オラリオの夜は早い。
喧騒が嘘のように静まり返ったロキ・ファミリアの拠点。その最奥にある主神の寝室には、窓から差し込む淡い月明かりだけが落ちていた。
「——なあ、ロキ。昼間、お前には隠し事はしないと約束したな」
広いベッドの中。シーツに包まり、自身の厚い胸板にすり寄ってくる小さな女神の朱色の髪を撫でながら、マヤは静かに口を開いた。
「ん……なんや、急に改まって」
ロキは心地よさそうに目を細めたまま、マヤの首元に顔を埋める。
「昼間の、青い髪の女神(アルテミス)の件だ。勝手に勘違いされたとはいえ……俺がすぐに振り切って帰ってきたのには、理由がある」
「ん? なんや、あの不殺の処女神様にビビって逃げてきたんか?」
くすくすと笑うロキに対し、マヤは自嘲気味に息を吐いた。
「ビビったわけじゃない。ただ……俺は昔から、ああいう打算のない『純度百パーセントの真っ直ぐな好意』を向けられると、どうしようもなく調子が狂うんだ。……正直に言えば、苦手というか、しどろもどろになる」
「は……? マヤが?」
ロキは驚いて顔を上げた。あのオラリオ最強の男たちを木の棒一本で無慈悲に解体し、ヘラや女帝を息をするように口説き落とした規格外の鬼が、純粋な好意にはタジタジになって逃げ帰ってきたというのか。
神の眼(アルカナ)を通して見ても、マヤの言葉に一切の嘘はない。
「嘘やろ……あんた、そんな初心(うぶ)やったんか?」
「……笑いたければ笑え。ついでに言うなら、俺がこの世界に来てすぐ、お前に『旦那になる』『子供を産め』と迫ったこと……あれも、ずっと謝りたかったんだ」
マヤの真剣な声音に、ロキは瞬きをした。
「ここに来る前の場所……前の世界では、俺はまだ幼かった。そして、戦いの中で俺が救った奴らの『笑顔』が周りにたくさんあったから、俺の中の鬼は安定していたんだ。だが、この見知らぬ世界に降り立った時、俺の周りには守るべき笑顔が一つもなかった。俺の魂を繋ぎ止める絶対的な命綱——『正妻』がいなければ、俺はすぐにでも内なる闘争本能に飲まれ、暴走してしまう状態だったんだ」
マヤはロキの細い肩を、壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた。
「だから、初対面のお前にあんな無作法な真似をした。俺のエゴで、お前をストッパーとして巻き込んだんだ。……本当に、すまなかった」
深く頭を下げるようなマヤの響きに、ロキはしばらく呆けた後、ふっと優しく微笑んでマヤの頬を撫でた。
「アホやなぁ。ウチは神様やで? あの時、お前の瞳の奥にどれだけの切実なもんがあったか、ちゃんと見えとったわ。それに、今はこうしてウチを一番に愛してくれとる。それで十分や」
「……ありがとう、ロキ」
マヤは安堵の息を漏らすと、さらに自身の奥底にある『重い真実』を紡ぎ始めた。
「俺がなぜ、そこまで暴走を恐れるのか。俺たち『鬼』の歴史の話だ。……かつて、俺の同族の中には、二つの道を選ぶ者がいた。一つは俺のように、大切な女の笑顔を守るために生きる道。そしてもう一つは——その圧倒的な力に任せて女を奪い、陵辱し、殺戮を尽くす『修羅』の道だ」
ロキの背筋が、ゾクリと粟立った。
マヤの深紅の瞳の奥に、血の池地獄のような凄惨な過去の光景が揺らめいているのを感じたからだ。
「力で女を蹂躙する同族が、俺は許せなかった。だから……俺の代で、その『修羅』を選んだ一族を、一人残らず俺の手で滅ぼした」
「マヤ……」
「修羅たちを滅ぼしたからこそ、俺は自身の持つ力で『女性を傷つけること』『壊してしまうこと』を極端に恐れるようになった。ゼウスのような、女を泣かせる下半身だけの男を嫌悪するのもそのためだ。……俺は、ずっと臆病だったんだ」
マヤは少し恥ずかしそうに視線を逸らし、ポリポリと頬を掻いた。
「前の世界で、俺には許嫁がいて同棲もしていたんだが……俺からは怖くて指一本触れられなかった。初めてキスをしたのも、俺からじゃなく、しびれを切らした彼女の方から無理やり奪われたんだ。俺はただ情けなく『キスしてー』ってねだることしかできなかった」
