ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第73話『正妻』

 

 

茜色から深い藍色へと変わりゆく迷宮都市オラリオの空。夜の帳が下り始めた石畳の路地を、不釣り合いな三つの影が歩いていた。

 

「おい、マヤ……貴様、主の御体に気安く触れるな。その手を離せ」

 

背後から突き刺さるような、いや、実際に物理的な質量を持った殺気を放ちながら、巨漢の猪人(ボアズ)であるオッタルが低く唸る。

だが、その殺気の標的となっている深紅の髪の男——マヤは、完全にどこ吹く風といった様子だった。

 

「おっと、オッタル。お前も護衛だろ? ついてきていいぞ。迷子になるなよ」

 

マヤは振り返りもせず、隣を歩く美の女神フレイヤの華奢な肩に、己の太い腕を堂々と回していた。ただの同行ではない。完全に自分の女をエスコートする、あるいは所有を主張するかのような、強引で雄々しい引き寄せ方だ。

 

「ちょっと、貴方……本当に、強引ね……っ」

 

フレイヤは抗議の声を上げようとしたが、その顔はほんのりと朱に染まっていた。

普段、酒場で顔を合わせる時はあくまで『のらりくらりとしたヒモ』としての態度を崩さない男が、今はどうしたことか、圧倒的なオスとしての力強さで彼女を導いている。オラリオの頂点に君臨する美神であり、あらゆる男を傅かせてきた彼女にとって、肩を抱かれて無理やり連れ歩かれるなど、神世の時代から数えても初めての経験だった。

 

「言っただろ、シル。……いや、フレイヤ。酒場だと、どうしたってあんたのホームだ。こっちも見せられる手札が少ない。だから、話す場所を変えようってな。ウチに来い」

「それにしても、態度が違いすぎるわ……。さっきまでの冷静さはどこへ行ったの?」

「あー……ここだと、俺もちょっとばかし『荒っぽく』なっちまうんだ。なんせ今は、うるさい正妻が隣にいないからな」

 

ニヤリと笑うマヤの横顔に、フレイヤの心臓がトクンと大きく跳ねた。

資金難によるストレスも、交渉で論破された屈辱も、今はなぜか遠く感じられる。彼の腕から伝わる体温と、心地よい包容力。このまま、彼にすべてを委ねてしまいたいという甘い衝動が、フレイヤの理性を少しずつ溶かし始めていた。

 

「貴様ぁ……!」

 

オッタルの額に青筋が浮かび、腰の大剣に手が伸びかける。主をたぶらかす不届き者を、今ここで斬り伏せてしまいたい。だが、当のフレイヤ自身が抵抗するどころか、満更でもない様子でマヤに寄り添って歩いているため、手出しができない。最強の武人は、ただ胃の痛みに耐えながら二人の後ろをついていくしかなかった。

 

やがて、迷宮都市の北西にそびえ立つ巨大な施設が見えてきた。

オラリオ最大にして最強の派閥、ロキ・ファミリアの本拠地『黄昏館』である。

 

「さあ、着いたぜ」

 

マヤが正門をくぐると、警備に立っていた団員たちが「マヤ様、おかえりなさいませ!」「あっ、フレイヤ様!? なぜここに!?」と次々に道を空け、敬礼する。その規律の取れた動きと、活気に満ちた空気は、今の疲弊しきったフレイヤ・ファミリアとは決定的に違う『豊かな組織』の証だった。

 

「応接間に案内する。こっちだ」

 

マヤに連れられ、フレイヤとオッタルは館の奥にある豪華な応接間へと通された。

床には毛足の長いフカフカの絨毯が敷かれ、壁には美しい絵画や装飾品が並んでいる。案内されたソファは、神の住まうバベルの最上階に劣らないほどの最高級品だった。塩パンと薄いスープで飢えを凌いでいるフレイヤ陣営の現状からすれば、そこはあまりにも眩しすぎる『格差』の象徴であった。

 

二人がソファに腰を下ろした直後、静かな足音と共に一人の女性が入室してきた。

 

「失礼いたします。紅茶と、焼き菓子をご用意いたしました」

 

洗練された所作でティーセットをテーブルに並べたのは、メイド服に身を包んだヴァレッタだった。彼女の手つきには一切の無駄がなく、最高級の茶葉の香りが応接間に満ちる。

フレイヤは、そのメイドの顔を見て目を細めた。かつてオラリオの暗部を暗躍していた狂気の暗殺者が、今は一人の男のメイドとして、見事な給仕を行っている。それもまた、この男が持つ異常な『管理能力』の証左であった。

 

「……随分と、良い暮らしをしているのね」

フレイヤは、出された紅茶のカップを手に取りながら皮肉交じりに呟いた。

 

