天界から降り立ったばかりの女神ロキが、規格外の鬼と運命的な、邂逅を果たしてから数日が経過していた。
下界の田舎村の外れ。見捨てられた荒野にポツンと建っていたはずの廃屋は、今や見違えるほど快適な住空間へと変貌を遂げている。マヤが身体的スペックによるリフォームにより、隙間風の吹く室内は適温に保たれた居心地の良い空間となっていた。
「ん〜っ! まやぁ、これめっちゃ美味しいわ! なんなんこれ、天界の神酒(ソーマ)のツマミよりいけるで!」
「そうか。お前の口に合って何よりだ。ほら、口元にきな粉がついてるぞ」
「んへへ、とってぇや。……あーん」
昼下がりの穏やかな陽光が差し込む部屋の中。
かつてトリックスターとして神々をからかい、退屈を嫌って斜に構えていたロキの面影は、そこには一切なかった。
彼女は今、マヤの太ももの上にすっぽりと収まり、彼に背中を預けるようにしてイチャついている。マヤが手作りした特製の甘味——異世界の知識を元に作られた三色団子——を頬張りながら、蕩けきった表情で甘い声を上げていた。
出会って数日。二人の関係は、すでに男女の一線を越えている。
『いずれ俺の子を産んでもらう』というマヤの宣言は、決してただの脅しや冗談ではなかった。その日の夜、マヤは圧倒的な雄としての熱と、泣いた赤鬼を救う青鬼としての底なしの優しさをもって、ロキの身も心も徹底的に愛し抜いたのだ。(神の体ゆえに容易には身籠らないと分かってはいても、彼が注ぎ込む愛の深さは狂おしいほどだった)
数千年の純血を散らし、男に愛される悦びを骨の髄まで叩き込まれたロキは、すっかりマヤの虜になっていた。元来の寂しがり屋な気質も相まって、今では一時もマヤから離れようとしない。少しでも肌が離れれば機嫌を損ね、夜になれば自ら寝間着の胸元をはだけてすり寄っていく有様である。
「お前は本当に美味そうに食うな。見ていて飽きない」
「マヤのご飯が美味しすぎるんやもん。それに……マヤに抱っこされながら食べるんが、一番のスパイスやからな」
マヤの大きな手がロキの朱色の髪を優しく撫で、そのまま首筋から鎖骨へと滑る。昨夜つけられたばかりの赤い痕を指の腹でなぞられると、ロキは身をよじって甘い吐息を漏らした。
「あんっ……マヤ、あかんて。こんな昼間から……またしたくなってきたやんか」
「俺は一向に構わないが?」
「もう、マヤのえっち。……でも好き」
イチャイチャ、デレデレ。
世界を統べる神威など微塵も感じさせない、甘ったるい新婚夫婦のような空気が部屋に充満していた。
——しかし、その閉ざされた甘い空間の扉が、不意に叩かれた。
「……あの、ごめんください。神様、いらっしゃいますか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、まだ声変わりしきっていない少年の、緊張に震える声だった。
マヤは動きを止め、扉の方へ視線を向ける。事象を掌握する彼の感覚は、すでに訪問者の正体を正確に捉えていた。
「客のようだぞ、ロキ」
「えー……せっかくエエ雰囲気やったのに。誰やねん、空気読めへん奴やな」
ロキは不満げに唇を尖らせながらも、マヤの膝の上から降りる気配は一切ない。むしろ「ウチの旦那やで」と誇示するかのように、さらにマヤの胸板へすり寄った。
「入れ。鍵は開いている」
マヤの低く通る声に促され、ギィ、と古い木扉が開く。
そこに立っていたのは、身の丈に合わない大きな長槍を背負った、金髪碧眼の少年だった。
小人族(パルゥム)の少年——名を、フィン・ディムナ。後にオラリオの最大派閥を率い、
『勇者(ブレイバー)』と称されることになる弱冠14歳の少年である。
彼は一族の衰退を嘆き、パルゥムの誇りを取り戻すための『光』となるべく、自らの主神となってくれる存在を探し求めてこの辺境まで足を運んできたのだ。
フィンは部屋に足を踏み入れ、そこに漂う神威——隠しきれないロキの神としての気配——を感じ取り、その場に片膝をついて深く頭を下げた。
「初めまして。僕は小人族のフィン・ディムナと申します。偉大なる神様にお目にかかれたこと、光栄に思います」
