ジャガーノートの右爪が粉砕された衝撃冷めやらぬ中、マヤはどこからともなく、一本の『木の棒』を取り出した。
迷宮のドロップアイテムでも、特殊な武装でもない。そこら辺の森に落ちているような、何の変哲もないただの木の棒切れである。
「リヴェリア。こいつは魔法を反射する厄介な装甲を持ってるらしい」
マヤは木の棒を肩にトントンと当てながら、背後に立つ王族エルフへと極めて面倒くさそうに指示を出した。
「だから、お前は今から全力の長文詠唱をしろ。標的(ターゲット)は、あそこにある『無駄にデカい水晶樹』だ」
マヤが顎でしゃくった先——それは、ジャガーノートがいる場所とは全く無関係な、明後日の方向に生えている階層のオブジェクトだった。
そのあまりにも理不尽で、状況を完全に無視した指示に、アストレア・ファミリアのリュー・リオンが激昂した。
「なっ……なんと不敬な言い分ですか! 相手は王族たるリヴェリア様ですよ!?」
リューは怪我を押して立ち上がり、血走った眼でマヤを睨みつけた。
「それに、あの化け物を前にして全く関係のない木を狙えなどと……っ! 戯れ言にも程があります! あなたは今の状況が分かって——」
「やめろ、リオン」
「アリーゼ……っ!?」
リューの怒声を手で制したのは、団長のアリーゼだった。彼女の額には冷汗が浮かび、その目は信じられないものを見るようにマヤの背中を見つめていた。
「彼……本気よ。まさか、あの絶望の化け物を……ただの『練習相手』にしているの……?」
「そ、そんな馬鹿なことが……!」
輝夜もまた、息を呑んで戦慄していた。
当のリヴェリアは、マヤの無茶苦茶な指示に一切の反論をしなかった。いや、反論する気力すら湧かないといった様子で、虚無を宿した『死んだ目』のまま、静かに長杖(マグナ・アールヴ)を構えた。
(……反抗すれば、明日からこの男の稽古(かわいがり)が倍になる。……やるしかないのだ、私は……稽古がもういやだぁぁぁあ)
「……集え、大地の息吹——」
オラリオ最強の魔導士による、全く無意味な水晶樹への大魔法の詠唱が、静かに紡がれ始める。
「いい子だ」
マヤは満足げに頷くと、再びジャガーノートへと向き直った。
「素手でやると、うっかりワンパンで粉砕しちまうからな。俺はこの木の棒で適度に手加減してやる。……いいかリヴェリア、そしてそこの正義の乙女ども」
マヤの深紅の瞳が、スッと細められる。
「お前(後衛)が詠唱を終えるまで、俺がこいつを完璧に足止めする。本物の前衛(盾)の立ち回りってやつを、しっかり見て覚えろ」
「ギィィィィィィィィッ!!」
己を完全に舐め腐った態度をとるマヤに対し、ジャガーノートが本能的な激怒の咆哮を上げた。
残った左の巨大な爪が、超音速の斬撃となってマヤの胴体を両断せんと迫る。先ほどアリーゼたちを容易く吹き飛ばした、視認すら困難な死の一撃。
だが。
ガアァァァァァンッ!!
「……なっ!?」
リューの口から、間の抜けた声が漏れた。
ジャガーノートの渾身の斬撃を、マヤは事も無げに『木の棒』で受け止めていたのだ。
本来なら、鋼の剣すら容易くへし折る破壊の爪。それがただの木の棒に触れた瞬間、ピタリと動きを止めている。マヤが極限の魔力操作(チャクラ)によって棒の強度を限界まで引き上げているためだが、傍目にはただの物理法則のバグにしか見えない。
「ほら、どうした? 動きが直線的すぎるぞ、駄犬」
「シャァァァァッ!!」
ジャガーノートは巨体を翻し、狂乱の猛攻を仕掛けた。
上段からの振り下ろし、横薙ぎ、尾による刺突。全方位から襲い来る致死の暴風雨。
しかし、マヤはその場から一歩も動かなかった。
最小限の重心移動と、完璧な体術。右へ左へ、まるで舞い踊るかのように超音速の攻撃を躱し、時に木の棒でいなし、攻撃の軌道を逸らす。
「甘い」
トンッ、とマヤが木の棒でジャガーノートの関節を突く。たったそれだけの動作で、巨体のバランスが崩れ、ジャガーノートは自らの勢いで無様に床へと転がった。
「嘘……でしょ……?」
アリーゼが震える声で呟く。
「あんな化け物を……子供扱い……?」
圧倒的な技量。純度百パーセントの武の結晶。
野生の暴力に過ぎないジャガーノートの動きなど、数多の修羅を滅ぼしてきたマヤにとっては、止まって見えるに等しい。武器すら抜かず、ただの棒切れ一本で破壊の化身を完全に支配し、指一本、かすり傷一つ負わない。
「……」
リューは、その光景から目が離せなくなっていた。
先程まで感じていたマヤへの怒りは、とうの昔に消え失せている。
彼女たちの視線の先にあるのは、絶対に揺るがない、鉄壁の背中。
『後衛に傷一つつけさせず、悲劇のヒロインなんかやらせない』
彼が放った言葉は、決して虚勢などではなかった。
どんな理不尽が襲い掛かろうとも、この男の背中の後ろにいれば、絶対に安全なのだ。自分たちが命を懸けて自己犠牲を払う必要など、どこにもない。
圧倒的な暴力による、究極の安心感。
強者としての絶対的な雄(アルファ)の気迫に当てられ、リューの、アリーゼの、そして乙女たちの胸の奥で、トクリと大きく心臓が跳ねた。
「あ……」
気付けば、リューの尖った耳は真っ赤に染まっていた。
恐ろしいほどの強さと、その裏にある不器用なほどの優しさ。自分たちの正義や悲壮な覚悟を、こんなにも軽々と、力強く全否定してくれる存在。
(なんという……お方、ですか……)
乙女たちが熱を帯びた瞳でその背中を見つめる中、マヤはジャガーノートの顔面を木の棒で軽く弾き飛ばしながら、欠伸交じりに背後へ声をかけた。
「おい、リヴェリア。詠唱が遅いぞ。木を粉砕するのにどんだけ時間かけてんだ」
「……や、やかましい! 究極魔法の詠唱など、そう短縮できるものではないわ!」
「チッ。これだからトロいエルフは……」
「……」
「……」
マヤとリヴェリアの気の抜けたやり取りを聞きながら、かつてない死線にいたはずのアストレア・ファミリアの少女たちは、なぜかどうしようもなく、顔の熱を抑えることができなくなっていた。