第16話:闇派閥の致命的な誤算と、日常からの出陣
それは今から数年前、ロキ・ファミリアがオラリオの覇権を握ってからしばらく経ったある日のこと。
「——おい! どこから攫ってきたんだガレス! お前、いくらなんでも酔っ払ってよその子供を拾ってきたわけじゃないだろうな!?」
ロキ・ファミリアの拠点の居間に、マヤの盛大なツッコミが響き渡った。
彼の視線の先には、ダンジョン探索から帰還したフィン、リヴェリア、そしてガレスの三首領の姿がある。問題は、分厚い鎧を着たガレスの太い腕の中に、泥と血にまみれた見知らぬ金髪の幼女——アイズ・ヴァレンシュタイン(当時7歳)が抱えられていたことだ。
「がははっ! 人聞きが悪いぜ旦那。ダンジョンでモンスターの群れに襲われていたところを保護したんだ。身寄りもねぇらしいからな」
「保護って……お前ら、ウチが孤児院か何かに見えてるのか」
マヤが頭を抱えながら、特等席である自身の膝の上へ視線を落とす。そこには、ファミリアの主神であるはずのロキが、「マヤぁ〜、ウチにも構ってやぁ〜」とだらしなく擦り寄っていた。
「おい、ロキ。お前のファミリアだろ。主神としてこの子の面倒を見てやれ」
「えー? ウチはマヤの相手で忙しいんや。子供の世話なんてリヴェリアかマヤに任せるわぁ」
「お前なぁ……」
結局、ロキがマヤに夢中で全く使い物にならないため、アイズの身体を洗い、傷の手当てをし、食事を与えるという母親(あるいは主夫)のような役目は、すべてマヤが引き受けることになったのだった。
***
——そして現在。
オラリオが『暗黒期』と呼ばれる動乱の時代へと突入していた頃。
「ほら、口の周りにケチャップがついてるぞ。ちゃんと拭きなさい」
「……ん」
拠点の居間。9歳になったアイズは、マヤの隣にちょこんと座り、彼の手作りの『ポテトの丸揚げ(後のジャガ丸くんのようなもの)』をモグモグと無表情に頬張っていた。
幼いながらも剣の才能を開花させ始めているアイズだが、マヤの前ではただの食いしん坊な少女である。熱々のポテトをリスのように頬張り、幸せそうな気配を小さな背中から漂わせている。
「よく食うな。美味いか?」
「……(コクコク)」
声を出さずに高速で頷くアイズを見て、マヤはふっと表情を和らげ、彼女のサラサラとした金髪を優しく撫でた。
「やっぱり、女の子が美味そうにご飯を食べる姿ってのはいいな。笑顔があれば最高なんだが、お前のそのわかりやすい幸せオーラも悪くない」
女の涙を何よりも嫌い、笑顔を守ることを信条とするマヤにとって、アイズが安全な場所で美味しいものを食べているこの日常風景は、内なる『鬼』の闘争本能を鎮める極上の癒やしであった。
平和だ。このまま夕飯の仕込みにでも入ろうか。
そう考えていたマヤの耳に、慌ただしい足音が飛び込んできた。
「マヤ殿! ロキ様!」
バンッ! と居間の扉が開き、団長のフィンが厳しい表情で駆け込んできた。その後ろにはリヴェリアとガレスも続いている。
「どうした、少年。そんな怖い顔をして」
マヤがアイズの口元を布巾で拭いながら尋ねると、フィンは息を整え、重々しい口調で報告を始めた。
「街の暗部で、闇派閥(イヴィルス)が大規模な罠を張っていたようです。……『正義』を掲げて彼らを追っていたアストレア・ファミリアが、完全にその網に掛かりました。現在、退路を断たれて孤立無援の状態とのことです!」
その報告を聞いた瞬間、居間の空気が一変した。
闇派閥。オラリオの破壊と混乱を目論む絶対悪の集団。
彼らは、絶対王者であったゼウスとヘラが消えた今のオラリオを「運良く巨頭が去っただけの空き家」程度にしか認識していなかった。現在のオラリオの真の支配者であり、裏の守護者である『ロキの旦那』の異常な実力など、知る由もなかったのだ。
「……アストレア・ファミリア、か」
マヤは静かに呟いた。
純粋な正義を掲げ、オラリオの平和のために戦う乙女たちのファミリア。マヤも何度か街で見かけたことがあった。
罠にハメられ、逃げ場のない死地に立たされた乙女たち。そこから生み出されるのは、マヤがこの世で最も嫌悪する『理不尽な悲劇』と『女の涙』だ。
「おいおい、どこの三流劇だよ。胸糞悪い」
