円卓を囲む重苦しい空気は、もはや完全に別の意味で澱んでいた。
先ほどまでの絶望と恐怖の残滓などどこへやら、現在の広間は、一人の赤髪の青年が放つ圧倒的な「ナンパの魔力」によって支配されている。
「しかし、ヘラ……本当に美しいな。その目も、唇も、すべてが愛おしいよ」
マヤは隣に座るヘラの顎を、ためらいなくスッと指先で掬い上げた。
何千年も神として君臨し、恐怖と嫉妬の化身として恐れられてきたヘラが、触れられた瞬間、ビクンと身体を硬直させた。ゼウスの前であるという事実すら、今の彼女の脳内では完全に霧散している。
「今すぐ、その唇に唇を重ねたら、どれほど甘美で、かつ幸福が訪れるか……計り知れない。それだけに惜しいな」
「あ……、ぁ……」
ヘラの瞳が揺らぐ。息が詰まり、思考の輪郭が溶けていく。
マヤは彼女の目を真っ直ぐに見据えたまま、さらにトドメとばかりにその本質を抉り出す言葉を紡いだ。
「――なぁ。世間では、お前が浮気や嫉妬で狂う女神だと言われているらしいな? だが、それは違う。だってそうだろう? それは、お前のせいじゃない。すべては、あの隣にいる愚図(ゼウス)のせいだ」
「……っ!」
その一言に、ヘラの呼吸が完全に止まった。
「お前は一度だって浮気などしたことがない。むしろ、愛する男を一途に想い続ける、貞操観念の極めて高い高潔な女性だ。だからこそ、お前の周りには女帝やアルフィアのような、誇り高く強い女性たちが自然と集まってくる。……素敵な君。お前は何も悪くない。何処かの浮気者が、下半身の欲望でしか物事を考えられない変態野郎なだけだ」
高潔。一途。そして、傷ついた被害者。
千年の長きにわたり、ゼウスの奔放な女遊びに振り回され、嫉妬に狂う「悪女」として周囲から恐れられ、本人さえも「自分は呪われた女神なのだ」と思い込まざるを得なかったその呪縛を、マヤはあまりにも優しく、あまりにも的確に、一撃で解きほぐしてみせたのだ。
「女性とは、いつだって笑顔でなければいけない。……母親の笑顔というのは、何物にも代えがたい素晴らしいものだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、ヘラの瞳から、大粒の涙がツーっと零れ落ちた。
悔しさでも、怒りでもない。
何千年も誰にも理解されず、心の奥底に封印し続けていた「本当の自分」を、この出会ったばかりの異世界から来た青年に、丸ごと全肯定されたことへの――圧倒的な救済の涙だった。
マヤはそっとヘラの手に自分の手を重ね、先ほどよりも少しだけ長めに、その手の甲へと温かいキスを落とした。
「……これくらいは、お許しください。いずれ続きは、二人きりで……。夜の月を眺めながらでも、ゆっくりと語り合いましょう」
「月を……二人きりで……」
「ああ。なので、メテリアやアルフィアのこと、よろしく頼んだぞ。……素敵な君」
マヤが甘く囁きながら微笑むと、ヘラはもはや頭の芯まで完全に茹で上がり、オーバーヒート寸前の蒸気を噴き出しそうになりながら、真っ赤な顔でコプコプと小さく頷くことしかできなかった。
(なんなの、この男……っ! 私の心を、こんなにも簡単に、まるで自分の庭のように……っ! ああ、もうダメだ……この人の前では、私はただの不器用な女になってしまう……!)
その一部始終を、目の前で、文字通り「特等席」で見せつけられていたゼウスは、ただただ口をポカンと開けて固まっていた。
(おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいっ……!!)