「——ぶっ!!」
そのあまりにも強烈なギャップに、ロキはたまらず吹き出した。
「あははははっ! ひゃーっはっはっは! 嘘やろ!? あの最強の旦那様が、嫁に手ぇ出せんで『キスしてー』って!? 傑作やわ!」
腹を抱えてベッドの上を転げ回るロキ。マヤは渋い顔をしてため息をつくが、ロキが心底楽しそうに笑ってくれていることに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「……だが、そんな俺のタガが外れ、一夫多妻を受け入れるようになったのには、どうしても避けられない理由があるんだ」
笑い転げていたロキが、涙目になりながらも真面目な顔に戻る。
「理由って?」
「俺の中の『修羅の鬼』が放つ闘争本能だ。敵から向けられる恐怖や絶望といった負の感情を浴びるたび、俺の内なる鬼は暴れ狂おうとする。正妻であるお前の笑顔が一番の薬だが……俺が抱え込む業が深すぎる時、お前一人だけにその重圧(ストッパー)を背負わせるのは、酷すぎる」
そして、マヤは極めて真面目な、しかし切実な顔でロキを見つめた。
「それに、もう一つ。……極めて物理的な問題だ」
「物理的?」
「ああ。俺の鬼としての闘気と、夜のスタミナは規格外だ。手加減はしているつもりだが……もし俺が完全に理性を飛ばして、一人の女だけを毎晩抱き続けたら、間違いなくその女の体(腰)が物理的に砕けて壊れてしまう」
「——ッ!?」
ロキの顔が、ボンッ! と音を立てて茹でダコのように真っ赤に染まった。
それは、昼間のヘラの言葉を借りるなら、まさに『オーバーヒート』である。
「俺はお前を誰よりも愛している。お前の笑顔を守るためなら、世界中を敵に回して理不尽をぶっ壊す。……だが、俺の我慢が限界を超えた時、俺の大切なお前を壊してしまうことだけは絶対に避けたいんだ。だから……」
マヤはロキの手を握り、深く頭を下げた。
「その時が来たら、お前の負担を分担し、俺の心を鎮めるための存在として……他の女を受け入れることを、許してほしい」
シン、と。
寝室に静寂が落ちる。
ロキは真っ赤な顔のまま、マヤの言葉を反芻していた。ただの性欲や浮気心ではない。それは彼が背負う『修羅の業』であり、何よりも正妻である自分を絶対に壊さないための、命懸けの懇願だった。
「…………アホ」
沈黙を破り、ロキはマヤの頭をポンと叩いた。
「神様をなめんな。ウチがそんな簡単に壊れるかい……って言いたいところやけど」
ロキは自身の腰をさすりながら、少しだけ視線を泳がせた。
「た、確かに……最近のあんたのソレは、神のウチでも翌日まともに歩けんくなるくらい化け物やからな……。ウチが限界の時に無理して壊れたら、元も子もないわ」
ロキは観念したように息を吐き、マヤの首に腕を絡ませた。
「ええよ。あんたの事情も、優しさも、全部ウチの眼で確かめたわ。……ウチが限界の時は、ウチが『コイツならええ』って認めた女だけ、抱くのを許したる。ウチを通さん隠し妻は絶対に許さへんからな!」
「ロキ……」
「その代わり、誰が増えようが、ウチが一番の正妻や。それだけは絶対に忘れんなよ?」
「ああ。俺の命綱は、いつだってお前だけだ」
マヤが心からの感謝と共にロキを強く抱きしめると、ロキは嬉しそうに目を細め、そのまま自分からマヤの唇を塞いだ。
「ほんなら……ウチが限界になって他の女に頼る前に、ウチの事、壊れるギリギリまでたっぷり愛してみぃや。……ウチの旦那様?」
挑発的な、しかし蕩けるような熱を帯びた女神の誘い。
最強の鬼は、もう我慢する必要などないとばかりに暗い熱を瞳に宿し、愛する正妻の身体を深い夜の帳へと沈めていった。
理不尽な悲劇を壊し、女の笑顔を守り抜く鬼。
彼がこのダンまちという新たな世界で、本格的に『無自覚な救済(ハーレム)』の嵐を巻き起こしていくのは、この夜からもう少しだけ先の話である。