茜色の陽光がオラリオの街を優しく染め上げ、徐々に夜の帳が降り始める頃。
黄昏館の奥に設けられたプライベートダイニングには、温かく、そしてどこか甘い香りが漂っていた。
「おいひぃ……っ! こんな温かくて、お肉もお野菜もたっぷり入ったご飯……久しぶりですぅ……っ」
大粒の涙をボロボロとこぼしながら、金髪の少女——フレイヤ・ファミリアの専属ヒーラーであるヘイズは、スプーンを持つ手をわなわなと震わせていた。
彼女の目の前に置かれているのは、マヤ特製のクリームシチューと、ふかふかに焼き上がったばかりの丸パン、そして彩り豊かな新鮮なサラダである。塩パンと味の薄いスープだけで飢えを凌いでいた彼女の胃袋にとって、その温かさは暴力的なまでの感動だった。
「慌てなくていい。おかわりなら厨房にいくらでもあるぞ」
エプロン姿のマヤは、ヘイズの頭をポンと撫でながら、向かいの席で優雅に紅茶を傾けているフレイヤへと視線を向けた。
「にしても、どんだけこの子にひもじい思いをさせてたんだよ。ヒーラーってのはファミリアの生命線であり、最も守るべき宝だぞ。もう少し待遇を考えてやれ」
「……耳が痛いわね。でも、今のウチにはあれが限界だったのよ。貴方の用意してくれたこの食卓が、どれだけ贅沢で満たされるものか、嫌というほど思い知らされているわ」
フレイヤは艶やかな笑みを浮かべ、出されたシチューをゆっくりと口に運ぶ。
自分のファミリアでは決して与えられなかった「家族としての温かさ」と「食の豊かさ」。それを事も無げに提供してくれるこの男の懐の深さに、フレイヤは心地よい依存に身を委ねつつあった。
「マヤ様……実は今日、オッタル様たちから『一緒にダンジョンの上層へ来てくれ』って言われたんです」
パンでシチューの皿を綺麗に拭いながら、ヘイズが不満げに口を尖らせた。
「お断りしましたけど! 今までずっと『回復屋さん』だけさせておいて、自分たちが食い扶持に困ったからって急に雑魚狩りに連れ出すなんて理不尽ですぅ……」
その言葉を聞いた瞬間、マヤは盛大にため息をついた。
「あいつら……本当に、どこまでも筋金入りの脳筋だな……」
マヤは呆れ果てた顔で天井を仰ぐ。
「ヘイズは俺との約束で、こうしてウチで飯食ってるんだ。食い扶持稼ぎに行く必要なんてこれっぽっちもない。お前をダンジョンに行かせる意味がないだろうが」
「はいっ! そう言ってやりました!」
「俺は昨日の夜、『ヒーラーを守る陣形ができるようにしろ』って言ったんだ。誰も『本物のヒーラーを連れて行け』なんて一言も言ってない。陣形の基礎もできてないのに、いきなりLv.4のヘイズを上層の雑魚狩りに連れてってどうする。誰か一人をヒーラーに見立てて、ダミーを立てて練習しろって意味だよ」
マヤの的確な指摘に、フレイヤは自分の子供たちの知能の低さに頭を痛めた。
「ダミーを立てる」という発想すらなく、言葉を文字通りにしか受け取れない巨漢の猪や猫たち。その滑稽なポンコツ具合を想像し、フレイヤは小さく息を吐く。
「……貴方、本当にどこまでも世話焼きで、底が知れない男ね」
「言っただろ、俺は女には甘いんだ。腹が減ったら、いつでも来い」
マヤがフレイヤの銀色の髪にそっと触れ、優しく撫でる。美の女神は、乙女のように妖艶に微笑んだ。
***
時を同じくして。ダンジョンの上層。
「なぜ、俺がこんな役回りをやらねばならない!!」
薄暗い迷宮の通路で、都市最速を誇る『女神の戦車』アレン・フローメルが、顔を真っ赤にして激怒していた。
彼の立ち位置は、陣形の中央。普段であれば真っ先に前線へ飛び出して敵を蹂躙する彼が、今は前衛のオッタルや後衛のガリバー兄弟たちに『守られる』ようにして縮こまらされていた。
