迷宮都市オラリオから遠く離れた、緑豊かな辺境の地。
かつて世界最凶の厄災『隻眼の黒龍』に敗北し、歴史の表舞台から姿を消したとされるゼウスとヘラの両ファミリアは、今、この人里離れた隠れ里で極めて平穏な生活を送っていた。
いや、正確には「平穏」という言葉だけでは片付かない、劇的な環境の変化がこの村には起きていた。
「——それにしても、未だに信じられないわ。私の体が、こんなにも羽のように軽いなんて」
よく晴れた昼下がり。木漏れ日が差し込む庭先のテラスで、優雅にお茶を飲みながら銀髪の少女——アルフィアが自身の両手を見つめて呟いた。
彼女を幼い頃から蝕み、命を削り続けていた生来の不治の病。それは、あの日竜の谷で出会った赤髪の青年、マヤが振るった『極大の治癒魔法』によって、完全に浄化されていたのだ。
「ええ、本当に……。私も、あの方の魔法のおかげで、こうして無事にこの子を産んで、抱きしめることができています。あの方には、どれだけ感謝しても足りませんわ」
アルフィアの向かいの席で、姉のメテリアがふんわりとした笑顔を浮かべ、腕の中で眠る赤子を愛おしそうに撫でた。白髪に赤い瞳を持った、生まれたばかりの赤子。名をベルという。
「圧倒的な暴力でゼウスの男衆を粉砕したかと思えば、底なしの慈愛で私たちを救済する。……まったく、規格外にも程がある男だったわね」
そう言って紅茶のカップを置いたのは、かつてオラリオ最強の女と謳われた『女帝』である。彼女の頬は、マヤの顔を思い出したのか、わずかに桜色に染まっていた。
「でも、私が一番胸がすいたのは、あの方がゼウス様を理詰めで完膚なきまでに叩き潰したあの口上よ」
アルフィアがクスリと笑う。
「『下半身でしか物事を考えられず、女を取っ替え引っ替えして、何の責任も取らないクズ』……あんなにも的確で、一切の反論を許さない言葉の刃を見たのは初めてだったわ。マキシムたちを木の棒で解体した暴力も凄まじかったけれど、あの男の真の恐ろしさは、相手の急所を言葉一つで正確に抉り出す知性にあるのだと思うわ」
「ええ。それに……女性を何よりも尊び、その笑顔を守ることを絶対の信条としている。……あのような殿方こそ、真の『男』と呼ぶに相応しいのでしょうね」
女帝がうっとりとしたため息を漏らす。
アルフィアもメテリアも、そして女帝も。この隠れ里の女性陣は皆、すでにこの場にはいない「マヤ」という絶対的な強者にして理想の男の幻影に、完全に魅了されきっていた。
そんな女性たちの穏やかな茶会の席から少し離れた庭の隅で。
元オラリオの主神であり、今やただの隠居爺となったゼウスが、メテリアから預かっていた赤子のベルを高い高いしながら、コソコソと良からぬことを吹き込んでいた。
「わははは! ベルよ、よく聞くのじゃ。男として生まれたからには、目指すは巨大なハーレムじゃ! ダンジョンで出会いを求め、いい女を見たら片っ端から声をかけろ! そして、女湯の覗きこそが男の最大のロマンにして大冒険なんじゃぞ! 爺ちゃんが、至高の覗きテクニックをすべてお前に伝授してやるからな!」
ゼウスは、自身の果たせなかった下劣な夢とロマンを、純真無垢な孫に託そうと熱弁を振るっていた。
これぞ男の英才教育。英雄色を好む。そう信じて疑わないゼウスの顔は、欲望にまみれただらしのない笑顔に満ちていた。
——しかし。
「……あなた?」
背後から、ひどく穏やかで、しかし絶対零度の冷たさを孕んだ声が響いた。
ゼウスがビクゥッ! と肩を揺らして振り返ると、そこには美しき最高神、ヘラが立っていた。
以前のヘラであれば、ゼウスのこうした浮気性や下劣な発言を聞くたびに、烈火のごとくヒステリーを起こし、嫉妬に狂って周囲の建物を吹き飛ばすほどの神威を爆発させていたはずだ。
だが、今のヘラは違った。
彼女の顔には、極めて静かで、慈愛に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいたのだ。
(お、おお? なんじゃ、今日のヘラはやけに機嫌がいい……?)