ゼウスの心の中で、かつてないほどの絶叫が木霊する。
目の前で起きている光景が、脳の処理能力を完全に超越していた。
さっきまで最強のファミリアをボコボコにし、自分たちの命運を握る恐怖の魔王として君臨していた男が、なぜ今、自分の目の前で堂々と、しかも微塵の隙もなく自分の妻を口説き落としているのか。
(しかも、なんだあの言葉のチョイスは……! いつもはワシに怒鳴り散らして冷たい眼差しを向けているヘラが、あんな処女みたいな顔をして涙を流してやがる……! 浮気者? 下半身でしか考えられない変態? おい、それ完全にワシのことじゃねぇか! でも、ヘラがそんな高潔で一途な女だったなんて、ワシは一言も……いや、本当は分かってたけどさぁっ!)
ゼウスは冷や汗をダラダラと流しながら、隣に座るヘラの様子を盗み見た。
普段なら、少しでも自分が他の女に目を向けようものなら、冷徹な殺気を放つか、館を半壊させるほどの極大魔法をぶちかましてくるはずのヘラが、今はマヤの言葉に完全に心を奪われ、うっとりと潤んだ瞳で彼を見つめている。
そこにあったのは、ゼウスに対する冷徹な妻の姿ではなく、一人の恋する乙女の顔だった。
(すげぇ……この男、マジですげぇ……。暴力で屈服させただけじゃなくて、精神の最も柔らかい部分を丸裸にして、神であるワシの嫁を完全に『落とし』やがった……! 恐ろしい、恐ろしすぎるぞ、この鬼の旦那……!)
ゼウスはもはや、怒る気力すらなかった。
戦いで肉体をズタズタにされ、プライドを粉々に砕かれ、そして最後には愛する妻まで完璧に寝取られる。
これほどまでに美しく、これほどまでに理不尽な「完全敗北」があっただろうか。
「ふむ」
マヤは満足げに満足の息を吐くと、ヘラの手をそっと離し、再び円卓の背もたれに体を預けた。
「さて、大まかな話は決まったな。お前たちはオラリオを去り、静かに隠居する。ヘラは俺とのデートの予定をカレンダーに書き込んでおくこと。いいな?」
「……ええ、喜んで……」
すっかり骨抜きにされ、潤んだ瞳でこくんと頷くヘラ。
(もうどうにでもして……この人のためなら、オラリオの覇権なんてくれてやるわ)
最強の女神が、たった一人の男の前に完全無力化され、その手のひらの上で幸せそうに転がされている。
円卓を囲む重苦しい空気は、もはや完全に別の意味で澱んでいた。
先ほどまでの絶望と恐怖の残滓などどこへやら、現在の広間は、一人の赤髪の青年が放つ圧倒的な「ナンパの魔力」によって支配されている。
「しかし、ヘラ……本当に美しいな。その目も、唇も、すべてが愛おしいよ」
マヤは隣に座るヘラの顎を、ためらいなくスッと指先で掬い上げた。
何千年も神として君臨し、恐怖と嫉妬の化身として恐れられてきたヘラが、触れられた瞬間、ビクンと身体を硬直させた。ゼウスの前であるという事実すら、今の彼女の脳内では完全に霧散している。
「今すぐ、その唇に唇を重ねたら、どれほど甘美で、かつ幸福が訪れるか……計り知れない。それだけに惜しいな」
「あ……、ぁ……」
ヘラの瞳が揺らぐ。息が詰まり、思考の輪郭が溶けていく。
マヤは彼女の目を真っ直ぐに見据えたまま、さらにトドメとばかりにその本質を抉り出す言葉を紡いだ。
「――なぁ。世間では、お前が浮気や嫉妬で狂う女神だと言われているらしいな? だが、それは違う。だってそうだろう? それは、お前のせいじゃない。すべては、あの隣にいる愚図(ゼウス)のせいだ」
「……っ!」
その一言に、ヘラの呼吸が完全に止まった。
