オラリオの地下深くに潜伏していた闇派閥(イヴィルス)の残党拠点に、場違いなほどの大爆笑が響き渡っていた。
「あーっはっはっはっ! 嘘だろ!? あの残虐趣味のヴァレッタが、ロキ・ファミリアでメイドとして床磨きをさせられてるだって!?」
闇派閥の黒幕の一柱である邪神エレボスは、タナトスから持ち込まれた報告を聞き、腹を抱えて笑い転げていた。
本来ならば、オラリオに絶望と悲劇を撒き散らすための壮大な計画だった。だが、その中核を担うはずだった圧倒的な二つの武力(ゼウスとヘラ陣営の最強格)はすでに田舎で隠居しており、残った手駒の幹部は、一人の男によって心を完全にへし折られ、メイドへとクラスチェンジを果たしてしまった。
「悲劇の英雄を生み出すための究極の試練が、たった一人の男の圧倒的な『救済』の前に、ただのギャグになっちまった! あはははっ、完敗だ! これはもう、どう足掻いても勝てないね!」
エレボスは自身の計画の完全なる頓挫を、清々しいほどあっさりと認めた。
マヤという、盤面のルールそのものを書き換えてしまう規格外のストッパーが存在する以上、彼らがオラリオでこれ以上暗躍することは不可能である。こうして、後世に『暗黒期』として語り継がれるはずだった血みどろの動乱は、誰一人欠けることなく、極めてシュールな幕引きを迎えたのだった。
***
一方、ロキ・ファミリアの拠点では、深夜の居間で一騒動が起きていた。
「——って、なんでちょっと散歩に出たはずの旦那が、闇派閥の幹部をお持ち帰りしとるんじゃボケェェェッ!!」
ロキの大噴火が炸裂し、拠点の窓ガラスがビリビリと震えた。
「まあ落ち着け。こいつはもう闇派閥じゃない。俺が拾ってきた『メイド』だ。タナトスの野郎にロック解除の手続きはさせてある。ほら、お前の血を入れてやれ」
マヤに背中を押され、震えながらロキの前にひれ伏すヴァレッタ。彼女の背中からはすでにタナトスの紋章が消え去っている。
「ハァ……? お前なぁ、いくらなんでも敵の幹部を……」
ロキは呆れながらも、マヤの言葉に一切の嘘がないことを神の眼(アルカナ)で読み取り、ため息をつきながら自身の指先を切ってヴァレッタの背中に一滴の血を垂らした。
淡い光と共に、ロキ・ファミリアの紋章がヴァレッタの背中に刻まれる。完全な『改宗(コンバージョン)』が成立した瞬間だった。
「ひぃぃっ! あ、ありがとうございますぅぅ! 私、今日からこの館の床を舐めるように磨かせていただきますぅぅ!」
ヴァレッタは完全に狂信者のような目をらんらんと輝かせ、その場にあった雑巾を引っ掴むと、ものすごい勢いで居間の床を磨き始めた。他人の絶望を好んだ絶対悪の姿はどこにもなく、そこにあるのはただ「マヤ様に捨てられたくない」という強迫観念に駆られた半狂乱のメイドの姿だった。
「……なんやこれ。完全に洗脳されとるやないか。ドン引きやわ」
ロキだけでなく、騒ぎを聞きつけて起きてきたフィンやガレスたちも、あまりの光景に絶句している。
そんなカオスな居間の隅で、ただ一人平常運転を貫いている者がいた。
「……ん。マヤ、これ、美味しい」
9歳の幼き剣姫、アイズである。彼女はマヤの作った『ポテトの丸揚げ』の残りを大事そうにモグモグと食べながら、狂ったように床を磨くヴァレッタを無表情で眺めていた。
「そうか、いっぱい食えよ。明日も作ってやるからな」
マヤがアイズの頭を優しく撫でる。
異常と日常が完全に同居した、ロキ・ファミリアの奇妙な夜はこうして更けていった。
***
そして翌日の昼下がり。
アストレア・ファミリアの面々が、正式に感謝を伝えるためロキ・ファミリアの拠点を訪れていた。
「ようこそおいでくださいました、アストレア様。どうぞ、こちらのお茶を……」
応接室に通された正義の女神アストレアと、アリーゼ、リューたち眷族の面々は、信じられないものを見るような目でテーブルを見つめた。
彼女たちに恭しくお茶を淹れているのは、昨日まで自分たちを惨殺しようとしていたあの残虐なヴァレッタであり、しかもパリッとしたメイド服に身を包み、見事な所作で仕事をしているのだ。
