絶望の象徴であったジャガーノートがただの灰燼と化し、破壊の余波でひんやりとした静寂が降りたダンジョン第30階層。
巨大な水晶樹を塵一つ残さず粉砕し終えたリヴェリアは、ゆっくりと長杖(マグナ・アールヴ)を下ろすと、大きく、そしてひどく疲労の籠もったため息を吐き出した。
「……やれやれ、相変わらず無茶苦茶な男だ」
エルフの王族としての矜持も、オラリオ最高峰の魔導士としての威厳も、この規格外の鬼の前では意味をなさない。だが、その呆れ声の奥には、確かな信頼と安堵が滲んでいた。
一方、死の淵から完全に生還したアストレア・ファミリアの少女たちは、未だに現実をうまく咀嚼できずにいた。
かつて多くの冒険者を屠ってきた闇派閥(イーヴィルス)の残党・ジュラは、自らが呼び出した化け物によって呆気なく両断され、そしてその化け物すらも、目の前の赤髪の青年によって文字通り「解体」された。
悲劇は未然に粉砕され、誰一人欠けることなく、誰も涙を流すことなく、彼女たちは命を拾ったのだ。
「マヤさん……」
アリーゼがふらつく足で進み出ると、団長として、そして一人の少女として、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたが来てくれなければ、私たちは間違いなく、あの化け物の餌食になっていました。……本当に、なんとお礼を言えばいいか……」
「気にするな。お前らが身を挺して仲間を守ろうとしたから、俺が間に合っただけだ」
マヤは懐に両手を突っ込んだまま、さも「散歩のついでにゴミを拾った」程度の軽いトーンで返した。
そのマヤの言葉に、たまらなくなったように前に出た者がいた。
「ま、待ってください……っ!」
エルフの少女、リュー・リオンである。彼女の尖った耳は限界まで朱に染まり、端正な顔は猛烈な羞恥と申し訳なさで歪んでいた。
「私は先程……あなたに向かって、なんという非礼を……! 状況も見えず、あなたの圧倒的なお力と、リヴェリア様への深い信頼にも気付かず、あろうことか『戯れ言』などと暴言を吐いてしまいました! この命を救っていただいた恩人に対し、万死に値する無礼……っ、どうか、どうかこの愚か者をお裁きください!」
真面目すぎるが故に、極端な自己処罰に走ろうとするリュー。彼女はそのまま地面に額を擦り付けんばかりの勢いで土下座をしようとした。
しかし、その細い肩は、ふわりと温かい大きな手によって止められた。
「——マヤ、さん?」
顔を上げると、すぐ目の前にマヤの顔があった。
その深紅の瞳には、怒りや侮蔑の色は微塵もなく、ただひたすらに深く、不器用なほどの優しさが湛えられていた。
「裁きなんて必要ねぇよ。仲間を思って怒れるのは、お前が優しい証拠だ」
マヤはそのまま、リューの頭にポンと手を置き、子供をあやすように優しく撫でた。
「ひゃぅっ……!?」
「いいか。悲劇のヒロインなんざ、お前らには似合わねぇよ。女ってのはな、誰かのために死ぬんじゃなく、生きて、美味いもん食って、笑ってるのが一番なんだ。……お前のその顔は、土下座より笑顔の方がずっと似合う」
トクリ、と。
リューの胸の奥で、心臓が爆発するほど大きく跳ねた。
圧倒的な暴力で世界の理不尽を叩き潰し、その上で、自分たちの安い自己犠牲を「笑って生きろ」と全否定してくれる。強くて、恐ろしくて、誰よりも優しい絶対的な『雄』。
アリーゼも、輝夜も、ライラも、そして撫でられているリューも。
正義を掲げる乙女たちは全員、顔を林檎のように真っ赤に染め、完全に言葉を失っていた。
それは、尊敬や憧れといった生易しいものではない。己の身も心も全て委ねてしまいたいと願うほどの、絶対的な陥落。のちにオラリオを揺るがす「最強の鬼のハーレム予備軍」が、この薄暗い迷宮の底で完全に出来上がった瞬間であった。
***
「——ただいま戻ったぞ」
ダンジョンからの帰路を終え、マヤとリヴェリアがロキ・ファミリアの拠点である広大な館へと帰還したのは、夕暮れ時であった。
中庭の修練場を通りかかったマヤは、そこで足を止めた。
砂埃に塗れた修練場の中心で、オラリオの頂点たる前人未到のレベル8、フィン・ディムナとガレス・ランドロックの二人が、大の字になって倒れていた。彼らの目は完全に白目を剥き、口からはうっすらと魂のようなものが抜けかかっている。
「ほう」
マヤはニヤリと口角を上げ、倒れ伏す二人の英雄を見下ろした。
「俺がいなくても、ちゃんと俺が残した『地獄の防衛特訓メニュー』をこなしてたみたいだな。お前ら、いざという時、ちゃんと女(後衛)を守る訓練はできたか?」
その声にビクゥッ! と反応したフィンとガレスは、白目を剥いたまま、ガタガタと震える腕を必死に持ち上げ、マヤに向かって涙目でサムズアップをして見せた。
「やったぞ」という、命懸けのアピールである。
しかし、鬼の眼光がスッと細められた。
「……ふむ。腕を上げる元気がまだ残っているのか。随分と余裕だな? さすがは天下のレベル8様だ」
((……え? うそでしょ。むりむりむりむり))
