深夜の高速道路を滑るように走る長距離バスの車内。
低いエンジン音と、時折すれ違うトラックのライトが車内を赤く照らしては過ぎ去っていく。
俺は、隣のシートで俺の腕を力任せに抱きしめたまま眠る少女、星野さんの頭を静かに撫でた。
あの日、俺の自宅がボロボロに破壊されてから、俺は家にあった現金をかき集め、できる限り遠出に必要なものを揃えた。
幸い金には余裕があり、数カ月は三人で行動しても問題ないくらいの貯金を俺は持っていた。
そして俺たちは、関東圏の結晶を集めるため、安いビジネスホテルやネットカフェを転々としていた。
夜闇に紛れて街の路地裏や廃ビルを徘徊する闇の異形——魔王の配下どもを打ち倒し、奴らの持つ魔王の結晶を奪い取る。
それを星野さんの胸へと補給する。その繰り返しの毎日だった。
足元に置いた、途中のディスカウントショップで買った安物のボストンバッグ。
ジッパーを少し開けて覗き込めば、そこには魔王の結晶が、すでに十数個も収められていた。
重みにして数キロ。手応えとしては悪くない。実際に星野さんの身体はあの日以来消えていない。
だが──世界の侵食は、俺たちの淡い楽観を嘲笑うかのように、あまりにも残酷かつ静やかに進行していた。
最初に異変が起きたのは、旅に出て1週間ほどした朝だった。
「ねぇ……蛇森くん。私のバッグ、見なかった……?」
埼玉の寂れたビジネスホテルの部屋で、星野さんが困惑した顔で部屋の中を探し回っていた。
彼女が探していたのは、あの日着ていた学校の制服や、予備の教科書が入った学校指定のカバンだった。
昨日まで間違いなくパイプ椅子の脇に置いてあったはずのそれが、部屋のどこを探しても見当たらない。
「おかしいな……鍵は閉めてたし、俺は寝る前に見たぜ?」
「ルルンも見たルン!間違いないルン!」
部屋の隙間やクローゼットまで探したが、影も形もない。
ホテル側にも伝えたがフロントなどにも届いておらず、一応警察へも届け出をしたが見つかることはなかった。
とはいえ彼女の携帯と、この旅を始めてから買ったカバンや衣服は全て残っていたので、幸いなことに結晶集めには支障が無かった。
だが、問題はカバンがなくなったことではなかった。その日の昼過ぎ、コンビニのイートインで休んでいた時、星野さんが不意にぽつりと漏らしたのだ。
「……ねぇ、蛇森くん。私、携帯に触ってないよね?」
「おん?もちろん触ってないぜ?」
「そう……だよね……」
「……どうかしたのか?」
「えっと……」
星野さんの携帯から、学校関連の友人の名前や痕跡が消えていた。
アドレス帳にも各種アプリにも残っていない。かろうじて家族の名前が残っているのみだ。
──世界の記憶から星野紡が消えていく。
制服やカバンのことからも、彼女が学校に通っていたという事実そのものが、この世界から消えたのだ。
「……まあ、世界を作り直せば解決するはずさ。気を取り直して頑張ろうぜ。」
「うん……」
俺は必死に明るい声を振る舞ったが、彼女の顔からは、その日から少しずつ色が失われていった。
──消失は止まらない。
その1週間から三日経ち、四日経つにかけ、彼女が幼少期から大切に身につけていたお気に入りのキーホルダーや、私物が一つずつ消滅していった。
そして五日経つ頃、最大の絶望が彼女を襲った。
千葉の寂れた港町にあるホテルの部屋で、ツムギは涙でボロボロになった顔で、自分のスマホを両手で握りしめていた。
彼女の家族、その一切の情報がスマホから消えていた。
アドレス帳からも各種アプリからも、通話履歴すら、完全に空白になった。
「嫌……嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
ツムギは叫び、狂ったようにスマホのデータやカバンの中を漁ったが、家族との繋がりを示す物はどこにも残っていなかった。