その時、応接間の扉がバーンと勢いよく開かれた。

 

「なんや自分!? ウチのヒモに勝手についてきといて、何偉そうにお茶しばいてんねん!!」

 

ドカドカと足音を立てて入ってきたのは、ロキ・ファミリアの主神であり、マヤの『正妻』であるロキだった。彼女の背後には、ファミリアの首脳陣たちがズラリと顔を揃えている。

 

「あ、ロキ。お帰り」

「おお、帰ったで! って、フレイヤ! お前、なんでウチの館に上がり込んどるんや!」

 

ロキはフレイヤをギロリと睨みつけると、そのままマヤの座るソファへと一直線に歩き、なんの躊躇いもなく、マヤの太い太腿の上——『膝の上』にどっこいしょと座り込んだ。

そして、マヤの首に腕を回し、これ見よがしに頬をすりすりと擦り付けた。

 

「マヤ〜、今日の晩御飯なんや〜? ウチ、腹ペコやねん♡」

「ああ、お前が好きそうな肉を買ってある。後で焼いてやるよ」

「ほんま!? さっすがウチの旦那や! 愛してるで〜♡」

 

これぞ正妻の余裕、と言わんばかりのイチャイチャぶりである。

神会でも見せつけられたその光景を、まさか敵陣のど真ん中で再び見せられるとは思わなかったフレイヤは、ギリィッと扇子を握りしめ、美しい顔をワナワナと引きつらせた。先ほどまでマヤの腕に抱かれていた甘い余韻が、一瞬にして怒りへと塗り替えられる。

 

「ロキ……貴女、神の威厳というものをどこかに忘れてきたのかしら?」

「威厳で飯が食えるかアホォ! ウチは愛する旦那の膝の上が一番落ち着くんや! 悔しかったら自分も塩パンやのうて、こないなええ男捕まえてみぃ!」

 

ロキの関西弁の煽りが、フレイヤのプライドを的確に抉る。

応接間の入り口付近では、幹部たちがその様子をそれぞれの反応で見守っていた。

 

「……な、なぜ、フレイヤ様が黄昏館にいらっしゃるのでしょうか……?」

最近ファミリアに加入したばかりのアスフィが、オラリオの二大派閥の主神同士の衝突(痴話喧嘩)に困惑し、メガネのブリッジを押し上げながら冷や汗を流している。

 

「あははっ! なんかすごいことになってるね! 戦いになっちゃうのかな!?」

「ちょっとティオナ、楽しそうにしないの! でも、アタシも少しワクワクしてきたわ!」

双子のアマゾネス、ティオナとティオネは、オッタルの姿を見て好戦的な笑みを浮かべている。

 

そんな中、オッタルは主を侮辱された怒りで、限界まで殺気を膨れ上がらせていた。

「……ロキ、貴様。我が主を愚弄するか。神であれど、これ以上の無礼は許さんぞ」

 

オッタルが一歩前に出た、その瞬間だった。

 

——ゾクリ。

 

オッタルの巨体が、目に見えない強烈な『冷気』に包まれた。

首筋に、冷たい指先が這うような感触。背後に『誰か』がいる。

だが、オッタルの優れた五感をもってしても、気配や息遣い、魔力の波長すら一切感知できない。ただ、圧倒的な『死の予感』だけが、彼の足元にまとわりついていた。

 

(なんだ、この不可視のプレッシャーは……!?)

オッタルが額に冷や汗を浮かべた時、どこからか、鈴を転がすような、しかし絶対零度の冷たさを伴った女性の声が響いた。

 

『——その程度で猛者を気取るか。図体が大きいだけの豚だな。ベルの足元にも及ばない』

 

姿を見せない『静寂』のアルフィア——ハデス改を被り、完全に気配を消した彼女のイタズラ(牽制)である。かつてオラリオの暗黒期を恐怖で染め上げた本物の怪物のプレッシャーに、オッタルは息を呑み、動くことすらできなくなった。

 

「オッタル。あんまりイキらないほうがいいよ」

 

そこへ、金髪と金眼を持つ美しい少女——アイズ・ヴァレンシュタインが、無表情のままトコトコと歩みみ出た。

現在の彼女はLv.6。しかも、マヤの過酷な修練と最高級の装備を与えられ、すでにLv.7の領域に片足を踏み入れかけている規格外の剣士である。彼女は、かつてミノタウロスの一件などで何かと因縁のあるオッタルを見上げ、コテンと首を傾げた。

 

「オッタル……まだ、そのレベルなんですか?」

 

アイズの口角が、ほんの僅かに、邪悪に吊り上がる。マヤの教育(?)によって植え付けられた、煽りの極意。

 

「……ざっこ♡」

 

