死の罠が張り巡らされた地下の隔離区画。
絶望に染まりかけていたアストレア・ファミリアの乙女たちと、勝利を確信していた闇派閥(イヴィルス)の兵士たち。その両者の視線が、突如として現れた場違いな赤髪の青年——マヤに集中した。
「……は? 誰よ、あんた。どこから入り込んだの?」
静寂を破ったのは、闇派閥の幹部であるヴァレッタ・グレーデだった。
彼女は自身の敷いた完璧な包囲網と魔法陣の中に、全くの無傷で、しかも足音一つ立てずに侵入した男を胡散臭げに睨みつけた。
「逃げて! そこは罠のど真ん中よ! 動いたら起爆するわ!」
アリーゼが血相を変えて叫ぶ。
しかし、マヤはポケットから手を出すことすらせず、退屈そうにあくびを一つ噛み殺した。
「罠? ああ、足元でチカチカ光ってるこの落書きのことか。出来が悪すぎて罠だと気づかなかったよ」
「……落書きですって?」
ヴァレッタの顔から笑みが消え、ピクリと眉が引きつった。
「あはっ、あはははは! いいわ、馬鹿がもう一人増えただけね! お前も正義の味方さんたちと一緒に、絶望の叫びを上げて肉片になりなさい! 起爆(スイッチ)!!」
ヴァレッタが手元の魔石を強く握り込み、高らかに叫ぶ。
それは、空間の壁と床にびっしりと描かれた起爆式魔道具と、即死級の呪詛の魔法陣をすべて一斉に起動させる合図だった。
アリーゼたちが死を覚悟し、ギュッと目を閉じる。
轟音が鳴り響き、灼熱の爆炎がマヤと乙女たちを飲み込む——はずだった。
『ポンッ! パァァァンッ!! パラパラパラ……』
「……え?」
ヴァレッタの口から、間抜けな声が漏れた。
目を閉じていたアリーゼやリューたちも、いつまで経っても訪れない熱と痛みに恐る恐る目を開ける。
そこにあったのは、爆炎でも死の呪詛でもなかった。
魔法陣からは、色鮮やかな『花吹雪』が大量に噴き出し、起爆用の魔道具からはヒュルヒュルと間抜けな音を立てて『打ち上げ花火』が天井に向かって放たれていたのだ。
殺戮の舞台となるはずだった薄暗い地下空間は、一瞬にして、極彩色に彩られたお祭り騒ぎのシュールな光景へと変貌してしまった。
ヒラヒラと舞い散る花びらを頭に乗せたリューが、呆然と呟く。
「花、吹雪……? いったい、何が……」
「なっ……なんなのよコレ!! 私の罠が……呪詛の魔法陣が、どうして花火になってるのよ!!」
パニックを起こし、金切り声を上げるヴァレッタ。
そんな彼女に対し、マヤは降ってくる花びらをフッと息で吹き飛ばしながら、冷ややかに告げた。
「お前らの使ってる魔法陣や魔道具の術式は、無駄が多くて隙だらけなんだよ。だから、俺が少しだけ極限の魔力操作と術式介入を行って、起動のプロセスを書き換えてやったのさ。爆炎のエネルギーは光と音に、呪詛の魔力は花びらの生成に変換するようにな。……どうだ? 陰惨な爆発より、こっちの方がずっと綺麗で、女の子も喜ぶだろ?」
魔法や魔道具を構成する術式そのものに外部から干渉し、強制的に意味を書き換えてしまうという、神の御業にも等しい神業。
忍として極限まで練り上げられたマヤの魔力コントロールの前では、ヴァレッタ程度の三流が描いた術式など、泥遊びの延長線上でしかなかった。
「ふ、ふざけるなッ! やれ! そいつを殺せ!!」
ヴァレッタが怒り狂い、周囲の闇派閥の兵士たちに命令を下す。
数十人の兵士が一斉に武器を構え、マヤへと殺到した。
「マヤさん、危ない!」
アリーゼが警告するが、マヤは依然としてポケットに両手を突っ込んだまま、歩みすら止めない。
「俺は、女の涙と悲劇が大嫌いでね」
マヤが、トン、と軽く床を踏み鳴らした。
その瞬間。
殺到してきた兵士たちの足元にあった『ヴァレッタが仕掛けた呪詛の魔法陣』が、今度こそ本来の凶悪な光を放って起動した。
「なっ——ぎゃあああああああっ!?」
「呪詛が、俺たちに……っ!」
兵士たちが次々と黒い炎に包まれ、見えない力に締め付けられてバタバタと倒れ伏していく。
「あ、あんたたち!? なんで私の罠が、味方に向かって……っ!」
「だから言っただろ、術式を書き換えたって。標的(ターゲット)の設定を、俺たちから『お前ら闇派閥』に反転させただけだ。自分の仕掛けた罠の味はどうだ?」
マヤは悠然とした足取りで、阿鼻叫喚の地獄と化した包囲網の中を、ただ一人、ヴァレッタへ向かって真っ直ぐに歩いていく。
物理的な暴力は一切使っていない。
ただ圧倒的な理と、魔法というシステムの根本的な支配。
ヴァレッタの顔から、ついに余裕と嗜虐的な笑みが完全に剥げ落ちた。
「化け、物……っ!」
ヴァレッタは後ずさりながら、自身の持つ最も凶悪な呪詛の短剣を引き抜き、マヤに向かって投げつけた。
しかし、短剣はマヤの体から数十センチ離れた空中で、まるで見えない壁にぶつかったかのようにピタリと静止し、そのままカランと床に落ちた。
