鼓膜を直接揺らすような低いノイズと共に、空間が僅かに歪んだ。
光の瞬きさえ伴わない、極めて静かな時空の亀裂。
そこから押し出されるようにして、下界の田舎村の外れ——
見渡す限りの荒野に一人の青年が降り立った。
燃えるような赤髪をツーブロックに刈り上げ、深紅の瞳に、彫刻のように鍛え抜かれた身体、この世界には存在しない異質な装束である。
魔鬼マヤ、18歳(外見年齢)
「……ほう、なるほどな」
マヤは赤い瞳を細め、乾いた風を大きく吸い込んだ。その瞬間、彼の脳内で膨大な情報が自動展開される。大気に溶け込む未知のエネルギー——『魔力』の法則から、重力、次元の座標、果ては周囲の生命反応まで。網膜の裏で解析され、前世からの能力によって自身の身体へ最適化されていく。
忍の世界で9歳にして暗部として闇を駆け、12歳で上忍に至り、
32年間の生涯で培った超常の体術と戦闘経験。
そして、相手が強ければ強いほど際限なく闘気を跳ね上げる『鬼の力』。
それらが、このダンジョンと神々の世界にピタリと適合していくのを細胞レベルで感じ取っていた。
「退屈やなぁ……。せっかく天界から降りてきたっちゅうのに、どいつもこいつも土いじりばかり。オモロイことの一つもあらへん」
そんなマヤの背後から、ひどく間延びした、それでいてどこか傲慢さを隠しきれない声が響いた。
振り返ると、そこには薄汚れたローブを羽織った朱色の髪の神が立っていた。
退屈を持て余し、地上に降り立ったばかりのトリックスター、神ロキである。
「おい、そこの変な頭の兄ちゃん。見ない顔やけど、ウチの退屈しのぎくらいにはなってくれるんやろな?」
喧嘩腰で細い目をさらに吊り上げるロキ。
天界という永遠の楽園から下界へと降りてきた彼女にとって、地上の人間など退屈を紛らわすための玩具に過ぎない。
神威を隠そうともしないその瞳には、傲慢さと、それ以上に深く根付いた途方もない『暇』が渦巻いていた。
対するマヤは、ふっと微かに口角を上げた。その威圧感を風のそよぎ程度にしか感じていないかのように、ゆっくりとロキに向き直る。
「お前、男か?」
「……は?」
マヤの唐突な問いに、ロキは虚を突かれたように間抜けな声を漏らした。
マヤの視線が、ロキの顔から首筋、そしてその下へと無遠慮に滑っていく。
「糸目に……胸は、ふむ。まったくないな。だが……失礼した。見かけによらず、いい女のようだな」
「なっ、誰が絶壁や! ケンカ売っとんのかワレ!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏むロキ。神である自分を前にして、平然と胸のサイズをいじり、あまつさえ『いい女』と評したこの不遜な男に、ロキの怒りよりも好奇心が勝り始めていた。
「丁度、暇をしていたのか? 俺もなんだ」
怒るロキを意に介さず、マヤは悠然とそう言い放った。その佇まいには、強者特有の絶対的な余裕がある。
「なんやねんお前……ただの人間やないな? その妙な気配、エルフでもドワーフでもな
い。一体何者や」
警戒心を露わにするロキに対し、マヤは姿勢を正し、静かな、しかし確かな威厳を伴う声で告げた。
「兄ちゃんではない。人に尋ねるのなら、先に名を名乗るのが礼儀というものだろう? 義には礼を、真実には敬意を。それが俺の信念だ」
その言葉の響きに、ロキは思わず息を呑んだ。
ただの理屈ではない。言葉の裏に込められた圧倒的な精神の核。天界の神々でさえ、これほどまでに揺るぎない芯を持つ者はそう多くない。こいつは、面白い。退屈な下界で、最高のおもちゃを見つけたかもしれない。
