竜の谷での理不尽な蹂躙劇から数時間後。
オラリオへと戻ることもなく、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの首脳陣は、郊外にある巨大な拠点の一室へと集められていた。
重厚な円卓の広間。そこに漂っているのは、かつてオラリオを支配していた二大巨頭の覇気などでは断じてなかった。
席についているのは、全身を包帯でぐるぐる巻きにされたゼウス・ファミリアの団長マキシムと、主神ゼウス。
そして向かい側には、真ん中に悠然と腰掛けるマヤを挟むようにして、完全に骨抜きにされた『女帝』、そしてヘラ・ファミリアの主神である最高神ヘラが座していた。
マキシムとゼウスの顔色は、完全に死人のそれである。
戦意も反抗心も、マヤの振るう木の棒とナイフによって粉々にへし折られ、もはや微塵も残っていなかった。
「さて、単刀直入に行こうか」
マヤは足を組み、腕を広げて背もたれに深く寄りかかった。両隣にいる女帝とヘラに挟まれながらも、緊張感のかけらもない態度で言い放つ。
「お前らは今日、黒龍に敗北して全滅した。……そういうことにして、全員表舞台から綺麗さっぱり消えろ」
静まり返る広間に、あまりにも無慈悲で理不尽な宣告が落ちた。
「き、消えろ、だと……? わしらに、オラリオを去れと言うのか……!」
ゼウスが震える声で絞り出す。しかし、マヤは鼻で笑った。
「そうだ。メリットなら十分あるぞ。お前たちのところで病弱だったメテリアの体も、俺の力で綺麗さっぱり治してやった。あいつがもうすぐ産むガキでも育てながら、田舎で畑でも耕して平和に隠居しろ。それとも何かい? オラリオのみんなの前で、全員本当に死体になりたいのか?」
「ぐっ……」
「デメリットなんて特にないだろ? 『ポッと出の赤髪の鬼一匹にボコボコにされて負けました』なんて世間に恥を晒すより、『黒龍が強すぎて壊滅的な打撃を受けて敗走した』って言った方が、まだ英雄としての面目が保てるってもんだ。なぁ? まきなんたら(マキシム)とザルドの体をズタズタにしておいたんだから、その傷跡を見せればオラリオの連中も一発で納得するだろ。……なぁ、女帝ちゃんさ、そう思うよね?」
マヤが隣の女帝の肩を抱き寄せ、耳元で甘く囁く。
かつてオラリオ最強の女として君臨していた女帝は、頬を真っ赤に染め上げ、コクコクと小さく頷いた。
「え、ええ……マヤ様の仰る通りですわ。私たちは、あの黒龍の前に敗北した……それで良いかと存じます」
「じょ、女帝ぃぃっ!? お前まで骨抜きにされてるじゃねぇか!」
ゼウスが悲鳴のような叫びを上げるが、女帝は冷たい目でゼウスを一瞥しただけで、再びマヤの胸板にうっとりと寄り添った。
そんな異様な光景を前に、もう一人の最高神——嫉妬と狂気の女神ヘラが、鋭い視線でマヤを睨みつけていた。
「……恐ろしい男ね。私の可愛い子供たちを力と口先で手懐け、あまつさえ私たち二大ファミリアをオラリオから追い出そうというの?」
威厳を保とうとするヘラ。しかし、マヤはそんな女神の威圧感を涼しい顔で受け流すと、ふっと深紅の瞳を細めてヘラの顔をじっくりと見つめた。
「しかし、ヘラ。あんたもよく見るとすげーいい女だな」
「……は?」
ヘラが虚を突かれたように目を見張る。マヤは躊躇うことなく身を乗り出し、ヘラの白く滑らかな手をすっと取り上げた。
「キスしないか? どうかな? 少しデートとかでもいいけど」
「な、何を言い出すの、この男は……ッ!」
ゼウスの目の前で堂々と行われる口説き。ゼウスが「おいコラ! わしのヘラに何をしとるんじゃ!」と立ち上がろうとするが、マヤの放つ無言の重圧に縫い止められて再び椅子に沈んだ。
「いつもゼウスの浮気に嘆いていたんだろ? 今度は俺とどうだ、ヘラ。俺はロキの旦那だぞ? 自称ではなく、本当に正妻として愛し合っている旦那だ。いやー、これは神同士の修羅場になりますねぇ〜。まあ、神でも落とせるの、俺もまんざらでもないけどな」
マヤはニヤリと悪戯っぽく笑うと、ヘラの抵抗する暇も与えず、その白く柔らかな手の甲に優しく唇を落とした。
——ちゅ。
部屋に微かな水音が響く。
「っっっ……!?」
ヘラの全身が、まるで雷に打たれたかのようにビクンと跳ねた。
マヤは手の甲に唇を寄せたまま、上目遣いに深紅の瞳でヘラの心を真っ直ぐに射抜く。
「貴方は心が優しく、慈愛に満ちている。だからこそ、相手を愛しすぎて裏切られた時に深く傷つき、嫉妬してしまうんだ。……だが、安心しろ。俺なら、お前にそんな惨めな嫉妬なんか絶対にさせないけどな」
「あ……、ぁ……」
ヘラの頬が一瞬にして朱に染まった。
狂気と嫉妬の権化と恐れられてきた女神の心の最深部を、あまりにも的確に、そして絶対的な包容力で包み込む言葉。
何千年もゼウスの浮気に苛まれ、歪んでしまっていたヘラの心が、マヤのたった一度の口づけと甘い言葉によって、急速に融解していく。
(なんなの、この男……。ゼウスのような下品な女好きじゃない。私という女を、丸ごと受け止めるだけの『器』がある……!)
「お、おいヘラ!? 騙されるな! そいつはロキの旦那だぞ! 完全にたらし込まれてるじゃねぇか!」
慌てふためくゼウスの叫びも、もはやヘラの耳には届いていなかった。ヘラはマヤに手を握られたまま、潤んだ瞳でぼうっとマヤを見つめ返している。
「よし、話はまとまったな」
マヤは満足げにヘラの手を離し、円卓を軽く叩いて立ち上がった。
「オラリオの覇権はロキに譲れ。お前らは田舎で、ベルとメテリア、そしてアルフィアたちと一緒に、過保護な家族ごっこでもして平和に暮らせ。……これ以上、誰一人泣かせずに済む、最高のハッピーエンドだろ?」
ゼウスは頭を抱え、マキシムは沈黙し、ヘラと女帝は蕩けたような視線をマヤに送る。
こうして、世界の覇権を握っていた二大巨頭の完全引退と、最強の隠れ里の設立が、一人の鬼の手によって理不尽かつ完璧に決定づけられたのだった。