「ヴァレッタ……本当に、メイドに……」
アリーゼが頬を引きつらせる。
「ええ! マヤ様からいただいた、この素晴らしい天職! 私、二度と悪事など働きません!」
キラキラとした(少し狂気じみた)笑顔で去っていくヴァレッタの背中を見送り、アストレアは静かに微笑んで、正面のソファに座るマヤを見据えた。
「悪をただ討ち滅ぼすのではなく、その悪意を根本からへし折り、居場所を与えて更生させる。……貴方の行いは、私の掲げる『正義』の形とは少し異なります。ですが……それは何よりも純粋で、圧倒的な『救済』ですね」
「大したことじゃない。ただ、誰かが死んで泣く顔を見たくなかっただけだ」
マヤは出されたお茶を啜りながら、飄々と答えた。
その対面のソファで、アストレアの背後に控えていた少女たちが、コソコソと小声で内緒話を始めていた。
「ねえリュー。昨日からずっと思ってたんだけどさ」
アリーゼがニヤニヤと笑いながら、エルフの少女の脇腹を小突いた。
「リューって、男の人に触れられるのが極端に苦手じゃない? 肩をポンと叩かれただけでも、反射的に相手を投げ飛ばすのが十八番なのに……」
「なっ……!?」
「そういえばそうね」と、輝夜も扇子で口元を隠しながら同調する。
「昨日、あのマヤって男に頭をポンポン撫でられた時……あんた、一歩も動かずに顔を真っ赤にして黙り込んでたわよね? 普段なら確実に首を絞め落としてる距離だったけど」
「そ、それは……! あの時は状況が状況で、不意打ちで……っ!」
リューは一瞬にして耳の先まで茹でダコのように真っ赤になり、慌てて視線を泳がせた。
「へぇー、不意打ちねぇ」
ライラもニシシと笑いながらからかう。
「男嫌いのリューちゃんが、あんなに大人しく撫でられるなんて。もしかして、完全に惚れちゃったかー?」
「違いますっ! 私はただ、彼の実力に圧倒されただけで……!」
必死に弁解するリューだったが、その声の震えと熱を帯びた瞳は、誰の目から見ても完全に『恋に落ちた乙女』のそれであった。
アリーゼたちもからかいながら、実は内心で(あんな規格外で優しい人、好きにならない方が無理よね……)と、強く惹かれている自分たちを自覚していた。
しかし、そんな乙女たちの淡い期待とときめきは、次の瞬間に無残にも打ち砕かれることになる。
「んふふふ〜、せやろせやろ! ウチの旦那、最強で最高やろ!」
バンッ! と応接室の扉が開き、ロキが満面のドヤ顔で飛び込んできた。
彼女は一直線にマヤの元へ向かうと、当然のようにマヤの膝の上にドカッと座り込み、その首に両腕を絡ませてマヤの頬にチュッと音を立ててキスをした。
「ウチの可愛い旦那(とオラリオ)に手ェ出すから、こうなるんやで! ま、どんなにモテても、ウチが絶対一番の『正妻』やけどな!」
ロキはアストレアの少女たちに向かって、これでもかと見せつけるように勝ち誇った笑みを浮かべた。
「「「うぐっ……!!」」」
アリーゼ、輝夜、ライラ、そしてリュー。
正義の乙女たちの胸の奥底に、チクッとした鋭く重い『嫉妬』の痛みが走った。
圧倒的な強さと優しさで自分たちを救ってくれた、理想の絶対的な雄(アルファ)。しかし、その人はすでに、この赤髪の主神に心底愛され、自身も彼女を何よりも大切にしている。
(ああ……この人はもう、他の誰かのものなんだ……)
頭では理解していても、一度点火されてしまった女の本能と恋心は、そう簡単に消し去れるものではなかった。
「お前なぁ、客の前でみっともないぞ」
マヤは呆れたようにロキの頭を軽く小突きながらも、満更でもない様子でその腰を支えている。
その平和で甘い光景を見つめながら、アストレア・ファミリアの少女たちは、正義への殉教者から完全に『マヤという男に狂わされた乙女たち』へと、その運命を大きく変えていた。
オラリオを闇に沈めるはずだった暗黒期は、一人の鬼の気まぐれな散歩によって、一人の死者も出すことなく完全に終息した。
残されたのは、ピカピカに磨かれたロキ・ファミリアの床と、燻り続ける乙女たちの恋心、そして絶対的な力で笑顔を守り抜くマヤの、どこまでも騒がしく平穏な日常であった。