「お前は一度だって浮気などしたことがない。むしろ、愛する男を一途に想い続ける、貞操観念の極めて高い高潔な女性だ。だからこそ、お前の周りには女帝やアルフィアのような、誇り高く強い女性たちが自然と集まってくる。……素敵な君。お前は何も悪くない。何処かの浮気者が、下半身の欲望でしか物事を考えられない変態野郎なだけだ」
高潔。一途。そして、傷ついた被害者。
千年の長きにわたり、ゼウスの奔放な女遊びに振り回され、嫉妬に狂う「悪女」として周囲から恐れられ、本人さえも「自分は呪われた女神なのだ」と思い込まざるを得なかったその呪縛を、マヤはあまりにも優しく、あまりにも的確に、一撃で解きほぐしてみせたのだ。
「女性とは、いつだって笑顔でなければいけない。……母親の笑顔というのは、何物にも代えがたい素晴らしいものだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、ヘラの瞳から、大粒の涙がツーっと零れ落ちた。
悔しさでも、怒りでもない。
何千年も誰にも理解されず、心の奥底に封印し続けていた「本当の自分」を、この出会ったばかりの異世界から来た青年に、丸ごと全肯定されたことへの――圧倒的な救済の涙だった。
マヤはそっとヘラの手に自分の手を重ね、先ほどよりも少しだけ長めに、その手の甲へと温かいキスを落とした。
「……これくらいは、お許しください。いずれ続きは、二人きりで……。夜の月を眺めながらでも、ゆっくりと語り合いましょう」
「月を……二人きりで……」
「ああ。なので、メテリアやアルフィアのこと、よろしく頼んだぞ。……素敵な君」
マヤが甘く囁きながら微笑むと、ヘラはもはや頭の芯まで完全に茹で上がり、オーバーヒート寸前の蒸気を噴き出しそうになりながら、真っ赤な顔でコプコプと小さく頷くことしかできなかった。
(なんなの、この男……っ! 私の心を、こんなにも簡単に、まるで自分の庭のように……っ! ああ、もうダメだ……この人の前では、私はただの不器用な女になってしまう……!)
その一部始終を、目の前で、文字通り「特等席」で見せつけられていたゼウスは、ただただ口をポカンと開けて固まっていた。
(おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいっ……!!)
ゼウスの心の中で、かつてないほどの絶叫が木霊する。
目の前で起きている光景が、脳の処理能力を完全に超越していた。
さっきまで最強のファミリアをボコボコにし、自分たちの命運を握る恐怖の魔王として君臨していた男が、なぜ今、自分の目の前で堂々と、しかも微塵の隙もなく自分の妻を口説き落としているのか。
(しかも、なんだあの言葉のチョイスは……! いつもはワシに怒鳴り散らして冷たい眼差しを向けているヘラが、あんな処女みたいな顔をして涙を流してやがる……! 浮気者? 下半身でしか考えられない変態? おい、それ完全にワシのことじゃねぇか! でも、ヘラがそんな高潔で一途な女だったなんて、ワシは一言も……いや、本当は分かってたけどさぁっ!)
ゼウスは冷や汗をダラダラと流しながら、隣に座るヘラの様子を盗み見た。
普段なら、少しでも自分が他の女に目を向けようものなら、冷徹な殺気を放つか、館を半壊させるほどの極大魔法をぶちかましてくるはずのヘラが、今はマヤの言葉に完全に心を奪われ、うっとりと潤んだ瞳で彼を見つめている。
そこにあったのは、ゼウスに対する冷徹な妻の姿ではなく、一人の恋する乙女の顔だった。
(すげぇ……この男、マジですげぇ……。暴力で屈服させただけじゃなくて、精神の最も柔らかい部分を丸裸にして、神であるワシの嫁を完全に『落とし』やがった……! 恐ろしい、恐ろしすぎるぞ、この鬼の旦那……!)
