たった一撃。
魔力も闘気も感じられない、ただの『木の棒』による手首への軽い一打ち。
それだけで、オラリオ最強の武力を誇る『暴食』のザルドが、大剣を取り落として地面をのたうち回っていた。
「が、ああっ、うぐぅぅぅッ!?」
「ザルド!? な、馬鹿な、一体何が起きた……ッ!」
ゼウス・ファミリアの団長であるマキシムは、自身の目を疑い、完全に思考を停止させていた。
ザルドの巨体は岩のように硬く、並の武器では傷一つつかない。それが、あんなその辺で拾ったような木の棒で叩かれただけで、まるで理不尽な力に支配されたかのように痙攣し、冷や汗を流して呻いているのだ。
どうする。どうすればいい。
歴戦の勇士であるマキシムの背筋を、かつてないほどの冷たい汗が伝う。
その時、後方で様子を窺っていたヘラ・ファミリアの女帝が、冷徹極まりない声で指示を飛ばした。
「マキシム。まずは貴方たち、ゼウスの男衆で押して実力を測りなさい。私たち女性陣は、後方から支援するわ」
「……は? お前ら、俺たちを生け贄にする気か!」
「女を死地に行かせたくないんでしょう、あの男は。なら、男同士で真っ向勝負してきなさい。それが『最強』のゼウス・ファミリアの役目よ」
女帝の言葉に、アルフィアをはじめとする女性陣も無言で頷く。
彼女たちの女性としての本能(直感)が、激しく警鐘を鳴らしていた。あそこに立っている赤髪の男と正面からぶつかってはならない。あれは、神の恩恵(システム)という土俵にすら上がっていない、純粋で絶対的な『捕食者』だ、と。
「くそっ、ヘラの女狐どもめ……!」
マキシムが毒づいたその時。
「……舐めるな。俺を、誰だと思っているッ!」
地面をのたうち回っていたザルドが、己の腕を無理やり掴み、凄まじい気迫と共に立ち上がった。激痛で顔面は蒼白だが、その瞳には第一級冒険者としての、決して折れないプライドが燃えたぎっている。
「マキシム! 奴は未知の技を使う! 挟み撃ちにして、一瞬で圧殺するぞ!」
「……ああ、分かった。俺たちの全力、見せてやるッ!」
ザルドが左手一本で大剣を構え直し、マキシムもまた自身の得物を構える。
オラリオ最強の二大巨頭のトップ、その『一対二』の真っ向勝負。
しかし、その布陣を見たマヤは、木の棒を肩にトントンと当てながら、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「あら、1対2なのね、オッケー。じゃあ俺、こっちのナイフで行くね」
マヤは木の棒を左手に持ち替え、右手で無骨なサバイバルナイフを逆手に構えた。
「めっちゃ切り裂くぜ、半殺しだ! もし死んだらごめんね、先に謝っておくよ!」
軽い、あまりにも軽い口調。
だが、その言葉とは裏腹に、マヤの深紅の瞳の奥で、ドロドロとした黒い炎が渦を巻き始めていた。
(……たぎってきた)
マヤは、自身の内側から止めどなく湧き上がる破壊衝動を自覚していた。
周囲を取り囲むゼウスとヘラの団員たち。彼らの目は、先ほどまでの驕りに満ちたものから一転し、得体の知れない怪物を見るような『恐怖』と『絶望』、そして悲壮な涙の色に染まりつつあった。
それが、マヤの鬼としての闘争本能を激しく掻き乱す。
泣いた赤鬼を救う青鬼。笑顔を愛するマヤにとって、他者の放つ『恐怖』や『悲涙』は、自身を修羅の鬼へと引きずり下ろす猛毒でもある。
(あー……クソ。ロキを連れてくればよかったな、おい)
絶対的なストッパーであり、彼に唯一の『笑顔』という命綱を繋いでくれる正妻、ロキ。彼女が不在の今、この澱んだ空気の中で浴びる恐怖の視線は、マヤの心をすこぶる苛立たせた。
「……お前らのそのビビり散らした目、最高にイラつくんだよ」
マヤの声音から、先ほどまでの余裕と軽口が完全に消え失せた。
絶対零度の殺気。大気が凍りつき、重力が何十倍にも跳ね上がったかのような錯覚。
「——もうしらん」
その一言が、蹂躙の合図だった。
「おおおおおッ!!」
死の恐怖を振り払うかのように、ザルドとマキシムが左右から同時に襲い掛かる。
しかし。
『シュパンッッッ!!!』
空間に、幾千もの銀色の閃光が走った。
「……え?」
ザルドの動きが、空中でピタリと停止する。
彼の全身から、一拍遅れて、ブワァァァッッッ!! と鮮血が噴き出した。
「が、はっ……!?」
急所を完璧に避け、しかし戦闘能力を完全に削ぎ落とす、数ミリ単位の精密すぎる無数の斬撃。マヤの振るうサバイバルナイフは、もはや刃の軌跡すら見えず、ザルドはたった一瞬のうちに血だるまとなって崩れ落ちた。
「邪魔だ」
ドゴォッ! と、マヤの蹴りがザルドの巨体を無造作に吹き飛ばす。
宙を舞ったザルドは、後方で震えていたヘラ・ファミリアのヒーラーたちの足元へと無残に転がった。
「ひぃぃっ!?」
「ほら、さっさと治してやれ。死ぬぞ」
「ザルドォォォッ!!」
マキシムが激昂し、マヤの死角から渾身の一撃を振り下ろす。
「取ったッ!」
マキシムの眼には、確かにマヤの身体を両断したように見えた。
しかし、彼が斬ったのはマヤが超高速移動によって残したただの『残像』だった。
「どこを見ている、マキなんとか」
「な——」
背後からの低い声。
振り返る暇さえ与えられず。
ドッッッッゴォォォォォン!!!