ゼウスが油断した、その直後。
ドッッッッゴォォォォォォォォンッ!!!
「ごぶぉぉぉぉぉぉっ!?」
ヘラの放った一切の無駄がない完璧なストレートが、ゼウスの顔面中央にクリーンヒットした。
神威を乗せた純度百パーセントの物理的鉄拳。ゼウスの体は独楽のように錐揉み回転しながら宙を舞い、庭の巨大な大樹に激突してめり込んだ。
赤子のベルだけは、ゼウスが吹き飛ぶ寸前にヘラが優しく、かつ鮮やかな手つきで自らの腕の中に抱き留めている。
「ゼ、ゼウ……ス、さま……」
マキシムたちゼウス陣営の男衆が遠くから青ざめた顔で見守る中、ヘラは優雅な仕草で自身の拳を払った。
大樹にめり込み、顔面を腫れ上がらせたゼウスが、涙目で抗議する。
「へ、ヘラぁ……なにも、いきなり殴らんでも……わしはただ、男のロマンを語っていただけで……」
「ロマン?」
ヘラは、ゴミを見るような、心底からの軽蔑を込めた目でゼウスを見下ろした。
そこに、かつてのような「自分から離れていく夫への嫉妬」は微塵もない。あの日、マヤに手の甲へ口づけられ、「お前は高潔な女性だ」と肯定されたことで、ヘラの心に何千年も巣食っていた呪縛は完全に解き放たれていた。
今の彼女にあるのは、絶対的な自己肯定感と、ゼウスという男への純粋な『評価の底抜け』である。
「下半身の欲望でしか物事を考えられない、薄汚い害虫の妄言の間違いでしょう? この純真な赤子に、何という穢らわしい言葉を吹き込んでいるのかしら」
「が、害虫……っ!」
「よく聞きなさい、ゼウス。このベルはね、貴方のような女を泣かせるだけのクズ男には絶対にさせません。この子は——」
ヘラは、腕の中でキャッキャと笑うベルを愛おしそうに見つめながら、毅然とした声で宣言した。
「この子は、あの方……マヤ様のような、ただ一人の正妻を心から愛し、その笑顔を生涯守り抜く『本物の漢』に育て上げます。悲しむ女がいれば理不尽を叩き潰してでも救済し、決して女の涙を見過ごさない。それこそが男の本当の強さであり、価値です」
ヘラの脳裏に、あの深紅の瞳を持った青年の姿が浮かぶ。
「『女性を笑顔にできない男はクズ』。あの方が身をもって教えてくださった真理です。お前のように、あちこちの女に手を出しては責任も取らず、正妻を不安にさせるような最低の浮気者の教育など……私の目の黒いうちは、一言たりともこの子には聞かせません」
ヘラのあまりにも正論にして、威厳に満ちたお説教。
それに対し、テラス席にいたアルフィア、メテリア、そして女帝たちが、一斉に立ち上がって拍手を送った。
「素晴らしいですわ、ヘラ様! まったくもってその通りです!」
「ええ! この子には、浮気者の爺さんの下劣な教育など毒でしかありません! 私たちが責任を持って、マヤ様のような素敵な男性になるよう英才教育を施します!」
「ゼウス様。ベルの教育方針に、貴方が口を挟む権利は今後一切ありませんので、あしからず」
女性陣からの完全なる総スカン。
かつてオラリオを支配した神々の王は、今やこの小さな隠れ里において、発言権も人権も完全に剥奪されていた。
「う、うそじゃ……わしのロマンが……わしのハーレム計画が……! ぜんぶ、ぜんぶあの赤髪の鬼のせいで……っ!」
ゼウスが地面を叩いて涙を流す中、ヘラたち女性陣は一切彼に構うことなく、愛らしいベルを囲んで「マヤ様のような強い男になるのよ」と幸せそうに笑い合っている。
隠れ里は今や、不在の英雄であるマヤを理想の体現者として崇拝する、屈強で美しい女たちの園と化していた。
後にオラリオへと旅立つことになる一人の少年は、こうして『女好きの爺さん』の教育から完全に隔離され、屈強で誇り高い女性たちによる『一途で最強の男になるための英才教育』を施される運命へと、その軌道を大きく修正されたのであった。