マヤの深紅の瞳に、ひんやりとした暗い光が宿る。
彼はゆっくりと立ち上がると、エプロンを外し、いつもの黒と朱色の戦闘服の襟を正した。
「マ、マヤ殿……?」
「ちょっと散歩して、街の『害虫駆除』をしてくる」
マヤは隣で不思議そうに見上げているアイズの頭をポンと叩き、優しく告げた。
「アイズ。おやつ、俺の分もちゃんと残しておけよ。すぐ戻るからな」
「……うん。いってらっしゃい」
アイズの小さな声に見送られ、マヤは一切の気負いも悲壮感もない、ただ近所の寄り合いにでも出かけるような足取りで、ふらりと拠点を出て行った。
***
オラリオの地下深く、迷宮と繋がる薄暗い暗部の隔離区画。
そこは今、絶望と死の匂いに満ち溢れていた。
「あははははっ! いいわぁ、その顔! もっと絶望しなさいよ、正義の味方さんたち!」
下劣な笑い声を響かせているのは、闇派閥の幹部の一人、ヴァレッタ・グレーデだった。
彼女の周囲には、無数の闇派閥の兵士たちが立ち並び、完全に包囲網を敷いている。
そして包囲の中心——退路を完全に断たれた広間の中央で、アストレア・ファミリアの乙女たちは背中合わせになり、満身創痍の状態で武器を構えていた。
「くっ……アリーゼ、どうするの! このままじゃ、全滅よ!」
エルフの少女・リューが、息を荒げながら叫ぶ。
「分かってるわ! でも、周りの壁を見て……!」
団長であるアリーゼが悲痛な声を上げた。
彼女たちを囲む壁や床には、ヴァレッタが仕掛けた凶悪な『爆発系の魔道具』と、触れただけで命を削る『呪詛の魔法陣』がびっしりと敷き詰められていた。一歩でも動けば起爆し、全員が肉片となる完璧な死地。
「他人の希望がへし折れ、絶望に染まって死んでいく顔……たまらないわぁ! あんたたちの掲げるペラペラな『正義』ごと、ここで消し飛んじゃいなさい!」
ヴァレッタは嗜虐的な笑みを浮かべ、舌なめずりをした。
彼女は、乙女たちが泣き叫び、無様に命乞いをする姿を見るのが何よりも好きだった。他者の痛みを嗤い、女を甚ぶり、その悲鳴を肴にする残虐なクズ。
「……みんな、聞いて」
アリーゼが、覚悟を決めたように声を落とした。
「私が、あの魔法陣の起爆を……全力で引き受ける。その一瞬の隙を突いて、リュー、輝夜、ライラ……貴女たちは絶対にここから抜け出して!」
「なっ!? 何を言っているの、アリーゼ! そんなことさせないわ!」
リューが血相を変えて叫ぶ。
「それしか方法がないの! 誰かが犠牲にならなきゃ、アストレア様を悲しませることになる……! お願い、私の正義(いのち)を、無駄にしないで……っ!」
自己犠牲。
仲間を生かすため、自身の命を投げ打って死地に飛び込もうとする悲壮な決意。
乙女たちの瞳から、絶望と別れの涙が溢れ出そうとしていた。
「あーっはっはっは! 素晴らしいわ! 美しい友情! 涙ぐましい自己犠牲! でもねぇ、そんなお涙頂戴の三流芝居で逃げられると思わないことね!」
ヴァレッタが起爆のスイッチとなる魔石を高く掲げ、残酷な宣告を下そうとした、その時だった。
『——同感だな』
「え……?」
突如、張り詰めた地下の空気を切り裂くように、極めて平坦で、緊張感の欠片もない男の声が響いた。
ヴァレッタも、アリーゼたちも、闇派閥の兵士たちも、全員が一斉に声の方向へと視線を向ける。
「自己犠牲なんて安っぽい感動ポルノ、誰も喜ばねぇよ。お前らがやってるのは、本当に底の浅い三流劇だ」
魔法陣が敷き詰められた危険地帯のド真ん中。
そこへ、音もなく『ふらり』と現れたのは、燃えるような赤髪と深紅の瞳を持つ青年だった。
武装らしい武装もせず、ポケットに両手を突っ込んだままの無防備な立ち姿。まるで、休日の散歩の途中で道を間違えて迷い込んだかのような、圧倒的な場違い感。
「よぉ。ずいぶんと物騒なパーティーだな。お嬢ちゃんたち」
マヤは、周囲を取り囲む何百という殺意や、即死級の罠など全く気にも留めず、アリーゼたちに向かって気さくに手を挙げた。
オラリオを闇に染めようとする絶対悪と、他者の痛みを嗤う下劣なクズ。
マヤがこの世で最も嫌悪し、かつて一人残らず滅ぼし尽くした『修羅』と同じ匂いを放つ害虫たちを前に、鬼による、理不尽極まりない舞台が今、静かに幕を開けた。