迷宮都市オラリオに朝の光が差し込む頃。
都市の北西に位置する巨大な拠点、『黄昏の館』の女子居住区画は、かつてないほどの異様な熱気と混乱に包まれていた。
「リ、リ、リヴェリア様が、マヤさんに……!? あんな、皆の前で堂々と……っ!?」
エルフの少女レフィーヤ・ウィリディスは、廊下の壁に頭を押し当てながら、顔をゆでダコのように真っ赤にして完全にショートしていた。
無理もない。昨晩の訓練広場で起きた『王族エルフの公開キス』という前代未聞の大事件は、瞬く間に黄昏の館の女性陣へと知れ渡っていた。
いつもであれば、誰よりも早く起床し、優雅に身支度を整えて食堂で紅茶を傾けているはずのファミリアの副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴ。
しかし今日に限って、彼女は自室の扉を固く閉ざし、一歩も外へ出てこようとしないのだ。
「あはははは! リヴェリアのやつ、とうとうやっちゃったねー!」
「ずっと母親面してたけど、やっぱりマヤのフェロモンには抗えなかったのねぇ」
アマゾネスの双子、ティオナとティオネが腹を抱えてゲラゲラと笑い声を上げている。
その光景を部屋の隅で見ていたフィルヴィス・シャリアは、ただただ圧倒されていた。
ディオニュソスによる理不尽な絶望と怪人化の運命から救い出され、この館に滞在して数日。彼女が知るエルフの王族といえば、気高く、厳格で、決して取り乱すことのない存在だったはずだ。しかし、この『黄昏の館』の空気は、そんな常識を軽々と吹き飛ばすほどの温かさと喜怒哀楽に満ちている。
「……ねえ。入るよ」
コンッ、と。
アイズ・ヴァレンシュタインが短くノックをしたかと思うと、返事も待たずにリヴェリアの自室の扉を開け放った。
「ちょ、アイズ!? 心の準備が!」
「ええい、入るぞリヴェリア!」
レフィーヤの制止も虚しく、少女たちは一斉に王族のプライベート空間へと雪崩れ込んだ。フィルヴィスもおずおずとその後ろに続く。
部屋のベッドの上には、頭からすっぽりとシーツを被り、エルフの長い耳まで真っ赤に染め上げたリヴェリアが、丸まって震えていた。
「……ううっ。頼む、今日は一人にしてくれ……どんな顔をしてあいつに会えばいいのか……」
王族の威厳など欠片もない、まるで初恋に思い悩む少女のような姿。
アイズは無言でトコトコとベッドに近づくと、じーっとシーツの隙間からリヴェリアを見つめ、極めて平坦な声で直球の質問を投げかけた。
「……リヴェリア。マヤの唇、どうだった?」
「ぶふっ!?」
「あ、アイズさん!? なんてこと聞くんですかっ!」
アイズの無自覚で天然な嫉妬の刃に、リヴェリアはシーツの中でさらに悶絶する。
「んっふっふ〜。ま、28年もよう我慢した方やな、リヴェリア」
その時、部屋の入り口から、絶対的な『正妻』の余裕を纏った主神ロキが姿を現した。
「ロ、ロキ……っ、すまない。私は、私としたことが、なんという破廉恥なことを……」
リヴェリアはシーツから顔を出し、主神に対して深く頭を下げた。
ハイエルフの伴侶は、生涯にただ一人。
28年前、王族という身分を捨てて迷宮都市へやってきた時、あの赤髪の男はすでにロキの隣に立っていた。
力任せに奪うことなど決してせず、ただ純粋に『女の笑顔を守る』ために血を流し、絶対に修羅には堕ちないと誓うその不器用な背中に、彼女はずっと惹かれていた。
だが、惹かれてはいけなかった。自分はファミリアの『母親役』であり、彼は主神の愛した男なのだから。強固な理性と誇りで、その想いにずっと蓋をしてきた。
しかし——。
「昨晩、『強くなったな』と、あいつに頭を撫でられた瞬間……28年間、ずっと追いかけ続けてきたあいつの背中に、ようやく手が届いた気がして……気付けば、理性が吹き飛んでいたんだ」
ぽつり、ぽつりと語られる、28年分の純粋で、あまりにも重い愛の吐露。
それを聞いたレフィーヤは「リヴェリア様ぁ……っ」と大粒の涙を流してボロ泣きし、ティオナたちも神妙な顔で聞き入っていた。
ロキはふっと優しい笑みを浮かべ、ベッドに腰掛けてリヴェリアの背中をポンと叩いた。
「ウチが一番なんは絶対に揺るがへんけどな。アンタの28年の忠誠と、その純粋な想いには、ちゃんと報いたるわ」
