小人族の少年、フィン・ディムナがロキの恩恵(ファルナ)を受け、
正式に『ロキ・ファミリア』が産声を上げてから数日が経過した。
結論から言えば、ファミリアの初期基盤は、フィンの予想を遥かに超える——異常とも言える速度で安定していた。
通常、新しいファミリアを立ち上げる場合、拠点の確保や資金繰り、近隣のゴロツキとの縄張り争いなど、数え切れないほどの苦労が伴う。フィンもその覚悟を持って、自身の頭脳と槍の腕でロキを支えるつもりでいた。
しかし、その決意は早々に空回りすることとなった。
「おい少年、西の森にいた猪の化け物どもは片付けておいたぞ。今日の夕飯は牡丹鍋だな」
「えっ? あの森には群れをなす狂暴なモンスターが数十体はいたはずじゃ……マヤ殿、無傷ですか!?」
「ああ。動きが単調で欠伸が出た。あと、村の連中から場所代をせびっていたチンピラ共も、少し『説教』して追い払っておいた。二度とこの辺りには近づかないだろう」
マヤの言う『少しの説教』がどのようなものだったのか、フィンは想像するだけで背筋が凍った。
マヤはただの人間ではない。身体強化の恩恵など受けていないはずなのに、彼が軽く地面を蹴るだけで岩が砕け、拳を振るえば突風が巻き起こる。圧倒的な体術と、空間そのものを支配しているかのような不可解な力。剣も魔法も使わず、ただ素手と理屈だけで、あらゆる障害を物理的にねじ伏せていくのだ。
トラブルが起きる前に、あるいは起きた瞬間に、マヤという規格外の存在がすべてを裏で処理してしまう。フィンの明晰な頭脳と機転が加わることで、ファミリアの運営はもはや作業ゲームのように円滑に進んでいた。
「ふふんっ! どや、少年! ウチの旦那、最強やろ!」
廃屋を改築した快適な居間で、ロキは今日もマヤの首に腕を回し、フィンに対してドヤ顔でマウントをとっていた。
マヤの大きな膝の上に特等席を見つけたロキは、すっかりそこから動こうとしない。神としての威厳はどこへやら、ただひたすらに旦那の強さを自慢するデレデレの小娘になり下がっている。
「ええ、本当に……。マヤ殿の実力は僕の理解を超えています。ですが、ロキ様。主神であるあなたがずっとその調子では、今後の活動方針を決めることもままなりません。ファミリアの長として、少しは自覚を……」
「あほか。ウチはマヤに愛されるために忙しいんや。そういう小難しいことは、全部アンタに任せるって決めたんよ」
「無茶苦茶言わないでください!」
頭を抱えるフィン。主神が完全に骨抜きにされているファミリアで、自分は一体どうやって他の団員を束ね、目的を果たせばいいのか。前途多難さに胃が痛くなる。
しかし、そんなフィンの肩を、マヤの大きな手がポンと叩いた。
「少年、君が言い出したんだから、君が団長を務めなさい」
「……マヤ殿?」
深紅の瞳が、フィンの碧眼を真っ直ぐに見据える。その視線には、揺るぎない信頼と、上位者としての圧倒的な包容力があった。
「君の頭の回転の速さと、種族の未来を背負おうとする覚悟。それは俺の力なんかより、よほど組織を動かすのに向いている。どうしてもという時は、トラブルシューターは俺が受ける。俺が裏から支えてやる」
マヤはふっと口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「——だが、基本的には自分らでやるんだ。いいな?」
その言葉に、フィンはハッと息を呑んだ。
なんでもかんでもマヤが解決してしまえば、フィン自身の成長はない。それを理解した上で、いざという時の絶対的な『命綱』として背後を守ると言ってくれているのだ。
「……はい。お任せください、マヤ殿」
フィンは深く頭を下げた。主神の旦那という奇妙な立ち位置でありながら、これほどまでに頼もしく、心が救われる存在はいない。フィンは、この規格外の男に心の底から脱帽していた。
「ところで、だ」
マヤはロキの頭を撫でながら、ふと疑問を口にした。
「ロキ、さっきから少年が言っている『ファルナ』ってなんだ? お前が少年の背中に刻んだ紋様のことか?」
「おん? なんやマヤ、ファルナのことも知らんのか?」
ロキはきょとんとした顔でマヤを見上げた。下界の人間であれば、神の恩恵(ファルナ)を知らない者などいない。だが、この得体の知れない旦那ならあり得る話だと、ロキはすぐに納得した。
「少年、説明したれ」
「はい。ファルナ——神の恩恵とは、神様が下界の子供たちに与える力のことです」