「我慢しろ、アレン。マヤ殿の言葉を反芻した結果、我々には『模擬的な護衛対象』が必要だという結論に至ったのだ」
オッタルが、真顔で大剣を構えながら答える。
ヘイズに真っ当に振られた彼らは、ようやくマヤの言葉の真意を理解し、アレンを『ダミーのヒーラー役』として陣形の中央に配置し、泥臭く連携の基礎練習を行っていたのだ。
「動くなアレン。貴様が勝手に動けば、陣形が崩れる」
「うるさい、ヘディン! 俺は最速だぞ! なんでゴブリン相手に後ろで縮こまってなきゃいけないんだ!」
「黙れ。お前は今、か弱きヒーラーだ。ヒールと唱えることだけを許可する」
ステイタスの暴力で全てを解決してきた彼らにとって、「味方を守りながら戦う」という基礎中の基礎は、思いのほか困難を極めていた。
「——何やってんだ、てめぇら」
その滑稽な様子を、通路の奥から呆れたような声が咎めた。
現れたのは、ロキ・ファミリアから放牧を言い渡され、一人で泥臭く修行を続けていた人狼の青年、ベート・ローガだった。
「ロキ・ファミリアの駄犬か」
「あ? てめぇらこそ、最強の集まりがこんな浅い階層で何のお遊戯会してやがる」
ベートが鼻で笑うが、オッタルは気を悪くする様子もなく、静かに大剣を下ろした。
「……基礎のやり直しだ。我々は強さにかまけて下積みを疎かにしすぎた」
その言葉に、ベートの表情からスッと嘲笑が消えた。
彼もまた、己の慢心から陣形を崩し、その結果としてここにいる。己の無力さを痛感した者同士。
「……ちっ。どいつもこいつも、一回脳天カチ割られねぇと気付けねぇのかよ」
ベートは頭を掻きむしると、そのままオッタルたちの陣形の端へと歩み寄った。
「俺は右の遊撃に入る。おら、陣形合わせろポンコツども。ダミーの猫を死なせたら承知しねぇぞ」
「誰がダミーの猫だ! ぶち殺すぞ!」
かつてなら絶対に相容れなかった者たちが、奇妙な連帯感を持ちながら、迷宮の浅層で泥臭い下積みを共に続けるのだった。
***
地上では、神々が集う会議『神会(デナトゥス)』が開催されていた。
「はいはいはいっ!! 注目せぇや、オマエら!!」
円卓の椅子の上に立ち上がり、ふんぞり返るロキの口元には、誇らしげな笑みが張り付いていた。
「ウチのアイズとリリがなぁ! 見事、同時にLv.7にランクアップしたでぇぇぇっ!!」
会議室に、神々の絶叫が木霊する。
「ふ、ふざけるなロキ! アイズ・ヴァレンシュタインはともかく、なぜ『千手参謀』のリリルカ・アーデまでLv.7になっているんだ!」
「どういう方法を使った!? オラリオのパワーバランスが崩壊するぞ!」
「んっふっふ〜! 愛の力や! ウチの可愛い子供らが、血の滲むような特訓を乗り越えた結果やで! 文句ある奴は、いつでも黄昏館に乗り込んで来いや!」
もはや隠す気もないロキの挑発に、会議室はパニックに包み込まれた。フレイヤ・ファミリアが事実上の停滞に入った今、ロキ・ファミリアの一強時代が到来したことを、神々は嫌というほど知らしめられたのである。
***
黄昏館の夜。
正面玄関からヴァレッタの案内で通された面会室にて、マヤは来客と対面していた。
「夜分遅くにすみません。どうしても、マヤさんにご相談したいことがあって」
ソファに座る白髪の少年、ベル・クラネルの顔には、いつになく深刻な緊張の色が浮かんでいた。
「構わないさ。で、なんだ? 随分と真剣な顔だな」
ベルは一度深呼吸をし、周囲を警戒するように見回した。
「あの……二人きりで、お願いしたいんですが」
「ああ、二人きりだな」
マヤは事も無げに頷く。