緊張で声が裏返りそうになるのを必死に抑え、フィンは己の生涯を懸けた大一番の口上を述べ始めた。
「唐突な願いであることは承知しています。ですが、どうか僕の主神になっていただけないでしょうか! 僕は一族の復興のために、どうしても神の恩恵(ファルナ)と、導いてくださる主神が必要なのです。どうか、僕をあなたの眷族に——!」
勇気を振り絞った、熱意あふれる逆オファー。
本来であれば、神々にとってもこれほど真摯な下界の者の願いは、一考に値するものであるはずだ。
しかし。
「あーん、マヤ、もういっこお団子ちょうだい!」
「ほら、口を開けろ。……ん、上手に食えたな」
「えへへぇ〜。マヤの手から食べると百倍美味しいわぁ」
フィンの熱弁は、完全にスルーされていた。
恐る恐る顔を上げたフィンの目に飛び込んできたのは、神威を放つ偉大な女神が、見知らぬ赤髪の青年に抱きつきながら団子を口に運ばれているという、絶望的に緊張感のない光景だった。
「あ、あの……神様?」
困惑するフィンに対し、ロキはようやく面倒くさそうに片目を向けた。
「んん? ああ、なんや小っこい兄ちゃん。眷族になりたいやと? 悪いけどな、見ての通り今、ウチは旦那と絶賛イチャついとる最中なんや。そういう込み入った話は後にしてくれへん?」
「えっ……だ、旦那、様……?」
神に旦那がいる? しかも、こんな辺境のボロ屋(内装はやたらと綺麗だが)で?
フィンの聡明な頭脳が、目の前のシュールな状況を処理しきれずにフリーズしかけた。
だが、次の瞬間——フィンの全身の毛穴がブワッと開き、心臓が早鐘のように鳴り始めた。
小人族特有の鋭敏な危機察知能力。特にフィンの右手の親指が、かつてないほどの激痛に近い痙攣を起こして『警告』を発していた。
(な、なんだ……この気配は……!?)
フィンの視線が、ロキを膝に乗せている赤髪の青年——マヤへと向けられる。
異質な装束の上に、なぜか家庭的なエプロンを身につけている男。
だが、その内側から漏れ出るプレッシャーは、尋常ではなかった。
神々が持つ威圧感とは違う。それは純粋な『暴力』と『死』の濃度。何百、何千という死線を潜り抜け、あらゆる理不尽を暴力と理屈でねじ伏せてきた者だけが持つ、絶対的な強者のオーラ。
抑え込まれているはずの気配の端切れに触れただけで、14歳のフィンの呼吸は浅くなり、全身から滝のような冷や汗が噴き出した。
(神様じゃない……人間、なのか? いや、違う。エルフでもドワーフでもない。まるで、実体を持った『災害』が、人間の皮を被ってエプロン姿で笑っているような……!)
神を凌駕するほどの怪物。それが、女神の頭を優しく撫でながら、手作りの団子を食わせている。
あまりのカルチャーショックに、フィンの足の震えが止まらなくなった。
そんなフィンの様子を見て、マヤは苦笑しながらロキの頭を軽く小突いた。
「おいロキ、あまり意地悪を言うな。彼はちゃんと名乗り、敬意を持って頭を下げたんだ。義には礼で応えるのが筋だろう」
「むぅ、マヤがそう言うならしゃーないなぁ。ウチはマヤの言うことなら何でも聞く、出来た嫁やからな!」
ロキはマヤの頬にチュッと音を立ててキスをすると、ようやく居住まいを正した。
マヤはロキの腰に腕を回したまま、深紅の瞳でフィンを見つめた。
その視線が交差した瞬間、フィンはまるで魂の底まで見透かされたような錯覚を覚えた。
「フィン・ディムナと言ったな。俺はマヤ。ここの主夫……いや、ロキの旦那をやらせてもらっている鬼族だ」
「お、鬼族……?」
「ああ。立ち話もなんだ、そこへ座れ。パルゥムの誇りとやらを聞かせてもらうぞ。腹は減っているか? 団子ならまだある」
圧倒的な恐怖と、それに相反するような深い包容力。
「なんなんだ、このファミリアは……」
神よりも強大で家庭的な鬼の旦那と、それに完全に骨抜きにされている女神。
後にオラリオに名を轟かせるロキ・ファミリアの記念すべき第一歩は、フィンにとって生涯忘れることのできない、胃の痛くなるようなカルチャーショックから幕を開けたのだった。