ロキ・ファミリアの巨大な食堂は、今夜も賑やかな喧騒と笑い声に包まれていた。
長机に並ぶ山盛りの料理と、それを凄まじい勢いで平らげていく団員たち。その圧倒的な熱気と、周囲から放たれる規格外の強者たちのプレッシャーに、入団したばかりのエルフの少女、レフィーヤ・ウィリディスは肩を縮めていた。
(みなさん、本当に凄まじい魔力と気迫……私なんかが、本当にここでやっていけるんでしょうか……)
自信なげに食事をつつくレフィーヤだったが、ふと視線を長机の中央——ロキに擦り寄られながら静かに食事をしている赤髪の青年、マヤへと向けた瞬間、トクン、と胸が小さく跳ねた。
『俺の後ろで安心して詠唱しろ。前衛(俺)が全部止めてやる』
入団直後の訓練で、極度の緊張から魔法を暴発させそうになった彼女に、マヤが背中越しに掛けてくれた言葉。その絶対的な盾としての姿に、レフィーヤは同郷の王族であるリヴェリアへの憧憬とは全く異なる、淡い初恋と絶大な安心感を抱いていた。あの広く温かい背中がある限り、自分は絶対に傷つかないのだと、魂が理解してしまっている。
しかし、そんな和気あいあいとした食堂の空気を、苛立たしげな舌打ちが切り裂いた。
「……チッ。ヘラヘラしやがって、反吐が出るぜ。どいつもこいつも腑抜けの集まりかよ」
鋭い牙を剥き出しにし、周囲に噛みつくように吠えたのは、同じく新入りの狼人(ワーウルフ)の青年、ベート・ローガだ。
彼は過去に自身のファミリアを喪った深い傷を抱え、強さのみを至上として周囲を拒絶する狂犬だった。
場の空気を凍らせるようなベートの暴言。しかし、ファミリアの首脳陣であるフィン、ガレス、リヴェリアの三人は、ピタッと食事の手を止め、滝のような冷や汗を流しながら心の中で叫んでいた。
(あ、あいつ……ここでマヤ殿に噛みつく気か!? 死ぬぞ!!)
当のマヤは、ロキに口元を拭いてもらいながら、一切の感情を交えずにベートを横目で見た。
「女の自衛力は、本人が望まなくても俺が叩き込んでやる。……だが、男は違う」
マヤの低く冷たい声が、食堂に響く。
「強くなりたきゃ、男なら自ら頭を下げて教えを乞え。当たり前だろ? 義には礼、真実には敬意だ」
自ら過去の弱さと向き合い、頭を下げる覚悟がなければ、男に強くなる資格はない。それが、マヤの『男の流儀』だった。
しかし、血の気の多いベートにその真意がすぐ伝わるはずもない。
「あァ!? 誰がてめェなんかに頭を下げるかよ! 口だけの野郎が——」
「ぎゃーぎゃー吠えるだけじゃ、ここじゃ犬以下だぞ?」
ピシャリと、底冷えするような声がベートを遮った。
声の主は、マヤの両隣に座るアイズ(Lv.5)と、リリ(Lv.3)である。子供組であるはずの彼女たちから放たれる、歴戦の強者としての圧倒的なプレッシャーと冷ややかな視線。
「……んだと、テメェら……ッ!」
格下だと思っていた子供からの煽りに、ベートの堪忍袋の緒が切れかかった。
「んふふ〜! もっと言ったれー旦那様! 吠えるだけの負け犬には愛のムチやでぇ!」
そこへ主神のロキが、マヤの首に腕を絡ませてチュッチュッと音を立てて頬にキスをし始めた。
そのあまりにも締まりのない主神の姿に、ついにベートの怒りが限界突破した。
「ふざけるな! てめェらみたいな温い連中に何が分かる! だいたいロキ、てめェみたいな貧相な女神がみs——」
——ピキッ。
ベートが主神を侮辱する言葉を言いかけたその瞬間。
マヤの深紅の瞳から一切の光が消え、食堂の空気が物理的に凍りつくような『絶対零度の殺意(キレる寸前)』が膨れ上がった。
ダンッッ!!
爆音が響いた。
マヤが動くより、言葉が紡がれるより早く。第一級冒険者、Lv.8のステイタスを誇る団長フィン・ディムナが神速で動いていた。
フィンは瞬きすら許さぬ速度でベートの背後に回り込むと、その口を強引に塞ぎ、後頭部を鷲掴みにして、食堂の床にめり込むほどの勢いで『強制土下座』をさせたのだ。
「ぐ、がぁっ……!?」
「申し訳ありません、マヤ殿。団長としての私の始末(不手際)です。——主神(ロキ)に立て突くなど、もってのほかだ」
冷や汗をダラダラと流しながらも、フィンは毅然とした態度でマヤに向かって頭を下げた。もしあと一秒遅れていれば、ベートはマヤの物理的な暴力(血のついた棒)によって、明日まともに歩けない身体に解体されていたと直感したからだ。
「……チッ。まあいい」
フィンの迅速な対応により、マヤの毒気がスッと抜ける。
「いいな? ロキ」
「ええよええよ! マヤがウチのために怒ってくれただけで、ウチは死ぬほど嬉しいでぇ〜!」
再びロキがマヤに擦り寄り、場の空気がふっと緩む。
その一部始終を見ていた新入りのアマゾネスの双子たちは、完全に別の意味で熱に浮かされていた。
姉のティオネは、マヤの逆鱗に触れる前に仲間を神速で制圧し、場を収めたフィンの圧倒的な決断力と強さに「トゥンク……ッ」と心臓を射抜かれていた。
妹のティオナは、あの最強の団長(フィン)を本気で焦らせ、一瞬で場を支配したマヤの『絶対的な強者の格』を見抜き、「トゥンク……ッ」と目を輝かせている。
「えへへ〜、マヤ様、お茶のおかわりです」
「……ん。マヤ、アイズも、お茶」
殺気が引っ込んだのを確認すると、リリとアイズがいそいそとマヤの両脇に陣取り、嬉しそうに(そして新入りたちに見せつけるように)甘え始めた。
レフィーヤも遠くから、そのマヤの背中をポッとした顔で見つめている。
「…………っ」
一方、床に頭を擦り付けられたままのベートは、冷たい石の感触と、フィンに押さえつけられている背中の重圧から、理解してしまっていた。
自身が牙を剥いた相手(マヤやフィンたち)と、今の自分との間にある、天と地ほどの実力差を。
(これが……格の違いか……ッ)
狂犬はギリッと歯を食いしばり、自らの弱さと向き合うための最初の挫折を味わっていた。
「……さすがだな、フィン。よく動いた。お前には団長として、特別に褒美をやろう」
マヤがニヤリと笑い、フィンに向かって告げた。
「ほら、選べ」
マヤの手にはいつの間にか、見覚えのある『綺麗な木の棒』と『ど黒い血がこびりついた木の棒』が握られている。
「う、うそだぁぁぁぁぁぁっ!?」
フィンのパルゥムとしての危機察知能力(親指)が、かつてないほど激しくズキズキと震え上がった。
マヤの言う『特別に褒美(稽古)』が何を意味するのか、三首領は骨の髄まで理解している。
「ベート! お前のせいだからなあああああっ!!」
絶叫する団長。床に伏せたまま何が起きているのか全く分かっていないベート。
理不尽で、最強で、最高に騒がしいロキ・ファミリアの夜に、団員たちの大きな笑い声がいつまでも響き渡っていた。