ロキはニヤリと口角を上げ、薄汚れたローブを翻して胸を張った。
「ええ度胸や。ウチに名乗れと言うた人間は、お前が初めてやで。よぉ聞け、ウチはロキや。天界から降りてきたばかりの、偉大なる神様やで!」
ドヤ顔で言い放つロキ。下界の者であれば、神の名を聞いただけで平伏するか、恐れおののくのが常である。
しかし、マヤの反応はロキの予想を遥かに超えていた。
「そうか、ロキか。いい名前だ」
瞬きをする間すらなかった。神の動体視力をもってしても捉えきれない滑らかな歩法で、マヤは静かに歩み寄ると、抵抗する暇すら与えずに神であるロキの肩を抱き寄せた。
「なっ!? ちょっ、お前、神様相手になにを——!」
慌てるロキの耳元に、マヤの顔が近づく。男の体温と、力強くも心地よい匂いがロキの鼻腔をくすぐった。
「俺はマヤ。……マヤっていうんだ」
低く、甘く、そして恐ろしいほどに穏やかな声が鼓膜を震わせる。
「あんた、神様なら心でも読めるか? 俺が嘘を言ってるか、その目で調べてみてもいいぞ」
ロキは目を丸くした。神の眼力(アルカナ)をもってしても、この男からは嘘の匂いどころか、底知れぬ深淵のような真実しか見えない。
「お前は、いい女だよ」
耳元で囁かれる言葉に、ロキの心臓が不本意にも大きな音を立てた。
「ただ、仲間思いの度が過ぎるだけさ。大切なものを抱え込みすぎて、そして愛おしすぎて、壊したくなる……。本当は寂しがり屋のくせに、強がって斜に構えてる。そんな感じだろ?」
「……っ!」
図星を突かれた。それも、何千年も生きる神である自分自身すら無意識に蓋をしていた、心の最も柔らかい部分を、出会って数分の男に完全に暴かれたのだ。
トリックスターとして道化を演じ、本心を隠して生きてきたロキにとって、それは雷に打たれるような衝撃だった。
「な、なんやねんお前……。ウチの心を読んだんか……?」
震える声で問うロキ。肩を抱くマヤの腕から逃げ出そうという気すら、なぜか起きてこない。
マヤはロキの肩を優しく離し、正面からその朱色の髪を大きな手で撫でた。
「心なんて読まなくてもわかるさ。俺は鬼だからな。相手が強ければ強いほど、俺も強くなる。神様相手だろうが、喧嘩を売られたら受けて立つ」
マヤの深紅の瞳が、ロキの細い目を真っ直ぐに射抜く。
「だが…可愛い女が泣いていたら、話は別だ。俺は、泣いた赤鬼を救う青鬼でいたい。どんな時でも笑ってろ。笑ってる奴が一番強ぇんだ。神だろうがなんだろうが、今のお前の涙なんて、俺は見たくないからな」
その瞬間、ロキの中で何かが決定的に崩れ去った。
退屈。孤独。神としての傲慢。それらすべてが、マヤの放つ規格外の熱量と、圧倒的な包容力の前で融解していく。
戦いや理屈ではなく、ただその器の大きさに、ロキは完全に呑み込まれたのだ。
「……ふふっ、あははははっ!」
ロキは突然、腹を抱えて笑い出した。乾いた荒野に、女神の歓喜の声が響き渡る。
「アカン、アカンわこれ。お前、ほんまにオモロイな! なんやねんその恥ずかしいセリフ! けど……嫌いやない。いや、むしろ最高や!」
笑い涙を指で拭いながら、ロキはマヤを見上げた。その瞳には、もはや退屈の欠片もない。ただ、目の前に立つ規格外の『鬼』に対する、強烈な独占欲と愛情が宿っていた。
ロキはマヤの胸倉をぐいっと掴み、背伸びをしてその顔を近づけさせた。
「決めたで、マヤ。お前、今日からウチのモンや」
