「双方、構えろ!」
夜の気を孕んだ黄昏館の訓練広場に、マヤの鋭い声が響き渡った。
それを開始の合図として、自称最強の武を誇る巨漢の猪人(ボアズ)、オッタルが動いた。
「おおおおおおおっ!!」
石畳が爆発したかのように砕け散り、凄まじい踏み込みと共にオッタルの巨体が砲弾と化す。
手にした重厚な剛剣が、空気を叩き潰すような轟音を伴って、眼の前に立つ小人族(パルム)の少女へと振り下ろされた。一切の容赦はない。相手が子供であろうと女であろうと、敵として相対した以上は全力で粉砕する。それが彼の抱く『武』の矜持であった。
しかし——剛剣が叩き割ったのは、無残に抉れた土塊と、虚無の空間だけだった。
「……何?」
オッタルが目を瞠る。
彼の剣が届くほんの一瞬前。リリルカ・アーデの小さな体は、まるで蜃気楼か陽炎のように、フッと輪郭をブレさせて『消滅』していた。
逃げたのではない。視界から、そして気配そのものから完全に消失したのだ。
マヤによる地獄の教練の末に獲得した絶技『幻影影法師(シンダー・エラ改)』。生来の変身魔法を応用し、自身の魔力波長、呼吸音、心音、さらには周囲の環境(光や影)と完全に同化する絶対的な隠密技術。
「どこだ……!」
オッタルは剛剣を引き抜き、周囲を鋭く睨みつける。
獣人特有の優れた嗅覚と聴覚を限界まで引き上げ、空間の僅かな揺らぎすら感知しようとする。しかし、何も感じない。マヤ直伝の『くのいちの歩法』は、土埃一つ立てず、足音を完全に殺しきっていた。
その時、不意にオッタルの視界の端で、小さな銀色の光が瞬いた。
「そこか!」
力任せに剛剣を振り払い、飛来した『何か』を叩き落とそうとする。
しかし、その軌道はオッタルの予想を遥かに超える異常な変化を見せた。直線的に飛んできたはずの黒塗りのクナイは、まるで意思を持っているかのように空中で僅かにカーブを描き、剛剣の防御範囲をすり抜けたのだ。
——シュッ、という微かな風切り音。
「チィッ……!」
オッタルの右腕、剣を握る手首の僅かな装甲の隙間を、鋭利な刃が浅く、しかし的確に切り裂いた。
スキル『暗器投擲・極』。
投擲武器の軌道に強力な補正をかけ、対象の急所へと吸い込まれるように命中する必中の理。
「姿を現せ、姑息な……!」
オッタルが苛立ちの咆哮を上げるが、リリは応じない。
気配も足音もない完全な死角から、第二、第三の暗器が放たれる。正面から、真上から、あるいは地面を這うような低い軌道で。
それらは決して致命傷にはならない。だが、オッタルの分厚い筋肉の鎧や防具の『繋ぎ目』——関節、腱、膝裏、首筋といった、防御が最も手薄になる部位だけをピンポイントで狙い撃ってくる。
「ふんっ! はぁっ!!」
オッタルは絶え間なく剛剣を振り回し、飛来する暗器を弾き落とそうとするが、その巨体と力任せの大振りな剣撃は、小回りの利く暗器の軌道に対して完全に相性が悪かった。
空を切る剛剣。その硬直を狙い澄ましたかのように、再びクナイがオッタルの太腿を掠める。
「くそっ……!」
苛立ちと屈辱。小人を相手に、自分の力が全く通じない。力任せの剣振りが完全に空回りさせられている。
全身に刻まれた無数の浅い傷から血が滲み、オッタルのスタミナと精神力をじわじわと削り取っていく。
「我らの武を、力こそすべてという誇りを……これ以上、愚弄させるかァァァッ!!」
業を煮やしたオッタルが、ついに吠えた。
彼の全身の筋肉が異様に膨張し、獣のような荒々しい闘気が竜巻となって広場に吹き荒れる。獣化(スキル発動)。理性を力に変換し、純粋なステータスを極限まで引き上げるオッタルの切り札。
「吹き飛べェェッ!!」
姿が見えないのなら、この空間ごと消し飛ばす。
オッタルは剛剣を頭上に掲げ、広場の石畳を根こそぎ粉砕するような、大振りの全体攻撃(なぎ払い)を放った。凄まじい衝撃波が土煙を巻き上げ、周囲の木々がへし折れるほどの暴風が吹き荒れる。