「なっ……!?」

アイズの予想外の『メスガキ煽り』に、オッタルの顔が怒りで朱に染まる。

彼の中で何かが切れかけ、大剣に手をかけようとした——が、それを三つの巨大な存在感が力ずくで押さえ込んだ。

 

「よせ、猪。ウチの館で暴れるつもりなら、容赦はせんぞ」

「血の気が多いのは相変わらずじゃのう。少しは落ち着いたらどうじゃ」

「客人を無闇に傷つける趣味はないが……身の程を弁えろ」

 

小人族(パルム)の勇者、フィン・ディムナ。

九魔姫(ナインヘル)、リヴェリア・リヨス・アールヴ。

重傑(エルガルム)、ガレス・ランドロック。

 

ロキ・ファミリアが誇る、Lv.8の三首脳。

彼らが静かに、ただそこに立っているだけで放つプレッシャーは、オッタルの放つ殺気など児戯に等しいほど圧倒的だった。

オッタルは差別主義者である。力こそがすべてであり、自分たちフレイヤ・ファミリア以外は弱いと決めつけている。特に、体格で劣る小人族(パルム)など、戦士として見下している部分があった。

だが、目の前に立つフィンから放たれるオーラは、どう足掻いてもオッタル自身の力を遥かに凌駕していた。レベルという絶対的な壁。組織としての厚み。オッタルはギリッと奥歯を噛み締め、大剣から手を離すしかなかった。

 

「……やれやれ、賑やかなこった」

マヤはロキの頭を撫でながら、ため息をついた。

「オッタル。お前は強い。だが、力任せに突っ走るだけの『脳筋』だ。……フレイヤ、あんたもだ」

 

マヤの静かな声が、応接間の空気を引き締めた。

 

「あんたは、自分で眷族をコントロールしてるつもりだろうが……実はあのオッタルみたいな『脳筋ども』の毒気に当てられて、視野が狭くなってるだけだ」

「妾が、毒気に当てられている……?」

「そうだ。ウチの利益が欲しい、強くなりたい。そのために、ヘイズみたいな可愛い子にまで無理な環境を強いて、自分たちで自分の首を絞めている。……俺はな、女が理不尽にすり減っていくのを見るのは趣味じゃないんだ」

 

マヤはロキを膝からそっと降ろすと、立ち上がり、フレイヤを見下ろした。

 

「お前ごと、俺が救って(管理して)やる。意地を張るのはやめろ」

 

「……っ」

フレイヤの銀色の瞳が揺れる。

圧倒的な支配欲と、底なしの優しさ。彼の手を取れば、どれほど安らかになれるか。だが、美の女神としての誇りと、オッタルたちへの愛着が、彼女をまだ縛り付けていた。

 

「我らを、脳筋と呼んだな」

沈黙を破ったのは、屈辱に震えるオッタルだった。

「我らの武は、純粋な力と誇りの結晶だ。小細工や、群れなければ戦えない者たち(パルム)とは違う。それを……ただのヒモ風情が、愚弄するか」

 

オッタルの言葉の端に滲む、明らかな『小人族』への見下し。

その言葉を聞いた瞬間、フィンは怒るどころか、フッと涼しげに笑った。

 

「なるほど。武の誇り、ね。……なら、君のその力とやらが、どれだけ『狭い世界』のものか、少し教えてあげようか」

 

フィンはそう言うと、背後に控えていた小柄な影に向かって声をかけた。

 

「リリ。ちょっといいかい」

「はい、フィン様!」

 

巨大なリュックを背負った小人族(パルム)の少女——リリルカ・アーデが、ちょこんとお辞儀をして前に出た。

 

「君の今のスタイルなら、僕の槍がしっくりくるかもしれない。……実戦で試してみなさい」

フィンは空間収納から、一本の美しい長槍を取り出し、リリに手渡した。

 

「よ、よろしいのですか!? こんな立派な武器を……!」

「構わないよ。マヤの期待に応えるためにもね」

 

槍を受け取ったリリの瞳が、決意の光で輝きを増す。

マヤは腕を組み、オッタルに向かって不敵に笑いかけた。

 

「ちょうどいい。オッタル。ウチの『知将』が、お前に少しばかり稽古をつけてやるそうだ」

「……小人を相手にしろと? 俺を愚弄するのも大概にしろ」

オッタルが、真底不愉快そうに眉間を寄せる。

 

「愚弄? はっ、冗談きついぜ」

マヤはニヤリと歯を見せた。

 

「言っておくが、猪突猛進しか能がない脳筋じゃ、ウチの可愛い『くのいち』には指一本触れられないぜ? ……さあ、地下訓練場へ行こうか。お前たちのそのちっぽけなプライドを、物理でへし折ってやるよ」

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