オラリオの頂点に君臨するゼウスとヘラの両ファミリア。
彼らの全軍が、たった一人の赤髪の青年を前にして完全に足を止め、武器を構えていた。
事ここに至り、彼らはマヤを「ただの不審者」ではなく、明白な「排除すべき絶対的な障壁」として認識していた。第一級冒険者たちが放つ、大気を重く圧迫するような濃密な殺気。並の人間であれば、その場に立っていることすらできずに泡を吹いて倒れるレベルのプレッシャーである。
しかし、その中心に立つマヤは、緊張感の欠片もない様子で首をコキコキと鳴らしていた。
「さて……いきなり幹部連中が全員で来るって感じでいいのかな?」
マヤは周囲を取り囲む最高戦力たちをぐるりと見渡し、呆れたようにため息をついた。
「俺の強さを認めてくれたってことだろうけどさ……恥ずかしくない? オラリオ最強とか言っておきながら、たった1名相手に幹部全員でかかってくるなんて」
「貴様ッ……!」
「えーと、名前なんだっけな。マキなんとか(マキシム)に、ザル……さん(ザルド)? それとアルフィアちゃんに、そっちの女帝さんって本名知らないんだよね。男の名前はあんまり覚えられないんだわ、ごめんね」
悪びれもせずに言い放たれた言葉に、ゼウス陣営の団長マキシムと、暴食のザルドの額に青筋が浮かび上がった。
オラリオで彼らの名を知らない者などいない。それを「マキなんとか」「ザルさん」呼ばわりである。
「貴様、舐めるのもいい加減にしろよ……!」
ギリッと奥歯を噛み鳴らすザルド。
一方で、ヘラ陣営の女帝とアルフィアの胸中には、怒りとは別の、極めて複雑な感情が渦巻いていた。
女帝はマヤを鋭く睨みつけながらも、自身の奥底で微かに甘い痺れのようなものを感じていた。
(女を死地に行かせたくない、女を守る、か……)
神であるヘラを除き、誰もが自分を「最強の女帝」として畏怖し、頼ってきた。男たちですら彼女の後ろに隠れるのが常だったこのオラリオで、自分の強さなど一切考慮せず、ただ「女だから守る」と真っ向から言い放った男は、この赤髪の青年が初めてだった。
(……悪くないかもしれないわね)
もちろん、そんな感情は表には出さない。
そして、アルフィアもまた混乱の極みにあった。
(私の絶対的な魔法である『ゴスペル』が、完全に無効化された……? いえ、それだけじゃない。なんなの、こいつ……)
彼女の鋭敏な女性としての本能(直感)が、警鐘ではなく、ある種の『歓喜』を鳴らしていた。この男は敵ではない。身を委ね、護られるべき圧倒的な『雄』であると、細胞レベルでキュンと胸が鳴るのを感じていたのだ。
だが、彼女たちはオラリオの頂点に立つ第一級冒険者である。
いくら本能が甘い悲鳴を上げようとも、その感情を冷徹に切り離し、戦士としての顔を保つことができるプロフェッショナルだった。
「こちらも随分と舐められたものね」
女帝が一歩前に出た。その声は氷のように冷たいが、瞳の奥にはどこか熱が帯びている。
「さっきからふざけた口を叩いているけれど、その丸腰で私たちをどうこうできるとでも? ふざけるのもいい加減になさい」
女帝の言葉を受け、マヤは「おっと」と声を上げた。
「丸腰じゃないぞ。俺の武器、これしかないけどいいよね?」
そう言ってマヤが懐から取り出し、両手に掲げたもの。
それは、道端で拾ってきたようなただの『木の棒』と、無骨な『サバイバルナイフ』であった。
「えーと……女性には木の棒でいいかな? 男はナイフでいいかな? それとも、全員棒でいいかな?」
冗談めかして尋ねるマヤに、ゼウスとヘラの団員たちは怒りを通り越して絶句した。
