようとしていた。
スッと、背後に気配を感じて振り返る。
大男がゆっくりと立ち上がり、俺たちに向かってその巨大な手をかざした。
ゴォォォォッ!
俺たちのすぐ目の前に、あらゆる光を飲み込むような漆黒の空間の裂け目、現実世界へのゲートが生み出される。
「……私の成し得なかった光と闇の完全なる融合」
大男は、壊れゆく世界の中で静かに語りかけてきた。
「それこそが、新たなる魔王……ゼノヴァルグを打倒する、唯一にして最後の策だ。……破壊しか知らぬ旧き魔王とは違う、新たなる『希望の道』を……俺に見せてみよ!」
俺は紡と手を繋ぎ、ルルンを肩に乗せると、大男に向かって振り返った。
「……フン。感謝なんかしねぇぜ?」
俺は口角を釣り上げ、悪役らしくニヒルに笑ってみせた。
「てめぇのせいで、俺たちは散々な目に遭ったんだ。お礼を言う気なんてサラサラねぇよ」
「クク……然り」
「だが──」
俺は繋いだ紡の手を強く握り締め、真っ直ぐに大男を睨みつけた。
「俺たちの……『魔法戦士』と『魔法少女』のカッコよさを、特等席でよく見とけよ!!」
その言葉に、紡も力強く頷き、ルルンも誇らしげに胸を張る。
「じゃあな、魔王!!」
俺たちは同時に跳躍し、黒いゲートの中へと飛び込んだ!
光と闇の奔流の中へと消えていく俺たちの背中を見送りながら、大男──前魔王の残留思念は、満足そうに口元を緩めた。
「……ああ。存分に見せてもらおう」
次の瞬間、崩壊する世界とともに、その巨大な身体も砕け散り、消滅した。
「ガハハハハハ! 疾い! 疾いぞ、闇の力よ!」
現実世界、崩落したビルの瓦礫と焦土と化した関西の街。
新たなる魔王へと覚醒した『剛覇のゼノヴァルグ』が、禍々しい漆黒の衝撃波を全方位に放ち、街を破壊し尽くしていた。
足元には破壊した人々の亡骸や、戦闘機と戦車などの残骸も見られる。
「フン、惨めなものだ人間ども!貴様らなど敵ではないわ!」
ゼノヴァルグが蔑みの視線を向け、大きな脚で戦車の残骸を更に踏みつけようとした、その時。
ピキィィィィィィンッ!!!!
「ヌオッ!?」
残骸の中から、世界を揺るがすほどの圧巻の光と闇の奔流が吹き荒れた!
ドバァァァァァンッ!!
ゼノヴァルグの巨大な体が、押し寄せる魔力の衝撃波によってズザザザッと後方へ弾き飛ばされる。
「な……なにィ!?」
煙が立ち込める中心で。
静かに、ゆっくりと立ち上がる影があった。
蛇森那津男。
その身に刻まれていた致命傷は瞬く間に塞がり、絶命していたはずの心臓が、激しく、力強く拍動を再開している。
その左手薬指には、眩いばかりに輝く指輪。
そして彼の両隣には、共に立ち上がる光の魔法少女ルミナスツムギと、ルルンの幻影、いや、確かな魔力の意志が寄り添っていた。
「バカな! なぜ生きている!?その力は!?」
ゼノヴァルグが戦慄の声をあげる。
那津男は静かに前を見据えた。
その瞳には、すでに絶望も、狂気もない。あるのは、愛する者を守り、仲間と共に未来を切り拓くという、絶対の意思だけだった。
那津男は深く脚を開き、腰を落とす。
指輪を嵌めた左手を天へ掲げ、右手を力強く胸前に交差させる、変身の構え。
「紡……行くぞ!」
「うん! 那津男くん!」
「ルンっ!」
相反する二つの磁極が引き合い、世界そのものの理を書き換えていく。
那津男の口から、魂を揺さぶる威厳に満ちた叫びが放たれた。
『光と闇の極致──真なる希望のルミナリエ・チャージッ!!!』
ズドォォォォォォォンッ!!!!
天空から降り注ぐ神聖なる眩い「光」と、大地から湧き上がる禍々しくも力強い「闇」。
二つの相反する絶対的な魔力が、完璧な陰陽の渦を描き、激しく激突しながら一つに融合していく!
黒銀の金属に、美しく輝く純白の光ラインが走る。
邪悪な悪魔の角は、聖なる騎士の兜へと昇華し、背中からは漆黒の炎と黄金の光線が織りなす「光闇の翼」が大きく羽ばたいた。
そこに誕生したのは、絶望を振りまく魔王ではない。
光を害する破壊者でもない。
光と闇、二つの力を完全に掌握し、極限へと至った真の姿──
『希望の魔法勇者、セイヴァールミナリエ参上!』
完璧な融合を果たした圧倒的な威圧感が、全域を圧迫する。
「お……おのれぇぇぇッ! 戯れ言をぉぉッ!!」
怒りに顔を歪ませたゼノヴァルグが、全世界を滅ぼすほどの闇の魔力を拳に凝縮させ、超音速で突進してくる。
『暗黒剛覇絶滅拳ッ!!!!』
迫り来る悪夢のような一撃。
だが、勇者はまったく動じない。
新緑の風のように、軽やかに地面を蹴る。
『行くぜぇぇぇぇぇッ!!!!』
光と闇の翼を爆発させ、超絶的な速度で、新たなる魔王に向かって正面から突撃を開始した!
次が最終回となります。
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