「……ロキ?」
「実を言うとな、最近このファミリアが平和で笑顔に溢れとるもんやから、旦那の生存本能が変な方向にリソース割きよってな。夜の体力がおかしいことになっとるんや。神のウチでも、そろそろ身が持たんねん」
ロキの赤裸々な告白に、今度は少女たちの顔が一斉に真っ赤に爆発した。
「マヤは、女の笑顔を何よりも大事にする。力で無理やり奪うような真似は絶対にせん男や。だからこそ、アンタみたいに『純粋な想い』を向けてくれる相手がおらんと、あいつのストッパーにはなれへん」
ロキはニシシと笑い、リヴェリアの翡翠色の髪を撫でた。
「だから……まあ、旦那の横、少しは空けといたる。まだ『候補』の段階やけどな。あいつ、ああ見えて純粋な想いにはめっぽう弱くて、今頃どう接していいか頭抱えとるはずやから、じっくり攻めたらええ」
「っ……あ、ありがとう、ロキ」
リヴェリアの目から、ポロリと涙がこぼれた。
その温かいやり取りを静かに見つめていたフィルヴィスは、胸の奥で熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。
誇り高き王族ですら、自分の想いを隠さずに素直に曝け出し、主神がそれを笑って受け入れる。絶望も悲劇もなく、ただ互いの笑顔を守るためだけに寄り添い合う、本物の『家族』の姿。
「……あの、ロキ様」
フィルヴィスは一歩前へ出ると、ロキに向かって深く、深く頭を下げた。
「私も……この温かい場所で、皆さんと一緒に生きていきたいです。私を、ロキ・ファミリアに加えていただけないでしょうか」
彼女の決意に満ちた声に、部屋にいた全員がパッと顔を輝かせた。レフィーヤが歓喜の声を上げてフィルヴィスに抱きつく。
「大歓迎やで、フィルヴィス! ようこそ、ウチの騒がしい家族へ!」
ロキがフィルヴィスの背中に神血を刻み、正式に恩恵(ファルナ)の『改宗(コンバージョン)』が行われた。
過去の呪縛から完全に解き放たれた白巫妖精が、真の意味でロキ・ファミリアの一員として生まれ変わった瞬間だった。
***
それから一時間後。
少女たちが連れ立って食堂へと降りていくと、そこにはいつも通り、漆黒のレザーコートの上に不釣り合いなエプロンを身につけたマヤの姿があった。
大量の朝食を手際よく並べているその後ろ姿に、リヴェリアは心臓が早鐘のように打つのを感じながら、恐る恐る声をかけた。
「あ、ああ……おはよう、マヤ。……その、昨晩は、すまなかった。取り乱してしまって……」
普段であれば、いかなる強敵や陰謀を前にしても絶対的な余裕を崩さないマヤである。
しかし、ゆっくりと振り返ったマヤの顔は——信じられないほどに、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「お、おう……おはよう。飯、できてるぞ」
手にしたお玉を不自然に握りしめ、マヤは露骨に視線を逸らした。
女性を口説くことには慣れていても、女性を決して壊さないように自制を重ねてきた鬼にとって、打算の一切ない『28年分の純粋な愛情』を真正面からぶつけられることは、防御力ゼロの状態でクリティカルヒットを喰らうに等しい。
(あんな真っ直ぐな想いを向けられて……どう扱えばいいんだ。下手に手を出して、あいつの笑顔を曇らせるわけには……)
規格外の暴を振るう無敵の男が、たった一つの純粋なキスに激しく動揺し、しどろもどろになっているのだ。
「な、なんだあれー! マヤが照れてる!!」
「うわっ、珍しい! あのマヤさんが目を泳がせてますよ!」
「……マヤ、顔赤い。ざっこ♡」
双子やレフィーヤがキャーキャーとはしゃぎ、アイズが容赦のない天然の追撃を入れる。
そのマヤの意外すぎる初心(うぶ)な反応を見て、リヴェリアは恥ずかしさを超え、愛おしさで胸が張り裂けそうになった。
「マヤ」
「な、なんだよ」
「今日のスープは、随分と温かそうだな。……隣に座ってもいいか?」
「……あ、ああ、いいぞ・・・。」
顔を背けながらも決して拒絶しない不器用な男の隣に、王族のエルフが嬉しそうに腰を下ろす。
それを全員でニヤニヤと見守りながら、新たな家族となったフィルヴィスを囲んでの、最高に賑やかで温かい朝の食卓が始まるのであった。