満面の笑み。悪戯っ子のような、それでいて一人の女としての熱を帯びた表情で、ロキは高らかに宣言した。
「お前がウチを泣かせへん青鬼やっちゅうんなら、ウチが特等席で笑ったる! だからマヤ……ウチの旦那になりなはれ!」
荒野に吹きすさぶ風が、二人の間を通り抜ける。
至近距離で見つめてくるロキの瞳には、神としての威厳と、一人の少女のような純粋な熱情が入り混じっていた。
マヤはふっと息を吐き、口角を深く吊り上げる。
「旦那ねぇ……」
マヤの大きな手が、胸倉を掴むロキの手を優しく、しかし絶対に逃れられない力強さで包み込んだ。
「悪くねぇ。お前みたいな面白い女の特等席なら、座ってやる価値はある」
「せやろ!? なら決まり——」
「——けどな」
歓喜に顔を綻ばせかけたロキの言葉を遮り、マヤはさらに顔を近づけた。鼻先が触れ合うほどの距離。深紅の瞳が、ロキの心を真っ直ぐに射抜く。
「いずれ、俺の子を産んでもらうぞ?」
「……………………は?」
時間が止まった。
数千年の時を生きる神でありながら、男の肌に触れたことすらない純潔の女神。トリックスターとして数々の神々や人間をからかってきたロキの思考が、完全にフリーズした。
「こ、こぉ……? 子を、産む……? ウチが? マヤの……?」
「ああ。神だろうが関係ない。俺が惚れた女には、俺の愛の結晶を腹に宿してもらう。それが俺の真実であり、お前への敬意だ」
大真面目に、そして最高に甘い声で告げられる孕ませ宣言。
「あ、あ、あ……っ!」
ぽんっ、と音が鳴りそうなほど、ロキの顔が一瞬にして沸騰した。耳の先まで真っ赤に染まり、掴んでいたマヤの胸倉から手を離して後ずさる。
「なっ、なななな何を言うとんねんワレェ!! 出会って数分で子作り宣言て! 頭オカシイんちゃうかお前!」
激しく動揺し、両手で真っ赤な顔を覆いながら叫ぶロキ。その姿は、先ほどまでの傲慢な神の面影など微塵もない、ただの初々しい恋する乙女そのものだった。
しかし、マヤは逃がさない。後ずさるロキの腰を力強く抱き寄せ、再び密着する。
「なんだ、自信満々に旦那になれと言ったくせに、覚悟が足りなかったか? 泣いた赤鬼は、夜も俺が徹底的に可愛がってやるつもりなんだが」
「か、可愛が……っ!」
腰に回された熱い腕と、耳元で囁かれる凶悪なまでの雄の匂い。ロキは完全に腰を砕かれそうになりながらも、神としての、いや、一人の女としての意地を爆発させた。
「——っ、言ったなワレ!!」
ロキは真っ赤な顔のまま、ヤケクソのようにマヤの首に両腕を回し、力いっぱい抱きついた。
「上等や! 産んだるわ、なんぼでも!おまえ! 神様舐めんなよ!」
涙目になりながらも、ロキの瞳には決して譲れない強い光が宿っていた。彼女はマヤの胸に顔を埋め、宣言するように大声を上げる。
「その代わりな! ウチが『正妻』や! アンタの一番はウチやからな! 他の女にうつつ抜かしてウチを蔑ろにしたら、絶対承知せぇへんで!!」
「ははっ、いいぜ。お前が俺の正妻だ、ロキ。お前の笑顔は、俺が一生守り抜いてやる」
マヤは愛おしそうに正妻の赤い髪を撫で、荒野の空を見上げた。
退屈だった神の時間は終わりを告げ、理不尽すらも笑い飛ばす、最強の鬼との規格外な日常が、今ここに幕を開けたのだった。
始まりました、書きためていたものを一気に放出する感じです。色々おかしこともあると思いますが緩い目で見えください。ちょいちょいあとがきを書いたほうがよいのかもわからず。公開の仕方もよくわかってなかったので一通り区切りがついた為公開してみました。よろしくお願いします。