「……見つけたぞ」
土煙が晴れかけたその瞬間、広場の端に、地面に片膝をついて衝撃を殺していたリリの姿が露わになった。
隠密を解かれたリリ。圧倒的な獣の闘気を前にすれば、並の冒険者なら足がすくみ、絶望する場面だ。
しかし、リリは逃げなかった。
彼女の大きな瞳には、一切の恐怖がない。あるのは、自分を地獄から救い出してくれた『たった一人の英雄』に対する、絶対的な信頼と報恩の意思だけ。
「リリの英雄(マヤ様)の隣は、リリの場所です。……ただ力が強いだけのイノシシに、マヤ様のご期待は折らせません!」
リリは巨大なリュックを背負ったまま、フィンから借り受けた長槍をスッと構えた。
小柄な体躯には不釣り合いなほどの長い得物。しかし、それを構えた瞬間のリリの佇まいは、歴戦の戦士すら凌駕するほどの洗練された空気を纏っていた。
「死に晒せェェッ!!」
オッタルが獣の咆哮と共に、一直線に突進してくる。
力に任せた、回避不能の神速の一撃。
対するリリは、純粋な力のぶつかり合いを避けた。
『忍の体術』による極限の重心移動。そして、小人族の英雄『フィアナの系譜』の才覚が融合した、神がかった槍さばき。
オッタルの大剣が振り下ろされる刹那。
リリは半歩だけ斜めに踏み込み、大剣の側面に槍の穂先を滑らせた。
激突するのではなく、相手の凄まじい『力のベクトル』を横へと受け流す。オッタルの暴力的なまでの運動エネルギーは、リリの柔らかな槍の軌道によって完全に方向を逸らされ、空の地面へと激突した。
ドゴォォォンッ!! と石畳が爆散する。
しかし、その時にはすでに、リリの体はオッタルの懐、完全な死角へと入り込んでいた。
「なっ……!?」
体勢を崩し、大剣を振り切ってしまったオッタルの『硬直』。
その首筋に、ピタリと、冷たい槍の穂先が突きつけられた。
「…………」
オッタルの全身から、冷たい汗が噴き出した。
あと数センチ槍を押し込まれれば、自称最強の武人の命はそこで終わっていた。
殺そうと思えば、殺せた。しかし、リリは槍を引き、素早いバックステップで再び距離を取ったのだ。
「……なぜ、刺さなかった」
「マヤ様からのご指示ですから」
リリは淡々と答え、再び槍を構え直した。
マヤの言葉が、リリの脳裏に焼き付いている。『瞬殺はするな。槍をハンデにして、時間をかけて上手くやれ。相手の力こそすべてっていうくだらねぇロマンを、根元からへし折ってやれ』と。
「舐めるなァァァッ!!」
オッタルは屈辱に顔を歪め、再び猛然と斬りかかる。
しかし、結果は同じだった。
リリの戦術は、力押ししか知らないオッタルにとって最悪の相性だった。踏み込めばベクトルを逸らされ、離れれば必中の暗器が飛んでくる。獣化して高めた圧倒的な力は、暖簾に腕押しのごとく空回りし続け、その度に槍の穂先が、あるいは石突きが、彼の急所を寸止めで脅かす。
すでに十回は殺せている状態。
生かさず、殺さず。ただひたすらに「お前の力はここでは通じない」という絶望的な事実を、物理と戦術によって体に刻み込んでいく。
***
広場の端でその光景を見ていたフレイヤは、扇子を取り落としそうになるのを必死に堪えていた。
(嘘……妾の、愛するオッタルが……あんな小人の少女に……)
どれだけ力を振り絞っても、相手の『戦術』と『相性』の前に一切手も足も出ない。
フレイヤが信じていた「最強の武」。個人の圧倒的な力があれば、あらゆるものをねじ伏せられるというロマン。それが今、体格で圧倒的に劣るはずの少女の手によって、完膚なきまでに弄ばれ、手玉に取られている。
箱庭の中で、最強だと信じて疑わなかった子供。
だが、外の世界には、組織としての連携を極め、戦術を磨き上げ、個の暴力を無効化する『本物の強者』たちが存在していた。