空気を叩き潰すような爆音と共に、マヤの左手に握られた『木の棒』が、マキシムの脇腹に深々とめり込んだ。
「ごぁ、は、ぁぁッ!?」
防具ごと肋骨が粉々に砕け散る感覚。マキシムの巨体が、くの字に折れ曲がりながら宙に浮く。
だが、マヤの蹂躙は終わらない。
「遅い。軽い。脆い。これが最強のファミリアか? 笑わせるな」
バキィッ! ドゴォッ! ガガァッ!
空中に浮いたマキシムに対し、マヤの木の棒による神速の連続打撃が叩き込まれる。
右腕をへし折り、左脚を砕き、鳩尾を的確に打ち抜く。
それは武術というよりも、ただの圧倒的な暴力による解体作業だった。
「あ、が、あぁ……っ」
数十発の打撃を受け、マキシムの意識が白濁し、その巨体が地面に崩れ落ちそうになる。
——だが。
「寝るな。まだ終わってないぞ」
マヤは空いている右手に、淡い緑色の光——医療忍術のチャクラ——を纏わせ、マキシムの胸ぐらを掴んで強引に引き寄せた。
強烈な治癒のエネルギーがマキシムの体内に流し込まれ、砕けた骨と断裂した筋肉が、強制的に『意識を保てるレベル』にまで修復されていく。
「が、はぁっ!? な、なんだ、傷が……」
「よし、起きたな。じゃあ続きだ」
マヤは胸ぐらを放すと、倒れかけたマキシムの顎下へ向けて、下から上へと木の棒を振り抜いた。
カァァァンッ!! という小気味良い音と共に、マキシムの顎が打ち上げられ、無理やり直立の姿勢に戻される。
「あぐっ、う、あ……」
「ほら、どうした! 防御しろ! 攻撃してこい! お前ら、女を死地に連れて行く覚悟があったんだろうが!!」
ドゴッ! バキィッ!
殴る、殴る、殴り続ける。
意識が途切れそうになれば、医療チャクラを流し込んで強制的に覚醒させ、膝から崩れ落ちそうになれば、顎を打ち上げて立たせる。
圧倒的、かつ徹底的な『力と絶望の刷り込み』。
プライドも、誇りも、何もかもが、ただの木の棒によって理不尽に粉砕されていく。
「や、やめ……」
オラリオ最強の男が、涙と鼻水と血に塗れながら、ついに命乞いのような声を漏らす。
「やめろ? お前らが黒龍に挑むっていうのは、これ以上の絶望を女たちに味わわせるってことだぞ。分かってんのか、マキなんとか」
ドサリ、と。
ついにマヤが手を止めると、マキシムは白目を剥いて地面に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。(命に別状はないよう、完璧に計算された半殺しである)
静寂。
荒野に響くのは、血だるまになったザルドを治療するヒーラーたちの泣き声と、風の音だけだった。
「…………嘘、でしょ」
ヘラ・ファミリアの女帝が、震える唇から音をこぼした。
アルフィアに至っては、両膝がガクガクと震え、立っていることすら困難になっていた。
恐怖。絶望。しかし、それ以上に、彼女たちの本能に焼き付けられたのは、群れを統率する絶対的な『アルファ(最強の雄)』の姿だった。
「さて」
マヤは血に濡れた木の棒を肩に担ぎ直し、ゆっくりと、女性陣——女帝とアルフィアの方へと振り返った。
その深紅の瞳には、まだ暴れ足りない鬼の闘気が、メラメラと危険な光を放って揺らめいていた。
「男の掃除は終わった。……お嬢ちゃんたち、次は誰が俺の棒(これ)を味わう?