ゼウスはもはや、怒る気力すらなかった。
戦いで肉体をズタズタにされ、プライドを粉々に砕かれ、そして最後には愛する妻まで完璧に寝取られる。
これほどまでに美しく、これほどまでに理不尽な「完全敗北」があっただろうか。
「ふむ」
マヤは満足げに満足の息を吐くと、ヘラの手をそっと離し、再び円卓の背もたれに体を預けた。
「さて、大まかな話は決まったな。お前たちはオラリオを去り、静かに隠居する。ヘラは俺とのデートの予定をカレンダーに書き込んでおくこと。いいな?」
「……ええ、喜んで……」
すっかり骨抜きにされ、潤んだ瞳でこくんと頷くヘラ。
(もうどうにでもして……この人のためなら、オラリオの覇権なんてくれてやるわ)
最強の女神が、たった一人の男の前に完全無力化され、その手のひらの上で幸せそうに転がされている。
ダダダダダダダッ!!
円卓の広間を支配していた甘美で異常な空気を引き裂くように、廊下の奥から猛烈な足音が近づいてきた。
それは軍靴の響きなどではない。ただひたすらに一直線に、何かを求めて駆け抜けてくる切羽詰まった足音。
バァァァンッ!!
けたたましい音と共に、広間の重厚な両開き扉が蹴り破られるように開かれた。
「——ッ!?」
室内にいたゼウス、ヘラ、そしてマキシムや女帝たちが一斉に扉へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、息を乱し、肩を上下に揺らす小柄な女神——ロキだった。
だが、その表情は普段の飄々とした彼女のものではなかった。常に細められている糸目が、限界までカッと見開かれている。その瞳に宿っているのは、凄まじいまでの焦燥と、隠しきれない怒り、そして——。
(!! やった! きたでこれ!! 勝つる!!)
そのロキの姿を見た瞬間、絶望のどん底にいたゼウスの脳内に、起死回生のファンファーレが鳴り響いた。
浮気現場、あるいはそれに準ずる修羅場に、正妻が鬼の形相で乗り込んできたのだ。いくらあの規格外の男であろうと、主神であり正妻であるロキの怒りに触れればタダでは済まないはずだ。
水を得た魚のように、ゼウスは勢いよく立ち上がってマヤを指差した。
「やーーい、やーーい! 浮気者〜! 嫁に黙ってこんな所でよその神を口説くから、天罰が下ったんじゃ! ロキよ、そいつは今まさに、ワシの妻を誑かしておったとこ——」
ゼウスの歓喜の叫びを完全に無視し、ロキはズンズンと重い足取りでマヤの前へと歩み寄った。
見開かれた眼球。張り詰めた空気。
ヘラすらも「まさか、ここで修羅場が……」と息を呑み、女帝やアルフィアも身構える。
オラリオ最強の男を木の棒で粉砕したマヤに対し、激怒した主神ロキがどのような制裁を下すのか。
マヤは座っていた椅子からゆっくりと立ち上がり、ロキを見下ろした。
ロキはマヤの胸倉を両手でギュッと掴み、涙目で叫んだ。
「心配したで!! 連絡もよこさんと!!」
「……」
「フラッと出てったきり、『ちょっと散歩』って……どこの世界に黒龍の谷まで散歩に行くアホがおるんや!! 自分、自分がどれだけ……っ、ウチ、めっちゃ寂しかったわ!!」
ポカポカと、マヤの胸板を弱々しい拳で叩くロキ。
そこに浮気への怒りなど微塵もない。ただ純粋に、愛する旦那が自分を置いて危険な(そして遠い)場所へ行ってしまったことへの、寂しさと不安の爆発だった。
マヤは一切の弁明もせず、ただ無言で、胸を叩くロキの小さな身体を力強く、そして壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「あ……」
「すまなかったな、ロキ。心配かけたな。……迎えにきてくれたのか? ありがとう」
耳元で囁かれる、極上の甘さと慈愛に満ちた低い声。