フィンとガレスの顔から、一瞬にして血の気が引いた。サムズアップした手が、今度は違う意味で激しく痙攣し始める。
限界を超えてアピールした結果、それが「まだ余裕がある」と好意的に(悪魔的に)解釈されてしまったのだ。
マヤは懐から、おもむろに二本の棒を取り出した。
一本は、先ほどジャガーノートをいなすのに使った『その辺の木の棒』。
そしてもう一本は——かつてオラリオの絶対悪と恐れられたマキシムとザルドの巨躯を、文字通りボコボコにして再起不能に追いやった、黒ずんだ血が染み付いている『血濡れの棒』である。
「選べ、フィン、ガレス。明日の稽古は、そこらの木の棒か……それとも、こっちの血濡れの棒か」
極めて爽やかな、死の宣告。
「「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」」
オラリオ最強の英雄二人の、絶望に満ちた悲鳴が夕暮れの空に響き渡った。
「おうおう、そんなに喜んでるのか! さすがオラリオの頂点だな、向上心があって素晴らしいぞ!」
絶叫を歓喜の声と捻じ曲げて解釈し、マヤは満足げにうなずいた。
「マヤ」
そこへ、館の方からパタパタと軽い足音を立てて、金髪に金眼の少女——アイズ・ヴァレンシュタイン(9歳)が駆け寄ってきた。
「おかえりなさい。……私も、マヤと稽古したいな」
コテンと首を傾げ、期待を込めた眼差しでニコニコと見上げてくる
アイズ。
普段なら無条件で甘やかしてしまうマヤだが、今回は後ろから歩いてきたリヴェリアが、咳払いを一つして前に出た。
「アイズ。まずは座学、お勉強からだと、出発前にマヤに言われているだろう? 知識なくして、技術はなしだぞ」
「むぅ……」
あからさまに頬を膨らませるアイズに、リヴェリアは諭すように優しく語りかけた。
「しっかりやるべきことをやれば、マヤは『義には礼、真実には敬意』で接してくれる。意味は分かるな? つまり、ちゃんとお勉強を済ませれば、あとでマヤがたっぷりと構ってくれるし、特製のジャガ丸くんも焼いてくれるということだ」
「! ……わかった。アイズ、お勉強してくる!」
現金なもので、アイズはパァッと顔を輝かせると、図書室へ向かって猛ダッシュで駆けていった。
「やれやれ。私の言うことより、あの男のジャガ丸くんの方が効果的とはな……」
リヴェリアは疲れたように肩をすくめたが、その表情はどこか温かかった。
「おっかえりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
その時。
館の二階の窓から、赤い残像が猛烈な勢いで飛び出してきた。
「ウチの旦那様ぁぁぁんっ!!」
主神ロキである。彼女は重力など無視した驚異的な跳躍力で空を舞い、そのままマヤの胸板めがけて弾丸のようにダイブしてきた。
「っと」
マヤは飛んできたロキを片腕でガッチリと受け止め、その勢いを完全に殺して抱き留めた。
「ちゅっちゅっちゅっちゅっ! あ〜ん、寂しかったでマヤ〜! ええ匂いするわぁ〜!」
抱きかかえられたまま、ロキはマヤの頬や首筋に嵐のようにキスを降らせ、全身をすり寄せて甘え腐る。
かつては誰にも靡かなかった神が、今や完全に一人の男に骨抜きにされた『ただの甘えたがりな妻』と化していた。
マヤは呆れたように息を吐きながらも、ロキの背中を優しく撫でた。
「ただいま、ロキ。お前も留守番ご苦労だったな」
「んふふ〜。マヤが無事に帰ってきただけで、ウチは満足やで〜」
最強の鬼と、彼にぞっこんの主神。
そして、その後方。
館の入り口の扉の横で、一人のメイドが直立不動の姿勢をとっていた。
「お、おかえりなさいませッ……! マヤ様ッ!!」
元・闇派閥(イーヴィルス)の幹部であり、数え切れないほどの冒険者を罠に嵌めてきた冷酷なる暗殺者、ヴァレッタ・グレーデ。
彼女は今、指の先からつま先まで一本の定規を入れたかのように背筋をピンと伸ばし、額に大量の冷や汗を流しながら、完璧な角度でお辞儀をしていた。
(ヒィィィィッ……! ダンジョンの超深層から、汗一つかかずに帰還してきやがった……! やっぱりこの男に逆らったら、一瞬でミンチにされるぅぅッ……!)
かつての絶対悪は、今やマヤの圧倒的な暴力と理不尽の前に完全に精神を調教(わからせ)され、少しでも不手際があれば殺されるという強迫観念から、ロキ・ファミリアで最も働き者の完璧なメイドへとクラスチェンジを果たしていた。
「おう、ヴァレッタ。風呂の準備はできてるか?」
「は、はいッ! 湯加減、タオルの用意、着替えの配置に至るまで、全て完璧に整えてございますッ!」
「いい働きだ。後で褒めてやる」
「あ、ありがたき幸せ……ッ!!」
かつての宿敵を甲斐甲斐しいメイドとして飼い慣らし、オラリオの最強たちを木の棒で震え上がらせ、乙女たちの心を無自覚に奪い去っていく。
混沌と狂騒、そして何よりも温かい「笑顔」に包まれたロキ・ファミリアの日常は、今日もロキの旦那を中心に、騒がしくも平和に回っていくのであった。