迷宮都市オラリオの昼下がり。
活気にあふれる市場の大通りを、マヤは両手に大きな紙袋を抱えてのんびりと歩いていた。
袋の中身は、大量のジャガイモと調味料である。
ロキ・ファミリアの拠点に居座る9歳の幼き剣姫、アイズ・ヴァレンシュタイン。彼女がマヤの作った『ポテトの丸揚げ』をたいそう気に入り、底なしの胃袋で平らげてしまったため、夕飯の買い出しも兼ねて市場まで足を運んだのだ。
(あいつ、無表情のくせに美味いものを食う時だけは本当にいい気配を出しやがる。……女の子が腹一杯に飯を食って幸せそうにしてる姿は、やっぱり最高だな)
マヤは柔らかな日差しを浴びながら、ふっと口元を緩めた。
修羅を滅ぼし、血みどろの闘争を生き抜いてきた彼にとって、女子供が安全な場所で笑ってご飯を食べている日常こそが、何よりも尊い『救済』の形であった。
そんな穏やかな気分で拠点の方向へ歩を進めていたマヤの足が、ふと、薄暗い路地裏の入り口でピタリと止まった。
「——い、痛っ……! やめて、やめてください……っ!」
「うるせぇなこのネズミが! さっさと今日の稼ぎを全部出しやがれ!」
「ひぐっ、あ……っ!」
路地裏の奥から聞こえてきたのは、幼い少女の悲鳴と、鈍い打撃音。そして、大人の男たちの下劣な笑い声だった。
マヤの深紅の瞳から、スゥッと感情の熱が消え失せた。
迷うことなく路地裏へ足を踏み入れると、そこには見るに堪えない凄惨な、しかしこのオラリオの暗部ではありふれた『理不尽な悲劇』が転がっていた。
「お願いです……! それは、今日食べるための……っ。親の借金は、少しずつ返すって言ってるじゃないですか……!」
泥水が跳ねる石畳の上にうずくまっていたのは、ボロボロの衣服をまとった小人族(パルゥム)の幼い少女だった。年齢はアイズと同じか、少し下——8歳前後だろう。
栗色の髪は泥と埃にまみれ、大きな瞳からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。
その小さな少女——リリルカ・アーデを囲んでいたのは、酒臭い息を吐く三人の薄汚れた冒険者たちだった。彼らの首元には、豊穣の神ソーマのエンブレムが刻まれている。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前の親がダンジョンでくたばったせいで、こっちが借金を被ってんだ! 生きてる間は、サポーターとして這いつくばって魔石を拾い続けろ!」
「それに、俺たちは『神酒(ソーマ)』を買う金が要るんだよ! 飯なんて食わなくても死なねぇだろ!」
チンピラの一人が、うずくまるリリの小さな腹を容赦なく蹴り上げた。
「がはっ……!」
小さな体が石畳の上を転がり、リリが必死に抱え込んでいた小さな皮袋から、ジャラジャラと僅かな硬貨がこぼれ落ちる。
「ひゃはは! ほら見ろ、隠し持ってやがった! これだけあれば、一口分くらいは神酒が——」
男が下劣な笑みを浮かべ、硬貨を拾い上げようと手を伸ばした、その瞬間。
「おい」
底冷えのする、感情の抜け落ちた低い声が路地裏に響いた。
三人のチンピラがビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには両手に紙袋を抱えた赤髪の青年が、絶対零度の瞳で彼らを見下ろしていた。
「あぁ? なんだテメェ。見世物じゃねぇぞ、すっこんでろ!」
「……大の大人が三人揃って、腹を空かせた子供を蹴り飛ばし、その日の飯代を巻き上げる」
マヤはチンピラの威嚇などまるで聞こえていないかのように、淡々と、しかし凄まじい圧を孕んだ声で言葉を紡いだ。
「お前ら、それを使って酒を飲むつもりだと言ったな。……親の借金を盾にして子供の血肉を啜る。そんな寄生虫以下のゴミが、いっちょ前に冒険者を名乗ってんのか?」
「んだとコラァ!!」
マヤの圧倒的な正論と侮蔑の言葉に、チンピラの一人が逆上してナイフを引き抜き、マヤに向かって斬りかかった。
リリが恐怖に目をギュッと瞑る。
しかし。
「ゴミはゴミ箱にでも入ってろ」
マヤは両手の紙袋を抱えたまま、一歩も動かなかった。
ただ、斬りかかってきた男の踏み込みに合わせて、極限まで練り上げられた気(魔力)を込めた右足を、軽く払っただけである。
ゴキャァァァァッ!!