その瞬間、見開かれていたロキの瞳は一瞬にしてトロトロに蕩け、全身から怒りの気が完全に霧散した。
「ん、んへへ……っ。マヤが無事なら、ええんよ……」
マヤの厚い胸板に顔を埋め、グリグリと擦り付けながら「えへえへ」とだらしなく笑い始めるロキ。
「……………………は?」
ゼウスをはじめ、ヘラ、マキシム、女帝、アルフィア。
その場にいた全員が、文字通り絶句した。
なんだこれは。神々の威信を懸けた交渉の場(あるいは修羅場)だと思っていたら、いきなり始まったのは新婚夫婦の熱烈なイチャイチャ空間である。
しかし、その呆れ返る英雄たちに向かって、マヤはロキの頭を撫でながら、ふと視線を冷たく細めた。
「でもな、ロキ。お前がいなくて……危うく、こいつら全員殺しそうになった」
「えっ……?」
「お前がいないことが、俺も寂しかったさ。お前の笑顔っていうストッパーがなかったら、こいつらの覚悟の安さと悲壮感にイラついて、本気で修羅に堕ちるところだった」
ゾワッ、と。
ゼウスとヘラの両ファミリア全員の背筋を、本物の死の悪寒が駆け抜けた。
冗談ではない。あの木の棒での蹂躙劇すら、彼にとっては「正妻不在の苛立ち」からくる八つ当たりに過ぎず、本当の殺意の一端ですらなかったというのか。
この赤髪の女神(ロキ)が駆けつけていなければ、オラリオの二大巨頭は、今頃文字通り肉片となって荒野の砂に消えていたのだ。彼らは自分たちがどれほどの死の淵に立たされていたのかを、遅ればせながら理解し、顔面を蒼白にさせた。
「ちょっと待てーーい!!」
そこで、空気を読まない(読めない)ゼウスが、再び決死の抗議の声を上げた。
「ロキ! 誤魔化されるな! そいつは今、ワシの目の前で、ワシの妻(ヘラ)を甘い言葉で口説いておったんじゃぞ! 手の甲にキスまでしおって!」
ゼウスの必死の密告。
その言葉を聞いたロキは、マヤの胸に抱かれたまま、ひょこっと顔を上げてマヤを見つめた。
「マヤ。今の、ほんまか?」
ついに正妻の尋問が下る。
さすがの鬼も、これには弁解するだろうとゼウスは期待した。
だが、マヤは表情一つ変えず、堂々と、かつ極めて自然に頷いた。
「ああ。いい女だったからな、当たり前だろ?」
「……へ?」
「何千年も一人で泣いてるような、悲しんでる女がいれば、幸せにしたくなる。男として当然の本能だろ? 言わせんなよ、恥ずかしいだろ?」
マヤは少しだけ照れたように視線を逸らす。悪びれる様子など一ミリもない。浮気心ではなく、純粋な『敬意』としての愛情表現。
「ましてや」
マヤは鋭い視線でゼウスを射抜いた。
「下半身でしか物事を考えられず、女を取っ替え引っ替えして、そのくせ何の責任も取らないようなクズの隣にいるんだ。責任は取らないが下半身の欲は満たすって……それは男として間違ってる。違うか?」
正論にして、完全なる事実の暴力。
「ぐはっ……!?」
ゼウスは胸を物理的に矢で射抜かれたような衝撃を受け、その場に膝から崩れ落ちた。弁解の余地すら残されていない完全論破である。
ロキはじっとマヤの目を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、納得したように頷いた。
「ん。そっか。……マヤらしいわ。でも、ウチが一番な?」
上目遣いで、念を押すように問う正妻。
「もちろんさ」
マヤは即答し、ロキの額に優しく口づけた。
「……わらわのことは?」
その完璧な夫婦の空間に、たまらず声を挟んだのは、頬を桜色に染めたヘラだった。
「わらわに言った言葉は、その場限りの慰めだったの?」
神としての威厳はどこへやら、捨てられるのを恐れる乙女のような切実な声。
マヤはロキを抱いたまま、ヘラに向けて極上の微笑みを向けた。
「もちろん、本気さ。素敵な君が望めば、だけどな」
マヤは静かに告げる。