彼女が家に残してきた部屋も、家族と撮ったアルバムの写真もそうだ。
家族と星野紡という娘の繋がりは完全に消滅したのだ。
そして、追い打ちをかけるように。
ピシッ……。
ツムギが握りしめていたスマホの画面に、亀裂が入った。
充電器も、カバーも、本体そのものが薄い光の粒子となって分解し、彼女の指の隙間からフワリと儚く空気中に溶けて消えていく。
「あ……あぁ……っ……」
空っぽになった自分の両手を見つめ、星野さんはその場に膝から崩れ落ちた。
これで、すべてが消えた。
この世界に、彼女が生まれ、育ち、生きてきたという証明は、世界から一つ残らず消えたのだった。
彼女が着ている服と、俺が買い与えた幾つかの雑貨、そして俺とルルンの頭の中に残された記憶だけが、彼女がここに存在した唯一の証拠だった。
「……蛇森、くん……」
膝を折り、床に額を擦り付けるようにして泣きじゃくていた星野さん
しかし数分の後、星野さんが顔を上げ、かすれ声で俺の名を呼んだ。
「蛇森くんはぁ……私を、覚えてるよね?」
立っている俺を見上げた星野さんの両目には、もはや光は宿っていない。
黒い深淵が、視線となって俺を貫いていた。
「あ、当たり前じゃねぇか!こう見えて俺は記憶力が良いんだ!」
俺は叫び、床にしゃがみ込んでツムギの華奢な肩を強く抱きしめた。
「星野さんは全部俺の知ってるままさ! 顔も髪も、可愛い声だって全部記憶のとおりだ!」
「…………」
「 星野さんはここにいる! 消えてなんかいねぇさ!!!」
「う、うあぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
星野さんは俺の胸に顔を埋め、幼子のように声を上げて再び泣き叫んだ。
俺の着ているシャツが、彼女の温かい涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れていく。
だが俺は、彼女が泣き疲れて眠るまで、その背中をずっと撫で続けることしかできなかった。
その夜を境に、星野さんの俺に対する態度は、劇的な変貌を遂げた。
それは、世界から完全に切り離された人間が、唯一繋がっている命綱にすがりつくような痛々しく、重く、湿度の高い、
──依存だった。
「ねぇ……そろそろ星野さんって呼ぶの……やめて……?」
次に泊まった神奈川のビジネスホテル。急に自分の部屋から俺の部屋に来た星野さんは、俺の服の裾を両手でギュッと握りしめながら言った。
「紡って呼んで……お願い。苗字で呼ばれると……他人みたいで……誰の記憶にも残ってない私に戻っちゃいそうなの……」
「……ああ、分かったよ。紡」
「! うん!那津男くん!」
俺が名前を呼ぶと、お返しのように俺の下の名前を呼び、えへへと安心したように笑った。
そしてホッとしたように瞳を揺らし、すがりつくように俺の胸へと頭を預けてきた。
「うん……私、紡。那津男くんの……紡……」
さらに次のホテルでは、彼女は二人で泊まる部屋について「絶対に1部屋じゃなきゃ嫌」と言って譲らなくなった。
シングルを二部屋取ろうとすると、パニックを起こしたように俺の手を強く握り締め、半狂乱で首を振るのだ。
「ダメ! 離れないで! 一人になったら……夜の間に、私……消えちゃう……っ!」
結局、どこへ行くにもダブルベッドかツインルームを1部屋だけ取り、二人で過ごすことになった。
それだけではない。ベッドも別々に寝ようとすると、ツムギは俺の布団の中に潜り込んできた。
「つ、紡!? おい、いくらなんでも狭いし……俺も一応男だからな!?」
「いいの……。那津男くんの心臓の音が聞こえないと、怖くて眠れないの……お願い、追い出さないで……」
そう言われてギュッと腰に抱きつかれれば、俺に突き放せるはずもなかった。