フィンは居住まいを正し、丁寧に解説を始めた。
「神様の血を媒体にして背中に刻まれる神聖文字(ヒエログリフ)によって、僕たち下界の者は自身の限界を超えることができます。モンスターを倒して経験値を積むことで、基本能力(ステイタス)が上昇し、魔法やスキルといった特殊な力を発現することも可能になります」
「なるほど。神の血をハブにして、人間の器を拡張するシステムか」
マヤは顎に手を当てて納得したように頷いた。
「だが、俺には必要ないな。他者の力で限界を押し上げるより、俺の理(ルール)で暴れた方が手っ取り早い」
「せやな。マヤはウチの恩恵なんかなくても、すでにバケモンみたいに強いしな」
ロキは自慢げに胸を張る。神の力すら必要としない男が、自分の旦那なのだという事実が嬉しくてたまらないらしい。
「それと、ロキ、少年」
マヤの声が一段低くなり、真剣な響きを帯びた。
「俺は『鬼』だ。だが、これから俺が鬼族であるということは他言無用だ。秘匿事項とする」
「え? なんでや?」
「いちいち『鬼ってなんだ?』と突っ込まれるのも面倒だからな。無用な注目を浴びて、お前たちとの静かな時間を邪魔されたくない。ただの『異国から来た腕利きの流れ者』か何かで通せ。俺が鬼であることは、お前たち二人だけの秘密だ」
お前たち二人だけの秘密。
その言葉の響きに、ロキの頬がパッと明るく染まった。
「ウチとマヤの、秘密……ええな、それ! めっちゃ特別感あるやん!」
ロキは満面の笑みでマヤの首にすり寄る。
「承知しました。マヤ殿の出自については、僕の口からも決して外には漏らしません」
フィンも真剣な顔で頷いた。強大すぎる存在は、時に世界に混乱を招く。彼の素性を隠すことは、ファミリアを守るためにも必要な処置だと理解できた。
「それで、だ」
マヤは自身の着ている異質な装束——この世界には存在しない生地と意匠で作られた服——を見下ろした。
「俺も、この世界の住人として少しは馴染む必要がある。少年、俺に合う服を見繕うのを、団長としての最初の仕事にしろ。適当に丈夫で動きやすい服を揃えてくれ」
「あ、はい。わかりました、すぐに手配を——」
フィンが請け負おうとしたその瞬間、マヤの膝の上にいたロキが猛烈な勢いで跳ね起きた。
「え……な、なに言うてはるの!?」
ロキはフィンの前に立ち塞がり、両手を広げて威嚇するように睨みつけた。
「アカン! ウチの旦那の服を選ぶのは、ウチの役目や! 少年には絶対に譲らんからな!」
「えっ? いや、しかしロキ様、マヤ殿は僕に指示を……」
「うるさい! これは神命令な! マヤの下着から上着まで、全部ウチが選んで、ウチの好
みに染め上げるんやから! 少年はすっこんどれ!」
顔を真っ赤にして鼻息を荒くするロキ。神としての絶対的な権力(神命令)を、まさか旦那の服選びの権利を勝ち取るために行使するとは、フィンも想像すらしていなかった。
「おいおい、ロキ。お前の趣味だと、ひどく派手なものになりそうだが……まあ、お前が選んでくれるというなら、任せてもいいぞ」
マヤが苦笑しながらロキの頭を撫でると、ロキは「っしゃあ!」とガッツポーズをとり、再びマヤの胸に飛び込んでいった。
「任せとき! マヤが一番カッコよく見える服、ウチが見つけたるからな! あ〜、着せ替え楽しみやわぁ!」
その様子を呆然と見つめながら、フィンは深いため息を吐いた。
(めちゃくちゃだよ……)
神の威厳はどこへやら、旦那の服選びで本気になって怒る主神。
そして、その横で静かに微笑む、底知れぬ力を持った『ただの人間(仮)』。
組織としてはあまりにも常識外れで、いびつな形をしている。これから先、オラリオという巨大な迷宮都市に挑むには、不安要素が多すぎる。
だが。
(……でも、少し楽しい感じがしてきたな)
フィンの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
彼らの間にある絶対的な信頼と、馬鹿馬鹿しいほどに温かい日常。それは、孤独に一族の未来を背負おうとしていたフィンの心を、確実に軽くしてくれていた。
最強の主夫(トラブルシューター)と、彼に溺愛される女神。
そして、それに振り回されながらも確かな希望を抱き始めた幼き智将。
シュールで、破天荒で、しかしどこまでも温かい『ロキ・ファミリア』の物語が、今、静かに動き始めていた。