「俺は義には礼を、真実には敬意を払う。あとはあなた次第だ。予定、楽しみにしてますよ。隠れ里の村が落ち着いたら、手紙でもください。デートは……あんたたち、もうオラリオには戻れないし、ここから出られないらしいからな。いつか、きっとね」
「いつか、きっと……ええ。待っているわ。必ず、手紙を書くから」
ヘラは両手を胸の前で組み、熱を帯びた瞳でマヤを真っ直ぐに見つめ返した。完全に、恋する女の顔である。
「はぁ!? 嘘、嘘嘘嘘よー!! ワシのヘラが、こんなあっさり寝取られるなんてぇぇぇッ!!」
床に突っ伏して号泣するゼウス。
オラリオを統べる神々の王は、ただの惨めな敗北者として地に堕ちた。
「ふふんっ」
その様子を見ていたロキは、最高に気持ちよさそうなドヤ顔を浮かべると、マヤの首に両腕を絡ませた。
「さすが、ウチの自慢の旦那様やで。最強の神様もメロメロにしてまうなんてな。しゃーない、今回は大目に見たるわ」
ロキは背伸びをして、マヤの耳元に口を寄せる。
「その代わりな……あとで帰ったら、ウチの事、たっぷり抱いてくれれば許す」
シンッ、と。
広間の空気が、三度凍りついた。
「「「「「えええええええええええええええッッ!?」」」」」
ゼウス、マキシム、女帝、アルフィア。
オラリオの最強陣営全員の声が、完璧にハモって広間に響き渡った。
「や、やってるの!? あの、何千年と男をからかっては袖にしてきたトリックスターが!?」
ゼウスが目玉を飛び出させて叫ぶ。美の女神たちのように奔放な者もいるとはいえ、ロキといえば色恋沙汰とは最も無縁だと思われていた存在だ。そんな彼女が、下界の男を相手にここまで骨抜きにされ、心身ともに愛し合っているなど、神々の常識からしても衝撃的な事実であった。
「じゃ、じゃあアレか!? お前、あの誰にも靡かなかったロキの、しょ、しょ、処女を――」
ゼウスが下世話な好奇心と驚愕を丸出しにして、言いかけたその瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!
神威を伴った無慈悲な鉄拳が、ゼウスの顔面を完璧に打ち抜いた。
「ごぶはぁッ!?」
吹き飛ぶゼウス。拳を振り抜いたのは、冷ややかな、しかし絶対的な軽蔑の眼差しを向けるヘラであった。
「この……浮気者の変態男が。他神(ひと)のそういうデリケートな事情に、土足で踏み込んで茶化そうとする……お前のそういう無神経なところが最悪なのよ! マヤ様の爪の垢でも煎じて飲みなさいッ!」
正妻(ヘラ)からの、純度百パーセントの怒りの鉄拳と正論の追撃。
「当然やろ! ウチらは愛し合う夫婦なんやからな! マヤは夜も最強なんやで!」
顔を真っ赤にしながらも、ロキは誇らしげにマヤの胸板にすり寄る。
アルフィアと女帝は顔を真っ赤にして両手で顔を覆い、マキシムはあまりのカルチャーショックに再び白目を剥いて気絶した。
「ほら、帰るぞロキ。少年たちが夕飯を待ってる」
「おんっ! 帰ろ帰ろ!」
圧倒的な武力で蹂躙し、言葉で心を救済し、そして神々の常識すらも性的な意味で粉砕していく。
最強の鬼と退屈な女神の、規格外にして甘すぎる日常。
世界の覇権がひっそりと交代したこの日、ゼウスの脳裏には「決してこの夫婦には逆らってはいけない」という、絶対的なトラウマと敗北感が深く刻み込まれたのであった。
一方のヘラは、去っていくマヤの背中を見つめながら、ぽつりと胸中で呟いていた。
(悪くはないわね……たまには下界の子に抱かれるのも……)
その瞳は、完全に恋に落ちた女のそれであった。
「うそじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーッ!!」
誰もいなくなった広間に、何もかもを失ったゼウス(浮気者)の嘆きの声だけが、虚しく響き渡っていた。