紡の体温と、甘い髪の匂いがすぐ至近距離で漂う。年相応の男として理性と戦うのは心底胃が痛かったが、彼女の身体が恐怖で微かに震えているのを感じると、無下に突き放すことなんて到底できなかった。
俺はルルンに助けを求めるように視線を向けるが、ルルンは申し訳なさそうに目をそらすことしかできなかった。
一番弱ったのは、大浴場のないビジネスホテルのユニットバスで入浴していた時だ。
頭をシャンプーで洗っていると、ガバリと中折れドアが開く音がした。
驚いて泡を洗い流そうとシャワーに手を伸ばした瞬間、背中に紡が身体を預けてきた。
「……つ、紡?」
「那津男くん……少しだけこのままにさせて……」
「お、おう……」
泡だらけの頭と濡れた身体のまま、紡の体重と温もりを背中で感じる。
そのうえ、
「ねぇ那津男くん……こっち向いて抱きしめて?」
「あ、いやそれは……」
無理な質問もとんでくる。
何も答えられない。
ここ最近、紡の精神状態は下手を打てば壊れかなないほど不安定だ。
俺としては何とか上手いことやってきたつもりだが、当事者の感情まで全て汲み取ることはできない。
「あのよ、服、……は流石に着てるよな?」
「……那津男くんはどっちのほうが嬉しい?」
「はえ!?」
頭がおかしくなりそうだ。
この状況はなんだ?
元々彼女を助けようとした時、俺には下心があった。今だってそれは正直変わっていない。
しかし彼女の精神状態を顧みれば、そういった事を表に出さないようにしてきた。
しかしもはやそれを抑えきれない状況を彼女自身が作り出してしまっている。
しかし、これはもう、いっそ──
ギュッ!!!
「那津男くん?」
「あぁちくしょう!」
俺は振り返って紡を力いっぱい抱きしめた。
頭がおかしくなりそう、いやもうおかしいのかもしれない、頭の中が下心と良心の呵責でぐちゃぐちゃだった。この状態で、俺は痛いくらいに力いっぱい紡を抱きしめている。
紡は服を着ていたが、俺に滴る水に濡れ、素肌が艶めかしく透けていた。
「紡!」
「なぁに?那津男くん?」
「頼む!……許してくれ!お、俺が、今できるのは、ここまでなんだ!」
「!」
「頼む!……頼むよ…………」
「……那津男くん…………」
抱き合ったままどれほどの時間が経ったか。
数分と数時間とも思える時間の後、紡は俺から離れ風呂場から出て行った。
俺はその後すぐに身体を洗い直し、風呂から出た。
紡は部屋に備え付けられたルームウェアに着替えた状態で風呂側に背を向け、ベッドのなかで眠っているようだ。
俺もまた、紡に背を向けるように同じベットに潜り込む。
俺は、もはや彼女にとって、ただの『助けてくれた同級生』ではない。
精神的にも、肉体的にも、この世界に彼女を繋ぎ止めるたった一つの『錨』なのだ。
だがそれならば、強い意志を持って彼女に寄り添い続けるべきだ。
俺には、逃げる気など初めからなかった。
身体を反転させ、紡の体を抱き寄せる。
俺の腕の中で、すやすやと息を立てる紡の前髪を、俺はそっと掻き上げた。
幼く、傷つき、それでも必死に生きようとしている健気な少女。
「大丈夫さ……大丈夫。大丈夫だぜ、紡。……俺が絶対……お前の世界を取り戻してやる」
暗闇の中、俺は静かに呟いて眠りに落ちた。
腕の中で、眠っている紡が少し震えた気がした。
あれ以来、紡の顔色はみるみる良くなっていった。
笑みが増え、学校に通っていた頃のように活力満点に体を動かしていた。
獣たちを打ち倒す動きにも力強さが蘇っていた。
そして更に1週間ほどが経った深夜、俺たちは出会う。
関東圏のターミナル駅からも遠く離れた、北西の繁華街の裏手にある再開発地区。
打ち捨てられた建設途中のビルと、高架下が交差する静まり返った暗がりの中で、俺たちの足は止まった。
ボストンバッグの中にある数十個の『魔王の結晶』が、これまでにないほど激しくドクンドクンと鼓動し、紫色のみっともない光を漏らしていた。
ピキピキピキ……ッ!
