オラリオから遠く離れた、古代の遺跡が眠る山岳地帯。
「少し、散歩と腹ごなしに行ってくる」と言い残して拠点を出たマヤは、風の向くままにこの地を訪れていた。
豊かな自然に囲まれた静かな遺跡——のはずが、現在は大地を揺るがす轟音と、岩盤が砕ける耳障りな音が響き渡っていた。
「シャァァァァァァァッ!!」
遺跡の中央で暴れ狂っていたのは、水晶のような硬質の外殻を持つ、巨大なサソリの化け物であった。
古代から封印されていたとされる『神をも喰らう魔蠍』の幼体(とはいえ、家屋ほどの大きさはある)。そのハサミが一振りされるだけで大気がひしゃげ、極太の尻尾から放たれる毒針は岩山を豆腐のように貫いていた。
「なんだ、ただのデカい虫か。……まあ、食後の運動には丁度いい」
マヤは欠伸を一つ噛み殺し、懐から無骨なサバイバルナイフを取り出した。
圧倒的な暴力で一撃のもとに粉砕することもできる。だが、それでは自身の『力加減』の鍛錬にならない。
マヤは最近、自身の規格外の筋力と気を、この壊れやすいナイフを通して精密にコントロールする修行を行っていた。オラリオの強者たちとの戦い(という名の蹂躙)で、木の棒やナイフを『いかに壊さずに相手を無力化するか』という手加減の難しさを再確認したからだ。
「よし。甲殻の隙間を縫って、最小の動きで解体してやる」
マヤは姿勢を低くし、静かに息を吐いた。
魔蠍が侵入者であるマヤに気づき、怒り狂って巨大な右のハサミを振り下ろす。直撃すればミンチになる死の凶器。
しかし、マヤは避けない。
ハサミが迫るその瞬間、ほんの半歩だけ軸をずらし、刃のように鋭いハサミの側面に自身のナイフの腹をそっと添えた。
「力を逃がす」
ギリィッ! と火花が散る。マヤはナイフを通じて魔蠍の圧倒的な質量と運動エネルギーを受け流し、軌道を逸らした。自重に振り回された魔蠍の体勢が大きく崩れ、関節の柔らかい部分が無防備に晒される。
「一丁上がり」
マヤは流れるような動きで魔蠍の懐に滑り込み、関節の隙間にナイフを突き立て、そのまま魔力(かつてチャクラと呼んでいた生命エネルギー)を刃先に集中させて滑らせた。
『ギギャァァァァッ!?』
硬い甲殻そのものを叩き割るのではなく、関節の結合部を精密に切断する。巨大な右のハサミが、音を立てて地に落ちた。
「次、尻尾」
振り向くよりも早く、背後から迫る毒針の気配を察知。マヤは振り返らずに上体を逸らして毒針を躱すと、その勢いを利用してナイフを回転させ、尻尾の付け根の神経節を的確に切断した。
巨獣と人間という圧倒的な体格差がありながら、戦闘を支配しているのは完全にマヤの方だった。一切の無駄がない、舞踏のように洗練された体術と、緻密な刃のコントロール。
その芸術的ですらある解体作業を、遺跡の入り口に駆けつけていた者たちが息を呑んで見つめていた。
「あれは……何者ですか? あの魔蠍を、たった一人で……しかも、あんな小さなナイフ一本で……っ!」
青い髪をなびかせ、純白の狩衣を纏った美しい女神——アルテミスが、驚愕に見開かれた瞳でその光景を網膜に焼き付けていた。
彼女と彼女の眷族たちは、この地に封印されし魔蠍の復活を察知し、決死の覚悟で討伐に駆けつけたのだ。多大な犠牲を覚悟していた最凶の化け物が、見知らぬ青年の手によって、まるで解体ショーのように次々と無力化されていく。
「最後のトドメだ」
魔蠍が両腕と尻尾を失い、断末魔の悲鳴を上げながらマヤを押し潰そうと巨体を持ち上げた。
マヤはナイフを順手に持ち直し、極限まで圧縮した魔力を刃に纏わせる。
「ふっ!」
下から上へ。マヤが跳躍と共にナイフを振り抜くと、魔蠍の硬大な眉間から脳天にかけて、一筋の細い線が走った。