その現実を突きつけられ、美の女神は完全に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……そこまでです」
凛としたリリの声が響いた。
何度目かの突進をいなされた直後。前のめりに体勢を崩したオッタルの背後を取り、リリは槍をクルリと反転させた。
そして、硬い石突きが、オッタルの膝裏の腱を正確に、そして強烈に打ち据えた。
「ガァッ……!?」
自称オラリオ最強の武人が、ついに耐えきれず、ガクンと石畳に両膝をついた。
息も絶え絶えになり、全身は浅い傷と疲労でボロボロ。もはや、大剣を持ち上げる気力すら残っていなかった。
勝敗は、誰の目にも明らかだった。
「ありがとうございました!」
傷一つ負っていないリリは、膝をつくオッタルに向かって深々と一礼すると、槍を抱えたままタタタッと軽快な足取りでマヤの元へと駆け寄った。
「マヤ様! リリ、やりました! マヤ様の教え通りに、ちゃんとできました!」
「ああ、見てたぞ。よくやった、リリ。満点だ」
マヤは優しく微笑み、リリの栗色の髪を大きな手でワシャワシャと撫で回した。リリは「えへへ」とだらしない顔になり、マヤの腰に抱き着いて尻尾を振る子犬のように喜んでいる。
その微笑ましい光景を一瞥した後、マヤはゆっくりと歩みを進め、呆然と立ち尽くすフレイヤの前に立った。
「さて」
マヤの深紅の瞳が、冷徹な光を帯びてフレイヤを射抜く。
「あんたのところの最高戦力は、ウチの小人の少女に完敗したわけだ。……これでようやく、くだらねぇプライドを捨てて、俺と対等の立場で『交渉』する気になったか?」
一切の逃げ場を許さない、為政者としての問いかけ。
フレイヤは微かに肩を震わせ、力なく俯くことしかできなかった。
マヤはフレイヤから視線を外し、今度は膝をついて荒い息を吐いているオッタルを見下ろした。その口から出たのは、勝利の嘲笑ではなく、呆れ果てたようなため息だった。
「オッタル。お前らのやり方は、根本的に間違ってるんだよ」
「……なに……?」
「なんだって毎回、格上のモンスター相手に力任せに突っ込んで、馬鹿高いポーションをがぶ飲みして金消費してんだ? 自分が傷つくこと前提の特攻なんて、戦術でもなんでもない。ただの自殺願望だ」
マヤの容赦ない正論が、オッタルの胸に突き刺さる。
「見合ったレベルの雑魚狩りを堅実にこなせばいいだろ。レベルの低い連中はみんなそうやって地道に稼いで、装備を整えてるんだ。お前らは強いからって、その『下積み』を馬鹿にしてすっ飛ばしてる。だからポーション代で首が回らなくなるんだよ」
マヤは「経営の基本だ」と肩をすくめた。
「そうやって足元固めて、ヒーラーを守る陣形も覚えて、ファミリアの運営が軌道に乗ったら……その時は、狩り場くらい融通してやるさ」
オッタルは何も言い返せず、ただギリッと奥歯を噛み締めて俯いた。
次に、マヤは再びフレイヤへと向き直った。
その顔には、先ほどまでの冷徹さだけでなく、大人の男としての静かな凄みが宿っていた。
「そもそもさっき、女主人で『他の冒険者が迷惑してる』なんて言ってたよな? あれ、嘘だろ」
ビクッ、とフレイヤの肩が跳ねる。
「よく考えたら、このオラリオで27階層のアンフィスバエナを楽に狩れるファミリアなんて、ウチとおたくくらいだろ? アストレア・ファミリアも実力的にはいけるだろうが、あいつらは街の治安維持で忙しくてそれどころじゃない。……つまり、最初から他の連中には関係ない話なんだよ。お前らが、自分たちの都合でウチの狩り場が欲しかっただけだ」
マヤの鋭い看破に、フレイヤは血の気を失った唇を強く噛んだ。
「お前もオッタルもそうだ。人に物を頼む立場なのに、神だからって、最強だからって頭一つ下げず、俺を『ヒモ野郎』だなんだと見下して寄ってくる。そんな奴らに、ハイそうですかと大事な狩り場を譲って、万が一後ろから刺されたらどうする?」