「ルンッ!? 那津男、紡! 気をつけるルン! この先の気配……今までの奴らとは次元が違うルン!!」
紡の背負ったリュックの中から飛び出したルルンが、短い毛を逆立てて警戒の声を上げる。
俺は紡よりも一歩前へ出て、右手の構えをとった。
紡もまた、その場からは動かず、右手を突き出し構えをとる。
月光すら届かない高架下の影から、ゆっくりと声が近づいてきた。
「なるほど……結晶回収を命じていた我らの配下を倒し続けているという泥棒猫は、貴方たちのことですね?」
現れたのは、これまでの獣のような異形ではなかった。
つややかな漆黒の髪に、血のように赤い瞳。仕立ての良い漆黒の貴族服を纏い、背にはコウモリのような巨大な皮膜の翼を休めている——一人の『男』の姿をした伊達な男だった。
男が踏み出す一歩ごとに、周囲の空気がズシリと重くなり、アスファルトに細かな亀裂が入っていく。
肌を刺すような刺々しい闇のプレッシャー。
これまでの怪物どもが『野犬』だとしたら、目の前の存在は『獅子』、いや、それ以上の怪物だ。
「ふむ……光輝世界の生き残りと……我が魔王様の結晶を体内に宿した不遜な人間ですか。フフフ、面白い組み合わせですねぇ」
男は冷酷な薄笑いを浮かべ、胸元から滑らかな動作で『それ』を取り出した。
男の手のひらに鎮座していたのは、俺たちがボストンバッグに集めてきた結晶のどれよりも大きく、邪悪な漆黒の波動を撒き散らす人頭大の『魔王の結晶』だった。
「私は魔王軍四天王が一角──『影蝕のジルバ』、お見知りおきを」
ジルバと名乗った魔族は、愛おしそうに巨大な結晶を撫でながら、俺たちを見下ろした。
「魔王様の完全なる復活のため、結晶を集め修復しておりましたが……闇の魔力反応を辿ってみればこれは僥倖。私たちの邪魔をする貴方たちは、死をもって贖うのが常道」
パチンッ!
ジルバが指先を軽く鳴らした。
それだけで、周囲の街灯が一斉に「パンッ!」と音を立てて弾け飛び、高架下の路地裏が一瞬にして完全なる闇へと塗りつぶされた。
圧倒的な絶望感。
普通の人間なら、この圧迫感だけで呼吸を忘れ、恐怖で膝を屈していただろう。
だが俺の背中にいる紡は、少しも怯んでいなかった。
「紡、行くぜ!離れるなよ!」
「うん……! 離れない……! 那津男くんの側から、絶対に離れない……ッ!」
紡の頼もしい声が響く。
そこにはもう「怯え」で俺を呼ぶ少女はいない。
俺への絶対的な信頼と覚悟がその身に宿っていた。
俺は右手を胸に当て、『魔王の結晶』を激しく脈動させた。
紡もまた、右手にステッキを生み出し、それに合わせ、ルルンが光の粒子となって星野の胸元へと飛び込んでいく。
闇と光。相反する二つの魔力が、高架下の暗闇を鮮やかに切り裂いた。
「光の魔法!消えぬ希望のルミナス・チャージ!」
「闇の魔法!潰えぬ希望のドミナス・チャージ!」
俺たちの叫びが夜空に轟き、新たな激闘の幕が上がるのだった。
明日も投稿できそうです。頑張ります。
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