ズズンッ……! と、魔蠍の巨体が二つに割れ、光の粒子となって崩れ去っていく。魔石すらも精密に両断された、完璧な討伐だった。
「ふう。ナイフの刃こぼれもなし。力加減は完璧だな」
マヤはナイフの刃についた体液を軽く払い、満足げに頷いた。
その時である。
「す、素晴らしい……!」
背後からかけられた声に振り向くと、そこには青髪の女神アルテミスが、頬を紅潮させ、両手を胸の前で組んで立っていた。その後ろには、呆然としているアルテミス・ファミリアの団員たち。
マヤはナイフをしまい、女性に対しては常に紳士的である自身の信条に従い、軽く頭を下げた。
「ああ、あんたたちの獲物だったか? 悪かったな、散歩のついでにちょっと運動したくて、横取りしちまった」
「い、いえ! 謝る必要などありません! 貴方のその洗練された武の美しさ、そして悪しき化け物を討ち果たす気高い精神……!」
アルテミスは、まるで恋する乙女のように目をキラキラと輝かせ、マヤにずいっと歩み寄った。
「貴方が……貴方こそが、私と契りを結ぶ運命の男! 私の『オリオン』なのですね!?」
「…………は?」
マヤの顔から、スッと表情が抜け落ちた。
女性の涙や、理不尽な悲劇に直面した悲しみに対しては、マヤはどこまでも熱く、底なしの慈愛を持って手を差し伸べる。
しかし。
(なんだこの、純度百パーセントのキラキラした好意は……っ!?)
悲劇でもなんでもなく、初対面でいきなり「運命の男!」と目を輝かせてグイグイ迫ってくるタイプの女性は、マヤにとって最も『対処に困る』部類だったのだ。
前世からの忍としての警戒心もあるが、根が純粋すぎる好意を向けられると、逆に気圧されてしまうという意外と初心な一面がある。
「あー……いや、オリオン? ってのはよく分かんねぇけど……」
「オリオン! おお、私のオリオン! どうかお名前を教えてください! そして、私と共に——」
さらに距離を詰めてこようとするアルテミス。
その凄まじい熱量に、マヤは思わず半歩後ずさった。
「あ、はい……おう。じゃ、俺、帰るんで。夕飯の時間だし」
言うが早いか、マヤは忍の神速の歩法——縮地を発動。
シュンッ! と風を切る音だけを残し、マヤの姿は掻き消えるように遺跡から姿を消した。
「あ……」
残されたアルテミスは、呆然と虚空を見つめた。
しかし、彼女の瞳の光は消えるどころか、さらに熱を帯びて燃え上がっていた。
「風のように現れ、私を救い(?)、名乗ることもなく風のように去っていく……。なんて、なんて奥ゆかしく素敵な殿方なのでしょう……!」
アルテミスは自身の胸をギュッと押さえ、うっとりと微笑んだ。
「ふふっ……逃がしませんよ。地の果てまで追いかけますわ、私のオリオン……!」
貞操の女神と呼ばれ、男を極度に嫌っていたはずのアルテミスの、あまりにも重すぎる『ロックオン』。
その背後で、彼女の眷族たちは「アルテミス様が、男に発情している……!?」と、この世の終わりでも見たかのような顔で頭を抱えていた。
***
オラリオ。ロキ・ファミリアの本拠地。
「——ってなわけで、今日、散歩の途中で青い髪の女に『オリオン』って呼ばれたわ」
夕食後の居間。
マヤは、ソファに座るロキの膝の上に頭を乗せ、極上の膝枕を堪能しながら、さも「今日の夕飯、美味かったな」くらいの軽いテンションで報告をした。
その瞬間。
ロキの細い目が、カッ! と限界まで見開かれた。
「…………は?」
「なんか、デカい虫をナイフの素振りついでに解体したら、目をキラキラさせて迫ってきてな。俺、ああいう純粋すぎる真っ直ぐな女って苦手なんだよ。だから適当に返事して帰ってきた」