マヤは自分の隣で「せやせや!」とドヤ顔をしているロキの頭をポンと叩いた。
「俺とロキは、この盤石な体制を作るのに28年かけた。子供たちを守り、育て、ここまで来てやっと軌道に乗ったんだ。それを、自分たちがキツいからよこせって言われてもな。……ダンジョンのルールってなんだ? なぜ『戦争遊戯(ウォーゲーム)』なんて面倒なもんが起こる? 俺にはその辺の神々の理屈がさっぱり分からねぇんだよ」
正論の暴力。一切の反論の余地がない、絶対的な事実。
フレイヤは美の女神としての威厳も何もかも剥がされ、ただの無力な存在としてマヤの言葉を受け止めるしかなかった。
ぐうの音も出ないフレイヤを見て、マヤはふっと表情を緩めた。
その目から冷酷さが消え、いつもの『底なしに甘いヒモ』の顔が覗く。
「だけどな。だからといって、無償で1000万ヴァリスをポーンとあげるのも違う。そんなのはただの施し(ボランティア)で、お前らのためにならないし、その脳筋思考も直らないだろ?」
マヤは、フレイヤの美しい顔を覗き込むように身を屈めた。
「そうだな……お前とヘイズの二人くらいなら、プライドが許すなら、ウチに『食事』しに来てもいいぞ」
「え……?」
突然の提案に、フレイヤはポカンと口を開けた。
「俺は女には甘いんだ。現金を渡すのはただの施しだが、友達を家に呼んで飯を食わすのは普通のことだろ? 美味いもん、腹いっぱい食わせてやるよ。ちなみに、ヘスティアならタダ飯って聞いたら秒で飛んでくるぞ」
神としての威厳をへし折った直後に差し出された、あまりにも日常的で、温かい提案。
絶対的な恐怖と敗北を与えられた直後のその優しさに、フレイヤの心が、理性が、限界を超えて甘く溶け出しそうになる。
だが、マヤの攻めはそれだけでは終わらなかった。
彼はさらにフレイヤへと近づき、その耳元に顔を寄せた。
そして、低く、ゾクッとするような男の色気を孕んだ声で囁いた。
「……あと、さっき女主人で俺に『魅了(チャーム)』かけてたろ。俺には効かないからいいが……」
マヤの大きな手が、フレイヤの華奢な顎をクイッと持ち上げる。
至近距離で交わる、深紅と銀色の瞳。マヤはニヤリと、雄としての獰猛な笑みを浮かべた。
「今度やったら、ウラノスの神会に突き出すか、それとも——ひん剥いて、俺の『妾』にするぞ」
「——っっ!!」
ボンッ! と音を立てる勢いで、美の女神の顔が真っ赤に染まり上がった。
怒りでも屈辱でもない。圧倒的な強者としての理詰め、女に対する底なしの甘さ、そして神である自分を「女」として完全に組み敷くその絶対的なオス度。
フレイヤは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、震える声で「……毎日、食べに来るわ」と絞り出すのが精一杯だった。
その甘く危険な空気は、しかし、次の瞬間に周囲からの大ブーイングによって木っ端微塵に破壊された。
「ちょっと待たんかいドアホォォォッ!!」
ロキが顔を真っ赤にしてマヤの背中に飛び乗り、首をギリギリと締め上げる。
「ウチという正妻がおる前で、何『妾』とか言っとんねん! 顎クイとか、そんな少女漫画みたいなことウチにもされたことないわ!!」
「マヤ様!? リリというものがありながら、その泥棒猫を妾にするおつもりですか!? 許しません、今すぐその女の首にクナイを……!」
「マヤ。それは少し、見過ごせません。不純です」
「マヤ様、いくらなんでも節操がなさすぎます! フレイヤ様も顔を赤くしないでください!」
リリが槍を振り回し、アイズが無表情のまま剣の柄に手をかけ、アスフィが胃を痛めながら叫ぶ。
黄昏館の夜空に、ヒモ男を巡る女たちの怒号が、どこまでも賑やかに響き渡っていった。