「——号外! 号外だぁぁぁッ!! ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが、黒龍討伐に失敗し壊滅!! 両ファミリアはオラリオからの撤退を表明したぞぉぉッ!!」
迷宮都市オラリオは、文字通りひっくり返ったような大騒ぎに包まれていた。
絶対王者として君臨していた二大巨頭の突然の敗北と撤退。街の住人や冒険者たちは、世界最凶の厄災である黒龍の恐ろしさに震え上がり、同時に空席となった『オラリオの頂点』の座を巡って、街全体が異様な熱気と混乱の渦に飲み込まれていた。
しかし。
そんな街の喧騒などどこ吹く風とばかりに、新興のロキ・ファミリアの本拠地では、極めてのんびりとしたティータイムが営まれていた。
「せやろ? ウチの旦那がやったんやで〜。んふふふふっ」
居間の特等席、すなわちマヤの膝の上に陣取った主神ロキは、にまにまとだらしない笑みを浮かべながら、手元のクッキーを齧っていた。
その対面に座るフィン、リヴェリア、ガレスの三首領は、滝のような冷や汗を流しながら完全に固まっていた。
「ロ、ロキ様……今、なんと?」
フィンが引きつった笑顔で問う。
「やから、ゼウスとヘラの連中をボコボコにして、引退に追い込んだんはマヤやって言うとるんよ。あいつら、マヤに恐れをなして田舎に引っ込んだんやわ。傑作やろ?」
「…………」
三人は絶句した。
黒龍ではない。目の前でロキに膝枕を提供し、優雅にお茶を啜っているこの赤髪の青年が、オラリオの最高戦力たちを単身でねじ伏せたというのだ。
(いや、マヤ殿ならやりかねない……)
(だが、いったい『何をやった』というのだ……? あのレベル7やレベル9の化け物たちを相手に……?)
三人の脳裏に、凄惨な血の海や、地形が変わるほどの破壊の光景が浮かぶ。
「マヤ殿……貴方、ゼウスとヘラに一体何を……?」
恐る恐る尋ねるリヴェリアに対し、マヤは事も無げに答えた。
「ん? ああ、適当に事実と理屈を突きつけて、ちょっとばかりわからせてやっただけだ。女を死地に立たせるような連中の覚悟なんて、底が知れてるからな」
その言葉の裏にある『圧倒的な暴力と精神の粉砕』を察知し、三人の頭はショート寸前——ボンッ、と爆発しそうになっていた。
(これ以上は、聞いたらダメなやつだ……!)
第一級冒険者としての本能が、彼らの口を固く閉ざさせた。
「まあ、そんなことはどうでもいい」
マヤはロキの頭を優しく撫でて膝から降ろすと、ゆっくりと立ち上がり、首をコキリと鳴らした。
「おい、団長様。久々に稽古の時間だ。ガレス、リヴェリアもな」
「け、稽古……ですか?」
フィンが嫌な予感に声を震わせる。
マヤは懐から、三つの『得物』を取り出し、テーブルの上に並べた。
一つ。ドス黒い血がべっとりとこびりついた、不気味な木の棒。
一つ。そこら辺で拾ってきたような、綺麗な木の棒。
一つ。ギラリと冷たい光を放つ、無骨なサバイバルナイフ。
「リヴェリアには悪いが、これも実戦を想定した稽古だ。普段なら俺は女には手を出さないが……戦場ではそうも言ってられないからな」
マヤは三人を順番に見据え、不敵に笑った。
「選ばせてやる。この血がついた棒と、綺麗な棒、そしてナイフ。……どれでやろうか? 今日から一週間、みっちり稽古をしてやる。オラリオの頂点に立つために、お前たちも強くなりたいのだろう?」
その瞬間、フィン・ディムナのパルゥムとしての危機察知能力が限界突破した。
ナイフは論外(死ぬ)。血のついた棒は、おそらくゼウス・ヘラ陣営の誰か(おそらく最強クラス)を粉砕した際の怨念と激痛が染み付いている(絶対に死ぬ)。
「き、綺麗な棒でお願いしますッ!! 女性(リヴェリア)もいるんですから、せめて清潔なもので!!」
フィンは迷うことなく、光の速さで綺麗な木の棒を指差した。
「そうか。まあ、俺はどれでもいいが」
マヤは綺麗な棒を左手に持ち、なぜか右手には『血のついた棒』を握り直したまま、裏庭の訓練場へと歩き出した。
「えっ? マヤ殿、綺麗な棒を選んだはずでは……?」