マヤが欠伸をしながらそう言うと、ロキはワナワナと肩を震わせ、ついに大噴火を起こした。
「青い髪でオリオン!? それ、処女神のアルテミスやないかァァァッ!!」
「痛っ!? おいロキ、耳元で大声出すな」
「お前っ、お前っ! また勝手に神様をタラシ込んできたんかアホ旦那ァァッ! こないだのヘラといい、どんだけ無自覚にフラグ立てて回っとんねん!」
ロキはマヤの頬を両手で挟み、ギリギリと引っ張った。
「いたたた、離せ。別にタラシ込んだわけじゃない。勝手に勘違いされただけだ」
その騒ぎを聞きつけて、執務室から顔を出したフィン、リヴェリア、ガレスの三首領は、重いため息をつきながらお茶の準備を始めた。
「またか……」
フィンが胃の辺りを押さえる。
「マヤ殿の無自覚なタラシ込みは、もはや災害レベルだな。黒龍よりタチが悪いかもしれない」
リヴェリアが呆れ顔で紅茶を注ぐ。
「がははっ! 貞操の女神まで惚れさせるとは、うちの旦那のモテキは留まるところを知らねぇな!」
ガレスだけは面白そうに笑っていた。
「笑い事ちゃうわ! アルテミスはな、一回思い込んだら一直線のクソ真面目な女なんや! 絶対あとで面倒なことになるわ!」
ロキがポカポカとマヤの胸を叩く。
マヤはされるがままにしながら、ロキの手首を優しく掴んだ。
「落ち着け、ロキ。俺はお前の旦那だ。お前が一番の正妻であることに変わりはない」
マヤは真剣な深紅の瞳で、ロキを真っ直ぐに見上げた。
「俺は、前の世界で戦いの中に身を置いていた。明日の命も保証されない世界だ。だから、悲しむ女、俺を必要としてくれる女がいれば、その涙を拭って抱くし、愛を分け与える。そういう死生観(一夫多妻)が骨の髄まで染み付いているんだ」
マヤの言葉は、決して言い訳ではなかった。
ただの女好きではなく、常に死と隣り合わせだった者の、血を吐くような「生」への執着と「愛」の形。理不尽に泣く女性を一人残らず救済するという、彼の美学の根幹である。
「だが、俺が帰る場所は、いつでもお前の膝の上だ。お前が嫌だと言えば、誰とも寝ない。俺の心臓の半分は、お前が握ってるんだからな。……だから、そんなに怒るな。可愛い顔が台無しだぞ」
マヤはそう言って、ロキの鼻先を指でツンと突いた。
「っ……~~~!」
ロキの顔が一瞬にして真っ赤に染まり、頭からぷしゅーっと湯気を噴き出した。
「あ、アカン……ウチ、マヤのそういう真っ直ぐな言葉に弱すぎるんよ……っ。卑怯やわ……」
ロキは完全に絆され、マヤの胸に顔を埋めてぐりぐりと頭を擦り付けた。
「ウチが一番なら……ウチを一番愛してくれてるんやったら、まあ、浮気の一個や二個……いや、やっぱり腹立つけど! ちゃんとウチに許可取るんやで! 隠し事はなしや!」
「ああ、約束する」
マヤが優しくロキの朱色の髪を撫でると、ロキは蕩けたような顔で「えへへ……」と笑い声を漏らした。
「……完全に手懐けられているな」
「ロキ様の威厳が……」
「まあ、丸く収まったならそれでいいじゃねぇか」
三首領たちは、すっかり甘々になった夫婦の空間を眺めながら、平和なティータイムを満喫していた。
しかし、ロキは気づいていなかった。
アルテミスは「悲しむ女」ではなく、「純情で一直線に恋に落ちた女」であるということを。マヤがいくら初心で避けようとも、あの貞操の女神が一度火のついた想いを諦めるはずがない。
オラリオの外で、青髪の女神が「私のオリオン」を探して執念の追跡を開始していることなど、膝枕で心地よさそうに目を閉じる最強の鬼は、まだ知る由もなかった。