「——ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
ナイフを持った男の足の骨が、あり得ない方向へとへし折れた。
激痛に絶叫を上げながら、男の体は独楽のように錐揉み回転して路地裏の壁に激突し、白目を剥いて泡を吹いた。
「なっ……!?」
「て、テメェ! 何しやがった!!」
残る二人のチンピラが顔面を蒼白にさせながら、慌てて剣を抜く。
しかし、マヤは静かに息を吐くと、紙袋をそっと——中身のジャガイモが絶対に傷つかないように優しく——足元の乾いた石畳の上に置いた。
「女と子供が泣く世界は、俺が一番嫌いなんだよ」
シュンッ!
マヤの姿が、二人のチンピラの視界から完全に掻き消えた。
「え……?」
「遅い」
次の瞬間、マヤは二人の男の背後に立っていた。
ドスッ! ドスッ!
一切の無駄がない、純度百パーセントの体術。背後から的確に急所を撃ち抜かれた二人のチンピラは、何が起きたのかすら理解できないまま、膝の関節と肋骨を粉砕されて地面に崩れ落ちた。
「あ、がぁっ……! ぁぁぁぁ……っ!」
「足が、足がぁ……っ!」
ほんの数秒前までリリを痛めつけていた男たちが、今は路地裏の泥水の中で、無様に這いつくばって命乞いのような呻き声を上げている。
マヤは彼らを見下ろし、床に散らばっていたリリの硬貨を拾い集めた。
「親の借金だと? ふざけるな」
マヤは冷酷な声で、苦悶に身を捩るチンピラたちに宣告した。
「俺が今、お前らの両足と肋骨を綺麗にへし折ってやった。その治療費と、この子が背負わされてる借金を相殺して『ゼロ』にしてやる。これなら文句はないな?」
「ひぃっ……! あ、あぁ……っ!」
「二度とこの子に近づくな。次その面を見せたら、借金じゃなくて命を取り立てて、路地裏の肥料にしてやるからな」
圧倒的な暴力と、有無を言わせぬ理不尽な理詰め。
悪党をさらに上回る『本物の強者』の凄みを前に、チンピラたちは恐怖に顔を歪め、折れた足を引きずりながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静寂が戻った路地裏。
マヤは拾い集めた硬貨をリリの皮袋に戻すと、石畳の上でガタガタと震え上がっている小さな小人族の少女の前に、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「ひっ……!」
リリは両手で頭を覆い、必死に体を丸めた。
無理もない。たった今、自分を苛めていた大人たちを一瞬で破壊した恐ろしい男が、今度は自分に標的を定めたのだと思ったのだろう。借金をチャラにされた代わりに、もっと恐ろしい場所へ売られるのだと、8歳の絶望した頭はそう結論づけていた。
「お願い、します……。叩かないで、ください……。リリ、なんでも、言うこと聞きますから……っ」
泥だらけの顔をさらに涙で汚し、必死に命乞いをする幼い少女。
その姿を見た瞬間。
マヤの瞳から冷酷な処刑人の光が完全に消え去り、底なしに甘く、不器用なほど優しい色へと変わった。
「叩くわけないだろ。……よく頑張ったな」
「……え?」
ポンッ、と。
マヤの大きくて温かい手が、リリの泥だらけの小さな頭に乗せられた。
優しく、壊れ物を扱うように、ゆっくりと撫でられる。
「俺は、女と子供が理不尽にないてる世界が嫌いでね。お前みたいに小さな子が、泥水すすって泣いてるのを見過ごすほど、俺は落ちぶれちゃいないさ」
マヤはそう言うと、自身の服の袖で、リリの頬についていた泥と涙を乱暴に、しかしひどく優しく拭い取ってやった。
今まで、誰も自分を助けてくれなかった。誰も、自分にこんな温かい手を向けてはくれなかった。
リリの大きな瞳から、先ほどまでの恐怖とは違う、ポロポロとした大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
「ほら、泣くな。可愛い顔が台無しだぞ」
マヤは苦笑いすると、リリの小さな体をヒョイと抱き上げた。
「えっ、あ、あの……!」
「腹、減ってるだろ。美味い飯を食わせてやる。うちには、お前と同じくらいよく食う、無愛想な金髪のチビがいるからな。一緒にポテトでも食え」
マヤは片手でリリを抱きかかえ、もう片方の手でジャガイモの入った紙袋を拾い上げると、何事もなかったかのように路地裏を後にした。
「あ、あの……お兄さん、は……?」
マヤの厚い胸板にすがりつきながら、リリが震える声で尋ねる。
「俺か? 俺はただの散歩中の通りすがりだ。強いて言うなら……お前の、新しい保護者ってとこだな」