「ああ。女性(リヴェリア)を叩くのは綺麗な棒だ。……お前ら男衆は、こっちの血のついた方で十分だろう?」
悪魔の宣告だった。
ロキ・ファミリアの裏庭。
そこはすぐに、阿鼻叫喚の地獄と化した。
「ガレス! フィン! 女を守れ! お前たち前衛の役目だろうが!!」
ダァァァンッ!! という爆音。
「ごぁぁぁぁぁぁっ!?」
マヤの振るう『血のついた棒』が、ガレスの分厚い戦斧ごと彼の巨体を吹き飛ばす。ドワーフの硬い肉体すら貫通する、神経を直接焼くような理不尽な激痛。
「ぐっ……! マヤ殿、速すぎ……っ!」
フィンが死に物狂いで槍を突き出すが、マヤはそれを血のついた棒で軽く弾き返し、そのままフィンの鳩尾に棒の先端を沈めた。
「かはっ……!」
「隙だらけだ。お前らが倒れれば、後ろの女が死ぬぞ」
マヤは瞬身の歩法で前衛二人をすり抜け、後衛で必死に魔力を練り上げていたリヴェリアの目の前へと一瞬で肉薄した。
「なっ——」
「守れないと、こうなるぞ」
トンッ。
マヤの左手に握られた『綺麗な木の棒』が、リヴェリアの肩を軽く叩く。
「ぁ、ああっ……!?」
見た目はただ触れただけ。しかし、そこに込められた極限の生命エネルギー(魔力)の浸透によって、リヴェリアは肩の骨が砕け散ったかのような激痛に襲われ、膝から崩れ落ちた。詠唱が完全に中断される。
「痛いか、リヴェリア。だが、実戦なら今ので首が飛んでいる」
マヤは見下ろすように冷たく言い放つ。
この世界の魔法使いは、強力な魔法を放つために長い詠唱を必要とする。アルフィアのような短文詠唱の例外を除き、リヴェリアのような超広域・高火力の魔法使いくらいになれば、その隙は致命的なものとなる。
「立て、ガレス。フィン。俺は言ったはずだ、女を泣かせる男は三流だと」
マヤは倒れ伏す二人の男に、冷徹な視線を向けた。
「お前たちの後ろにいるのは、大切なファミリアの家族であり、誇り高き女性だ。前衛(おとこ)が泥水すすってでも立ち上がって時間を稼がなければ、彼女は魔法を撃つこともできずに無惨に散る。そんな悲劇を許すのか?」
マヤの脳裏に、かつて滅ぼした『修羅』たちの姿がよぎる。力に溺れ、女を守るどころか蹂躙した愚か者たち。
それを否定し、真の強さ——『笑顔を守るための力』を叩き込むため、マヤはあえて冷酷な教官に徹していた。
「俺は、女を泣かせる奴を一人残らず滅ぼしてきた。お前たちが本気でオラリオの頂点に立つ気なら、女一人守り抜く執念を見せてみろ。詠唱が終わるまで、俺の棒を耐え抜いてみろッ!」
「——おおおおおッ!!」
マヤの言葉に、男たちのプライドが爆発した。
激痛に耐え、ガレスが血走った目で戦斧を構え直す。フィンもまた、折れかけた心を奮い立たせ、リヴェリアの前に立ち塞がった。
「リヴェリア! 詠唱を急げ! 僕たちが必ず止める!」
「フィン、ガレス……っ! ——『やがて来る戦の森』!」
リヴェリアが唇を噛み締め、オラリオ屈指の長文詠唱を開始する。
「いい顔だ。だが、遅い」
マヤの血のついた棒が、再び容赦なく二人へと襲い掛かる。
防いでも防いでも、すり抜けられ、叩かれ、弾き飛ばされる。
「がはっ!」
「ぐおぉっ!」
男二人がボロボロになりながらも、決してリヴェリアへの射線だけは通すまいと必死の防衛線を構築する。
幾度となく崩れかけ、その度にマヤの放つ医療魔法(治癒の気)によって強制的に立たされ、再び殴られる。
——地獄の一週間。
それは、のちにオラリオの絶対王者となるロキ・ファミリアの首脳陣に、決して折れない『女(後衛)を守り抜く前衛の矜持』と、マヤという規格外の存在への『絶対的なトラウマ』を細胞レベルで刻み込むための、狂気の特訓の日々であった。
縁側では、特訓の様子を見ながら、ロキがお茶を啜りつつにんまりと笑っている。
「ええぞー! 男ども、気張りやー! ウチの旦那の愛のムチ、しっかり受け止めなはれ!」
ゼウスとヘラが去り、覇権が交代したオラリオ。
その新たな頂点に立つファミリアの裏側には、こうして女の笑顔を守ることを至上とする、一人の最強の鬼の姿があった。