だが、面会室の隅の空間が、陽炎のように不自然にブレていた。
漆黒のローブに身を包み、完全な隠密状態を作り出す『ハデスの兜・改』を被ったアルフィアが、部屋の隅でちゃっかりと同席し、甥の様子を見守っているのだ。マヤはその存在に当然気づいているが、あえて無視してコーヒーを啜った。
ベルは決死の覚悟で口を開いた。
「……ダンジョンで、言葉を喋るモンスターたちを保護したんです」
人間とモンスターの共存。『異端児(ゼノス)』と呼ばれる彼らの存在。ベルは、その重すぎる秘密を一人で抱えきれず、最も信頼する大人であるマヤに打ち明けたのだ。
「ほう。言葉を喋るモンスターね」
マヤは淡々と相槌を打つ。
「はい。彼らは人間を食べません。感情があって、涙も流すんです。僕は彼らを見捨てることはできません。……でも、僕が本当にご相談したいのは、その中の『一人』のことなんです」
ベルの表情が、困惑に変わる。
「その中に、アステリオスという黒いミノタウロスがいるんですが……。彼、僕の顔を見た瞬間に悲鳴を上げて、ガタガタ震えてるんです。会話も通じてるか分からないくらい怯えきっていて……何か、すごく恐ろしいトラウマを思い出しているみたいで……」
ベルの言葉を聞き、マヤはコーヒーカップの動きを止めた。
(……無理もないな)
部屋の隅で透明になっているアルフィアは、心の中で静かに頷いた。
かつての中層での戦い。ベルは洗練された暗殺術と完璧な武器のスイッチによって、一切の反撃を許さず、極めて冷徹にあの猛牛の角を斬り飛ばし、魔石を粉砕したのだ。モンスターの魂に、ベル・クラネルという存在が絶対的な恐怖の象徴として刻み込まれてしまっても不思議ではない。
「なるほどな。お前がトラウマを植え付けちまったわけか」
マヤは苦笑した。
「ふーん。まあ、言葉が通じて意志があるなら、別にいいんじゃないか?」
「えっ?」
「力が有り余ってるんだろ? なら、同胞(ゼノス)たちを守護する番犬にでも据えればいい。自分たちのコミュニティの守護神としての役割を与えてやれば、怯えてる暇もなくなるだろうさ」
ベルはポカンと口を開けた。
「ゼノスの、守護神……。でも、彼らはモンスターで、地上の人たちは受け入れてくれないんじゃ……」
「存在証明やギルドでの扱いについては、あとでお前と一緒にウラノス神のところへ行ってやる。俺とロキ・ファミリアが後ろ盾になって交渉すれば、丸く収まる話だ」
マヤは確固たる自信に満ちた大人の笑みを浮かべた。
「あの神様は話の分かる御柱だ。直接出向いて交渉すれば、必ず道は開ける」
「あ……はい。……えっと、それだけで、いいんですか?」
あまりにも簡潔な解決策と、マヤが後ろ盾になるという絶対的な安心感の前に、ベルの抱えていた悲壮な悩みは数分で吹き飛んでしまった。
「ああ。怯えてるミノタウロスには、お前が『ちゃんと面倒見てやるから安心しろ』って頭でも撫でてやれ。ほら、話が終わったならさっさと帰って寝ろ」
「は、はいっ! ありがとうございます、マヤさん!」
ベルは深々と頭を下げ、晴れやかな顔で面会室を後にした。
扉が閉まった後、マヤは部屋の隅の空間に向かって声をかけた。
「……で。いつまでそこにいる気だ、アルフィア」
「……気づいていたか」
ハデスの兜・改を脱いだアルフィアが姿を現す。
彼女の美しい顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「ウサギの顔も晴れたようだな」
「面倒事はさっさと終わらせるに限る。これで、あいつも余計な思い悩みをせずに済むだろ」
マヤはコーヒーを飲み干し、静かな夜の黄昏館に安堵の息を吐き出した。