放たれる魔法も、毒の煙幕も、すべてがマヤの周囲で意味を成さずに霧散していく。
「他人の希望をへし折り、絶望に染まる顔を見たいと言ったな」
マヤの言葉が、ひんやりとした重低音となって地下空間に響く。
「他人の涙を啜って喜ぶような奴は、三流の『修羅』にも劣るただのゴミだ。お前の悪意は、底が浅すぎてあくびが出る」
「ひっ……! くるな、来るなァァァッ!!」
マヤが放つ、一切の熱を持たない絶対零度の威圧感。
それは、命のやり取りなどしたこともない安全な場所にいたヴァレッタの精神を、根本からへし折るのに十分すぎる重圧だった。
彼女は腰を抜かし、無様に尻餅をつきながら後ずさった。
「ほら、どうした?」
マヤはゆっくりと歩み寄り、這いつくばるヴァレッタを見下ろした。
「お前の大好きな絶望だぞ。どうした? なぜ笑わない。人の悲鳴を聞くのが好きなら、まずは自分が一番いい声で鳴いてみせろよ」
「あ、あぁ……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
残虐で傲慢な態度は完全に崩壊し、ヴァレッタは恐怖に顔を歪め、ボロボロと涙と鼻水を垂らしながらマヤの足元で土下座をして命乞いを始めた。
「ひぃ、あ……っ、た、助けて……」
涙と鼻水まみれの顔で、ガタガタと震えながらすがるヴァレッタ。
マヤはしばらくその無様な姿を冷ややかに見下ろしていたが、やがてフッと息を吐き、静かにしゃがみ込んだ。
「すこーし、おいたが過ぎたんじゃね~かな~」
その声には、圧倒的な強者の威圧感とは異なる、ひどく冷めきった、底知れぬ凄みが孕んでいた。
「女には優しくするのが俺の信条だが……女でも、やりすぎたら俺も怒ってしまうんだわ」
深紅の瞳が、ヴァレッタの魂の奥底までを見透かすように射抜く。
「どうだ? さっきの花火は綺麗だっただろ?」
「ひっ……」
「お前は今、まさに自分の生き死にがかかっている状態だ。……普通なら、お前はそんなことをせずに何の躊躇いもなく人を殺す。まさに今、こいつらにそうしようとしたようにな」
言葉のナイフで彼女の逃げ場を完全に塞ぎ、絶対的な死の恐怖を植え付ける。ヴァレッタの呼吸が浅くなり、ガチガチと歯の鳴る音が響いた。
「……だが」
ふいに、マヤの冷酷な威圧感が霧散した。
「俺は、お前のような女も嫌いじゃない」
「え……?」
呆然とするヴァレッタ。マヤは彼女の頬を濡らす涙を、自身の指先でそっと拭った。その手つきは、先ほどまでの恐怖が嘘のように、底なしに甘く、優しかった。
「お前がそうやって他人の痛みを嗤うようになったのにも、それなりの理由や過去があるんだろう。何かの縁だ。俺を裏切らない限り、お前のその捻くれた心も、命も、俺が面倒を見てやる」
「め、んどう……?」
「そうだな。ロキ・ファミリアへ『改宗(カイソウ)』するわけだ。不本意だろうがな? 恩恵はロックされ、レベルは下がり、ただの弱い女になる。……まずは、拠点の掃除をする『メイド』ってやつからだな」
強者の権化であったヴァレッタから力を奪い、自分の管理下に置くという絶対的な支配の宣告。しかし、そこに込められていたのは、見捨てることなく丸ごと背負うという、規格外のアルファ(雄)としての度量だった。
「それによ」
マヤは優しく微笑み、ヴァレッタの頭をポンと撫でた。
「女の涙は見たくねぇんだわ。お前、本当に紙一重だったぞ?」
「あ……ぁ……」
自分を殺すはずの圧倒的な強者から、突然向けられた絶対的な肯定と優しさ。
死の恐怖から一転して与えられた、逃れられない巨大な包容力。
恐怖と安堵、そして自身の本能を完璧に支配されたことによる未知の感情が、ヴァレッタの精神のキャパシティを完全に超過した。
「あああああ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
ヴァレッタは顔を真っ赤にして、まるで子供のように声を上げて泣き崩れ、そのままマヤの広い胸の中へとすがりついた。
他者を蹂躙することしか知らなかった絶対悪の幹部が、一人の男の圧倒的な力と優しさの前に屈服し、完全に手懐けられた瞬間であった。
「よしよし。しっかり泣いて、明日からは真面目に床磨きしろよ」
マヤはすがりついてくるヴァレッタの背中を、ポンポンとあやしつけるように叩きながら、ふと視線を上げた。
「「「「……………………」」」」
そこには、絶望の淵から救われたはずのアストレア・ファミリアの乙女たち(アリーゼ、リュー、輝夜、ライラ)が、揃いも揃って口をポカンと開け、言葉を失って立ち尽くしていた。
彼女たちを殺そうとした凶悪なクズが、魔法の書き換えという神業で手玉に取られ、言葉だけで精神を粉砕され、あろうことか最後には胸に抱かれてメイド落ちを誓わされている。
規格外の強さと、理不尽なほどの優しさ。
生真面目な正義の乙女たちの脳内処理能力は完全に限界を迎えた