「それとも、俺の実力を測るために、先に何名かしょぼい奴らにやらせる? そこはあんたらに任せるよ」
マヤは木の棒を肩でトントンと叩きながら、ニヤリと笑う。
「とりあえず、まずは男性連中からやろうか。俺はさ、女性が大好きだから、できれば可愛い顔を殴りたくないんだけど……あ、そういや最近、リヴェちゃん(リヴェリア)を木の棒でやっちゃったか。ま、あれは『訓練』だからノーカンだな、うんうん」
一人で納得して頷くマヤ。
その、あまりにも死地(戦場)を舐めきった態度に、ついにザルドの堪忍袋の緒が切れた。
「貴様ッ、狂っているのか!!」
轟音。
大地が爆発したかのような踏み込みと共に、レベル7の巨躯が瞬きすら許さぬ速度でマヤに肉薄した。
ザルドの持つ身の丈以上の大剣が、空気を圧縮しながらマヤの胴体を両断せんと薙ぎ払われる。黒龍と打ち合うための、純粋な暴の極致。まともに食らえば城壁すら紙屑のように吹き飛ぶ一撃だ。
「死ねッ!」
ザルドが叫ぶ。
しかし、マヤは涼しい顔のまま、足の運びを『半歩』だけズラした。
ただそれだけで、必殺の大剣はマヤの鼻先数ミリを通り過ぎ、空を斬る。
「なっ――!?」
驚愕に見開かれるザルドの目。
武器を振るい切ったことで、ザルドの分厚い装甲に包まれた右腕が、完全に無防備な状態でマヤの目の前に晒されていた。
「大振りすぎるぞ、ザルさん」
マヤは右手に持ったただの『木の棒』を、軽く手首のスナップを利かせて振り下ろした。
ぽこんっ。
マヤの木の枝が、ザルドの腕を軽く叩く。
見た目には、子供が遊びで叩いたような、まったく威力の乗っていない一撃。
しかし——その瞬間。
「う、ぐ、ぎゃああああああああああああああああああっッ!?」
オラリオの最強の一角であるザルドの口から、およそ歴戦の戦士らしからぬ、悲惨な絶叫が木霊した。
「い、痛ぇぇぇッ!! な、なんだこれ、あ、あがああっ!」
ザルドは大剣を取り落とし、叩かれた自身の右腕を抱え込んで地面をのたうち回った。
当然である。マヤの放った『木の棒の打撃』は、チャクラによる極限の威力制御と浸透勁の応用により、ファルナによる肉体強化や防具の硬度を完全に無視して、直接『神経と痛覚』に物理的な破滅的ショックを与えていたのだ。
腕の骨髄をバーナーで焼かれたような激痛に、レベル7の巨漢が涙目を浮かべて悶絶する。
その異常すぎる光景に、突撃しようとしていたマキシムも、魔法を構えていたアルフィアも、全軍が文字通り石像のように固まった。
最強の戦士が、木の棒で軽く叩かれただけで絶叫して転げ回っている。
それは、彼らが今まで信じてきた『強さ』の概念が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「どうする?」
のたうち回るザルドを見下ろし、マヤはナイフを持った左手をヒラヒラと振った。
「もし俺が木の棒じゃなくて、このナイフを使ってたら……今頃、そこにお前の腕が落ちてたけど。それとも、次からナイフにしよっか? ね?」
マヤの深紅の瞳が、恐怖に凍りつく英雄たちを順に見据える。
「遠慮しなくていいぜ。そっち、回復役(ヒーラー)くらい連れてきてるんでしょ? お前らじゃ、黒龍の餌になるだけだったって事実を、俺が身をもって教えてやるよ」
圧倒的な実力差。
理不尽なまでの体術と、有無を言わさぬ事実の突きつけ。
遅れてきた英雄たちのプライドを根本からへし折る、最強の鬼による究極の「ざまぁ」の蹂躙劇が、今ここに幕を開けた。